本日午前中に葉加瀬 太郎氏がやって居るベートーヴェンのTV番組を視ましたが其れが大層面白かったです。
また其処にかの林 修氏なども招かれて居ました。
尚わたくしは基本的に民放を視るのは嫌ひです。
何故ならおバカな内容の番組が多ひのでじぶんがバカ化されるのがそもイヤだからなのだ。
ですが民放のTV番組が全部バカだとは限らずまあ其処は割合で言へば拾パーセント位は素晴らしひ内容の番組もまたあると云ふことだらう。
で、其のベートーヴェンですが矢張りと云ふべきか何より生眞面目で潔癖であり手を洗ったりお風呂に入るのが好きだったと云ふ葉加瀬 太郎氏よりの解説があり其の部分は妙に納得させられました。
なので何より完全主義でもあった訳で、また先に此処でも述べましたやうに音樂の上での革命家でもあった訳です。
番組では其のまさに革命家としてのベートーヴェンの姿が炙り出されて居て其処は流石に正しひ視点から番組が制作されて居たやうに思ふ。
藝術家の気質にはまず其の生眞面目で潔癖な点が挙げられるものです。
其れも生半可なものではダメで周囲の人々にはまるで理解されぬ程にさうでなくては藝術家の域まで普通はいかぬものなのです。
ちなみにわたくし自身もまた其の藝術家的な気質の持ち主です。
なので周囲との軋轢が何かと多くむしろ誤解されて仕舞ふやうな人生を半世紀ー中学生の頃位からーにも亘り過ごして参りました。
でもわたくしは何より其れがイヤなので普通の人間に是非なりたかった訳ですが人間の本質と云ふものはまさに変へやうが無ひものなので長きに亘り其れをやって来ざるを得ませんでした。
但しわたくしの場合は藝術一本槍なのでは實は無く學者的な気質も多分に持ち合わせて居ます。
また宗教家に近ひ心理的傾向なども御座りますのです。
ですので全くに一筋縄ではいかぬ人間なのですが周囲からするとタダの夢想家に見へるやうで其処を逆にバカにされることが多かったものです。
ベートーヴェンはさうして生眞面目で潔癖な癖に着るものにはまるで構はず特に其の晩年は相当にボロの服を着込んで居たやうですが何故かわたくしもふと気付くと40年前の死んだオヤジのハーフコートを着込んで居たりも致します。
また家に居る時は寝癖が酷く付ひたボウボウの頭とヒゲ面でもってしていつもおりますのでまるでもって普通の人間には見へぬのであります。
要するにゲージツの方が現實よりも常に大事なのでなりふり構はず其れにこそ突進して行くのです。
但しわたくしが此処五年程して参りましたのは社会の危機を叫ぶことであり文人として藝術をやることではありませんでした。
社会の危機は事實として存しておりまずは其れを述べなければならなかった。
其処の部分は元塾の社会科の先生であったことがさうさせたもので藝術の上での表現などではなかったことかと思はれる。
ですから其の部分にはわたくしの學者的な気質の部分が何より投影されて居たことだったらう。
番組中でいまひとつ面白かったのはベートーヴェンは👩にフラれ続け結局此の世では👩の愛に包まれることは無かったと云ふ点でした。
さうです、ベートーヴェンの人生とは其の愛の不毛、愛からの拒否との闘ひの記録でもまたあった訳だ。
ですが其の現實上の愛の失敗からこそまさに普遍的な愛=博愛へと昇り詰めた彼の生き様こそが大藝術家のものではなくて一体何なのでせう。
即ち、
ー現實としてのー愛を得ることはー普遍的なー愛を失ふことであり、
其の逆にー普遍的なー愛を得ることこそがー現實としてのー愛を失ふことなのだ。
わたくしは其の愛と云ふことの意味をまさに今問うて来て居ます。
でもまずはソコがオカシヒ訳です。
何故ならまさに今みんなはまた利口な読者の方々のレヴェルであるにせよ、まさに今普通は今後のコロナの蔓延のことを何より心配しじぶんと👪がどうか今後を生き延びられますやうに、とさう願っているばかりなのでせう。
でもわたくしは普遍的な愛の死のことばかりを最近は考へて居りました。
其の普遍的な愛が死に絶へるー破壊されるーと人類はもうお仕舞ひでせう。
だからこそ普遍的な愛をこそ継続させて行かねばなるまひ。
さても其の普遍的な愛とは何か?
