目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

養老語録より 弐

・変わっていくこと、それが学ぶということ。知るということです。自分が変わっていなかったら、何も学んでいないと思えばいい。

 

さうして知が人間の内面を変へて行くことは確かです。

ところが其の知こそが四元分離されて居りませう。

 

相対知ー理性ー⇔絶対知ー汎理性ー

其の相対知には文系と理系の違ひがあり其処での結論もまた違ふものです。

 

たとへば文學には答へなどありませんが数学には答へがあるのです。

理性にもかうして二元的対立の様があるのです。

 

其処は。

分別智⇔無分別智

などとも佛法上は表現されて居る。

 

またキリスト教での絶対の神の叡智などは其の無分別智の方でせう。

 

現象されると性質が二元化しさらに其れが二元化しまた何処までも分離されて行くことでせう。

でも人間の認識力には限りがあるので四元分離位までしか事實上分かりませぬ。

 

其の絶対知=無分別智=神佛の智慧は宗教的次元にて修行を重ねなければ我我には分かりません。

尤もソッチの方が得意な人は次第に其処へ引き寄せられて行くのだ。

 

然し社会に洗脳されし価値ヒエラルキーを生きて居るともはやさうしたものとは縁遠ひものともならう。

 

文學は自然科学とは異なり宗教的な次元に近しひものです。

或は絵画や音楽などの藝術表現の世界のものでもまたあり得る。

 

自然科学は畢竟合理主義なので何でも合理的に解釈しやがては神佛を殺して仕舞ひます。

其の神殺し、佛殺しは然し其処にとんでも無ひ罪障を生じ其の罪障により文明は地獄へと堕ちて行くのでありませう。

 

 

さう云ふことを考へられるやうになるのが學ぶと云ふことであり知ると云ふことです。

即ちテストで八十点以上を常に取ることと其れは違ふのだ。

 

人間が生きて居るうちに可能なこととは實は其の知力を磨くことのみです。

ですが、其の知力とは實は須らく四元宇宙のことなのだ。

 

 

かく言ふわたくしは、かうして長年に亘り知力を磨くことにて大きく変はりました。

と言っても悩み其れ自体は何も変わって居なひ。

 

其の悩みへの向き合ひ方が大きく変はったのです。

或はキチガヒになったのやもしれぬと思はぬでもなひのだがほんたうのキチガヒはかうしたことを決して書ひたりはせぬものです。

 

 

 

・インターネットの中にあるのは、全部過去の遺物です。

 

インターネットの中の情報は全部が合理化されしものなので本質的には其れが死んで居るものなのやもしれません。

だから其れが悪ひとはわたくしは考へて居らず、其の死んだ情報を駆使しつつじぶんが死ぬことへの手助けになるものではなひかとさうも思ふ。

 

じぶんが死ぬと言へば物騒な話ですがさうした物理的な死の問題なのではなく精神とは常に其の死を目指すものなのです。

つまりは精神的な死を目指すことこそが知性ー理性ーに於ける最終的な目的であり且つ目標です。

 

精神的な死を全うした學者として挙げられるのがたとへばかのマックス・ヴェーヴァ―でせう。

またニーチェショーペンハウアー、はたまたカントなども其の精神的な死を全うした學者だったのかもしれません。

但し自然科学者の方にはそんな人は一人もまだ出て居なひやうです。

 

精神的な死を目指すのは宗教でも同じことでまさに死んで生きたのがイエス・キリストでありお釈迦様だったのです。

 

で、女には其の死んで生きることがそも無理なのです。

さうして常に子宮が生きて居り其れが欲して居ります。

 

何を?

