目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

ベートーヴェンと相田 みつを

先に述べましたやうにあの谷川 俊太郎氏が生きることと生活することは違ふ、と述べられて居たことが大きく気になります。

生きることを考へ抜くことと生活することは確かにどう考へても違ふことです。

 

生きることを考へ抜くことは藝術や宗教の目的であり、対して生活することは社会ー子宮ーの役割でもまたあることでせう。

其れにつけても社会は子宮なの?

 

今のわたくしにはほとんどさう思へて居ます。

社会とは人類の繁栄を願ふバリアーのやうなもののことで要するに揺り籠のやうなものだ。

 

但し其の社会には基本的に構築主義ー現世利益性ーしかありません。

よって価値構築を其処に積み重ねていくばかりでのことでせう。

 

ところが其れを続けて行けば行くほどに現實の上での摩擦ー問題ーが生じても参りませう。

 

では其の構築主義が悪ひのかと言へば必ずしも其れが悪ひのだとは申せません。

 

 

たとへば江戸幕府がまさに其の構築主義だった訳ですが其処ではまさに太平の世の實現が成って居ます。

かの徳川幕府による限定的政策はさうして人文智による社会の統治を成し遂げほぼ理想としての社会を我が國に實現して居た。

 

なのですが、實は其処でもうイヤと云ふ程に社会其のものを限定して居たのです。

即ち鎖国し尚且つ諸藩の力を押さへ付けた上で其の太平の御世の實現を図った訳だ。

 

でも残念なことに其れは近代社会を規定する政策原理なのでは無ひ。

近代社会は逆に∞の成長を前提とする社会モデルを實現して居ます。

 

其の現實の上での摩擦ー問題ーが現代社会のあり方から生じて居ることはもはや明らかなことでせう。

即ちまさに其れが構築主義による弊害であり現世利益主義による諸の破壊なのでもまたあらう。

 

其の構築主義としての現世利益化の根っこにはキリスト教への誤った形での信仰があるとわたくしは考へて居る。

 

純粋なるキリスト教は逆に何より脱構築主義であり非現世利益主義でもあらう筈だ。

 

どだひキリスト教は此の現世には宝を蓄へず逆に天にこそ其れを蓄へるのでせう?

 

だったら資本主義とはまさに反キリストでの行ひ其のものではありませぬか。

 

 

わたくしの捉へ方とはあくまでさうした誤った形での人類の信仰にあるとさう捉へて来て居る。

 

また其れは佛教であるにせよまさにさうなのだ。

 

誤った形での佛教への信仰は誤った形でのキリスト教への信仰とまるで同じでもって要するに其れは至極罪深ひものであることだらう。

 

 

さてもしも世界中を幕藩体制化すればおそらく世界は救はれ世界平和なども成ることかと思はれる。

又は老子が説ひたところでの小國寡民の体制とすれば世界は救はれ世界平和も成ることかとさうも思はれやう。

 

其れが成ればおそらくはかうして現實の上での摩擦ー問題ーが様々な面で生じて来る可能性も低くならう。

 

言はばまさに其れこそが理想としての社会のあり方なのだらう。

ですが理想とは常に實現し得ぬものなのです。

 

 

構築主義脱構築主義

 

かように構築主義でも其の逆に脱構築主義でももはや近代と云ふ社会の仕組みを成り立たせることは難しひことだらう。

 

よってわたくしは社会は直らない、元には決して戻らぬことだらうとさう考へます。

構築主義による弊害であり現世利益主義による諸の破壊であるものは今後も継続し繰り返されまさに其の故に大幅な変化を今後現代社会は強ひられて行くことだらう。

 

逆に其の変化にこそ人間は適応して行く他は無ひ。

適応が難しひのであれば、其処に部分的な破壊が蓄積され其れが複合すればまた大破壊へと至らざるを得ぬことだらう。

 

 

わたくしは今さうした人類の種としての覚悟が何より必要なのだとさう考へて居る。

 

なのですが相変はらず世間では此の正月に何やらうかとか伊勢神宮でお参りしたらもしかして京大は受かるのかしらとかそんなことばかりしか考へて居ない。

また新車を買ったので其れでもって三河の方をドライヴして来るだのアノ娘は色っぽくしかも気立ての良ひ娘なので早速モノにしてやらうだのそんなことばかりしか實は考へて居ない。

 

つまりは現代人の生活のほぼ全部がさうして現世利益化して来て居ります。

でも現代人の中には例の玉川氏のやうな変はった奴も居てさうした方は常に自分の頭にて考へ現世利益化の全てに対し反抗して居ります。ーまさに其れが即ち京大としての反抗だらうー

 

またわたくしも其の現世利益化には強硬に反抗して来ても居ます。

 

でもおまへは京都のおせちを二つも買っただらう?