ズバリ申しますれば其れはジョン・レノンが歌った愛でありベートーヴェンが奏でた愛なのです。
おおまさに其れが其れこそが藝術が示したところでの究極としての愛だ!!
其れはイエス・キリストが説く愛とどう違ふのですか?
イエス・キリストが説く愛は神の愛です。
ですがジョン・レノンとベートーヴェンが説く愛は謂はば「死としての愛」なのだ。
「死としての愛」?
さうだ、そんな死人の愛のことだよ。
宗教が説く愛はあくまで「生としての愛」であることだらう。
たとへ殉教したにせよ其れは宗教が生き残る為の愛なのだらう。
宗教にはいつしかそんな社会性が付与されて行ったことだったらう。
だがジョン・レノンとベートーヴェンは社会の変革を望んだだけでしかも其れを個の命として最後まで叫び続けただけなのだ。
まさに其れは藝術としての個の魂の叫びであったことだらう。
では其れが宗教による救ひ其のものよりも尊ひ行ひだったとさう言ひたひのか?
さには非ず。
つまるところ其れは対概念なのだ。
「生としての愛」⇔「死としての愛」
との対概念なのだ。
でも共に愛を語り続ける何者かなのだ。
藝術家はさうして個を死に晒した上で永遠に愛を語り続ける。
対して宗教もまた人間をより良く生かすべく永遠に愛を語り続ける。
さてもベートーヴェンが👩にフラれ続け次第に孤高の立場に追ひやられさうしてボロボロになって死んだことをおまへは何処までも美化して居るのだな!
いや美化ではあり得ずまさに其れは事實だぞ。
ベートーヴェンがさうして難聴にクルシミまさに目を剥ひて死んだであらうこととジョン・レノンが四発もの銃弾を體に撃ち込まれ悶へ死んだこととは実際に良く似た結末だらう。
もしやおまへもそんな死をこそ望んで居るのか?
いやわたくしの場合はもう少し學者っぽひので必然として其処には若干の俗物性が混入しそんな藝術の大家の如くに美しひ死に方など出来やう筈が御座りません。
さてもおまへは何故よりによりこんな年末にさうして哲學することを樂しんで居るのだ?
いやずっと前から此の年末年始こそがわたくしにとり非日常としての体験の場であり即ち生の素顔に触れる貴重な時だったのです。
だからわたくしにとって其の非日常としての体験の場こそが現實なのであり世間が体験して来た現實的な現實などはもうほとんど顧みるだに値せぬ嘘ー虚ーの集積なのだ。
またイキナリさうして難しひ話をし始めたな。
ズバリ言って其の生眞面目でもって潔癖な性格其のものが精神の病気か何かだらう?
嗚呼、難しさ、其の気難しさよ。
まさに其れこそが「死としての愛」に繋がる藝術家としての気質でなくて何であらうか?
第壱かの信長もまた気難しかった筈だぞ。
気難しひ奴は必ずやさうして非業の死を遂げるのだ。
ではおまへもまたさうした非業の死を遂げるのか。
いへオヒラの場合はもっと可愛らしひ死を遂げることだらう。
可愛らしひ死?
そんなにおまへは可愛らしひ、愛らしひ人間だとでも云ふのか?
まあ実際可成に愛らしひ人間ですよ。
第一顔が丸くて平べったひのでまるで興福寺の阿修羅像の如くに可愛らしひのです。
まあわたくしの場合は何よりかうして書くものの内容が特殊な作家であり特殊な詩人ですので通常の尺度では評価などし切れぬものですよ。
今回のコロナ禍にて突き付けられて居るのはもしや其の「愛」の不毛としての現實であるのやもしれぬ。
「生としての愛」⇔「死としての愛」
と云ふ対義的関係に於ひてまさに突き付けられて居るのは愛の實在である。
愛の實在⇔愛の不毛ー喪失ー
文明生活に於ひて我我はもう長く其の愛の不毛の領域に向き合って来なければならなかった。
近代と云ふ加工性が齎す功利性即ち合理化の領域とずっと文明は関はって来て居た訳だ。
合理化は其の「愛」すらをも功利化し破壊に至らしめて仕舞ふことだらう。
だがかのイエス・キリストが此の世に示された「愛」とは自らの死と引き替へにした赦しの愛である。
其の普遍的な愛の形には打算が無くよって利己主義からは遠く隔たって居やう。
また佛陀が此の世に示された「慈愛」とは明らめの愛である。
其の普遍的な愛の形には打算が無くよって利己主義からは遠く隔たって居やう。
だが現代文明は特に戦後只ひたすらに全てを功利化しさうして合理化の名の下に自然を切り刻んで来た。
よって其処には「愛」は無ひ。
「愛」は尊ひ命の犠牲により其処に導かれるものであると云ふのに戦後の大企業はまた文明人は只自己の打算にのみ走り要するに富と快適さの為偽善的に世界の破壊を企てて来たのだった。
そんな文明が滅ばずして果たしてどうするのだ?
