目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

「人類生存の持続可能性」より

ー開発に当たる技術者は、技術が不可避的に有するトレードオフ関係から目を逸らしてはならない。と同時に、気候変動問題のように科学的知見が決定的でない際には、予防原則(precautionary に基づいて「早期の対策」 (early を取ることを怠ってはならない。最後に、スティーブ・ジョブズに倣って、21世紀の技術者は人文学や社会科学と融合されたテクノロジーの持ち主を目指さなければならない。ー人類生存の持続可能性より

 

此れ迄に何度も述べて来て居るやうに科学技術は極めて抽象的な人類の知的過程であり其れが還元知を基とする部分論であるが故に暴走し易ひのだと言へる。

尤もひとつひとつの科学技術が悪ひと云ふことでは無く其の集積としての複合的結果が抽象度の低ひ自然環境とそぐわず其れにより破壊が引き起こされて仕舞ふ訳だ。

 

科学技術以前に自然科学其れ自体が合理化されたものであるので、其の合理性が暴走せぬやう常に人文、社会科学の側から監視し且つ其れに歯止めをかけて行かねばならぬ訳だ。

但し事實上もはや其れは難しく従って可能なこととはむしろ科学技術其のものが自身で変化を起こして行くことなのだらう。

 

 

ー「持続可能な開発とは、将来の世代が自らの欲求を充足する能力を損なうことなく、今日の世代の欲求を満たすような開発」。この定義は「人間中心的にすぎる」との批判が浴びせられることがあり、例えば、『新世界環境保全戦略』( 1990 年)は「持続可能な開発とは、人々の生活の質的改善を、その生活の支持基盤となっている各生態系の収容能力の限界内で生活しつつ達成すること」という、生態系を重視する定義もあることを断っておかねばなるまい。
ともあれ、20世紀末になって、大量生産、大量消費、大量廃棄を旨とする「 20世紀型産業文明」が 21世紀には「持続不可能」となることが、特に天然資源の枯渇、地球環境の汚染、南北問題の深刻化と関連する文脈で、広く認識されるようになったのである。ー人類生存の持続可能性より

 

「持続可能な開発」とはひとつの矛盾概念であり、持続可能となるのであればむしろ「開発」を止める=経済成長を放棄する、と云ふことになるのだと思ふ。

元より生命体には生存を可能とする為の許容量ー限度ーと云ふものがある訳だがまさに其れを人間存在だけが外して仕舞って居るが故に「持続不可能」で且つ破壊的な人間の仕業と云ふものがかうして現れるに至って居る。

 

即ち其れが眞に理性的に推進された文明ではなかったことは明らかなことだ。

逆に眞に理性的な文明は其のやうに野蛮な成長だの発展だのには寄り掛からぬ価値を構築して行くものだ。

 

野蛮さとはまさに其の大量生産、大量消費、大量廃棄のことである。

其の野蛮さとは結局其の獣のやうな欲望に基づき社會を組み上げて来たことへの

 

野蛮とは其処に反省力が無ひと云ふことだ。

事實獣共ー🐕、🐈、🐒等のーには反省力が無ひ。

 

だが彼等は抽象的な欲を持たず自然の内側を只グルグルと回り続けて居るのみなのだ。

なので彼等は眞の意味での獣なのでは無ひ。

 

彼等はさうして神の被造物としての素直さを身に付け生きて居る。

 

だが果たして人間はどうなのだらう?

人間は其の喰らひ振りだのウンコの垂れ方だけは彼等とまるで同じだが他面では頗る根性が悪く抽象的な価値ばかりを追ひ求め生きて御座る。

 

其の抽象的な価値はむしろ無用なものである可能性が高くあり大体に於ひて其の抽象度の高ひ価値ヒエラルキーに毒されて居ることの方がむしろ人間の社會では持て囃されたりもするものだ。

 

即ち価値観其のものが其処では絶望的に逆転して仕舞って居る。

 

其れもコレも結局「 20世紀型産業文明」が豊かさを求め我我にさう強ひて来た結果なのでもまたあらう。

 

20世紀の産業文明は我我に豊かさを齎したが其の豊かさとは心の豊かさのことでは無く単なる物質的な豊かさのことだ。

 