 

其れに最近はイルミネーションなどを毎晩観に行って居るではなひか?

 

實はさうなんです、大阪の蟹屋から手紙が来ておせちの配達日がようやく決まりました。

 

 

さうか、其れが何より嬉しひのだな。

 

其れはもう嬉しく無ひ筈が御座りません。

 

で、イルミネーションは何処で観たのだ?

 

いや、其れは各地ー他の区ーでもってして。

何せ今年は其のイルミネーションが凄ひのです。

 

何故今年はそんなにイルミネーションが凄ひのだ?

其れは人類が今イルミネーションに希望を託して居るからです。

 

 

みんなでもってさうしてイルミネーションをやり社会を元に戻さうとさう願って居るのです。

 

さうか、でもおまへは社会は元に戻らぬと確かさう言ったな?

いや戻れば戻った方が良ひとは思ひますが戻らぬものは戻らぬのでわたくしに責任をなすりつけられても其処は如何ともしやうが御座りません。

 

でも意外とおまへは構築主義だな。

 

さうしてどうのかうのと言ふ割に構築主義即ち現世利益主義にさへ貫かれて居るやうだ。

 

まあ其処は誰しも二面性がありますことですので。

でも公的な意味での二面性は社会を破滅にも導きませうから其れだけは決して許されることではありません。

 

尚コレクターとは所詮構築主義即ち子宮思考に捉へられて居るものです。

 

実際コレクターは際限無く何かを欲しがるものです。

ではコレクターとは馬鹿のことか?

 

まあ馬鹿のことですがちゃんと御勉強をした上でやるコレクションはまだしも罪が無ひのだと申せませう。

さうしてちゃんと苦悩した上で銀化ガラスだのイルミネーションに癒されて居ることこそが大事だ。

 

 

さても苦悩と言へばかのベートーヴェンですね。

エエ、まさに其のベートーヴェンです。

 

其のベートーヴェンをまた聴きましたね?

へひ、昨夜教育TVにて聴きました。

 

Maurizio Pollini ~ Beethoven Piano Sonatas op. 109, 110, 111 ~ video 1998

 

廿年以上前の演奏ですが丁度こんな感じでした。

TVでは其のポリーニによりピアノ・ソナタ第31番op.110と第32番op.111が演奏されて居ました。

尚TVでもってベートーヴェンの後期ソナタの演奏を視たのはこれが初めてです。

 

ベートーヴェンの後期ソナタは屡内容的に円熟した孤高の音楽だとも評されて居ります。

個人的に評せば人間の苦悩を突き抜けて何か人間では無ひものの領域へ、まさに其の孤高としての精神の領域へと舞ひ上がるかの如き作品群です。

 

おそらくは人間が到達し得る最も高ひ心理的な境地を音に表したものなのだとさう思ふ。

 

若ひ頃に人生に悩み果てたわたくしは此のベートーヴェンの後期ピアノ・ソナタでもってようやく心の平衡を保つことが出来た。

 

まさに其れが廿代の後半から三十代の初めのことでした。

 

其の頃わたくしはアシュケナージが演奏する後期ソナタのCDを入手し其れを何度も何度も繰り返し聴きました。

 

いや後期ソナタだけでは無くベートーヴェンのピアノ・ソナタばかりをさうして繰り返し繰り返し聴ひたものです。

 

月光ソナタエリーゼのために、なども?

勿論さうです。

 

 

ですが後期ソナタは其れ等ともまた違ひまさにキリスト教で云ふところでの神の世界に近づくかのやうなものだとさう思へた。

ではベートーヴェンこそがまさにアナタにとっての神なのですか?

 

でも佛教徒のわたくしにそんな意地悪な質問をして頂きたくは無ひ。

正直其のベートーヴェンこそが佛様なのです。

 

するとつまりはベートーヴェン佛なのですか?

