國家と云ふ概念其れ自体が實は可成に抽象的な発想なのだ。
抽象的規定は時の経過と共にむしろ劣化し具象的ー具体的ー方策を欠ひて行くことともならう。
其処は随分と哲學的な話なのだがあくまでさうしたこととならざるを得ぬ。
抽象的規定は時の経過と共にむしろ劣化すると云ふ部分こそがまさに重要な部分なのだ。
即ち哲學的には保守、革新のイデオロギーとしての区別とはまた関係無く國家其のものが解体されて行かざるを得ぬ。
まさに其処がかのマルクスの考へ方の根幹にあったものだったことだらう。
抽象的に近代化されし明治以降の我が國のあり方、さらにより抽象的に近代化されし戦後の我が國のあり方は常に保守と云ふ枠組みの中で具象的に妄想を膨らませて来た。
対して革新思想は其の妄想を遮断し全体➡個、國家➡國家解体されし共産制への移行を図る。
尚其の抽象性の劣化とは事實である。
資本主義と大衆社会の組み合はせはすでに社会的に修復不能な迄に劣化して居やう。
ーマルクスが19歳のときに書いた「絶望者の祈り」という詩があります。長めの詩なのですが、少し解釈を加えると以下のような内容が書かれています。
神は俺の人生から何から何まで取り上げた
残されたのは運命の呪いだけだった
神の世界はみんな、みんななくしてやる
しかしそれでもまだ一つだけ残るものがある
それは神への復讐だ!
俺は誓う、堂々と神に復讐する
だとすればマルクスは其の絶望への復讐、其の現實と神に対する復讐の為にかの『資本論』を著したことだったらう。
理不尽なさうして不条理な世界の構成に対しむしろ神に祈ることを捨て去りまた不完全で且つ不潔な人間の社会をのさばらせることなどもう止め理想としての其の復讐の世界を築くことをこそ目指したのだ。
國家権力、其れは其の力に甘んじて居ればやがて劣化ー腐敗ーし且つ妄想を抱くに至るものだ。
其れはどんな國家とて例外では無ひ。
やがて其れは個に対し全的に服従を強ひるものともならう。
かうして労働に対し、さうしてコロナに対し特攻を強ひるものともならう。
少なくとも共産主義はそんな國家権力の横暴を許しはせぬ。
何故なら其れはマルクスの理不尽なさうして不条理な社会への呪ひ其のものから生み出されしものなのだから。
「共産主義者は、これまでのすべての社会秩序を暴力的に転覆にすることによってのみ、自己の目的が達せられることを公然と宣言する。支配階級よ、共産主義革命の前におののくがよい」『共産党宣言』より
ーマルクスはここから次のような理論を導き出しました。人間の本質は労働である。人間の本質的な喜びとは自発的な労働の喜び、そして労働の成果(生産物)を使用者に与え満足する姿を見る喜びである。ところが資本主義社会では、労働は資本家によって強制され、生産物は資本家に奪われる。また資本家は労働しない。だから資本主義社会は人間らしさを奪う社会である。
この「人間らしさが奪われている」ことをマルクスは「人間疎外」といいました。資本主義は人間らしさを奪う社会である。だから倒さなければならないというわけです。
こうしてマルクスは、資本主義の打倒は労働者の解放、すなわち人類の解放であると訴えました。またその後、労働者を真に代表するのは共産党のみであり、共産党に反対する人々は人類の敵であるとされました。共産党政権下で大量の犠牲者が生まれたのは、こうした理論があったからです。ー共産主義が実現すると国家が消滅するより
まさに人間が「疎外」されし存在なのは事實である。
人間は他の人間を人間として愛せず其の愛の不毛より相互の不信と搾取による「人間疎外」を生み出す。
「資本主義は人間らしさを奪う社会である」
事實として資本主義社会は個としての人間らしさを奪ひ去る社会だ。
其れも今まさに金融資本主義や新自由主義による冨の集中や派遣労働に於ける人権の剥奪、制限などが罷り通る社会となって仕舞って居る。
またさらに金融資本主義や新自由主義は一部の富める者達がより富めるやうになるやうなシステムを作り上げた。
だが所詮其れは本質として飽くなき欲望の追求と倫理観に欠ける功利性ー現世利益ーを追求してやまぬ社会システムであるに過ぎぬ。
資本主義の功利性はより一層合理的還元としての価値つまりは金の価値の力を強めて行かう。
其ればかりか資本主義と結託した科学技術により新しひものが創り出され其の新たな価値へと我我は繋がれて行かざるを得なくならう。
だが資本主義の功利性はやがて倫理的規範性即ち人間の精神性其のものを破壊していくのだ。
みんなが楽しく資本主義をやりさうして父ちゃん、母ちゃん、爺ちゃん、婆ちゃん、子、孫、曾孫が皆其れに尻尾を振りつつ人間的には壊れても行かう。
即ちみんなでもって赤信号を渡りつつ色んなものが其の侭に壊れても行かう。
では共産主義ならば壊れぬのか?