物質的な豊かさにせよ抽象的な価値であるにせよ「持たざる者であるよりは持つ者である方が良ひ」との価値観=プラス思考へと偏った価値観に陥ることでむしろ世に破壊を齎して居るのだ。

 

要するに文明の根本での其の価値観のあり方其のものがむしろ一番オカシヒ訳だ。

 

 

ー20世紀型産業文明をこのまま持続すれば、将来世代の福利( welfare )を損なうことにならざるを得ない」との、ブルントラント委員会の打ち鳴らした警鐘は予想を超える反響を招き、 1988 年 6 月のトロント・サミットにおいて、地球環境問題が初めて議題に採り上げられた。その直後に、カナダ政府主催の「地球環境問題を巡る国際会議」が同じトロントで開催され、「仮に今のペースで二酸化炭素の排出量を増やし続ければ、 21世紀末には、地表の平均気温は3度上昇し、海面は60センチ上昇する」という、ショッキングなシミュレーション結果が報告された。ー人類生存の持続可能性より

 

さうして文明に洗脳される形にて我我は生きて来た。

其の洗脳を解くには常に意識を高く保ち少なくとも文明に対し批判的にならねばならぬことだらう。

ちなみに21世紀末には其の地表の平均気温が4度上昇する可能性すらもがまたある。

 

もしも4度上昇するとすれば事實上人類は存続不可能となるに違ひなひ。

いや其れでも貴方方の子孫は生き残るのやもしれぬ。

 

さうなのだが、其の破滅への足音をあへて彼等に聞かせるやうな様にあくまで結果的にはなるのやもしれぬ。

 

尚温暖化では無く寒冷化を取り沙汰する學者が中には居るが確かに其れはひとつの可能性としてはあるのだと思ふ。

またより低ひ確率でもって温暖化が寒冷化により相殺されると云ふケースも無ひでは無ひことだらう。

 

だが事實上温暖化こそが今後あらゆる災厄を文明に対し齎す元凶となることだらう。

 

では温暖化こそが悪ひと云ふことなのだらうか?

 

いや温暖化とは結局自然界の摂理であることに過ぎぬ。

さうした自然界の摂理を無視しつつ歩んで来た我我自身に全ての責はあるのだ。

 

 

ーでは、なぜ20世紀に入り技術革新が相次いだのか。その答えの一つは、 19世紀末に、人類が石油と電力という二つのエネルギー源を手に入れたから。技術革新の結果、私たちの生活の利便性を高め、より快適な生活を実現せしめた新製品が次々と登場したが、そのいずれもが電力か石油をその動力源として用いている。その意味で、 20世紀を「電力・石油の世紀」と言い換えてもよい。しかし、その裏を返せば、20 世紀は「二酸化炭素排出の世紀」だったということになる。すなわち、二酸化炭素の排出量を増やし続けることにより、私たちは「豊かさ」を手に入れてきたのだ。 ー人類生存の持続可能性より

 

其の技術革新によりまさに我我人類の生活は一変した訳だ。

謂はば其処で抽象的に豊かさを追ひ求めて行く社會へと変化した訳だ。

 

ところが實は其処で個としての欲望に大きく変化が強ひられた訳では無かった。

個はさうして相変はず生に傷つきー悩み苦しみーのたうち回りながら死んで行くのである。

 

で、其の悩み苦しむことの度合ひを實は文明の方がより深めて来て居るのだった。

 

さうして競争に明け暮れ心を鬼と化しつつ其の近代の「豊かさ」と云ふ果實を我我はガリガリと噛み砕くのみだ。

 

さうして化石燃料を消費し電灯を灯し我我は廿世紀の夜を明るく照らし出して来た。

 

さう我我は夜を放逐し特に都会の繁華街はまさに不夜城と化して行ったのだ。

 

一体何の為の不夜城なのだ?

其の酒池肉林の為の不夜城だ。

 

さても其の不夜城としての或は人工の樂園としての廿世紀とは誤りだったのか?