生其れ自体を。

 

ですが男性は皆半分死人として生きてるので其の強欲な生への執着其のものが基本的に理解出来ぬ。

 

つまるところ知性とは其の死んで生きること、生が死であることを分かるやうにする為に人間が死ぬまで學び続けることの別名です。

ですから、儲けるだとか、女にモテたひ、だとか、会社で一番になりいつかCEOになる、だとかさうしたことではまるでありません。

 

さうした価値観に毒されると精神が低次元化し時が進めば自然と地獄に堕ちませう。

インターネットの情報は其の死んで生きることの為には役立ちませう。

 

尚👩でも成佛か又は神の園に生まれ変はることは可能です。

 

まずは黒ひ法衣にて其の罪深き全身を覆ふ。

次に尼寺か又は修道院に是非お世話になりなされ。

 

男性には生涯指一本触れてはならぬ!

自らこれはと思ふ🚹を撮影し其のブロマイドだけが生涯の心の支へです。

 

其のやうな清く正しく美しひ尼僧又は修道女に貴女方は是非おなりなされ。

 

 

・普通、誤解されて怒っている人は、誤解されることによって損するのは自分だという考えをもっています。でも私は誤解して損するのは相手だというふうに思うようにしています

 

大抵の場合わたくしは周囲に誤解されかうしていつも怒りまくりです。

だが確かに誤解して損をするのは他としての世界の方だ。

 

世界は眞理を見詰めぬが故に其れに相対した個を常に地獄へと突き落とすのだ。

でも其れもまた自分の範囲でのことなのです。

我我はかうして永遠に他への対立と相剋し尚且つ相即して居ざるを得ぬ。

 

 

・ある女性が中学生のときにいじめられたいきさつを書いた本を読むと、その中に出てこない要素があることに気づきました。それは花鳥風月です。世界が半分しかないから、いじめが相対的に重くなって当たり前です。

 

現代社会のせひで現代人には自然が無ひ訳ですので確かに世界が半分だけのものともなって居ます。

其の花鳥風月としての自然は今の我我にとり懐かしき母胎のやうなもので其れが謂はば具象的なる眞實としての営為のことです。

 

文學は元々其の花鳥風月を賛美するものです。

要するに自然の讃美歌なのだ。

 

でも現代社会は其の讃美歌をウットリとして聴く心の余裕を与へては呉れぬ。

現代社会はたとへコロナであれ何であれ兎に角個をして特攻させやうとばかりして居ります。

 

其れでもって人権だなどともほざいても居りますが其の様やまさに偽善です。

偽善即ちニセのキリストのことだ。

 

其の反キリストが現代社会を覆ひ尽くし全てを悪魔の価値ヒエラルキーに染め上げて仕舞っておる!

其の悪魔との縁を断ち切り善智識を築くことこそが我我に課せられし唯一の使命です。

 

 

・その人が埋められる穴もあるけれど、埋められない穴が世の中には幾らでもあります。埋めたい穴と埋められる穴は別のこともあります。埋めているうちに、穴を間違えたことに気づくということも十分あり得る。

 

とんでも無くデカひ穴が今文明には開ひて居ります。

其の穴は安倍政権や國會議員では埋められぬ宇宙一の大穴です。

 

 

・自然とはもともと、どうなるかわからないものです。子どもは車ではない。部品が全部、わかっているわけじゃありません。そういうものが「どうなる」か、完全にはわからないのです。

 

自然には相対認識が無ひが故に未来も過去もクソも無ひ訳だ。

さうして自然が生きて居るのは具象的現在のみです。

 

ですが人間は具象的現在其のものを生きるものには非ず。

 

第一時間とは人間の意識がさう創り上げて居るものの筈だ。

いや自然にも事實上変化はあるが其処を流れる時間とはあくまで具象的なものの筈。

 

人間の時間即ち歴史過程とは其の抽象度を増す過程であることこそが大問題です。

だから抽象度の高ひ価値ヒエラルキーを解体して行かねばなりません。

 

尤も神佛もまた其の抽象度の高ひ価値ヒエラルキーなのです。

ですが其れは信仰に基づく欲望の消去過程のことでもまたある。

 

 

つまりは抽象度の高ひ価値ヒエラルキーに基づく欲望の歴史過程=現代文明こそが悪其のもの、👿の仕業其のものなのだ。

其の👿とは、認識のあり方により生じるものだ。

 

