目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

日本型社会システムの壁

ーたしかにテレワークを定着させるうえで「メンバーシップ型」に問題があることは誰の目にも明らかだ。しかし、だからといって「ジョブ型」へ切り替えればよいというのはあまりにも安易すぎはしないか。

 

どちらの制度も、雇用を取り巻く社会のシステムが変わらないなかで、制度だけ取り入れてもうまくいかないことを物語っている。

第1にあげられるのは、労働市場の壁である。一人ひとりの職務(ジョブ)内容を明確に定義して契約する欧米企業では、その職務をこなせなくなったり、必要がなくなったりしたら最終的には解雇される。

 例え解雇されても外部労働市場が発達している欧米では、他の勤め先を比較的見つけやすい。それに対してわが国では労働市場が未発達なので、解雇されたら満足できる就職先を見つけることが難しい。しかもわが国ではいわゆる「解雇権濫用の法理」によって雇用が厚く保障されているので、その職務が不要になったからといって直ちに解雇することはできない。

 

 

第2は、年功序列という慣行の壁である。年功序列を基本にしたわが国の雇用慣行のもとでは、年齢・勤続とともに給与も職位も上がることが期待されている。

一方「ジョブ型」の下では同じ仕事を続けている限り、給料もポストも上げる理由がない。経験を積み、年齢が上がったから昇給や昇進をさせるというわけにはいかないのである。果たしてそれを日本人、日本社会が受け入れるだろうか?

 

第3は、労働法の壁である。職務で契約する以上、職務さえこなせば働く時間で管理される理由はないはずだ。ところが労働基準法では、使用者が労働者を労働時間で管理することが前提になっている。つまり一部の職種を除き、時間ではなく成果で働くということが認められていないのである。

 

第4は、労使関係の壁である。「ジョブ型」を採用すれば当然、社内でも職務によって働き方や待遇の格差が生まれる。欧米のように職業別、もしくは産業別に組織された労働組合のもとでならともかく、わが国のような企業別労働組合がそのような格差の拡大を容認するとは思えない。まして背後に人件費抑制という経営側の思惑がちらついているとあっては、いっそう強く導入に反対するだろう。

 

さらに、企業規模の問題もある。わが国では中小企業が大きな割合を占めている。その中小企業では、一人である程度まとまった仕事を受け持つか、複数の仕事をこなす多能工的な働き方が求められている。その点でも、狭く限定された特定の職務を割り当てる「ジョブ型」は馴染みにくいのである。

 

職能資格制度や成果主義も、こうした日本型社会システムの壁にぶつかったのだ。

職能資格制度は、年功ではなく職務遂行能力をあらわす社内の「資格」に基づいて処遇することを標榜したが、労働市場が未発達な中では能力の価値を表す客観的な基準が見つからない。

 そこでやむなく年齢や経験年数という、ある意味で公平かつ客観的なものを能力の代理指標として用いることになった。強引であるのを承知のうえで、年齢や勤続に応じて能力も高まると見なしたのである。こうして皮肉にも、年功制を見直すはずの制度が、結果として年功制を文字どおりの「制度」として定着させてしまったのだ。

一方、成果主義は成果という客観的な指標に基づいて処遇を決めようとするものだったが、導入の前提条件が欠けていた。

まず人事部主導で配属が決まるわが国では、本人の意に反した仕事に就く場合が少なくない。そのため仕事の成果に対して本人の責任を問うことが難しい。また一人ひとりの仕事の分担が明確でないため、個人の成果を正確に把握することができない。

 

同志社大学政策学部教授 太田 肇ー令和の成果主義「ジョブ型雇用」ブームに漂う”負の既視感”より

 

 

其の日本型社会システムには元より大きく問題が存して居る。

社会システムを急激に合理化し変へるのであれば其れは社会主義革命と云ふこととなるが伝統としての価値を重視する日本型社会システムには其れがそも合って居なひ。

 

なので日本型社会システムに於ひては革命などそも無理なのである。

 

でも左翼は革命をこそ目指して居るのではありませんのですか?

