「音樂がまた繪画がかうして心を救って呉れる」
其の社会を論ずることは實はわたくしにとり有意義な時間にはならなひ。
それでもみんなは社会を信じさうして未来の幸福を願ひ日々を生きて居ることだらう。
だがわたくしの現在は其れとは違ふ。
わたくしにとっての幸福とはかうして悩み苦しみまた傷つひて居ることだらう今を表現することだ。
わたくしは最近ユーチューブのショパンのノクターンを聴き込みつつこんなことを書ひて居ることが多ひ。Frédéric Chopin - The Best Nocturnes in 432 Hz tuning (great for reading or studying!)
其のChopin Nocturnesを聴きながらわたくしの人生を回想しつつ貴方方に訴へて来て居る。
何を訴へて居る?
より多くの人々の感度の悪ひのがまるで分からぬとさう訴へて来て居るのだ。
ショパンは悲しみ、哀しみでの感度が高くあり其の点で今の時点でのわたくしの心象に合致して居る。
其の心痛の部分は勿論ベートーヴェンのピアノ・ソナタにもまたあるのだが其の哀しみとしてのデリカシィの部分がより多彩で沈痛に満ち感傷的だ。
感性の悲劇とはまさにかうしたことを指す言葉なのではあるまひか。
ー四つの道理に背く見解。すなわち、凡夫が無常・苦・無我・不浄のこの世を常・楽・我・浄と思い誤ること。これを
とまたぞろ佛法が出て来るのだが言うまでもなく世界ー人生ーを悲劇として捉へる性質こそが其の声聞・縁覚界の人間の特質なのだ。
対して大衆は世界ー人生ーを悲劇としては捉へて居なひ。
いや捉へやうが無ひ。
でも其れが悪ひなどとは一言も述べて居なひ。
むしろ其の方が幸せだとさう述べてさへ居るのだ。
だが詩人は常にそんな悲しみと向き合って居なければならぬ。
そんな人生を果たして一体誰が欲することだらうか?
ピアノの詩人ショパンがかうして音でもって詩を奏でたやうに、詩人は想念の世界を言葉に置き換へ奏で続けて居る。
さうして出来得れば哀しみの世界、其の悲しみの世界をこそ其処に表現してみたひ。
さう哀しみの世界、其の悲しみの世界こそが藝術の源泉なのだ。
所謂体育の世界、運動部の世界、オリムピックの世界とは其れとは違ふ。
肉体がより素早く反応し技を決めホームランを放った奴が称賛され高給を貰へまた金のメタルも取れる。
だがわたくしは其れとはまるで違ふ精神の世界のことを論じて来て居る。
或は軍隊では國家の勝利と云ふ目的に対し邁進しまさに勝てば官軍、負ければ賊軍なのだ。
だが其れとは異なる論理、価値観のことを是非述べておかねばならぬ。
其れとは異なる論理、価値観のことを述べることこそが元より藝術の役割である。
或はお高くとまり俗な感性を見下げ果てて居るのか?
まあわたくしは見下す方ではある。
とある作家が言ひ放った如くに芥川賞、貰ってやる、の方に實は近ひ。
兎に角プライドが高く皆さんにはまるで理解が出来ぬことだらう。
で、結果として言ってることなども余り普通では無ひ筈である。
だから其処をこそご覧になって頂きたひ訳だ。
そもそもの価値観が違ふので、其処で皆と同じことは言はぬのだからこそ。
さても藝術は軟弱なのか?
わたくしは軟弱なのだからこそむしろ強硬なのだとさう思ふ。
何故なら藝術は常に徹底的である。
ショパンやベートーヴェンのピアノ・ソナタは無論のこと半端なものでは無く徹底的に其の感度が追求されて行くものだ。
藝術は其の意味では愛其のもの。
まさに其れは感度に対する愛なのだらう。
愛と、其の愛に対する喪失への虞と。
常にそんな二元分離の現實が藝術家の内面を哀しみの階梯へと誘ふのだ。
ではスポーツの世界は、また軍國主義は硬派なのか?
確かに其れは硬派だ。
だが其処では悲しみをまた哀しさを知ると云ふデリカシィには欠けて居やう。
即ち文化とはまさにそんなデリカシィ其のもののことなのだ。
其のデリカシィ其のものも實は二元分離して御座る。
男性原理、其れは現實的にはむしろ感度が鈍くなって居る。
だが精神的に其れは感度が鋭くある。
女性原理、其れは現實的にはむしろ感度が鋭くある。
だが精神的に其れは感度が鈍くなって居る。
かやうに此の世の成り立ち、實相の部分こそは複雑だ。
逆の要素が二元的、また四元的に組み合はされて居るかのやうだ。
わたくしは感度が高くあるが、同時に論理的な人間でもある。
だからかうしたこともまた言ひ放つだ。
でも藝術はあくまで悲しみであり哀しさなのですか?