よって全ての結果は必然のことである。
誰が悪ひのでも無く兎に角さうして自分ー人間自身ーが悪ひのだ。
ジョン・レノンとベートーヴェンが今の文明の様を見たとしたら矢張りと云ふべきか嘆き悲しむことでせう。
いやジョン・レノンとベートーヴェンは其の与へられし時を精一杯に生き共に「死としての愛」を成就させつつ冥途へと旅立ちました。
対して現代の文明の価値観に何より欠けて居るものとは其のマヒナスから生ずることだらう愛としての価値なのだ。
ベートーヴェン ロマンス 第2番 ヘ長調 作品50 Beethoven Romance No.2 in F Major Op.50
尚葉加瀬 太郎氏が一番好きなベートーヴェンの曲が此れなのださうだ。
此の曲を知っては居たがベートーヴェンの作曲だとは此れまでまるで知らなかった。
印象としては可成に高尚、高踏的でありまさにアカデミズムの世界の如くに如何にも知の上部構造と云った趣さへもがする。
要するに學者の連中が朝珈琲でも飲みながら聴ひて居るかのやうな高尚さがまさに感じられる曲だ。
尚此れはベートーヴェンが若ひ頃の曲ださうでさう言はれてみれば確かに其処にはまだ苦悩の世界が始まっては居らぬやうだ。
個人的には大変美しい旋律の曲で好きなのだが此れまで長ひ間此れがベートーヴェンの曲だとは知らなかったのでまだピンと来て居なひ感じである。
ベートーヴェン ロマンス 第1番 ト長調 作品40 Beethoven Romance for Violin and Orchestra No. 1 in G major, Op. 40
こんな曲もあった。
こちらの方がむしろベートーヴェンらしさが出て居るやうにも思はれる。
また此の「トルコ行進曲」はベートーヴェンの作曲だったなんてもしや君等は知って居たのだらうか?
つひぞ我は知らなかった。
いや、昔学校の音楽の授業でもってさう教はって居た筈なのだがスッカリ忘れて仕舞って居た。
で、番組ではこちらのモーツァルトによる「トルコ行進曲」とが比較される形で演奏されて居た。
さてどちらがベートーヴェンの作曲でせうか?
番組ではアノ林 修をも含めたゲストの全員がモーツァルトの方を選び全滅だった。
だがわたくしは即座にベートーヴェンの方を選び正解した。
知ると云ふことは實はさうしたことなのだ。
或は物事が分かる、分かって居ると云ふことはさうしたことなのだ。
但し其れも明らかに前者の方がベートーヴェンの音がして居るとさう感じられたまでのことなのだ。
ちなみにわたくしは💎の番組でもって即座にイミテーションの石を見破ったことがあった。
其れからとあるTV番組にてストラディヴァリウスの音を聴き当てたことなどもあったものだ。
要するに此の方面に関してだけは至極勘が良ひのである。
だがおそらくは社会的なものに関しては元々何かが弱ひのであらう。
そんな訳で藝術とは煎じ詰めれば畢竟其れは「死としての愛」のことだが其の個としての死が存するが故に其れは普遍性を獲得し其処にしかと「愛」をも生じさせると云ふお話を致しました。
其の「愛」は👩への愛でも無く👪愛なのでも無ひ。
何せ其れは「死としての愛」なのでキリストが説く絶対の神の愛にもほど近ひ犠牲的精神に刺し貫かれても居やう。
尤も其れはあくまで個の範囲を超へることの無ひ究極としての個の愛の形なのだ。