尚獣は居る。
世に獣は居る
まずは貴方方が其の獣である。
尤もアナタが獣で、我も獣。
所詮は人間とは獣なのだ。
だが其の獣であることが即悪ひ訳なのでは無ひ。
人間が其の自らの獣を認識出来ぬが故に其れが罪となる。
或は煩悩に対しさうして抽象的に捉へられる様。
まさに其の様こそがまさに罪深く且つ法をなひがしろにする行ひなのだ。
だが君等は己の力で其の様を見ることが出来ぬ。
さうして欲望の網に捉へられ其れを見詰めるべく用意されし清き心根を失って居る。
嗚呼、まさに失って居る。
わたくしは其のことが哀しひ。
さうだ、ずっと哀しかったのだ。
わたくしの生は其の悲しみをこそ生きて来ざるを得なかった。
なのにみんなはわたくしを似非詩人だとしてバカにする。
かうして高度な観念の世界に折角生きて居るのに決まってみんなはおまへはルンペンだとさう仰る。
さうだ、まさに其のルンペンにして神の叡智、佛の智慧に近づかんとする者ぞ。
第一此処でもう七百もの記事を書ひて来てるぞ。
しかも其の前の「図書談話室」でも千にも近ひ記事を書ひて来た筈だ。
コレはもう明らかにプロの作家として認められてしかるべき既成の事實だ。
おまへら獣が幾らわたくしの此の才能をさうして小バカにしやうと、我は何処までも其の作家の園へ向かひ飛翔して行くのだ。
『作家の園』?
其れは一体何のことだ?
其れは文人が死んでから入る文士の苑のことだ。
無論のこと其処にはかの芥川を筆頭として、太宰、安吾、三島、川端など錚々たる顔ぶれの日本の文學者が名を連ね現象しておる。
其処でもって再生されて居るのか?
さうだ、再生されておる。
おおまさにエメラルドの力でもって其のやうに再生されたのだ。
しかし其れはキリスト教で云ふ天國や佛教で云ふ所謂涅槃の境地とは違ふもののやうだな。
さうよ、其れはあくまで文人にとっての死後の世界なのさ。
おまへも死後其処へ行くのか?
いや實は死後其処へ行けることを願って居るばかりなのだ。
情けなひ奴だなあ。
むしろ堂々と其処へ行ったらどうだ?
オレはもう大作家様、大詩人様だぞとさう吠へつつ其処へ行って来ひ!
いやでも何せ実績がありませんもので。
何せかうしてネット上に駄文が載って居るばかりですので。
其れに出版業界が興味を示して呉れた兆候などもまるで御座りません。
さうだらうなあ、其れも毎回毎回「ウンコたれ」だの「馬鹿」だの「阿呆」だの「地獄へ堕ちよ」だのソレばかりでは幾ら何でも其れではなんぞ書ひて呉れとかそんなオファーが来る訳は無ひよね。
へひ。
兎に角其のことが恥ずかしゅう御座ります。
さてもおまへの駄文は三流週刊誌とかそんなのに或は向いて居るのやもしれぬな。
そんな三流週刊誌のラヒターとして書ひてみるつもりは無ひか?
其れはイヤで御座ります。
何せじぶんは純文學作家であり純粋無垢なる詩人ですのでそんなエロとかグロとか汚物まみれだとかそんなこととは一切関はりが御座りません。
悲しひ哉わたくしは其のやうに藝術至上主義者であり且つ壱修行者であり今まさに眞理を求め歩む者です。
ほう、さうして眞理を求め歩む者が毎回毎回「ウンコたれ」だの「馬鹿」だの「阿呆」だの「地獄へ堕ちよ」だのソレばかり言って居るものなのかなあ。
何だか違ふやうな気もするのだが其処はどうなのだらう?
確かに違ふのかもしれません。
でもハッキリ申しますと、単にさう言ひたひから言ってるだけのことだ。
それじゃあまるで獣と同じじゃなひですか。
さうか正体が分かったぞ!
おまへはまさに其の獣だな!
良くぞ我の正体を見破ったな!
我こそが其の獣である。
「人間が其の自らの獣を認識出来ぬが故に其れが罪となる。」
さうして誰もが其の獣としての生を生きて御座る。
わたくしはこれまでに様々なそんな獣としての人間の生き様に接して参りました。
わたくしは元来人間嫌ひでもって静かなる性分の人間です。
いつも山の中の湖畔に佇み其処に生じる微細な変化を眺めて居たひやうな人間だ。
そんな静けさに満ちたルドンの絵画や人間の苦悩と向き合ふベートーヴェンのピアノ・ソナタをこよなく愛する人間なのだ。
なので其の獣としての生を何よりも嫌った。
まさに獣臭ひ他人の生が放つ悪臭に我慢がならなかった!!
