目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

物事の「本質」を問うこととはむしろ社會の向きとは逆方向を向かねば成り立たぬことだーさう「ねちねち」と問い続ける學者と「ありがたう牧場」のことー

かう夏ですのでそろそろ北海道へ行きたくなる訳ですーそんな北海道の放牧牧場とは?ー

 

 

 

 

 

 

まもなく地球上から消えるかもしれない絶滅危惧種の食品

 

まあいずれにせよソレ等が無くなるのであればソレ即ち現行文明に所謂持続可能性が無いとのことですね。

個人的に現行文明に所謂持続可能性が無いとのことを凡そ40年近く考えて参りましたがナニが惡いと申してまずは文明としての心がけ=認識の方が如何にも粗雑です。

 

よって文明世界はむしろ薄氷を踏むが如くに慎重でこそあるべきでした。

ところがかうして近代はほいほいと突き進んだ。

 

故に地球がすでに靑息吐息です。

でもってしてこの期に及んで果たしてナニを望むのですか?

 

ほんたうはソレが清い水であり空気であり美しい自然であるべきなのですが實は現代人の価値観はすでに洗脳されてー全體主義化されてー居り彼等が望むのはひとえにデカいカネであり便利さでありシンポソノモノだ。

でもあくまでわたくしは前者をこそ望むので現代人、御前等とはまるで価値観が異なるとのことなのだな。

 

まあイイ、ソノ価値観の誤りの部分に就いてはまたいずれ分かりませう。

さういずれ文明もまた気付くのではないか、でも気付いたらすでに遅かったのだった。

 

 

さう主に認識論の上での錯誤の問題としてわたくしは文明を捉え直して來し訳です。

ソノワタシの論は哲學も宗教もまた文學の方もゴッタ混ぜにてまた時には程良くエロ話の方が盛り込まれどうですまるで見飽きないだらう?

 

ちなみに宗教的次元に於いてもソレこそ社會性のある壱神教的な世界観の上では壱般に社會に對する危機意識が御座りませう。

ところが多神教的な世界観やまた佛法的認識に於いてソレが有るものとはなかなか思えません。

 

だけれども大乗教説にはまずはナニよりも「末法」との認識がまた有ります。

よってソノ「末法」との認識が現代社會に取り案外大事なことと成り得る可能性が高く存する。

 

ソノ「末法」とはクリスト教で言う終末観のことであらう。

全能神の認識に背きしニンゲンの社會はやがて👿の価値観に染め上げられ次第次第にグズグズとなって仕舞う。

 

また反クリストとしての「黙示録のケモノ」なるものが世に出でソイツがもうやりたい放題をやるものですから結果として地球は壊れます。

 

じゃあ壱度是非世を滅ぼすべきだ。

サア我我眞理の保有者が殺人だのサリン散布だの核攻撃だの何でもしたれ!

 

でもアナタソレはソノ教祖の考えが狂ってるダケだ。

 

 

じゃあたったイマよりみんなで集団自決するぞ!

サア信者はみんなコノ広場に集まれ。

 

ゼヒココにて互いに互いを刺し殺すべし。

 

でもアナタソレはソノ教祖の考えが狂ってるダケのことだ。

なので實は宗教って選択がとても難しくイザ間違えばもうとんでもないことになり易い訳です。

 

では正教とはそもナニでせう?

正教とはニンゲンがいつか正しく認識することを願いつつさう祈り且つ學び続けることなのではないか。

 

ソノキレイな言葉で纏めればまるでアナタダケが正しいニンゲンのやうですが…。

 

だからボクは自分はむしろ👿だよとさう申して來て居るじゃないか!

ソレに地獄へも堕ちるとさう言うた筈だ。

 

だがなもう四拾年もかうして社會のことで苦しんで來た。

ソノコトダケはむしろ誰にも立ち入ることがかなわぬ實存的な価値でなくて何なのか?

 

 

 

ETV特集 ねちねちと、問う ―ある学者の果てなき対話― - 動画配信

 

例えばコノ動画を視て非常に感じ入った。

學問の本質部とはむしろコノやうに世間の価値基準に對し「否」を突き付けることなのではないか。

 

まあ京大の學者の話ですので流石は反體制での文化的伝統を持つ大學だとさうも思われました。

兎に角コノ方ー元理系の學者ーは世間の価値基準に合わせることでむしろダメになる、壊れて行く位のことを番組中で述べられる。

 

またコノ番組のナレーターが例の又吉 直樹氏であり彼もまた自分軸にて生きる=世間の価値観に迎合すべきではない、などとも仰る。

 

ところが企業の中枢やソレ以上の重役、経営者などは即企業の論理にて今を生きておるのです。

ソレはさうで、さうで無ければソノ肩書に見合う仕事はこなせない。

 

だがコノ學者はさうではなくむしろ自分軸にてものを考えるべきだとさう述べる。

尚學者的なニンゲンはまずコノ精神の自立性、自律性とのことを重視する。

 

ソノ面では確かにわたくしも學者的なニンゲンなのだ。

ですがソレが本職では無く且つわたくしの持つ価値は多角的に展開されるので實はソレバカリにも非ず。

 

兎に角彼ー京大の先生ーは最後迄勉強會に集まる企業人に對し逆方向の価値バカリを説き続けた。

さうなのでわたくしもまたソレこそが「學ばんが」為の態度であり理性の方向性なのだと思う。

 

