目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

現世利益化することなど適はぬ不老不死ーディストピアにつき考へる 壱ー

 

其のそも変革出来ぬ社会をどう変革して行けば良ひのか?

さう哲學的には滅びへと至る其の社会を一体どう変へて行けば良ひのか?

 

まさに其のことを人文理性の立場より考へて行かうとしたのが此のブログの内容である。

 

 

其の変革の形にも様々があらうが、

1.批判ー合法的批判ー

2.批判ー非合法的批判ー

3.内部からの批判

4.無視

 

と云ふ種別がまずは考へられやう。

 

で、わたくし自身の立場はむしろ4.に元々近ひ訳だ。

 

むしろ幼稚園児位の頃からさうで、實は社会を斜に構へ見る癖がありでもってしてみんなと一緒に御遊戯など金輪際したくなかったのだ。

 

でも小學生の頃にはむしろドップリと社会に投げ込まれて居り学校の先生からは「変はり者」として目を付けられて居たのだったが其の反面みんなを笑はせる芸の才があり實はクラスの人気者だったのだった。

 

わたくしはそんな両極人間なので元々なかなか理解し難ひ人間だ。

 

自分でも?

さう自分でも。

 

 

でも小学六年生からはそんなおちゃらけを止め優等生になったわたくしは結局御勉強が大好きとなり大學を出てからは塾にて社会科を教へつつ自ら學ぶやうにもなって行った。

 

何故塾の講師になったのだ?

 

結局は常なる社会が嫌ひだった。

 

其れもみんなが喜んで働ひて居るが其れが何だか洗脳のやうにさへ思へたからだ。

 

 

其れ程御勉強が好きなら大學へ残れば良かったのでは?

 

學部による限られた其の大學の御勉強とわたくしが御勉強して行きたひものとがまた違って居たのだ。

 

わたくしが學びたかったのはむしろ人文、社会科学とのしての全領域だった訳だ。

 

 

尚、此の「無視」の立場を貫く人々が此の世には古くから存在して居る。

 

社会との関はりを断ち一種高雅なる精神の世界に生きる文人墨客などがまさにさうなのだらう。

 

また道教の方ではまさに其れが一つの「仙境」として示されて来た訳だ。

 

自分で言ふのも何ですがわたくしは元々そちらの方での性質の強ひ人間なのだ。

 

 

ですがあくまで其れは昔の話で、とりあへずは一億総中流階級を達成した昭和の時代に許されるやうな形での「世逃げ」なのでは無ひ。

 

余程の金持ちの家ならば其れも可能なのだらうが、でも太宰にせよ芥川にせよ結局晩年は金にも困り追ひ詰められて行ったのだった。

 

左様に「世逃げ」すると金の方で追ひ詰められるものとさう相場は決まって居る。

 

 

但し一億総中流崩れをした平成からまさに破壊の時代令和に於ひては其の「世逃げ」もまたひとつの妥当な選択として認められて然るべきだらう。

 

何故なら社会の言ひなりになりやったら全部がブッ壊れました、と云ふまさにクソ矛盾社会なのでそんなもんはまさに赤信号をみんなで渡り余計に地球を壊していくだけのことだわひな。

 

なのでソコんとこを良く考へさらに意思決定を厳密に行ひ否定すべきところは否定し、また動物や妖怪の類が跋扈する社会の上部構造は此れを信じず、さらに自らが一体どのやうにして其の宇宙の肥溜めに落ちることから逃れるか、と云ふ其の一点のみに希望と云ふか願望と云ふか未来を設定しまさにさうして半分死につつヘロヘロとなりつつ生きて行かうではなひか。

 

 

 

其れでもあへて1.をやったのは、つまりは頭に来たからである。

 

わたくしは社会を見やうとして塾の先生を辞め其の社会へと乗り出して行った。

 

ところが其の實社會こそが馬鹿の巣窟であった。

 

實はそんなかっての塾だの学校だの公務員の世界だのがパラダヒスだったのだった。

 

強欲なる資本主義による實社會は左様に甘くはなかった。

 

だから其れは元元分かってる。

 

 

さうして資本主義は何でもやり過ぎて仕舞ふ。

 

資本主義は結局かのマルクスが言ったやうに儲け主義と云ふ利己的な欲望の為に自己崩壊して行かざるを得ぬ。

 

でもほんたうの馬鹿とはむしろ其の資本主義では無ひ。

 

まさに其れが我が國に於ひて伝統的価値と其の資本主義が結託して居る様のことなのだ。

 

 

まさに其れが矛盾的推進となってる。

いや、其ればかりでは無く矛盾的國家ともなってる。

 

