目覚めよ!

文明批判と心の探求と

ハラリ氏よりのメッセージ

 

「私の前著『サピエンス全史』では、集合的神話――神や人権、貨幣など――を信じる私たちのユニークな能力が、どのようにして私たちがこの惑星地球を征服することを可能にしたのかについて書きました。『ホモ・デウス』で私は、この私たちの古くからある神話が革命的な新たなテクノロジーとひとつになったとき、何が起こるのかを検証します。」

「テクノロジーは決して決定論的なものではありません。私たちは同じ道具をまったく異なる目的のために使用することができます。政治や経済、倫理における新たなテクノロジー潜在的インパクトを理解すればするほど、私たちはその使用方法について、より賢い選択をできるようになるのです。歴史を学ぶことが、今日ほど重要であったことはありません。未来を予測するためではなく、過去の条件から自由になり、別の運命を想像することを可能にするために、私たちは過去を理解する必要があります。

あなたが人類や地球の未来に関心を持っているのならば、『ホモ・デウス』のうちに多くの思考の糧が見つかると、私は確信しています。」

 ユヴァル・ノア・ハラリ

【特別公開】『ホモ・デウス』2018年9月刊行へ向けて、ユヴァル・ノア・ハラリからのメッセージ公開より

 

 

「政治や経済、倫理における新たなテクノロジー潜在的インパクトを理解すればするほど、私たちはその使用方法について、より賢い選択をできるようになるのです。歴史を学ぶことが、今日ほど重要であったことはありません。未来を予測するためではなく、過去の条件から自由になり、別の運命を想像することを可能にするために、私たちは過去を理解する必要があります。」

「あなたが人類や地球の未来に関心を持っているのならば、『ホモ・デウス』のうちに多くの思考の糧が見つかると、私は確信しています。」

 

 

まさに其の通りで、現在程人間のあり方ー根本義ーが問われて居る時代は他にありません。

然しながらすでに大衆は思考力を奪われて居る=思考停止の状態か?

 

第一誰しもが忙しひですから人間の根本義のことなどイチイチ考へて居る余裕など無ひ。

其れに温暖化でもって毎日暑くて不快だから余計に考へてなど居たくはなひ。

 

ですが學者や作家に限れば矢張りと云ふべきか其処で考へて来て居るのです。

其れは考へることこそが彼等の仕事だからでせう。

 

勿論大衆であれ中にはわたくしのやうに観念性の強ひ人も居てさうした人に限れば矢張りトコトン考へて来て居ります。

但し感じることも其処には大きく混じるので必ずしも論理性ばかりではなく謂わば直観的解釈が其処に加わる訳ですが。

 

ハラリ氏の場合も男性と結婚されて居るさうですので或は女性的な部分をも持ち合わせて居られるのかもしれなひ。

勿論其ればかりではなく人文科学者として高度に知的な訳ですから論理の方も勿論いける、即ち両面がいける天才型の方なのかもしれません。

 

 

わたくしは近年大衆の精神の飼育化と云ふことにつきずっと考へて来ました。

地下鉄では大抵の場合車両内でもまたホームの方でもスマフォを見ながら歩いて居るか又は地下鉄を待つ人がほとんどです。

 

わたくしは此れ等の人々の群れこそが大衆であると定義致しました。

さう知らず知らずして居ること自体が根本的に大衆的です。

 

わたくしはと言へば確かに半分は俗物でせうが頑としてさうした部分を受けつけぬ部分もまたある。

わたくしはアスペルガーなのか兎に角一本気なので余分なものが大嫌ひでシンプルなものを好みます。

 

 

其の大衆は非理性的に飼育されるべきではなく個として目覚めていかねばならぬともまた思ひます。

ちなみに其処は宗教でも良ひのではありますが宗教抜きであれ何であれ個は目覚めていかねばならぬ。

 

何故なら破壊が押し迫って来て居るからです。

其処はキリスト教ではありませぬが裁きの日は近ひぞよ、悔ひ改めよ、目覚めよ!と云った具合ひです。

 

但し宗教抜きにせよ今の我我には常に突き付けられて居るものがある。

其処をこそ人文の領域で論じて来て居るのがまさに此のブログの内容なのです。

 

 

さて、何故今歴史から學ぶ必要があるのか?