ちなみに御勉強の方での自分の恩師は中学参年生の頃の担任の社會科教師のISHII先生でした。

ISHII先生は京都大学を出られて居りアタマがハゲてちびでデブの壱風變わった感じの方であった。

 

夏休みの研究課題では「人口問題と食料危機」のことを取り上げソレを纏め上げ提出した。(當時丁度地元の中日新聞が食糧問題の特集を組んで居た)

 

ソノ評価は特Aとなり以降ワタシは特別扱いされ他の重要な社會問題に就き教えられもした。

ソノ経験こそが後にわたくしをして社會科を教えることへと誘うものとなる。

 

兎に角學者はまた教師は物事の「本質」をこそ問うて行くべきだらう。

ですが學者がまた教師が物事の「本質」を問うて行けば行く程にむしろ生き辛い世界と化しても居らう。

 

なのですが彼はあえてソレをやり続ける。

たとえ世間には通用せぬ論理ではあれまさにソレがほんたうのことであるのでさうやり続けて行く他は無し。

 

そんな先生の頑固さに影響を受け認識の上での變化が現れる企業人などもまた出て來たりする。

さうまずはソノ社會の認識の方にこそ何よりもマズさが有るのである。

 

故に「眞理」が求められて居るのは「個」では無くむしろ「社會」の方なのだ。

さう「社會」が變わらぬ限り文明世界は文明をやり遂げることがならなくなる。

 

だが概して社會は變わらない。

ナゼナラ社會の価値観はソレこそ「全體主義」にて組み上がるものであるが故に基本的に誰もソレには反對することがならないのだから。

 

そんな訳でどうも御目出度う御座ります、現代社會はあと五拾年バカリでのイノチでせう。

ですがソノ半世紀の間を「洗脳されし侭に生きる」かソレとも思い切りに「反抗し貶しに貶し生きるか」での理性的な意味での選択バカリは畢竟個の自由ともならう。

 

なのでコノ先生はむしろバリバリに反抗しておいでですのであら何だかとても素敵なのだわ、などと個人的にさう心より思いました次第です。

 

 

 

ETV特集 草の大地に生きる ―ある放牧酪農家の人生― - 動画配信

 

 

でもってしてコチラの動画にまたココロより癒されました。

 

カンタンに申せばコノ酪農家は北大を出たインテリさんで普通の農家とはまた違います。

要するにイイ酪農をやりたくて自力にて北海道の荒れ地を整え放牧を始められました。

 

放牧酪農について : ありがとう牧場 | 北海道足寄町にある放牧酪農家

 

ですが六拾を過ぎ癌となり結果死んで仕舞います。

だがソノ自然的な放牧自體は息子に受け継がれまた全國よりソレを學ぶ為の人が集まります。

 

まずソノ🐮ですが兎に角キレイです。

ソノ🐄が丘陵のあちこちに点在する形で放牧されソレを視て居るダケで何やらココロが癒される。

 

ですがそんな放牧酪農も實際には大變なのだ。

要するにやることが多く生半可な勞動では無い。

 

だがイイなあコノやり方が…。

また如何にもココの草が美味さうだわ。

 

さうつまりは工場生産物としての🐄なのでは無く自然現象の延長線上での放牧をやる方がコトが上手く行くとのことでありませう。

 

放牧酪農とは?メリット・デメリットや導入手順を紹介 – Re+ │ 地域と楽しむ、挑戦する。新しい農業のカタチをつくるメディア「リプラス」

 

工場生産物としての🐄(工場生産物としての牛乳であり牛肉)=現代社會が求める効率的価値

そんな自然的放牧による諸価値=現代社會が求めぬ非効率的価値

 

イザさう現代社會が求める効率的価値を追求して仕舞えばまずは🐮自身が不幸となる。

そりゃさうだ、彼等は単なる消費財などでは無く立派なイノチなのだから。

 

ところが近代社會はむしろ自然の諸価値を効率的=即物的に捉えて行くのである。

逆を申さば自然の諸価値を効率的=即物的に捉えること無くして近代と云う社會システムは成立せず、だ。

 

だが、です。

だがイザかうして違う価値を現實化してみるとソレが何と美しくしかも平和ですらあるものに観えることか。

 

故にコチラの番組の中にもまた物事の「本質」をこそ問うべきとの所謂ほんたうの意味での価値のことがしかと語られて居るやうに思うのです。

また物事の「本質」を問うことはむしろ社會の向きとは逆方向を向かねば成り立たぬこととなる。

 

シンポ壱筋ソレが万歳!

効率的な農法の蔓延

さう便利さにドップリと浸る

 

こんなやうなものが幾つも幾つも積み重なりおそらく現行の文明世界が形作られても居やう。

さりながらまずはソノ価値観に就き疑いを挟む精神的な余裕のやうなものを我我現代人が失ってはならないのではないか。

 

ソレでも結果として現代社會はさう壱元的に壱方向へと向かい歩んで行く。

だがほんたうのほんたうはまず疑いを持たねばならんのではないか、少なくともそんな全體主義にて進む文明の方向性に関し。

 

尚「學問」はまるで役に立たない、などと言われることも世間ではまた有る。

だが「ほんたうの學問」はおそらく大いに役立ちませう。

 

まずは自分に對し役立ちますがおそらくは社會に取っても役立つのだらう。

そんな眞の意味での學びを進めることこそが壱學徒としての目的で無くして果たして何であらう?