國自体が矛盾するのでコレはもう明らかに絶望的だ。

だからこそ三島 由紀夫は自決するに及んだのだ。

 

其れでもってノーベル文學賞受賞者としての川端の爺ちゃんもまた絶望しちゃった。

 

つまりは其処にて文學の使命は一旦終はりを遂げたのだった。

 

昔の文學者はかやうにクソ眞面目だった。

 

 

でも今の知識人は眞面目でも何でも無く其のほぼ全員が利己主義だらう。

 

實は宗教家でさへもが其のほぼ全員が利己主義だらう。

 

わたくしのやうに生涯無一物としての潔癖の徒など他には居なひ。

 

 

今また威張ったな?

 

威張ってません。

 

事實かうして無一物です。

 

 

ウソこくな。

 

おまへの持ってる沢山の石、其れに万年筆、さらに余分な知識、おお其れも下らぬ知識ばかりが。

 

其れを使ひ社会をイジメ喜んでる其のさもしひ心。

 

アア汚へ、アア臭へ、アア👿っぽひ。

 

 

おまへはかの実践倫理宏正会の人々を見習ふべきだらう。

 

其れもこんな朝も早うから早起き会へと出向きおおまさに喜んで日々働かうとして居なさるではなひか。

 

學會の人達でも夜遅くまで勤行、唱題し自民党のやり方に一石を投じやうとして居なさるのだ。

 

確かに學會は日蓮正宗からは破門されたが結局の処そんなの関係なひぞ。

 

 

即ち今やるか、やらぬか、だ。

 

でもおまへは逃げばかりではなひか、其の逃げ。

 

わたくしはあの男とは違ひ今やるのでは無くまさに今逃げるのです。

 

アノ東大を出た現代文の講師でもある👨、エーッと誰だったかな、さうアノ林修だった。

 

 

うへえ、コヒツ意外と齢ですよ。

 

何と55歳だ。

 

と云ふことはわたくしとはたったの6歳しか違ひませんよ。

 

 

名古屋人なのに巨人ファン。ーアホか?

 

イチローに対し批判的。ー同じくさう、何せ金を持ち過ぎてるので。

 

東区在住。-東区はね、兎に角エエトコですよ。

 

尾張藩武家屋敷だったところで全体的に印象としては高級且つ高雅なところです。

 

わたくしはかって東区にはまるで縁が無かったが何故か最近は東区ばかりへ行って居ります。

 

 

 

其の「合法的批判」にはわたくし共のやうな個人的批判、また社説のやうに組織的に出される批判、さらに日本共産党による政府の政策への批判などがありませう。

また學者による批判なども結構しつこひものです。

 

非合法的批判には邪教又は過激な宗教原理主義によるテロ活動やまた良くは存じませんが秘儀的秘教的なイデオロギー団体、また👿主義の団体などが其処に含まれて居ることだらう。

 

「内部からの批判」はわたくしが今最も注目して居るもので、先に申しましたが如くに政権与党の一角としての公明党が今まさに其れを行って居る訳なのですし、🐻石破や頭の良ひ彼河野などの流れが或は其れに当たるのやもしれません。

 

要するに馬鹿を根絶せしめることが批判の目的ですが批判すると其れなりに労力が居ると申しますか神経をすり減らさねばなりませんのでもう其れ自体が面倒臭ひ訳です。

 

 

で、實はインテリは常に「世捨て」を選択することもまた可能である、と云ふことを述べておる訳です。

 

なのですが、三島先生もまた川端先生も「世捨て」を選択することなどはとても出来ぬ立場へと社会的に追ひ込まれて居たのです。

 

なのでもう腹を切るか其れともガス管を咥へるかと云ふ選択しか事實上無かったのです。

 

嗚呼、何と哀しひ結末でせう。

 

 

三島先生もまた川端先生もまた左様に山の中にて野垂れ死ぬことが出来なんだのです。

其処を逆に申しますれば山の中にて野垂れ死ぬことこそがサヒコーの死に方なのではありますまひか。

 

三島先生もまた川端先生もまた我が國の「伝統」と云ふことを大切に捉へられて居たのではなかったか。

 

 

ですが、「伝統」と云ふものはまた容易に「伝統」としての形式に堕するものなのでもまたある。

 

「伝統」にせよ「保守」=保持にせよ實はさうして容易に自己矛盾し自己崩壊し易ひものなのです。

 

 

物事が良く分って居ると云ふことは、其の現實としての崩壊への足音、其のひたひたと迫り来る矛盾的破壊の予兆に対し敏感であり且つ其れを許さぬ気概を常に保つ事だ。

 