さには非ず。
何故なら共産主義とは人間の社会のあり方に対する「呪ひ」なのだ。
また神の秩序に対する呪ひなのでもまたあらう。
さてもアナタは神を信じますか?
どちらかと言へば佛を信じて居りますが人間は神を信じても良ひのだとさうも思ふ。
でもアナタが社会を呪って居るのは其れはマルクスとまるで同じことなのではありますまひか?
確かに良く似ております。
其れにまるで馬鹿野郎の資本主義を打倒して行きたひのもまあ本質的には同じことでせう。無政府共産主義
だが問題は社会システムの変更と云ふだけでは人間の本質的罪障が其処にまるで救われて居らぬ点なのだ。
其処は矢張り宗教の次元にて解決を図るより他に無ひ。
つまるところマルクスが呪った神、マルクスが否定せざるを得なかった神を今わたくしは指向せざるを得ぬ。
ー戦後の日本において政府が行う経済対策というのは、ほぼ100%企業支援を意味していた。日本では建前上、終身雇用ということになっているので、会社が労働者を一生涯支えてくれる。労働者は何も考えず、会社の指示に従ってさえいれば、それなりの生活を送ることができたわけだが、その代わり、会社からの指示は絶対だった。
終身雇用を維持するためには莫大な人件費がかかるので、当然、昇給は抑制される。日本人の賃金が安い理由の1つは、終身雇用を維持してきたことである。個人の生活を無視した転勤などが日常的に行われるのも、構成員が半永久的に入れ替わらない組織では、強制的な異動を行わないと不正が発生しやすいからである。
このような雇用制度である以上、個人の生活を守るのは企業なので、政府による経済支援のほとんどは企業に集中していた。実際、右肩上がりで経済が成長していた昭和の時代までは、企業を守っていれば、自動的に国民の生活を守ることができた。
だが、こうした日本型雇用というのは、基本的に成長が続かない限り維持できない。平成に入って日本経済の低迷が深刻化したことで、日本型雇用の歪(ゆが)みが露呈する結果となった。増え続ける人件費を捻出できず、賃金が圧倒的に安い新しい労働者カテゴリーを作ることで企業は人件費の増大に対処するようになったのである。具体的には「非正規社員」である。
非正規社員の数は、2000年代から顕著に上昇しており、今では民間企業はもちろんのこと、公務員の世界にまで拡大している。現在、多くの役所で窓口対応をしているのは正規の公務員ではなく、役所に雇われたり、派遣会社から派遣されている民間の非正規労働者である。
非正規社員はあくまで雇用の調整弁なので、企業を通じた生活保障の対象には入らない。そうなってくると、企業を支援していれば、国民の生活を守れるという従来の常識が通用しなくなる。
直接給付を頑(かたく)なに拒む政府のスタンスに国民が激怒。あまりの批判の大きさに、政府は一転して現金の一律給付を決定したが、筆者は、一連の出来事が戦後日本社会における一大転換点であると見ている。
以前の日本社会であれば、こうした現金給付については、国民の側からもバラマキとの批判が出た可能性が高い。ところが今回は、直接支援を求める声が圧倒的に多かった。コロナ危機による経済的影響が極めて大きいということもあるだろうが、大多数の会社員はまだ直接的に雇用が脅かされている状況ではない。
それにもかかわらず、こうした声が強く出てきたのは、もはや多くの労働者が「自分が勤務する会社は、自分の生活を守ってくれない」と考え始めたからに他ならない。
日本のカイシャは労働者にとってムラ社会だったと述べたが、社会学的には「共同体社会」と言い換えることができる。共同体は構成員にとって所与の存在であり、自分で主体的に参加するどうかを選べるものではない。集団の中では、お互いを監視したり、貶(おとし)めるという行為が行われるが、一方で共同体は、自分のアイデンティティーを確認したり、満足感を得る場でもあった。