おお其れは如何にも御趣味が高ひ!
趣味が孤高でもって何だか恰好良ひではなひか。
其れも我我みたく👩の尻を追ふ訳でも無く。
いやこんなに趣味性が高ひとな、實は苦しひのだ。
つまるところ藝術とはな、其の中に入ると至極苦しひものなのだ。
なる程、藝術はいつも苦しひのか、其れもオヒラみたく獣のやうな人間を相手にしてれば余計に苦しくなるんだらうな。
いや、全然。
だっておまへは所詮は二元分裂した我に過ぎぬではなひか。
ほんたうに苦しひのはな、嗚呼まさに他人の獣性を目の当たりにする時だ。
さうだ、わたくしが苦しむのは他が己とは異なり「ものが分かって居なひ」と云ふ状態にこそあらう。
で、其の獣性が酷ひ人間とさうでは無ひー獣性がより少なひー人とがある。
おそらくは獣性がより少なひ人々の場合には相互理解が可能なのかとも思ふ。
でも獣性がより少なひ人々はとても少なくまずとりあへずは周りには見当たらぬ訳だ。
ルドンやべートーヴェンは、またカントやショーペンハウアーは獣性がより少なひ人々であった可能性がまた高くあらう。
また芥川や漱石、また太宰や安吾に三島もまた獣性がより少なひ人々であった可能性がまた高くあらう。
さらに道元も日蓮も親鸞も良寛さんも、さらにおお西行もかの西行もまた獣性がより少なひ人々であった可能性が高くあらう。
わたくしが今最も苦しむ時とは、身近な人々の中に其の獣性をしかと見せつけられし時だ。
友や👪、また親戚の心の中に其の獣性の醜さをしかと見せつけられし時だ。
おそらく詩人さんは感度が高過ぎ心が傷付き易過ぎるのだ。
何故なら我我は普通そんなことでは悩まなひ。
我我は大抵の場合が食って寝てまた👩の尻を追っかけ其れでもって毎日が元気だ。
うはあ、凄ひ性活力だな。
あ、違った。
生活力だな。
ところで君等は何故其処までウンコたれなのだ?
またぞろ詩人さんの病気が始まったぞ。
俺等をウンコたれ=獣だとさう規定しじぶんは藝術のまた観念の高みでまさに文人気取りで高見の見物だ。
おまけに我は「文人の園」へ生まれ変はるのだとさう仰る。
結局は自分だけが特別だとさう思って居るな?
自分は佛又は神に近くあるがおまへらは「ウンコたれ」でもって「馬鹿」で「阿呆」なので「地獄へ堕ちよ」とさう云ふことなのだな。
いや、ちょっと違ふな。
でも半分はまさにさうだな。
だから其れが多分じぶんの病気なのだらう。
で、以上のことは前回とは批判の対象が異なることに読者の方々はお気付きだらうか?
前回は科学と云ふ社会的な罪に就ひて批判を行った訳だが今回は人間の内面のあり方其のものに就き批判して居る訳だ。
人間には獣性がしかとあり、しかも其れが常に利己心を形成して居る。
其の利己心は何より醜ひ。
されどまた其れを制御し切れぬ。
何故か?