「伝統」や「保守」としての立場は価値ヒエラルキーを堅固に組み上げて行く。

 

まさに其れが権威主義や特権意識の温床ともなりませう。

 

其の権威主義や特権意識こそが實は醜ひものです。

 

 

また其れは政治の世界ばかりでは無く其れこそ警察や自衛隊や地方公務員の世界、またわたくしが知る範囲での文化的制度の部分に関してもまさに其れが該当致します。

 

どだひ茶道や華道の家元の世界、また踊りや能狂言などの伝統芸能の世界などがまさしく其れに該当する世界でもまたある訳だ。

 

 

まあ正直に申しますれば天皇制や王室なども或いは其処に含まれるのやもしれぬ。

 

其のヒエラルキー化した価値の構築の世界には常に危機が孕まれて居ます。

 

故にか事實としての伝統的価値の崩壊が危惧されてすでに久しひ訳だ。

 

 

要するに「伝統」や「保守」であることに胡坐をかき威張ってなど居てはなりませぬ。

 

「伝統」や「保守」であることを守ることは並大抵のことではありません。

 

何故なら近代其れ自体が変革を旨として成立する社会なのだからこそ。

 

さうして近代とは絶へ間無き進歩を我我に要求して止まぬ時代です。

 

 

其れも我我自身が其れを欲するのでは無くさう欲して居る社会が我我に対し進歩による便益を常に提供する時代なのです。

 

ところで近代ー近現代ーを規定する曲があることを皆様は御存じでせうか?

 

わたくしが思ふところでの近代ー近現代ーを規定する曲

Beethoven: Symphony No. 7, Furtwängler & VPO (1950) ベートーヴェン 交響曲第7番 フルトヴェングラー

 

即ち其れがベートーヴェン 交響曲第7番の第二楽章ーAllegrettoーです。

 

個人的に近現代の矛盾に就き思ひ悩む時には屡此の曲を聴き心を慰められても居ます。

 

ある意味ではまさに悲壮感が漂ふ曲であります。

 

みんなには悲壮感など何処にも漂って居なひのかもしれませぬがわたくしの場合には幼稚園児の頃からかうして漂って居りました。

 

 

かうしてわたくしには常に人間の社会其れ自体が危うひものとして認識されて来ました。

 

だからみんなにとってはまさに今始まったばかりのこととして其れが認識されるのやもしれぬがわたくしにとって其れはもうずっと以前からの出来事だったのです。

 

 

で、以前にも詳しく述べて居ますがSFの名作映画である『未来惑星ザルドス』に此の曲が使われて居ります。

1974年の公開当時わたくしは此の映画の存在を知りませんでしたが、後にー高校生の頃か?ーTVにて初めて視聴した覚へがありますが当時はまるでもって訳の分からぬ映画でした。

 

要するに難解なSF映画でした。

ですが、まさに一級に優れた作品でした。

 

また此の映画にてベートーヴェン交響曲を初めて聴ひた訳なのでもあった。

 

映画に描かれた未来の地球の様は其のベートーヴェン 交響曲第7番の第二楽章ーAllegrettoー其のもののやうに悲壮感が漂ふものでした。

 

ー2293年の未来、人類は不老不死の「エターナル(Eternals)」と死のある「獣人(Brutals)」に分かれ、エターナルはボルテックスという土地に住み、獣人は荒廃した土地でエターナルのために食料を生産していた。二つの世界は見えない力学的なバリアによって隔離され、ザルドス(Zardoz)という名の、人の頭部を模した空飛ぶ石像のみが往来可能であり、ザルドスは穀物を受け取る代わりに獣人の中から選んだエクスターミネーターという殺し屋集団に武器を渡していた。ー未来惑星ザルドスより

ー本のストーリーを理解したゼッドに、今まで絶対的な神と崇めていたザルドスが作り物の偽者ではないかとの疑念が芽生える。ゼッドはこれを確かめるために、仲間と謀ってボルテックスに侵入し、裏切り行為が明らかになった場合は復讐しようと企てていたのだった。また尋問の過程で、ゼッドは生きることに退屈したアーサー・フレインによって、エターナルに「死」を復活させるために、(遺伝子操作などによって)創造された存在であることが明らかになる。ー 未来惑星ザルドスより

 

ーエターナルたちは、ゼッドに今まで人類が蓄積した全ての知識を移植し、ゼッドはタバナクルの正体に気づく。解放者としての使命を自覚したゼッドは、仲間のエクスターミネーターたちを呼び込むためにタバナクルを破壊し、これによってボルテックスのバリアは消失し、ザルドスも墜落する。ゼッドとエクスターミネーターたちは殺戮を行い、ボルテックスを地獄絵図に変えるが、エターナルたちはむしろそれを喜んで受け入れて滅びていく。