人間が誤った認識に基づき悪魔を生じ其処に地獄がカパッと開ひて仕舞ふのです。

つまりは人間がじぶんでもって地獄を生じさせておるのです。

 

 

現象界のあらゆる事象を分かる未来での形に形作ると云ふことは人間の知恵の癖なのですが其の知性の癖其のものが何せ誤って居ります。

正しくは常に死んで生きて居る位で丁度良ひ訳だ。

 

或は能無しにて生きる。

 

甲斐性が無く金を家へ入れぬ。

其れに女が嫌ひだ。

などの。

 

さても素晴らしひ性質をお持ちで。

 

実際現代社会での価値ヒエラルキーは未来のことばかりを論じて居ります。

未来は所謂アルゴリズムに支配された社会となり科学技術により欲望其れ自体がより合理化されて行きませう。

 

ですが其処には死への視点が盛り込まれて居りません。

 

尤も自然には死への視点がありません。

でも自然には死など要らなひのです。

 

死が必要なのは人間だけです。

人間があへて死んで生きなひと、つまり生きる為だけの生をのべつまくなしに追求し続けて行けば行く程に破壊は拡大して行くのです。

 

死んで生きたのは其れは釈迦もキリストも同じことでした。

死んで生きると云ふ其の根本のトコロでの思想が君等人類にはまるで分かって居らぬ!

 

コノ馬鹿、マヌケ、アホンダラ、能足りんめが!

 

 

其れは言ひ過ぎなのでは?

いやかうして事實のみを述べて居ります。

 

要するに其の分かる未来を偉さうに生きることこそが誤りなのです。

 

 

 

・若い人への教育現場において、おまえの個性を伸ばせなんて馬鹿なことは言わない方がいい。 それよりも親の気持ちが分かるか、友だちの気持ちが分かるか、ホームレスの気持ちが分かるかというふうに話を持っていくほうが、余程まともな教育じゃないか。

 

 

ホームレスの気持ち?

厳しひ精神的希求こそが正反対の立場の人々への共感を生み出すことはイエス・キリストの生涯からも明らかに窺ひ知れる部分です。

 

尚わたくしは現行の教育制度をまるで批判などしては居なひ。

むしろ学校も塾も手一杯で大変だなあとさう同情的に見詰めて居るのだ。

 

但し教師は馬鹿になりつつあり要するに画一的でもって批判力には欠けた奴が今やほとんどだらう。

確かにわたくしの如くに誰にも奪へぬやうなレヴェルで個性を持ってると日本の社会では村八分になりまたほとんどの人には理解されぬ故精神的には辛ひ人生を歩んで行かざるを得ぬ。

 

 

だけれども個性とはまた共感なのでもまたあり得る。

強ひ個性が深く人間を理解する分人間としての普遍性とさうして否応なく連なって仕舞ふのだから。

 

かうして文學的レベル、哲學的レヴェルにて人間と連なることこそが重要なことだとわたくしは考へる。

 

 

公立校の悲惨な実態…一番恐ろしいのはコロナじゃなくて学校教員

「生徒も親も教員も潰れる」9月入学見送りで想定される最悪シナリオ

 

うはお、やべへ。

学校がブッ潰れる可能性もまた出て参りました。

 

今後の第二波、第三波による休校で教師がやることとは、ズバリ家庭教師です。

教師が一人一人の生徒さんの家を回り家庭教師をやらねばなりません。

其のマンツーマンでの教育こそが教育の基本です。

 

店や企業などへの経済的影響などもむしろこれから出て来る訳ですのでひょっとすればひょっとしてほんたうの文明崩壊ですか?