自分もまた所詮は其の利己心の奴隷であるからなのだ。
極端な話、生存ー現象ーとは其の利己心の継続のことだ。
生きることはまた食べること、子をなすことは其の利己心の成せるわざ其のもののことだ。
何故なら我我は飯を食ふが、其の飯は多くの死により成り立たされて居ることである。
たとへば御飯、コレは米ー植物ーの死により引き起こされた現象のことだ。
またたとへば肉に魚、其れもまた動物の死により引き起こされた現象のことだ。
だから我我は死を糧として日々を過ごして居るのだ。
そんな数限り無き死により自らの生を支へて行かざるを得ぬ。
其れ即ちまさに其れが矛盾なのだ。
其の矛盾に充ちた生を厭ふ気持ちと続けたひ気持ちとがある。
厭ふ気持ちが理性であり、続けたひ気持ちが獣性だらう。
理性⇔獣性
だが其の厭ふ気持ちとしての理性を見つけ出すことは容易では無ひ。
一言で言へば其れは「生を厭ふ」気持ちのことだ。
其れはごく限られた範囲での理性としての性質のことだ。
どだひ多神教にはむしろ生を継続させたひ、即ち此の侭生を永遠に続けたひと願ふ願望が強く存して居る。
其れ即ち生を善きもの、望ましきものと捉へる現世利益的な価値観のことだ。
だがジャイナ教や初期の佛教、またキリスト教やグノーシス主義、マニ教などには其の現世利益的な価値観が欠けて居ることかと思ふ。
尤もグノーシス主義は其の現世への不執着故にむしろ滅び去ることとなった。
ー西方グノーシス主義は哲学的・思想的であり、信徒には高い知性を持つ者や、中流階級の者が多数属した。
高潔な理想を説き、自らも禁欲を守り、生殖を避けた結果、西方グノーシス主義は外部要因(キリスト教のローマ帝国での国教化等)以外に、内部の思想原理からしても、永続し得ず、4世紀から5世紀頃には、その宗派は消えてしまった。ーグノーシス主義より
わたくしの考へ方は此の西方グノーシス主義による反宇宙的二元論と結果的に似通った部分がまたあるやうだ。
また其れは其処から影響を受けたと云ふ訳では無く長年に亘る思想的遍歴の末にさうなって仕舞ったものだと言ふことが出来る。
但し其れは滅ぶ訳だ。
純粋なものはかくして滅ぶ。
ー2つの信徒階級を定めた結果、救済宗教として広く一般の人が入信することとなり、西方グノーシス主義の知的エリート主義を乗り越えることができた。
生殖も一般信徒は可能であったので、宗教として永続し、マニ教は15世紀まで、マンダ教は、二千年の時を経過して、現在も存続している。ーグノーシス主義より
つまりは不純化、要するに獣化せぬと思想として存続することが許されぬものだ。
要するに矛盾まみれ、汚物まみれになりようやく思想は長きに亘り其の命脈を保つことが可能となる。
生殖=汚物ー下の欲望ーまみれ
食欲=汚物ー死ーまみれ
生存=汚物ー矛盾ーまみれ
近代=汚物まみれのもののさらなる汚物まみれ
なのだ。
近代の其の弐重の汚物まみれの様につきわたくしは此処五年程書ひて来た訳で、兎に角そんな基本的スタンスなので世界ー社会ーを馬鹿だの阿呆だの、またウンコたれだのションベン野郎だのと貶しもう滅茶苦茶だが其れはわたくしにとってのまさに「正しひ」言ひ方でありむしろ眞理に忠実な表現だったのさ。
「生を厭ふ」⇔「生を言祝ぐ」
いずれにせよわたくしは素直に生を喜ぶやうな気にはなれぬ。
また其れは生まれ持った性質であり直したり変へたりすべきものには非ず。
生まれ持った性質とは神からさう授かった性質であり元より其れを加工すべきものでは無ひ。
「前向きに生きやう」
「努力しやう」
「希望を持とう」
つまりは明るく前向きに生きていきませう。
と、学校ではさう皆教はりませうが實は其れが間違って居る可能性が可成に高ひ。
正しくは。
「後ろを振り返りつつ前へ進もう」
「努力する位なら放棄しよう」
「希望を持つ位なら絶望しよう」
つまりは暗ーく後ろ向きにつまりは控へめに生きることこそがむしろ人間にとり一番大事なことだ。
そんな訳で学校の先生方による近代的教育の内容を此の度全否定させて頂きました。
まあ近代否定もやり過ぎますと結局は自分を壊すことにもなりませうから余りやり過ぎぬ方が良ひことかとは存ずるがわたくしの場合は何故かやっちまひましたとさ。
さて問題は其の近代による獣、近代の獣による世界の破壊のことだ。
みんなは世界の破壊が何か偶発的にたまたま起こされて居るかのやうに思って居ることだらう。
でも其れはさうでは無ひのだ。
さう全ての破壊は必然的にさう齎されて居るものだ。
人間の社会的営為により必然的に齎されて居るものなのだ。
じゃあ人間の行ひがそも悪ひの?
さうだ、人間こそが悪だ、👿だ、其れも無明の底のウンコたれ共よ。
詩人さん、此の際詩人さんは書く内容のスタイルを変へて何かもっとかう、みんなを楽しくさせるやうなことを書ひては頂けぬものでせうか。
其れも毎回毎回かうして近代社会の営為を全否定なさるものですからもはや其の批判には麻痺して仕舞ひ読者の方々にせよアアまた始まったな位にしか思はれて居らず要するに其れでは人類の精神を変革に導くことなどは不可能です。
であるか。
さもありなん。
さても其の近代の獣とは何ぞや?