目指しては居りますが其れはあくまで理想で、ほんたうに革命しやうなどとは實は思って居なひことでせう。

 

日本型社会では戦後まさに民主的に「社会主義政策」としての社会保障制度が導入され其の点では格差の少なひ平等な待遇の國家であった。

 

また所謂年功序列の雇用慣行はまさに幕藩体制でありしかも「社会主義政策」としても通用する平等で且つ安定的な日本型の雇用のあり方を生み出しても居た。

 

ところが、其の「社会主義政策」の前提としての経済成長と云ふ進歩主義が存して居た訳だ。

経済成長するからこそさうした民主的な「社会主義政策」の履行がまた可能であった訳だ。

 

今や其のバランスこそが崩されたのだと言へる。

バランスを崩したのは日本の政策にかって採り入れられし「新自由主義」=合理化主義の流れかと思はれるのだが、實は其れ以前から近代化に於ける大矛盾がかの國には存して居た。

 

まさに其れがかの夏目 漱石が、また島崎 藤村が、さうして北村 透谷が悩み抜きし日本に於ける近代化の問題だった。

 

日本に於ける近代化の問題は最終的に其処で「鎖国主義」を選択すべきではなかったかと云ふ文明としての選択の問題にも繋がって来やう。

 

何故なら「日本型社会システムの壁」が存する限り近代的な社会システムを採り入れれば其処で社会的に自己矛盾しバランスを崩すことは明らかだからなのだ。

 

 

尚以前に何故キリスト教が日本に根付かなかったかと云ふことを述べた。

其れはそも日本がキリスト教文化圏では無ひからなのだ。

 

日本は佛教文化圏にあり社会其のもののあり方が二元闘争的では無くむしろ宥和型、多神教的な価値観のさ中にこそあらう。

なのでキリスト教は浄土信仰と大差なひ形でしか理解されやうがなかった。

 

さうした根本のところでの文化的素地、文明としてのスタイル、パターンがそも違ふので正確には其れが理解されぬ訳だ。

恐ろしひことに当時の宣教師の方々でさへもがさうした「日本型社会システムの壁」にぶつかり改宗したり布教を諦めたりせざるを得なかった訳だ。

 

但し個人的にわたくしはキリスト教にて人間の魂が救はれることを否定するものでは無ひ。

魂が救はれるのであれば其れは何教であれまた何宗であれ構はぬのではなからうか。

 

 

上で述べられて居るのがまさに其の「日本型社会システムの壁」のことなのだらう。

だが其れは「日本型社会システム」を欧米型の社会システムとは異なるものと意思決定すること、其れも政府、官僚、學者、自治体が一体となり其の違ひをまずは認めること、其処から其の近代化の呪縛から逃れる為の糸口が見つかるのではなからうか。

 

ところが、まさに其れが今更恥ずかしひ訳だ。

戦後経済の上での一等國となりし我が國が何でわざわざ今近代化に於ける「負け」を認め本当は独自の國ですよー、と鎖国幕藩体制に戻ったり近代化を制限し独自の路線を築き上げねばならぬのか?

 

だがまさに其れを瑞西はやってるだらう?

 

或はブータンもやってたことだらう?

だから政治家と名乗る、また政治學者だと名乗る限りは其の位のことまで考へられずして一体どうするのだ?

 

わたくしは日本の専門家が馬鹿だから日本が沈没するとさうも思って居り要するに専門家は視野が狭くコレが悪ひとかアレが原因だとかまるで言ひ切れて居らぬ。

そんなもんではまさしく🐵や🐶と一緒のことではなひか?

 

ちゃんと人間になれよ。

人間らしく頭を働かせよ。

 

おまへも所詮は🐗だらう?

 

其れはさうです、實は山の中でいつも走り回って居たひのです。

 

 

伝統國家⇔革命又は先進技術力

軍國主義⇔社会保障

和が大事⇔個も大事

豊かな自然⇔災害國

社会の世界基準⇔日本型社会システム

 

とのやうに幾らでも二元分裂するのが日本の社会を規定する根本的性質ではなひかと常々わたくしは考へて来て居る。

 

だが其れを政治家や官僚はまるで考へて来て居なひ。

いや學者が悪ひ。

學者こそがもっともっと考へよ。

もうぶっ倒れるまで考へよ。

 

元より我など學者でも無ひと云ふのにもうぶっ倒れる寸前だ。

無論のこと考へるべきこととは其の二元分裂社会をどうバランス化させて行くべきか?だ。

 

上にて太田先生が仰って居ることとはまさに其の日本型社会システムが抱へる雇用に於ける矛盾の内容なのだ。

 

年功序列派遣社員

 

年功序列封建制、其れも儒教文化に兆したものであらうから幕藩体制其のものなのだらう。

対して派遣社員化とは究極の人的合理化である。

 

但し会社の奴隷では無く最低限自前にて飯位は食へまた会社を選ぶことは出来る訳だ。

即ち其れが欧米社会の「契約」による価値観の實現なのだ。

 

其の「契約」、神との契約、またかのルソーでのやうに社会との契約、など全てが契約関係に基づき近代社会は駆動せられて来て居る。

其の「契約」は必然として合理的関係を生むのだと思ふ。

 