其の悲しみであり哀しさの部分こそが🐵共には決して分からぬことだらう人間としての定めである。
逆に言へば其の悲しみであり哀しさの部分を理解せぬ輩などほとんど人間では無ひ。
もしや藝術が分からぬ奴等は皆人間以下だとさう仰るのですか?
まあさうだ。
藝術が分からぬから宗教もデリカシィも皆目分からぬのだ。
ではゲージツが一番なのだと?
ゲージツこそが全部のことの一番上にある価値観なのだと?
つまりは藝術至上主義なのだとさう仰るので?
まあさうだ、其のゲージツが分かると云ふことは天与の才能だ。
だからたとへルンペンをやって居るにせよ藝術が分かる彼は人間なのだ。
もしやゲージツが分からぬ🐵共は皆死ねとさう考へて居られませぬか?
🐵にせよ🐈にせよ🐕にせよ藝術作品の鑑賞はせぬ、よもや其れは出来ぬことだらう。
だからゲージツが分かるかどうかと云ふことだけが人間であるか其れとも動物であるかの分かれ目なのだよ。
では改めて問ふ、藝術とは何か?
藝術とは喪失の悲しみー哀しみーをさうして謳ひ続けることだ。
必ずや存在は喪失する。
なので存在ー現象ーは哀しひ。
其の悲しみを語ることこそが藝術の使命だ。
故に藝術其のものは決して消へ去りはせぬ。
藝術は永遠の命脈を其処に保ち続ける。
まるでキリストの愛であり永遠の神の園のやうなものよ。
藝術は佛教とは違ふのでせうか?
西洋起源での藝術は佛教とはまた違ふものだらう。
まさに其れはキリスト教から生まれたものだらう。
すると西洋起源での藝術はキリスト教を理解せねば根本としては分かりませんね。
其の通りだ。
だからわたくしはどちらをも學んだのだ。
但し藝術の大元にある其の人間としての感性的なデリカシィの部分は無論のこと洋の東西を問はずに存して居る。
ところでショパンの良さとは何でせう?
負け犬っぽさと云ふか何か余り人生に対して期待をして居なひ部分が逆に妙に心地良く感じられる。
ベートーヴェンよりも社会に対する期待度が薄く其の面ではより脱力して居り尚且つ感度即ちデリカシィの部分が常に一級品だ。
ー生涯を通じて肺結核に悩まされた病弱の芸術家として有名であり、残された肖像画などからも、赤みがかった頬などその徴表が見られる。しかしそうした繊細なイメージとマッチした作風の曲ばかりでなく、自らの中の閉塞感を打破しようとする想いや、大国ロシア帝国に蹂躙される故国ポーランドへの想いからか、情熱的な作風の曲も多く見られる。
幼少の頃からいろいろな面で才能を発揮し、ユーモアにあふれ、ものまねと漫画を描くのも得意で学校ではクラスの人気者だったという。ーフレデリック・ショパン #人物より
昔の藝術家は兎に角病弱にて其れも決まって肺をやられて死ぬのである。
宮澤 賢治なども結局37歳で死にショパンもかうして39歳で死んで居る。
要するに早死にをする位でなければとてもじゃなひが良ひ作品など世に遺せぬ。
其れも三十代で身罷る藝術家などは特に優秀だ。
対して五拾、六拾、七拾と生き延びて居る詩人や音楽家また画家などは所詮はウソの藝術家即ち似非藝術家なのさ。
似非詩人さん。
はーひ、何でせうか?
🐵詩人さん。
馬鹿にするな!
🐶詩人さん。
馬鹿にするな!
🐗詩人さん。
ほーひ、何でせうか?
ーユーモアにあふれ、ものまねと漫画を描くのも得意で学校ではクラスの人気者だったという。ー
實はわたくしもかってさうだったのである。
即ち馬鹿でもって有名で、其れでもってみんなから人気があったのだった。
だが人間の悲しみ、哀しさを知った途端に所謂腺病質な感性人間となって行かざるを得なかった。
ショパンにはそんな分裂の哀しみが確かにある。
基本的にはピアノの奏でる旋律の哀調として其れが常にある。
だから居心地が良ひ。
其れも妙に居心地が良ひ。
故に逆に怖ひ。
哀しみの感度の底にさうしてうち沈んで行くやうで兎に角怖ひ。
腺病質な感性人間とは学生時代に体育の時間に体の具合が悪く屡見学などして居た経験を必ずや持って居なければならぬ。
即ちみんなのやうにタダ馬鹿みたひに御遊戯や体育祭の練習などして居られぬ程に感度が高くあるから屡体育の時間を見学するのである。
校庭での校長先生の話の最中に倒れたりする奴が必ずや居たものですがもしやそんな人たちのことですか?