其れは変化の本質が其処に示されて居るからです。

 

変化は無ひのでは無く有り、其の変化は本来実質的なものです。

実質的即ち物理的なものなのです。

 

其れが肉体性に於ける変化だとさう言ひ換へても良ひ。

ところが、現在我我が生きて居る変化とは實は須らく抽象化されたものです。

 

其れは精神=観念に於ける変化なのだとも言ひ換へられる。

其の観念化は近代以降の文明の価値観を形作って来た。

 

故に我我は今高度に抽象化された観念の世界を生きて居ります。

観念性は左様に近代以降の文明を規定する根本での原理です。

 

ところが往往にして其の観念性による破壊が齎されることとなった。

観念は何故さうして破壊を齎すことに勤しむのか?

 

 

其れが抽象化された価値として機能する他無ひからです。

抽象化されし価値には肉体性=実質的でしかも物理的な価値との基本的な相性の悪さが存する。

 

其処でいざ抽象化された価値の実現が目的化されると、抽象物と具象物との間に常に大きな距離乃至は隙間を生じて仕舞ふこととならう。

其の距離乃至は隙間をあへて生きざるを得ぬのが近現代に於ける社会の基本構造でせう。

 

其処では甚だしく実質的価値と乖離したものを価値、其れも至上の価値として生きる訳ですから決まって社会には矛盾としての諸の問題が生じて参りませう。

 

ですから其の不安定な状況を謂わば自らつくり出して来て居る訳だ。

謂わば自縄自縛での価値観の中に埋没し、其れでもなお歴史を見渡しておけばまだしも良ひのですがもはや誰もそんなことをして居る余裕など無ひ。

 

余裕が無ひのでより一層抽象的観念のさ中へと埋没して行きます。

 

抽象的観念の追求は戦後世界に於ひてより顕著に推し進められつつある。

第一我我が子供の頃にはコンピューターなどまだ有ったか無かったか分からなひ位のものでしたが現在では世界中に其れが溢れて居ります。

 

TVだって最初は白黑TVしか無くもしもカラーTVなどあらうものなら誰しもが其れを見たく、其処で釘付けになり其れをいつまでも視て居たものでした。

其のやうに文明が、特に戦後世界が生み出して来たものとは須らく其の抽象的観念としての具体物です。

 

 

抽象概念は其の性質として自然界のものには非ず。

其れは人間界に於ける人間の専売特許としての性質です。

 

但し其れが悪ひと言って居るのでは無ひ。

其れがやりたひ放題になって仕舞って居ることこそがオカシイのであり、少なくとも其処には理性的な抑制の力が必要であるのに誰もそんな大事なことに気付きはしなひ。

 

 

其れどころか人文系の本は其の辺の店で百円で売られて居たりも致します。

だから其れを十冊買へば物凄くお勉強することが可能だ。

 

なので青少年の皆様は兎に角人文の其れも安ひ本を其の辺の店にてまずは買って来る。

さうして目が悪くなるまで百冊、千冊としかと読み込む。

 

 

すると君には必ずや教養の核となる考へる力、物事の道筋を捉へ世界を客観視し得る理性の力が目覚めることであらう。

左様に理性はまず本を読むことでこそ磨かれやう。

 

TVやマンガやPCばかりでは絶対にさうした力は身に付かぬ。

但しPCでもって論文や文學作品などを読むことなどは大ひに可である。

 

 

抽象的観念は左様に自制されなくてはならなひ。

但し抽象的観念のみが時間的秩序=時の流れを理解することが出来る。

 

逆に言へば厳密には自然には時の流れの認識も無ければ死への恐怖の認識もありません。

つまりは生老病死と云ふ人間にとっての苦を生む為の認識自体が其処には無ひのです。

 

無ひと云ふよりもより未分化でありつまりは其処で観念的に分離などされては居なひ。

従ってこと観念苦と云ふ意味に於ひては自然はむしろ其れが無ひ分幸せですが肉体苦=本能的に生じる苦に於ひて其れはより顕著であり其処ではまさに畜生道を邁進しておる訳です。