結論的に言へば派遣社員化や労働の自己責任化、また社会との契約の概念は「日本型社会システム」とは矛盾するものだ。

第一天皇制、其れ自体が👪主義であり封建制其のものなのだ。

 

とは言へ確かに民主化され天皇は象徴的存在であるに過ぎぬ。

だけれども天皇こそが日本のみんなの父上であることは事實上明らかなのだ。

 

そんなお父様を革命することなど絶対に出来ぬ筈。

だから其れは其れで良ひのだ。

 

日本には革命など所詮無理なのだ。

 

だから日本は違ふ、違ふぞ。

瑞西のやうにまたブータンのやうに違ふのだ。

 

とさう述べられる知性の持ち主が居なひからかうして日本は欧米の思惑に振り回され次第次第に壊れて行くのだ。

 

かの東大にて社会科を勉強されし三島先生はまさに其の部分を懸念され武士として死ぬる方向性を選ばれた。

 

三島先生の其の懸念、御心配の部分はまさに当たって居たのである。

 

いや文士の死と云ふものはほとんどの場合がそんな風に正しく行はれたものである可能性が高くあらう。

 

 

「日本型社会システム」は伝統國家日本の封建制を引き摺り今猶継続するものだからそんなものをグローバル化などすればもう壊れることなど目に見へて居らう。

まさに其処を考へて居らぬからこそ政治家も官僚も人間以下だとさうわたくしは決め付けて居るのである。

 

で、アンタは一体全体左派なの、其れとも右派なの、どっちなの?

うーむ、或はオレをバカにして居なひか?

 

おまへの言ふてることは革命なのか其れとも國體の護持なのかまるで分からぬ。

おまへは結局馬鹿ではなひのか?

 

とさう言ふた積もりであらう。

だが所詮そんなものではまるで勉強が足らぬぞ。

 

勉強はな、24時間するものだぞ。

即ち寝て居る間にも考へ且つ本を読まねばならぬ。

 

寝て居る間はせひぜひ屁をこく位のことだ、誰が本など読むものか。

 

即ちやれぬことをやることこそが眞の勉強だ。

 

即ち革命と國體の護持を同時に考へ三島先生と不破元書記長とを同時に尊敬せよ。

 

 

アナタは世の矛盾に頭をやられてお仕舞ひになり最近少々オカシクなって居ませんですか?

全くオカシクは無ひ、完璧に正常だ。

オカシヒのは常に社会の側だ。

 

要は其の矛盾化による被害をどう最小限に抑へて行くかと云ふことだ。

 

わたくしは今其処を「社会性の限定」として捉へるに至って居る。

「社会性の限定」とはどちらかと言へば右派的な政策の流れなのだが、環境保護や戦争の放棄による平和の實現と云ふ意味に於ひては左派的な要素も多分に含んで居る。

 

先にも述べたやうに日本の社会は近代化が進めば進む程に矛盾化し部分的にではあれ破壊されて行かざるを得ぬ訳だ。

派遣社員化や少子化、また温暖化による災害の頻発さらにコロナ禍までもが實は合理主義による「日本型社会システム」との矛盾が生じさせて居る問題なのだ。

 

即ちわたくしの立場としては「日本型社会システム」其れ自体が悪ひのでは無く近代化から独立宣言し進歩から距離を取るさうした英断を為し其の國自體の独自性を宣言出来ぬ日本の指導者層の頭の悪さにこそ全責任が存して居るのだ。

 

また學者は、ま、其れ位のことは始終考へては居ることだらうが今此れ言っちゃうとマズひだらうなあ、とか無難なことを言って助教、教授の座を守りたひだとかそんなことばかり考へて居るから結局🐶の學者に成り果てて仕舞ふ。

 

「社会性の限定」とは社会の範囲の限定のことであり要するにグローバリズムとは正反対でもって保護主義的な政策の流れでのことだ。

 

 

また伝統國家としての英國との関係を是非重視して行くべきである。

英國もこれからはどうなるものやらまるで見当もつかぬのだが但し其れは日本國もまるで同じことだらう。

 

1.産業の価値の再構築=地方の再生

 

儲け主義=経済成長重視の資本主義社会はすでにコロナ禍にて青息吐息である。

かってのリーマンショックの折には其れは抽象的経済恐慌であった訳だが現在及び今後資本主義社会に齎されるであらう経済恐慌とは自然による具象的限定によるものだ。

従って「儲けて其れでもって壱等國となる」と云ふ価値観其れ自体がもはや🐵や🐶並に馬鹿である。

 

与野党を問はずしてまださう言ってる國會議員などは所詮馬鹿である。

なのでこれからは第一次産業こそがまさに重要なのだ。

 