ーグノーシスとは、「知識」、「認識」などを意味するギリシヤ語です。グノーシス主義は、人間はある「霊知」(グノーシス)を持つことによって救済されると教えました。そしてその「霊知」をもたらすのがキリストだというのです。ーグノーシス主義より
其の「霊知」を齎すのがキリストであれ仏陀であれわたくしは構はぬとさうも思って居ります。
単に知識の集積でもってたましひの「覚醒」は成りませぬが智恵に至る其の道筋の一つとしての知識又は思考は大切だとわたくしは考へて居る。
むしろ「認識」が曇るのは人間が欲望に応じて動き過ぎ其れ自体に捉へられて仕舞ふからだ。
つまるところやるよりはやらぬ方がまだしも良ひ。
近現代としての不幸こそが其のやり過ぎたことにより齎される不幸である。
ーグノーシス主義は、徹底した霊肉二元論の立場を取りました。そして、霊は純粋で神秘なもの、肉(物質)は罪悪性を持ち堕落したものであるとしました。このような立場に立つグノーシス主義は、聖書の創造論とは真っ向からぶつかるものでした。グノーシス主義によれば、世界を創造したのは絶対者としての神ではなく、より下級の造物者であり、そのため物質界は罪悪性を持っているとされました。また、人間が罪ある者である理由は、肉体を持っているからであるとも教えられました。ーグノーシス主義より
實際に物質に拘り過ぎると堕落致します。
物質に拘る場合には厳しく拘る分野を限定ししかもいつでも其れ等を捨て去る覚悟でもって所有すべきだ。
但しわたくしの場合には人間の肉体が罪であるとは捉へずー其れは神による被造物であるが故にー人間の観念の癖ー抽象的観念の部分ーが罪であるとさう捉へて居る。
また自然には罪が無く人間には罪が生ずるとさう捉へて居る。
故に自然には救ひー宗教ーは要らぬが必然として人間には宗教的な次元が必要となる。
自然其れ自体には罪が無ひが元々其れは諸行非常にて変化を余儀なくされるものだ。
変化は必ずしも常住を選び取る訳では無く其の逆に断滅に至ることも同じやうに有り得る。
自然の場合には罪で滅ぶのでは無く謂はば自然の営みにて滅ぶ。
なのでそんなのは人間の抱へる問題とはまた別問題のことだ。
人間の抱へる根本での問題がより顕在化した形で示されて居るのがまさに近現代と云ふ時代であり世紀である。
故に其の近現代と云ふ時代であり世紀とは人間其のものが其処に問はれて居るものなのだ。
ところが近現代に洗脳されもはやパッパラパーのみんなには全然其のことに気付けなひ。
ズバリ申せばまさに其れこそがわたくしの抱える悩みのほとんどの部分なのだ。
ーグノーシス主義は、肉体のみを罪悪視したため、内面にある罪の問題を考えることができませんでした。その教えは、禁欲的、戒律的なものとなると同時に、霊の神秘性を強調したために密儀宗教の性質を持つようにもなりました。これは、福音とは全く異質の教えです。ーグノーシス主義より
でも禁欲的であり戒律的なものが一概に悪ひともまた申せません。
禁欲的であり戒律的なものは社会的な欲望の暴走に対し効力を持つとわたくしはさう考へる。
左様に問題は個では無く常に社会の側にある。
何故なら個の欲望は限定されざるを得ぬものだが社会の欲望は其の限度が得られ難ひ。
逆に言へば個の暴走でもって世界が破壊されることはまず無ひが社会の暴走でもって世界が破壊されることは往往にしてあり得やう。
また個を規定するものが實は社会なのだ。
故に社会がキチンと機能して居なひ限り個の幸せなど其処に望むべくも無ひ。
社会は大きくさうして強ひーしぶとひーので個としての人間は普通社会のやり方に従はざるを得なひ。
何せ社会は大きひので其の罪を指摘することはまさに至難の技だ。
ーグノーシス主義は、地上の生の悲惨さは、この宇宙が「悪の宇宙」であるが故と考えた。
現象的に率直に、真摯に、迷妄や希望的観測を排して世界を眺める時、この宇宙はまさに「善の宇宙」ではなく「悪の宇宙」に他ならないと考えた。
これがグノーシス主義の「反宇宙論」である。ーグノーシス主義より
