目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

老耽の智慧ー弐 加島 祥造先生によるタオー

其れでは加島 祥造先生の詩の読解へと入らせて頂く。

 

 

 

馬鹿者はタオを大笑いする

 

タオのひとは、前に進んでいるのに、
後戻りしているみたいに思われ、


タオの道はゆったりと平坦なのに、
そこへ入れば、もみくちゃにされると思う。

エナジーのいちばん、充実した状態なのに、
からっぽだと思う。

すべての色を濾過した純白なのに、
うす汚れて見える。



ここに働らくタオというのは、だから、
前にも言ったように、名前なんかない。
その働らきも見えない。

それでいて、すべてを養い、
すべての命の充実をさせているんだよ。

 

 

 

誰かが進んで居るのか其れとも停滞して居るのか、又はむしろ後退して居るのか、と云ふことを決める価値判断はとても難しひことだ。

どだい此の世が善悪のどちら側の場所であるのかと云ふことを決める其の価値判断にせよ宗教の価値観と世俗の価値観との間では二元化されて仕舞ふ。

 

宗教は大抵が其れを悪ひものだとする。

世界がそも悪ひから其のままでは人間の心も悪に染まるが故に心を入れ替へて信仰の世界に生きねばならぬ訳だ。

 

 

だがタオへの道はどうも其れとは違ふのだ。

老子によれば、道とは名付けることのできないものであり(仮に道と名付けているに過ぎない)、などを超越した真理とされる。天地一切を包含する宇宙自然、万物の終始に関わる道を天道(一貫道ともいう)といい、人間世界に関わる道を人道という。」道 (哲学)より

ー太は至高を、一は唯一・根元を表す語であり、『荘子』天下篇に戦国時代諸子百家のうち道家が軽んじたものとして登場する。また『呂氏春秋』大楽篇ではのこととし、道は形がなく、名づけることもできないが、強いて名づけるなら「太一」であるとし、太一から始まって太一、両儀、陰陽、万物という宇宙生成論を唱えた。ー太一 荘子での記述より

 

 

道にせよ仏教をはじめとする印度思想にせよ、其れ等は所謂マイナスへの指向を持つ思想であるとわたくしは捉へる。

 

ところが、其のマイナスとは實はプラスの価値なのだ。

何に対してかと言へば全体や未来に対してのプラスの価値なのだ。

 

其のやうにして所謂無為にして自然、其の非作為性つまり無作為な部分が全体や未来に対してはむしろプラスになり得るのだ。

対して西欧近代思想はまさに今を生きること、其れも現在と云ふ価値観念を創り上げ其処に最大の利益と人間の跳躍を画策する思想である。

 

其処に近代的自我を組み上げ其の自我による抽象的に規定されし世界を組み上げ其処に於ひて何でも目一杯に生きると云ふ思想である。

 

だが何でも目一杯にやれば良ひと云ふものでは無ひ。

 

目一杯に生きると周りの景色が其の美しひ自然の様がまるで見へなくなったりもしやう。

 

 

ところが現代の文明社会は其処で立ち止まって自分でもって考へてみたりさうした世の中の枠組みに疑問を抱ひたりすることを概して許さなひ。

 

そんなことをして居ればソイツは犯罪者か変態になるのが関の山で、さうでは無く文明の枠組みに嵌り切り資本主義やら科学技術やら近代教育やらにむしろ浸り切ることこそが偉ひ現代人としての資質を育みおおまさに末は博士か大臣か、うわー、やったなおまへは脳減る賞を取ったのか、ソイツは偉ひ、人類の勝利だ、人類はやがて神にもならねばならぬ身の上ゆえまさにおまへも其の神の序列に連なりし者ぞ。

 

などと訳の分からぬ近代的価値ヒエラルキーを勝手に組み上げ、揚句の果てには自然を切り刻み変なものに造り替へ其ればかりか大酒は飲むわ女が好きだわギャンブル浸りだわでもってして。

 

わたくしなどはもう高校生の頃からこんな文明はダメだと思って居たのでようやく今ちゃんと批判が出来まさに溜飲が下がる思ひです。

 

高校生の頃からかの坂口 安吾の如くに「偉大なる落伍者」として不死鳥の如くに蘇る予定でもありましたゆえ。

 

 

近現代の価値観とは左様に無闇に+の面ばかりを積み重ねていかう。

 

ところが、其のプラスの側面にこそむしろより大きくマイナスの側面が含まれて居たのだった。

 

 

さうして利益ばかりを、さうして進歩ばかりを追ひ求める。

 

するとやがては超格差社会になって仕舞ふ。

 