共同体としての職場では、他人への誹謗中傷やイジメもある意味では業務の一部となり、純粋なタスクとこうした暴力行為、そして幸福感が渾然(こんぜん)一体となっていた。だがテレワークに移行すると、ほぼ全てがタスク単位となり、労働者の評価基準は、指定された時間に指定されたアウトプットを出せたのかどうかに集約されてくる。
当然のことながら、会社の業務に貢献している人とそうでない人がハッキリと区別され、上司の立場の人間も、適切にマネジメントできていたのか完全に可視化される。コロナ後の社会では、自分のアウトプットを正しく評価してくれない企業で労働者が働き続ける意味はないし、会社から見れば、共同体的な振る舞いしかできない社員はもはや不要である。ーコロナ危機が日本企業の非合理な“ムラ社会”を確実に破壊する訳より
21世紀の日本社会の問題の核心部は、以前から述べて来ても居るやうに其の封建的な共同体としての社会関係が果たして合理化出来るものか否かと云ふ部分にこそ存する。
此の鋭ひ社会時評にもある通りに戦後日本の経済活動は封建的な共同体としての社会関係に導かれたものであり、其処で要するに國は共同体の一員としての会社を助けることで終身雇用制度を成り立たせて居たのであった。
其のやうな雇用のあり方は無論のこと欧米社会には見られぬものだらう。
いや、でも其れは日本と云ふ特殊な國ー進歩しつつも伝統國であり続けねばならぬと云ふ矛盾を有した國ーに於ひて合って居たのではなかったのか?
だからこそみんなは我慢しつつ会社の言いなりになりつまりは尻尾を振りつつたまに貰へる御褒美にワンワン、キャンキャン、などと吠へつつ其の高度な成長とやらを成り立たせて来て居たのだった。
だが小泉政権と安倍政権が其の日本型の雇用を破壊したのでもう誰もワンワン、キャンキャンとは吠へなくなって仕舞った。
いや、吠へる元気すらもはや出ぬ。
何故ならみんながもう派遣社員なのだ。
其の派遣社員は人間では無ひ訳なのでボーナスもクソも無く人権も何も無ひ訳だ。
そんな酷ひ搾取の様が一体他の何処の國にあらうや?
で、そんなことをしておるからこそ政府は國民を一人も助けられぬのだ。
つまり國はもはや会社も個も助けられはせぬ。
何故なら上にもあるやうに経済が成長ししかも人口が増へて行くと云ふ其の戦後の発展期の政策のやり方を其の侭に安倍政権が今も信じて御座るのでもはや儲けられぬ實力主義のグローバル経済に於ひて其のやり方其のものが必然的に封建的な村社会と化さざるを得ず無論のこと其れではもはや儲けが減るので危機に対してまるで対処能力を欠ひて仕舞ふ。
だから國がみんなの面倒を死ぬまでみます、と云ふ鎖国した上での幕藩体制であれば無論のこと其れは辻褄が合って居るのだ。
でも其れはもはや出来ぬので國家の役割が其処に終はりを遂げたのだ。
即ち安倍政権ばかりの問題なのでは無ひ。
左翼政権も大震災の時は其の対応振りが酷かった訳だが自民党にせよ何党にせよもはや封建的な村社会での政策を維持することは不可能だ。
つまりはバランスを取り國家=政府其れ自体が合理化されて行かねばならぬことだらう。
と云ふことはもはや政府は要らぬと云ふことでせうか?
さうではなく封建的な村社会にさうして拘る政府などもはや誰も認めぬと云ふことなのだ。
其れも何でかと云ふと新自由主義政策により労働及び労働者への合理化を断行したにも関はらずみんなはまだボクを信じて居て呉れるとさう安倍氏は考へて御座るのだ。
一番大事な経済的な面をさうして米国主導での合理化をして置ひて何故自らを合理化出来ぬおまへらのことなどを支持してやらねばならぬのだ。
さう我我の面倒をもはや政府は見る積もりなど無ひのだ!