いや多分其れは病気だ、わたくしの場合は其のやうに倒れたことなどは一度も無ひ。
然し高校一年の折に数学の担任教師に無理やりハンドボール部へ入れられ夏休みに毎日拾キロほど道を走らされたことこそがわたくしが体験した地獄の軍國主義其のものであった。
あへて詩人を其処へ入れた其の担任教師こそがまさに罪深ひ人間だらう。
体育の時間にどうも体の具合が悪く屡見学などしたことも無ひと云ふのにみんなに藝術が分かるべくもなひ。
要するにみんなデリカシィには欠けた🐵か🐶ばかりなんだよ!
其れも全く政治の世界も相も変はらず其の🐵組閣でもってして馬鹿大臣ばかりではなひか!
元より藝術とはそんなデリカシィにこそ培はれた場なのだ。
其のショパンによる肺病病みとしての世界が何故今もかうして一級の藝術作品であり得るのでせう?
藝術とは幅のことなのだ。
まさに感度に於ける幅のこと、其れもより広い幅のことだ。
みんなは其の感度による幅が狭ひのだ。
其れも🐵や🐶に成り下がる程に狭ひ。
ではどうすれば良ひのですか?
たとへば東京藝大でも出れば其の🐵病や🐶病が治るのでせうか?
まあ藝術は学歴ばかりでもなひので…。
其れよりもむしろ体育の授業を休んだことがあるかどうかと云ふ事の方がより大事だらう。
ショパンのピアノ曲の世界とはそんな感性による人間存在の哀しみを奏でるものだ。
藝術と軍國主義の相性が極めて悪ひのは軍國主義が個による表現の世界を軽視しがちであるからだらう。
対して藝術は常に個より発し個に帰する。
だがズバリ藝術の弱点とは其の體の弱さにこそある。
ガサツなみんながコロナウヒルスにも強ひのはみんなが🐵や🐶並に肉体が強ひからなんだな。
ところで🐗詩人さんももう體がボロボロなのですか?
確かにボロボロです。
わたくしの場合には詩人としては長生きし過ぎたことこそが其の原因となって居やう。
精神の方は大丈夫なの?
大丈夫じゃ無ひ。
大丈夫じゃ無ひのですが其処はショパンが奏でる旋律が癒しても呉れませう、ゲホゲホ。
あれ、大丈夫ですか?
何やら咳き込んで居るやうですが、もしやコロナに罹って居ませんか?
まあ🐒や🐕や🐗はまずコロナには罹りません。
ですが声聞、縁覚は憂鬱病には罹り易ひ。
憂鬱病でもってショパンばかり聴ひて居ると其の憂鬱病が酷くなるのでは?
いやさうではありません。
曰く、毒をもって毒を制す。
さうだ、さうしてショパンばかりを聴くことでむしろ励まされるのだ。
かうして内面に抱へる苦悶が少しづつ浄化されて行くかのやうだ。
其れは凄ひ。
一種の宗教のやうなものですね。
まさに其れも一種の藝術による救ひ、なのでせう。
尚、其の憂鬱病は人間の病であり🐒や🐕や🐗は決して罹らぬ病気です。
良かったなあ、みんな。
みんなはほんたうに幸せだぞ。
今さうして思ひっきりみんなを足蹴にしましたね、全くひでへ野郎だな。
何でさう人間を足蹴にして平気なんですかね?
確かに今光秀ー、なんじゃあこりゃあー、ドカン、ドカン。
と足蹴に致しました。
信長公にせよショパンにせよまた総統閣下にせよ、其のやうに性格は激しひものがある。
ー性格が激しく、それ故にしばしば欲求不満に陥ることもあったらしい(例えば1830年にウィーンに来た時の、一般の音楽的嗜好が浅薄なものだったことに対して[1])。ーフレデリック・ショパン #人物より
藝術家の内面とはかやうに常に苛烈である。
其の内面にて正反対の要素をぶつけ合ひ、感度の低ひ一般性を屡攻撃するに及ぶ。
尤もかのベートーヴェンなどは無論のこともっともっと苛烈だったことだらうが。
🎵Frederic Chopin Complete Nocturnes High Quality🎵
こちらの方が良ひやうだ。
かくて藝術は人間の心を救ふ。
まさに其の通りでのことだ。
だが軍國主義はまた会社は人間の心を救ったりはしなひ。
國がまた会社が心の支へとなる場合もまたあるのでは?
わたくしの場合には其れは違ふ。
わたくしの場合には音樂がまた繪画がかうして心を救って呉れるのだ。
Claudio Arrau - Chopin: Complete Nocturnes | Vinyl, LP Philips 1978
或はこちらの方が一番良ひのかも…。