冷たひ言ひ方かもしれぬがわたくしは其れが誤りだったのだとさう考へて来て居る。

 

まさに其れは理性による過ちだったのだ。

理性はより注意深く文明を俯瞰視して居るべきであったがまさに其れがならなかった。

 

かうして「豊かさ」を手に入れた其の代償として我我は其の大事な視点を見失ったのだと言へる。

 

 

ー20世紀の科学技術は、経済発展・成長に寄与することを、その目的に据えていた。しかし、 21世紀の科学技術は「持続可能な開発」に寄与することをその目的に据えなければならないことは確かだ。ー人類生存の持続可能性より

 

其のあくまで洗脳のレヴェルにある一般大衆の認識は正直申して危機としての事實関係をすら正しく把握出来ずに居る訳だ。

よって彼等に危機感などサラサラ無ひのだと言へる。

 

さらに申せば其の認識の甘さの一因に一部の宗教に於ける現世利益性の追求と云ふことがあらうかと思ふ。

即ち其の宗教其のものが現世での永続性を願ひ求める余りに終末論的な世界観をまるで絵空事のやうに信じ込まさせて来て居る訳だ。

 

だがわたくしには最近其の終末論としてのハルマゲドン、末法思想、又は法滅尽に至る其の社會の崩壊の様が充分にあり得ることとして認識されるに至って来て居る。

 

左様に21世紀の科学技術はもはや「豊かさ」をまた「利便性」を追ひ求めるやうなものであってはならなひ訳だ。

さらに付け加へれば延命や人間のアンドロイド化、スーパーマン化を目指すやうなものであってはならぬのだ。

 

さうでは無く文明が廿世紀に仕出かした不始末に対する始末をつけるやうなものでなくて何とする。

我我はすでに充分に仕出かして来て仕舞った。

 

其のことが分からぬのは結局君等の感度が至極悪ひからなのだ。

 

ー21 世紀は「環境の世紀」だと言われるが、それには二つの意味がある。一つは、地球環境問題がますます深刻化するであろうこと。もう一つは、環境制約が技術革新を駆動する力となるであろうこと。ー人類生存の持続可能性より

 

コロナ禍は其の地球環境問題の序章であるに過ぎぬ。

また日本國の場合には大地震が起きる可能性が高くある。

 

其の大地震が来た時に上手く壊れすぐに建て直すことが出来る簡素な家ーまるでかの竪穴式住居のやうなものかーを造るのが利口な人がやること。

此の地震國日本に威厳のある石又はコンクリ造りの立派な家を造るのは要するにバカだけだ。

 

地球環境問題がますます深刻化すると食料の供給が滞る虞がまた大きくあらう。

従って第一次産業を重視し所謂自給自足の食料供給体制をつくって行かねばダメだ。

 

第一大地震でもって日本の主要な産業区域が壊滅的な被害を被る可能性もまた高くある。

そんな金をつくれぬ國へ一体誰が食ひ物を恵んで呉れやうか?

 

さてもおまへたちはさうしてのうのうと株で儲けたりもして居るがほんたうのほんたうに馬鹿か!

 

其れではもうほんたうのほんたうに馬鹿ばかりだぞよ。

 

ーこれからの技術革新のバネとしての「制約」と「不足」は何なのかというと、次の二つが挙げられる。一つは、不老長寿と無病息災への尽きせぬ願望である。こうした万人共通の願望を叶えるべく、生命科学に巨額の公的研究費が投入されている。過去四半世紀の医療の進歩には、誠に目覚ましいものがある。ー人類生存の持続可能性より

 

ズバリ言ふが不老長寿と無病息災を釈迦やキリストは決して願っては居なかった筈である。

 

不老長寿と無病息災とは要するに現世利益を目指す精神の流れが生み出したもので救済を旨とする本物の宗教に於ける精神の流れとは別系統でのものであらう。

だが誰しもがまた其のことを望んで居やう。

 

でもわたくしに限れば必ずしも其れを望んで居る訳では無ひ。

わたくしが望むのはむしろ此の概念的な闘争に打ち克ち其処で眞の意味での精神の自由を得其の侭に野垂れ死ぬことである。

 

不老である筈も無くまた無病である筈も無ひ此の限定された己と其の侭に心中すると云ふことである。

即ち現世利益には元より拘ってなど居なひのだが反面最近到達しつつある境地として「有の無」と云ふ概念を玩び始めたところである。

 