 

さうして日々畜生道を邁進しては居ても観念的欲望に汚されて居らぬ分むしろ其れは清浄な世界観に従ひ生きて居ります。

だが人間ともなればさうも参りませぬ。

 

人間でも個に毛の生えた程の状態での原始共産制を営む限りは其れ程大きな抽象的願望が生ずる訳では無くまたそんな状態ではのべつまくなしに人間が増える訳でも無ひ故適当に自然からの恩恵を受け平穏な暮らしを営んで居られやう。

 

が、其処にいざ抽象的願望が入り込んで仕舞ふともう其れはエライこととなりませう。

事実農耕、牧畜が始まると都市化と云ふ一つの大きな抽象的価値が構築されるに至った。

 

農耕、牧畜は蓄えとしての余剰価値ー生存には直接関与せぬ価値ーを生み出しませうから其れが富として都市と云ふより大きな社会構造に呑み込まれて行きます。

其れでもって時の経過と共により都市は栄へ余剰なる価値を蓄積して行きます。

 

お江戸、つまりは東京なんてのはまさに其の抽象的価値が最も進んだもので勿論其れに続ひて日本の大都市も皆其の抽象的価値其のものであることは論を俟たぬ。

ですから其の抽象的価値、抽象的願望自体が實は最初から巨大な破壊力を有して居るものなのだ。

 

 

だからこそ注意深く其の価値乃至は願望の暴走を食ひ止めていかねばならぬ。

人間が生きるとはまさにさうしたことで其れは自然其のものを生きることには非ず。

 

特に社会化されるに至れば其れはむしろ抽象的価値=観念的願望を生きることとなるのです。

其の観念的願望にこそ最大の破壊力が潜んで居る。

 

 

ところが個自体に其れが潜んで居る訳では無ひ。

なのだが大衆化した個には矢張り其れが潜む。

 

大衆化した個=社会、であるからなんですね。

 

さうしてとどのつまりは社会的に推進される抽象的進化=進歩=観念的願望自体の進化、がまさに自然には決して成し得ぬやうな破壊を、其れも人間の観念の本質としての破壊を人間界に齎す。

其の自縄自縛での破壊の様から脱け出し人間として少しはまともになりたひのであれば時には社会のことなど全て忘れ瞑想に勤しむ位のことはしなくてはなるまひ。

 

 

ハラリ氏が述べられるやうに過去の条件から自由となり最終的には未来への道筋を選択することこそが真の意味での歴史の意義だと思われる。

確かに未来を予測することなどは出来ぬが過去を理解することでこそ未来への選択肢が生じて来やう。

 

其の価値判断、選択は本来ならば社会的次元にて行われることがより望ましひ訳だが其れが出来ぬのであればむしろ個の側から積極的に選択肢を増やしていくべきだ。

個の次元に於ひて是非迷妄から目覚め其のやうに理性的選択を為していかねばなるまひ。

 

 

 

「人間の不幸というものは、みなただ一つのこと、すなわち、部屋の中に静かに休んでいられないことから起こるのだ。」ー『パンセ』中公文庫p. 92よりー

 

かように人間は常に何かを成し遂げやうとして来て居る。

 

勿論其の気概が無くば近代的な諸価値など実現するべくも無かった。

だが時には静かに休むなり歴史書をひもとくなりしてみるべきなのではなひか。

 

左様に価値は両面にわたり拡がって居る。

左様に此の世界を成して居る原理は+の価値ばかりでは無ひ。

 

両面ー両極ーを見詰めなければ真ん中が見えて来なひ。

歴史は今とは逆に過去を成り立たせて居る。

 

過去は無かったのでは無くして有り、過去が有ることでむしろ未来をも見据へられたのだ。

元来観念は過去を経験知として重視した。

 

故に観念は過去を理解しなければならぬ筈。

歴史の意義はむしろさうしたところにこそ存する。

 

即ち未来を規定するのは、其れもより望ましく規定するのは現在ではなく過去である。