しかし公的な教育が崩壊するなんてほんたうに怖ひ。

 

なるべく早う何処ぞへ逃げやう。

 

ちなみに今教師になる時の其の倍率がドンドン下がって居るのださうです。

高学歴な人の為の不人気ブラック職種=教師及び弁護士、です。

 

 

・「風が吹けば桶屋がもうかる」ではないですが、「ああすればこうなる」式の蔓延が少子化につながっているのです 。

 

少子化とは合理化なのです。

何故なら動物化すれば逆に多産化致しませう。

 

どーぶつはまさに厄介なもので金も無ひは、エサも無ひはの状態で親🐈が子🐈を三匹も四匹も一度に産み落としたりもするのです。

 

つまりは其処に計画性などは御座りませぬ。

其れに蚊なども我が家のやうに草がボウボウの庭のある古い家などはまさに幾らでも湧ひて参ります。

 

かくて自然界には全体の計画性はあっても種や個としての計画性など何処にも見当たりません。

 

人間とは所詮其の自然の無計画、無目的性を生きられぬ存在なのです。

即ち自然からは永遠に疎外されし存在なのだと申せませう。=失楽園して御座るが故に。

 

ところが其の合理化が行き過ぎますと人間の数が減って参ります。

でも其れは近代化による必然の出来事です。

 

むしろ人間はとりあへず半減する必要があります。

最終的には三分の一位になればもっともっと幸福に生きられますがなかなかさうは行かぬことでせう。

故にか邪教オウム教は人類抹殺を画策しておった訳なのでせうが。

 

 

 

・人事の世界でいやなことがあったら、どうするか。やっぱり虫を捕りにいきます。
 誰になんと言われようが、どんないじめ方をされようが、虫は関係ありません

 

自然が何故人間の心を癒すかと云ふと、其れは基本的に抽象的に規定される制度や価値とは異なるものであるからです。

抽象的に規定される制度や価値にて心を癒される人は言はば其処に洗脳されて仕舞って居る人々です。

 

洗脳を解く程に自律的な思考を為しますと逆の価値観が其処に形成されますので自然やらホームレスへと自然と気持ちが向くやうにもなります。

 

其れと同時に文明には嫌気がさして参ります。

文明の価値にイチイチ逆らふので其処では必然的にアウトサイダー化せざるを得なくならう。

 

さうして常に社会の価値観に逆らって居ると心底より疲れますのでもはや自然界に癒されるべく山へ行くより他御座りませぬ。

尚、わたくしの場合は石に深く興味が御座りますが虫だの何だの生ものは至極鬱陶しく植物の方がより好みです。

 

つまるところ自然は具象的にさう規定されて来て居ります。

 

 

 

・現実のディテールを「わかる」というのは、そんなに簡単な話でしょうか。実際には、そうではありません。だからこそ人間は、何か確かなものが欲しくなる。そこで宗教を作り出してきたわけです。

 

確かなものが欲しくなるのは實は自然界でも同じことです。

但し其の欲望は常に限定され具象的なものとならざるを得ぬ。

 

ですが人間の場合には其の欲望が抽象化されるが故に限定を離れて行きます。

限定されずば欲が深くしかも大きひ訳なので必然として他ー客体ーを破壊して行かざるを得ぬ。

 

其の欲深さを戒める為の理性としての一つの働きこそがまさに宗教です。

宗教とはさうした精神の上での破壊への防波堤のことです。

 

万事に於ひて合理化された社会では其の宗教の重要な働きが弱まって参ります。

まさに其処が危険な段階にさしかかって居る訳ですが鈍感な大衆が其の危機を覚ることなどは無ひ。

 

 

・ 人の言うことを気にしていること自体、ギリギリまで何かに取り組んでいる状態ではありません 。

 

人の言ふ事、世間体には常に社会と云ふ限界があります。

社会とは個の価値観を離れた何かであり、概ね其れは限度を超へた欲望の階梯にて駆動されて行くものです。

 

我我は其の大きな社会の欲望の持ち方をむしろ信奉して来て居りますが其れは誤りです。

何故なら個の価値観の集積が社会の正体なのではなくズバリ其の正体とはより大きく存する矛盾的駆動なのですから。

 

いつしかインテリジェンスは其の矛盾にしかと突き当たり苦しむこととならう。

其れは人類の中でも限られた人々にのみ与えられし精神的な苦闘の運命なのです。

 

かうして考へることの出来る知性は常に悶へ苦しみます。

何故なら其の社会の矛盾と向き合ふことこそが此の世での最大の試練なのだから。

 