無ひから有るのであれば、有るから無ひと云ふことがまたあらうかとも思ひ其の考へにて一種の有体ー實体ー解脱論を組み立てて居る最中なのだ。

 

 

ー新製品が消費者に対して類例のない快適性・利便性を、もしくは生産者に費用削減の便益を提供するからである。したがって、技術の非可逆性を容認せざるを得ないからには、技術の孕むリスクを最小限に止めるための技術の改編、そして社会システムの改編が求められるのである。ー人類生存の持続可能性より

 

其の新製品が消費者に対して類例のない快適性・利便性を与へることはさうなのだとしても、たとへば藝術にせよ万年筆にせよ必ずしもさうでは無ひ訳でありむしろさうした分野は過去に対し価値が開かれて居る訳である。

確かに技術は不可逆のものとして我我に便益を提供するのやもしれぬのだがさうした意味でのむしろ過去へ遡る技術の分野に今わたくしは深く興味がある訳だ。

 

また石の場合などは古ひ、新しひも無く皆太古の昔に地球の中で出来た石である。

と云ふことは此れもまた過去に通じて居る何かである訳だ。

 

わたくしはさうしたものを通じ過去を振り返る。

 

物ばかりでは無く書物なども皆さうなのだ。

昔買った多くの本はいまだ古びずむしろこれから読むであらう本であることがまた多ひ。-此れまでは時間が無く読めなかった本-

 

即ち本もまた過去に通じて居るのである。

 

だがデジタルのものは其の記憶が分断されサッサと全てが新たに更新されて仕舞ふ訳だ。

本質的にはわたくしはさうしたものが嫌ひである。

 

わたくしは最近また筆記具の世界の方にも戻り初めて居る。

石が過去の浪漫であるのであれば万年筆の方もまた過去の浪漫である。

ーコロナ禍の直前に印度から購入したエボナイト軸にプラチナの首軸が嵌ることが分かりさうして改造万年筆となし愉しんで居るー

 

米國の万年筆屋などはほぼ壊滅状態なのだけれど其の印度の店は相変はらず世界オークションにて出品中である。

 

さうかうするうちに丸善から久々に「世界の万年筆展」の案内状が届ひて居る。

 第12回 世界の万年筆展 展示即売会 -手書きと過ごす-

 

其処に新製品として高額な万年筆ばかりが並んで居るが其の印度の万年筆の軸は確か三千円程だった。ーわたくしはかって高額な限定万年筆のコレクターであったが現在は安価な万年筆をかうして自分流に改造して使って居るー

 

さうして技術は不可逆であるにせよ他の価値は過去に遡ることが可能でつまるところは復活するのである。

 

要するにアナログの価値は再生出来る、いやむしろ最新のものとして個の範囲で出遭うことが出来る訳だ。

 

其の過去を発掘し其処に一級の価値を見出すのは會社でも國でも無く個である。

 

個にとって心地良ひものを発見して行くことはまさに其の「有の無」としての哲學の実践でもあることなのだ。

 

 

ー20世紀最後の四半世紀の始まりとともに、それまで科学技術の中枢部に居座り続けてきた科学(物理、化学)、技術(電気、機械、化学、建設、土木)に代わり、科学(情報、生命)、技術(医療、情報、環境)が一躍脚光を浴びるようになった。こうした科学技術の主役交代もまた、時代文脈の変遷、とくに成長・発展から持続可能性への価値規範の変遷を反映してのことである。ー人類生存の持続可能性より

 

確かに時代文脈の変遷と云ふことが起こり得て居るのやもしれぬ。

先にも述べたが成長・発展と云ふ其の目指す価値が「野蛮」なものである以上理性は其の過ちを認め野蛮では無い理性的な文明の秩序をつくり上げることなくして近代と云う時代の尻拭ひなど出来はしなひ訳だ。

 

野蛮→理性

元々人間の欲望は抽象的に規定され何ともならぬものである。

 

其処を何とか抑へ込むのが實は理性の働きなのだ。

だが獣の衣を身に纏った贋の理性が暴走し始めれば其れこそ如何ともし難ひこととなって仕舞ふ。

 

故にスティーブ・ジョブズ氏が述べた提言に倣って、「21世紀の技術者は人文学や社会科学と融合されたテクノロジーの持ち主を目指さなければならない」のである。