グノーシス主義は社会ー宇宙ーの側を攻撃することで此の世界が抱へる悲惨さを何とかしやうとしたのでは無かったか。
つまりは性善説では無く性悪説を取り自ら反省を図ったのだと言へる。
古代の思想にはかの荀子によるー社会ー性悪説のやうに社会を糾弾する要するにデカひものを否定的に見詰める思想がまた出て来やう。
かってわたくしは此処でも荀子の思想を論じて居るが其れは大元ではわたくしの考へ方に近ひものである。
ー人の欲望は自然のままに放置すると社会を破滅させてしまう,ゆえに人の欲望は悪であり,これを礼によって整え,社会的秩序を維持せねばならないという。ー性悪説より
ー《荀子》の〈性悪篇〉には〈人の性は悪なり,その善なる者は偽なり〉と説く。偽とは,作為のことで,後天的努力をいう。人は無限の欲望をもち,放任しておけば他人の欲望と衝突して争いを起こし,社会は混乱におちいるであろう。放任しておくと悪にむかう人の性,それは悪といわざるをえない。性の悪なる人間を善に導くためには,作為によって規制しなければならない。ー 性悪説より
ー戦国の乱世に生きた実感から,人間は生まれつき利己的欲望のかたまりであり,そのままでは善ではありえないが,君主の定める礼法に従うことによって善となると説いた。ー性悪説より
ー…これは同じ儒家の孟子の性善説と正面から対立するものである。同時に,その性悪説の結果として,内発的な徳よりも,外部から人間を規制する人為的な礼に重点を移すことになった。荀子の門下から出たとされる法家の韓非子は,礼が刑罰の裏づけを欠いているのにあきたらず,礼よりもさらに強い拘束力をもつ法による政治を強調した。…ー性悪説より
そんな荀子の思想は可成に進んで居ると申しますかむしろ近代思想に近ひものだらう。
其れはカントの理性による道徳的実践、道徳的選択による近代社会の規定と内容的にも被って来るものだ。
事實として人間は利己欲の塊で特に社会性が付与された場合に其の傾向が増加して来る。
其れはさうした原理なのであるから感情論や人間に対する信仰ではとても制御出来ぬ問題なのだ。
問題はまさにさうした人間の抱へる獣性は容易に暴れ出すと云ふことなのだ。
かの中國の春秋戦國の時代にもまさにそんな獣性の暴れ方が或は社会的に達成されて居たのやもしれぬ。
そんな獣共にはまさに性悪説を説き礼法に従はせる他は無ひ。
でもって近代が法治國家となったのも實は其の法規に従はせると云ふ強制力であり拘束力を重視した為であった。
何故なら近代とは國家をよりデカくして行く営為其のものでもあった訳だ。
近代はそんな風に國家をさうして人間をよりデカくして行った。
するとデカくなればなる程に無法者も増へることとなる。
そんなんではまるで秩序を保てなくなるが故に法秩序にて人間を縛る以外には無ひ。
尤もカントは理性に於ける性善説を其処で採った訳なのだった。
理性は限度さへ与へれば自らを規定するに足る力を持つとさう判断した。
だが其のカントの人間に対する評価は若干のところ甘かったのやもしれぬ。
またカントは世界政府の樹立を理想として見て居たやうだが其の考へも若干の処甘く謂はば理想論に傾き過ぎて居た。
カントは少なくとも人間の理性を信じることと同時に人間の社会を信じて居たのではなかったか。
まあわたくしの場合には少なくとも社会もまた人間も信じては居なひ訳だが信じたひとかねがね感じて居るのは人間の心には何がしかの温かみもまたあると云ふ部分である。
ですが社会的には矢張りと云ふべきかダメでせう。
其れは何故か?
社会とは抽象的に構築される利害関係の領域なのだからこそ。
其の抽象性が何より問題を齎すとわたくしはさう判断する。
抽象的に構築される利害関係の領域にはおそらく全ての人間を満足させるに足る余地など無ひ筈だ。
かくして社会を信じては居なひわたくしにはグノーシス主義による「反宇宙的な二元論」がピンと来る訳だ。
なのではあるが別にグノーシス主義だのマニ教だのを信奉して居る訳では元より無ひ。
かうしてわたくしは自我が強ひ人間なので常に自分の思想を創り込んで行って仕舞ふ。