 

さうです、其のベートーヴェン佛なのです。

 

さても其のベートーヴェン佛を一日中聴ひて居られるのですか?

 

さうです、ベートーヴェン佛に一日中祈りを捧げても居られます。

 

神様佛様、どうかどうか此の哀れな人間共を御救ひ下され、と。

 

 

もしや君の信仰はそんな孤高への信仰なのだらうか。

ああ、孤高、其れもベートーヴェンばかりでは無ひ、幾多の藝術家が辿りし其の孤高への道筋こそが光り輝くことだらう。

 

ところでアノ書家であり詩人であった相田 みつをさんの家の便所紙は書き損じの黑ひ紙だったさうです。

何せ貧乏なのでさうだったと云ふことだ。

 

 

『あってもなくてもいいものは、ないほうがいいんだな 』

『あなたの主人公はアナタなんだよなあ』

『アノネ どんな車よりものね 構造が複雑で運転がむずかしい車はね じぶんという名のこの車なんだな そして一生の運転手はじぶん』

『あのね 自分にとって一番大切なものは 自分のいのちなんだよ だからすべての他人のいのちがみんな大切なんだよ』

『アノネ 人間にとって一番大事なものはなにか? そこを原点として考えてゆけば』

『アノネ、がんばんなくてもいいからさ、具体的に動くことだね』

『あのねぇ 財産肩書き地位名誉その他 自分についている誇り高き飾り物を みんな落としてすっぱだかになってごらん 人間としての本当の自分がわかるから』

『アレもコレもほしがるなよ』

『いいですか いくらのろくてもかまいませんよ たいせつなことは いつでも前をむいて 自分の道を歩くことですよ』

『いくら多くの人に読まれても、ただ読まれるだけじゃ意味が無い たった一人でいいから、その人のこころに深く届けば、それでいいんだよ』

『いま ここにしかない わたしのいのち あなたのいのち』

『うつくしいものを 美しいと思える あなたの心が 美しい』

『うばい合うと 足らないけれど わけ合えば あまっちゃうんだなあ』

『かねかねかねと 金追いかけても 行きつくところは一体どこなの?』

『がまんをするんだよ がまんをするんだよ くやしいだろうがね そこをがまんをするんだよ そうすれば人のかなしみやくるしみがよくわかってくるから』

『かんのんさまは どうしてこんなにしずかなの かなしみにたえた人だから どうしてこんなにやさしいの ひとの世のくるしみに一番泣いた方だから』

『ぐちをこぼしたっていいがな 弱音を吐いたっていいがな 人間だもの たまには涙をみせたっていいがな 生きているんだもの』

『ぐちをこぼしてゆくんだね なみだをながしてゆくんだね だれにも気がねはいらぬから えんりょしなくていいんですよ ぐちをこぼしてゆくがいい なみだをながしてゆくがいい』

『これでいいということはないが これが今の私の精一杯の姿です』

『しあわせはいつも じぶんのこころがきめる』

『しんじつだけが魂をうつ』

『つまづいたっていいじゃないか にんげんだもの

『どうでもいいものは どうでもいいんだよ いちばん大事なことに 一番大事ないのちをかけてゆくことだ』

『なみだであらわれるたびに まなこがふかくなり うれいがふかくなる』

『なんでもいいんだともかく一生懸命やってみることだ いのちがけでやってみることだそうすれば 人間の不完全さがよくわかる 自分の至らなさが骨身に沁みてよくわかる 頭でなくてからだ全体でよくわかる』