産業資本による國際的な競争により金儲けをする➡✖

北海道や九州や四国にて農水産業林業、牧畜の分野などを発展させる➡〇

 

また情報産業などは地方か又は山の中に移転しても仕事は出来る。

即ち東京一極集中、大都市中心主義を解体して行くべき時に至って居る。

 

 

2.価値観の多様化=眞の意味での思想・信条の自由の實現

 

「日本型社会システム」の構築主義⇔革命主義者

 

眞のインテリは此のどちらにも理解を示ししかも実際に其処へイケなくてはならぬ。

常にどっちもイケる状態にして精神を常に研ぎ澄ませておけ。

 

言ふまでも無く思想は右と左に分かれる。

どちらかに固執すれば即其処にて思考放棄に至る可能性が高くあらう。

 

たとへば革命主義でもって天皇制だけは継続させたひ、などと云ふ考へでも良ひのである。

思想は所詮概念なので其処での抽象度を如何様にも変化させられる筈だ。

 

思想は所詮概念なので其処は余り具象化せず理想論として心の中に持って居るだけでも良ひ筈だ。

 

また「俺は北海道でもって農業をやるんだ、会社は行かぬぞ。」

でも勿論良ひ。

 

タダわたくしの従弟一人が二十五年程前に憧れて北海道の牧場へ入ったが一年程で逃げて帰って来た。

わたくしの一歳下の大卒の従弟一人は北海道に大きく憧れを抱ひて居たが離婚しおかしくなりとっくの昔に会社も辞めちゃった。

 

尤もソヒツにもまた社会と云ふか👪と云ふかそんなものに対する否定的な見方が兎に角強くある。

 

 

3.根本での日本人の価値観の再構築

 

以前から述べて居るやうに日本國は自然に恵まれた樂園である。

其の樂園のさ中にも然し苦しみがまた生じて居る。

 

まずは其処が分からぬ。

なので其の訳の分からぬ苦を無くすことだけを考へやう。

 

即ち苦の合理化だ。

 

まずは伝統的価値⇔革新的価値のどちらにも實は正解は無ひと云ふことを自ら學び取るべきだ。

 

即ち自民党でもまた共産党でもダメなのだ。

概念ではさうして弐元に分かれるからどちらかに擦り寄れば即其処で思考停止することだらう。

 

だが思考は常にし続けて居なければならぬ。

 

「日本國は自然に恵まれた樂園である」のに其れを知らぬのは儲け主義が良ひとする現代國際社会のせひである。

「日本國は自然に恵まれた樂園である」のに家や子孫の存続や世間的体裁に拘れば其れが見へて来ぬ。

 

 

かやうに社会の価値観がさう個を規定することにより逆に眞實の姿を隠し「求め過ぎる虚としての自我」を形成して行く。

 

其れは生老病死の苦とは次元を違へたまさに社会苦の様なのだ。

社会苦⇔ぼっち苦ー孤独による苦ー

 

結局此のどちらへ寄っても苦しひことには変はりが無ひ。

 

で、みんなでもって布教だの金儲けだのやって行けば〇だと思ふのやもしれぬがむしろ其れでは×だ。

だからどちらも否定的に見詰めよ。

 

其の対立する概念の双方を否定的に見詰めることこそがまさに概念の眞ん中を見詰めることであらう。

結局社会的な苦はさうした概念的偏りから生じて居る可能性が高くあらう。

 

さうして大事なことは兎に角まず日本の社会は特殊であり欧米近代のあり方にはそぐはぬと云ふことなのだ。

特殊だが高度な文化文明を築ひて来て居るので欧米の植民地のやうには元よりなりやうが無ひ。

 

だから其処のところにみんなは自負を抱ひて頂きたひ。

 

日本には一級の知性的業績がかってあった筈だ。

 

政治家や軍部には確かに🐵や🐶なども多く居たものだったがちゃんと人間として生を全うした奴も案外多かったのだぞよ。

 

其れが何でこんなんなってる?

 

つまりは其の「根本での日本人の価値観の再構築」こそが今最も難しひ部分なのだ。

 

日本人よ、もう群れるな!

孤独に徹し生活教をなるべく早う卒業せよ。

 

 

さうして石破氏を支持し時には「赤旗」も読んでみやうではなひか。

日本人よ、再び戦前のやうに理性化しやうではなひか。

 

其れもグローバルにやるのでは無く全てを制限した上で日本らしさを追求して行かう。

でも食ひ物だけはちゃんと自分達でつくらう。

 

結局其の飲み食ひこそが大事なのだよ。

生きることの基本こそが其の飲み食ひにこそあり。

だからこそ今後は第一次産業を最も重視して行くべきなのだ。