 

・毎日がつまらない人は、
「このままでいい、世界はいつも同じだ」と
決めつけている人なんです。

 

其の毎日のつまらなさ、世間の下らなさは少し頭の良ひ人、勘の鋭ひ人ならば誰しも感じたことがあるのではなからうか。

より正確には其のつまらなく下らぬ世界の価値観を個による価値観が突き崩せぬが故につひ無力感に苛まれて仕舞ふ訳だ。

 

此れ迄に多くの文學者が描ひて来し如くに他者とは基本的に自己の敵であり根本的には理解不可能な存在です。

然し其の理解不可能な他者とは概ね個とは逆の価値観に従ひ駆動されて居るものです。

 

其の逆の価値観に対しどう向き合ふかと云ふことがおそらくは人間としての個々人に試されて居ることでせう。

即ち向き合ふべきものは儲けでも即ち価値の維持でも無く個としての認識上の転換です。

 

 

ただ、常に覚悟を心にもって
生きるということです。

不確定な未来に
軸足を置くのではなく、
今という時間に軸足を置くこと。

今日という日、
目の前の小さな命に
心を寄せることです。

 

以上養老孟司(ようろう たけし)の名言まとめより

 

 

とは言へ理性は本来未来があることを前提に今を組み立てて居る。

其の未来は理性的にー抽象的にーさう希望されるものだ。

 

ところが厄介なことに「今」には二種があり其れは具象的な今と抽象的な今です。

具象的な今を生きる限りに於ひては未来は問題となりませんが抽象的な今を生きる場合に於ひて未来は可能性を閉ざされて行く。

 

抽象的な今とは飽食したり自然をブチ壊したり一部の人間が大儲けしたりするまさしく此の文明の今のことです。

其れは抽象的な欲望が自然界の限定性を破壊することにより其のやうな様へと陥るのです。

 

其の抽象的な欲望に対しては何処かで個としての否定を突き付けて行かねばならなひ。

具象的な今には過分なる欲望などは無く大抵の場合は其の欲のあり方が限定されて居ます。

 

尤も戦争や環境破壊に対し物申すことの無かった大衆としての認識には責任が認められやう。

ですが、元より其れは個が望んでさうなるに及んだものなのではなひ。

 

即ち其れは全部社会がやったことです。

 

 

そんな社会が犯した過ちや罪を今後我我は問題として認識して行く必要に迫られて居る。

社会はこれまで謂はば治外法権のものであり誰にも批判することなど出来なかったものです。

 

國家やら文明と云ふものは歴史上常にさうした一種の特権的存在なのです。

だがもしも其れが根本から間違って居る場合には大変なこととなりませう。

 

わたくしは地獄などとつひ何度も言って仕舞ふのですが、其れは眞の意味では社会が引き起こす地獄のことで個人的に陥って仕舞ふ地獄のことには非ず。

さうして其の地獄はあります。

まさに其れは幻想の類には非ず。

 

其れは事實なのです、まるで事實のことだ。

 

 

さうして地獄があるからこそ天国や浄土や涅槃があらねばならぬのであります。

個がさうして社会の罪を認識し其れに対し物申して行くこと、社会の矛盾を意識し自己変革して行くー社会による洗脳を解くことーことこそが我我に求められて居る最大の変化として課題でせう。

 

學者や文人はある程度は其の「覚悟」を持って生きて来て居ます。

其れは大衆が生きる次元でもって「覚悟」を持って生きて来て居ることと別次元ではあるが結局同じ事です。

社会はさうして基本的に救はれぬもので人間にとっては最も厄介なものだ。

 

ところが社会がありませんと個も生きては行けませぬ。

であるからこそ厄介なのです。

社会には常に問題が根深くあり其の原因が何処までも絡み合って御座るが故に。

 

人間とはさうした意味での酷く矛盾的な生物です。

 

だから其れを救ふのは常に社会其れ自体では無く宗教なのです。

まさに其れは宗教的次元でしか人間は救はれぬと云ふことなのです。