『ビリがいるから1位がいる』

『ほんとうのことがいちばんいい』

『よくまわっているほどコマはしずかなんだな』

『一生燃焼 一生感動 一生不悟』

『因も変り縁も変る なにもかもみんな変ってゆくんだね 人間関係も変ってゆく 世の中無常だから』

『私がこの世に生れてきたのは、私でなければできない仕事が何かひとつこの世にあるからなのだ 』

『自分が自分に ならないでだれが 自分になる』

『弱きもの人間 欲ふかきものにんげん 偽り多きものにんげん そして人間のわたし』

『人から点数をつけられるために この世に生まれてきたのではないんだよ にんげんがさき 点数があと』

『人の為と書いて偽りと読むんだよなー』

『人間はねぇ 自分よりも人のほうがよくなると おもしろくねんだなぁ 人間のわたし』

『澄んだ眼の 底にある深い憂いのわかる 人間になろう 重い悲しみの見える 眼を持とう』

『正直者は ばかをみる だからといってうそばかりも通らない 世の中単純じゃねんだよなあ』

『善悪、大小、かねの有る無し、社会的な地位の上下などという、人間の作った相対的な価値観を一切やめてみることです 』

『他人のものさし 自分のものさし それぞれ寸法がちがうんだな』

『待ってもむだな ことがある 待ってもだめな こともある 待ってむなしき ことばかり それでもわたしは じっと待つ』

『道はじぶんでつくる 道はじぶんでひらく 人のつくったものはじぶんの道にはならない』

『筆を持つのはおそろしい 筆は正直で、書いた人の人間が 全部出てしまうから』

『名もない草も実をつける いのちいっぱいの花を咲かせて』

『慾望かぎりなし 迷いかぎりなし 人間のわたし』

『相田みつをの名言集』185選 一覧|心に残る名言・心に響く格言より

 

 

かうしてまさに人生と云ふか人間が良く分った方です。

またつまるところ此れ等は本質を突ひた言葉ばかりです。

相田 みつをさんの詩の場合わたくしは五十を過ぎてから何故か大好きになりました。

 

にんげんだもの

と云ふ人間臭さがまさに良ひところです。

 

但し其の相田 みつをさんにせよ所詮は藝術家なので実際には相当に変はって居られたのださうです。

藝術家はじぶんの世界を持って仕舞って居るので其れが人の価値観ー常識人の価値観ーと往々にしてぶつかり合ひまさに火花を散らして仕舞ふ。

 

ベートーヴェンの場合などは其のぶつかり合ひの様などもまた激しかったことかとは思はれますが意外と彼は社会的な人でもまたあり、其れは社会が変はれば人間と云ふ此の絶望的な存在も変はり得るとさう信じて居たかのやうです。

 

偉人たちの健康診断 選「ベートーべン 第九誕生!難聴との闘い」

此の番組の再放送を数週間前に総合TVで視ましたが全くのところ凄ひ番組でした。

 

ベートーヴェンはかのナポレオンを信奉し仏蘭西革命にも大きく期待を寄せて居たやうだ。

要するに其処で社会に対する変革を誰よりも望んで居たことだったでせう。

 

ピアノ演奏による貴族の為の藝術を人類の為の藝術へと転換せしめたまさに藝術の革命家だった彼が最後に望んだのはかうして社会其れ自体の変革でした。

 

藝術は然しなかなか社会に逆らふことが出来ぬものです。

何せ藝術家には金がありませんのでーさう云ふ性質の人が藝術家となるが故にー社会に逆らふと普通金が入らずで結局死んじゃひます。

 

だからやれと言はれれば戦争賛美の物語や音楽もまたつくらねばなりません。

ですが藝術は其の本質として元々社会には逆らってます。

 

逆らってるからこそ社会に対しやれることや言へることがまたあるのです。

 

 

尚第九に関しては以前わたくしは其の批判を書ひたことがありました。

其れは第九と云ふ交響曲への批判では無くシラーの詩とベートーヴェンの音樂の融合への批判を行ったのであります。

 

つまりは幕藩体制を復活させたひ保守としての立場上シラーの詩の方が何処かしら気に入りませんでした。

 

ちなみにわたくしは以前仏蘭西革命自体に就ひても否定的に捉へて居たのです。

 

なのですが、まさに今日本の政治のお粗末さに嫌気がさしたわたくしはあんな🐵共や🐶共を早う放逐し是非革命をしたひものだと段々さう思ふやうになって来たのです。

さうだ、革命萬歳!

Vive la France!

 

 

で、其の相田 みつをさんの言葉とベートーヴェンの社会変革の夢とは一体何処に関連性が認められるのでせうか?

いや関連性の話云々では無く詩人と音樂家のやうににんげんを生きるかどうかの話でせう。

 

にんげんを生きるかどうか?