そんな政府は即刻否定されてしかるべきなのであり、其れどころか年金の増額を、此の生きんが為の年金の増額を今断固として要求したひ。
つまりはもはや生き残る為にみんなが必死になって行く他は無ひ。
即ち労働も支持も須らく合理化して行かざるを得ぬ。
たとへば貧乏な会社はもう見捨て即刻転職する。
封建的な村社会が好きな政府も即刻否定する。
要するに社会的な合理化に対抗するのは個としての社会的選択の合理化でしかあり得ぬ。
だから安倍政権が崩壊するのは至極当然のこと。
其処には何の不思議も御座らぬ。
尚今回政府が國民への直接給付を拒んだのは個と政府の関係が近代的なものには成り得て居なひことの証左だらう。
ところが他の先進諸国は皆速やかに國民に対し給付を行って来ても居やう。
要するに日本は近代國家とは程遠ひまさに封建的な村社会國家であるに過ぎぬことだらう。
だから近代的な個と國に於ける権利義務関係ひとつにせよたとへ政府関係者であらうが何も分かって居なひ。
先にも述べたやうに日頃國民として労働しまた其の対価よりピンハネされることつまりは税金を納めることで初めて政府及び國會議員は今を生きて居られる訳だ。
なので当然の如くに国難の際には身を挺して國民の生命及び財産を守り抜かねばならぬ。
もしもいつまでも封建的な村社会國家でありたひのであれば英国と同盟関係を築くか、それともいっそのこと日独伊三国同盟を復活させてみてはどうか。
または革命と云ふ手も實はあらう。
無論のこと其の場合には國家など無くなって仕舞ふ。
其処でもって最終的には共同体統治へと向かふことがより望ましひ訳だ。
何故統治のあり方を小さくするのかと云ふと統治のあり方が小さくなる方が具象的にー具体的にー政策を決定することが可能となる故にだ。
逆に統治のあり方が大きくなればなる程に其処に抽象的な意思決定が求められることとなり屡其れが矛盾を生み結局実効的な解決とはなりにくひからなのだ。
即ち抽象度の高ひ決定を下す組織程現實的には役に立たなくもなり易ひ。
さうまるで今回のWHOのやうなこととなって仕舞ふ訳だ。
共同体統治とは要するに近代國家以前での古き良き統治のあり方に戻すと云ふことであらうとわたくしの場合はさう理解する。
さすれば抽象的な國益などには惑はされずにもう少し余裕を持ちつつ人間が人間らしく暮らせて行けるやうになることだらう。
要するに社会的な思想のあり方とは組織が大きければ大きくなる程にまた社会が進歩?すればする程により抽象的な領域でのより大きな欲望に捉へられて仕舞ひ矛盾を極大化させ得るものと大抵相場は決まって居るものだ。
とは言へ此れもまた共産主義のやうに政治的理想論の範疇に止まるものでありあくまで實現が可能な方策としては民主制を取り戻す為の國民による政策上の御勉強のことだ。
即ちそも小泉氏が変な髪型でもって面白ひからと云ふ理由でもって彼に票を入れた其の判断のおバカさとは一体全体何なのだ?
安倍政権なら自民党だから保守だから大丈夫だらうとさう感覚だけで判断し彼に票を入れた其の判断のおバカさとは一体全体何なのだ?
だからさう云ふポピュリズムのやうなものでもって支持する政党なり國會議員を選んではイケません。
さうでは無くもう徹底的に御勉強してから其の一票を投ずるのです。
小泉政権は分裂ー病ー政権にてまた其の後を受け継ぐ安倍政権もまた分裂ー病ー政権なのだった。
ところが大衆は御勉強せずにタダの感情でもって政治家乃至は政党を選んで仕舞ひがちだ。
おまへにそんなことを言はれずとも誰に投票しやうが俺の自由だ、自由。
さうかなあ、自由ではなひとさう思ひますね。
少なくとも分裂病政権を自ら選んで置き其れでもってもはや日本の経済が壊れただの、また日本人の道徳心や精神性が廃れただのそんなことを嘆くのはまさに本末転倒の様でせう。
むしろ其の選択が悪ひから、要するに大衆の政治的選択がおバカだったからこそ日本の國の其の舵取りがおかしくなっちゃったのではありますまひか。
ところでおまへは一体どこの政党に其の壱票を投じて居るのだ?
おまへのことならどうせ國家を否定する日本共産党だらう、ズバリさうだらう?
いや、わたくしは投票には行きません。
アノジロジロと見られる感じが何せイヤなので。