ゼッドはコンスエラを連れて落ち延び、墜落したザルドスの残骸の中に2人で隠れ住み、子供を産み、育て、老いて死に、骨となり、最後はその骨も消えて、錆びた拳銃と2つの手形が映るシーンで終わる。ー 未来惑星ザルドスより

 

此の映画はまさに人間にとっての幸福とは何か、また眞の意味での獣とは何かと云ふことを問ひかけて居るのだと思ふ。

今以上に進歩した人間はやがて不死の世界を此の現世に實現させて行くのであらう。

 

だが其の不老不死の世界とは畢竟人為による加工が行き着ひた様なのだ。

ところが当の不老不死の人間達にとっては其の「死」こそが得ても得られぬ最大の幸福だった。

 

科学技術の行き着ひた様とはそんな一種の皮肉か又は逆説に刺し貫かれしものでもまたあった訳だ。

 

其の構図は然し現實の世界と何ら変はるものでは無ひ。

誰もがさうして現世での繁栄をさうして現世での不死を乞ひ願ひ日々を生きる。

 

さうして日々を頑張り自らを目一杯にして行くことをこそ乞ひ願ふ。

 

だが其んな価値への指向は誤った認識によるものだ。

 

未来惑星ザルドス

こちらでのレヴューを是非御覧頂きたひ。

此のやうに常に高評価が与へられて居るSF映画なのだ。

 

エッセー 「70年代を代表するディストピアSF大作 "未来惑星ザルドス"」

 

此のやうにつひ先日亡くなられたショーン・コネリー氏がまさに其の半裸の姿にて出て居られる。

 

ショーン・コネリー氏が演ずるゼッドは獣のやうに見へ獣では無ひ。

逆に現世に其の不老不死を築き上げた未来の科学者による「加工」こそが獣なのだ。

 

人類の知識の全てを得たゼッドは逆に限定された行動を選び一人の神人間の👩を愛し洞窟の中で共に死ぬるまで連れ添った。

 

かように人間の幸せとは逆に限定されし行動の中にこそあらう。

 

知識を蓄へ思考がより深くなるにつれかやうに人間の行動は慎み深くもならう。

 

逆に言へば常に行動が軽率な者、現世にて過分な利益を得やうともがく者こそが贋の理性の持ち主なのだ。

 

 

尚わたくしにとりショーン・コネリー氏はかの007を演じた俳優などでは無く未来惑星ザルドスにて彼が演じたゼッド其のものなのだ。

 

さうしていつかやがては死を遮断して行くことだらう人類。

 

神の御手を離れ人工の翼にて空を飛び自然のさうして宇宙の支配者とならうとする者達。

 

だが其の天駆ける馬の如き文明の勢ひも今や途切れがちだ。

 

 

どんな抽象的に築く夢も人間の肉体や心の限界を突き破れるものでは無ひ。

 

君等がどんなに持って居るとさうして叫んだにせよ大自然の摂理は君等自身の限度をまた指し示しても居やう。

 

 

さても以降文明はディストピア化して行くのでせうか?

 

おそらくはさうなる他無くなることでせう。

 

科学技術の進歩は其の破壊には間に合はぬ可能性がまた高ひ。

 

何故なら科学技術の進歩には大きく金がかかりませう。

 

 

だが其の大金を何処かから絞り出せるのかどうかが愈不安になりつつある。

 

其れどころかまともな生活すら出来なくなる虞もまたある。

 

矢張りと云ふべきか可能性としては社会での二極化が益々進むことだらう。

 

其れは貧乏と金持ちの二極化であること以上に気付ひた者ー目覚めた者ーと気付けぬ者ー目覚められぬ者ーとの二極化であるのやもしれなひ。

 

では貧乏でも清貧を貫けばまさに其れが心の進化なのでせうか?

 

 

おそらくはさうしたことでせう。

足るを知る、とはまさにさうしたことだ。

 

事實としてどんなに大金を握って居てもむしろこれからの時代には通用しなくもなりつつある。

社会が崩壊へ向かふやうでは其の大金もほとんど何の役にも立たぬことだらう。

 

と申しますか、そんな大金を持って居ても其れに応じたサーヴィスが次第に得られなくもならう。

 

だからむしろ重視すべきなのは身の回りの整理整頓と心の錬磨の方だらう。

 

其れも今コロナ籠りにて世に溢れることだらうマニアックな追求などは物質面ばかりでは無く是非心の方での探求に向けて行かれたし。