わざわざ生きなくてもみんな人間じゃなひですか、事實かうして元々其の人間だ。

 

 

『人間はねぇ 自分よりも人のほうがよくなると おもしろくねんだなぁ 人間のわたし』

『慾望かぎりなし 迷いかぎりなし 人間のわたし』

 

だって悪ひ部分もまたにんげんなのだもの。

だからそんな人間を生きるのじゃ無くほんたうの人間を生きて行かねばならぬのだ、其れもより本来的には。

 

『善悪、大小、かねの有る無し、社会的な地位の上下などという、人間の作った相対的な価値観を一切やめてみることです 』

 

なる程、まさに其れが相対分別のなせる業と云ふことなのでせう。

まさに其れを止めれば自由となれる訳だ。

但し善悪規定に関しては熟慮しなければならなひ。

 

急迫した問題を常に抱へる人間には善悪規定が場合により必要となると云ふことだ。

 

 

『アノネ 人間にとって一番大事なものはなにか? そこを原点として考えてゆけば』

 

人間にとって一番大事なものは進歩でも無く大金なのでも無ひ。

かうして進歩し大金を攫んだとさう思ってる人間程愚かな者は無ひ。

 

だが人間にとり其の愚かさが問題となるのは常に社会のあり方としての今なのだ。

まさに其れは社会が自爆するやうでは此の文明の命運も尽きて居ると云ふことなのだ。

 

で、此の際是非提案したひのだが、アノ🐵の総理にはもう辞めて貰ったらどうだらうか。

其れと🐊はもう引退した方が良ひに決まってることだらう。

 

ところで慎太郎氏の息子の方は一体どうなったのだらうか?

それにつけても何やら政治家が皆動物に見へて仕方が無ひ此の一年だったな。

 

 

ベートーヴェンを聴こう! -生誕250年記念サイトー

かうしてベートーヴェンが此の世に生を受けてからはや250年が経過致しました。

 

「酒癖の悪さで有名」で 「スパルタかつ横暴な父」

「創作は自身の意志(もちろん注文もあったが)で行い、自ら0p.=作品番号を記した史上初の大作曲家」

「身長160cm足らず(157cmとも165cm前後ともいわれる)で、情熱的かつ短気でせっかちな性格」ベートーヴェンの人生を知るエピソードより

 

そんなチビは👩にはモテぬ。

だから藝術へと羽搏くしか無ひのだ!

 

「部屋は散らかり放題で、作曲中に奇声を発し、入浴による水漏れで階下の住民から苦情が相次ぐ」

「服装にも無頓着で、浮浪者と間違われて逮捕されたこともある」 ベートーヴェンの人生を知るエピソードより

 

かの宮澤 賢治なども「ほーひ」だとか奇声を突如発して居たのださうな。

只宮澤 賢治はベートーヴェンの樂曲のファンでベートーヴェン風の恰好を真似て写真を撮って居たりも致しました。

 

其の服装に無頓着なのはまさに天才の証拠でせう。

さうして浮浪者と藝術家は意外と近しひ関係にあるもので、従って藝術家とは半分浮浪者だとさう思って置く方が藝術を理解する為の一助となるだらう筈です。

 

ちなみにわたくしもまた服装にはまるで無頓着です。-其れでも残念ながら天才では無ひ=三文ラヒターなのですが-

 

「コーヒーとお酒が大好きで、ビールを飲みながら煙草を吸うのが楽しみだったというし、コーヒーは豆の数が常に60粒でなければダメというこだわりよう」ベートーヴェンの人生を知るエピソードより

 

其の豆の数へのコダワリこそがまさに変でせう。

 

「かつてベートーヴェンは醜男でモテないため生涯独身だったといわれていたが、今は顔もそこそこで天才ゆえにかなりモテたとみられている。しかし恋する相手が概ね貴族など名家の娘や夫人だったため結婚には至らなかったようだ」ベートーヴェンの人生を知るエピソードより

 

いや彼はかうしてモテても居た!

其れに「テレーゼの為に」も結局はラヴレターのやうなものだったとされても居る。

 

だが天才の愛は何故か壊れる、其れも必ずやかうして壊れて仕舞ふのだ。

其処を逆に言ふと成就する愛とは大抵が俗物のものだ。

 

さて其の「不滅の恋人」の映画を昔観に行ったものだった。

 

不滅の恋/ベートーヴェン [DVD]

確か此れなのだと思ふ。

出来れば此れのDVDが是非欲しひところだ。

 

また当時の映画のパンフレットも探せば何処かにある筈だ。

 

だが藝術家は其の作品だけが全てなのでもまたある。

ベートーヴェンの後期ソナタこそがまさに其の完璧な藝術作品其のものなのだ。