其ればかりか根深ひ人種間の対立やリスク管理のなっていなひ社会を生み出して仕舞ふ。

 

其れは根本のところで文明が誤った選択を為して居ることに起因するものだ。

 

 

要するに今だけが良ければ其れで良ひ。

 

だが其の今には過去を振り返る余裕も無ければ自然と心を通はせる優しひ気持ちにさへ欠けたものだ。

 

 

近年わたくしが一番驚ひたのが、かのジャポニカ学習帳から虫の写真が消へたことを聞ひた時だった。

 

ジャポニカ学習帳から昆虫が消えた 教師ら「不快」→苦渋の決断

其のジャポニカ学習帳から虫の写真が消へたことで此の文明の存続は消へた=滅亡だとわたくしには判断されたのである。

 

尚わたくしは幼き頃よりずっと潔癖症なのだが虫や蚯蚓やら🐍やらは皆大好きだ。

元々わたくしは自然が好きで人間だけが潔癖に嫌ひなのだ。

 

むしろジャポニカ学習帳には蚯蚓やら🐍やら百足やら大蜘蛛やら、さうした眞に気持ちの悪ひ生き物ばかりを載せるべきだらうとさう思ふのであるがさてどうであらう。

 

要するにわたくしには其の快ばかりを無限に追求していく文明のあり方こそが理解不能なのだ。

 

人間にとっての快ばかりを無限に追求していくとやがて人工物ばかりに囲まれて仕舞ふことであらう。

 

 

事実今や都市部は人工物ばかりに囲まれて仕舞って居る。

 

其処では自然の恵みもクソも無く、金さへ出せばハンバーガーやら牛丼やらカレーライスやらが当然に出て来ることになって居る。

 

だが其れが本来の食事のあり方なのだらうか。

 

 

何だかもう、都会の食事には本質的に飽きた。

 

都会には美味ひものなど何も無ひ。

 

ほんたうに美味ひものは自分で獲って来て焼ひて煮て其れを喰らひ美味ひと思ふもののことだ。

 

さうした都会の加工性にはもう嫌気がさしつつある。

 

 

そんな抽象的な飯などもはや食ひたくは無ひ。

 

さうした文明の抽象性にもはや全部嫌気がさした。

 

 

都会の加工性が謂わば其の抽象的価値ヒエラルキーを組み上げて来て居る。

 

其の枠内でしか価値が設定されて居らず、其処でイザ加島先生や我のやうなマイナスの思想を語れば即其れは変な思想となる。

 

だが文明の価値観の方こそが間違って居やう。

 

 

其の価値観からすれば、道を歩む者こそが即ち真理を捉へ其れに突き動かされ生きて居る者こそが馬鹿なのだ。

進歩を止めてかうして前へ進もうとさうして居るだけなのに後ずさりして居ると決まってさう思ふ。

 

純潔且つ無垢なる其の心、其の穢れなき美しき心根こそが何かとてもドス黒く嫌らしひものにも見へやう。

其のやうな認識に止まって居る限りはとてもとても充実して居て楽しひ今があると云ふのにまるで其のことが了解されぬ筈。

 

 

 

 

もうひとつの無為

 

知識を学ぼうとする者は、
毎日何かを知り、覚えこもうとする。
タオを求める人は、
毎日何かを忘れ去ろうとする。
何かを自分の頭から捨て、
さらに、捨ててゆくとき、
はじめて、「無為」が生じる。

 

 

 

 

尚わたくしが知識をとりあへず擁護するのは、考へる力を其処に醸成する為のことだ。

 

其の何故?と問ふ人間としての力を社会への批判力へと転ずる為のことだ。

 

何故なら現代人にはすでに「無為自然」であることも「解脱」することも共に無理なのだ。

 

わたくしは出来ること其れのみをしていくことこそが大事だとさう考へた。

 

だが結果的にわたくしの創り上げし理智の世界は「無為」へと近づいていった。

 

 

即ち加工と云ふことが次第に嫌になっていく。

 

さうして全てが加工された都会の生活に心底から嫌気がさしたのだった。

 

 

そんな風に「無為」とは捨てることだと云ふ。

 

ならば其れは築くことでは無ひ。

 

元より此の人間の世界は全てが築くことによって成って居る。

 

 

だから其れは逆の価値観を述べたものだ。

世間とは逆の価値としての立場に其のタオへの道がある。

 

 

 

 

 

 

まずは君自身が「自由になること」

 

タオのエネルギーが、
その人のなかに植え込まれると、
ちょっとやそっと揺さぶられたって抜けやしない。
あのパワーをしっかり抱いた人は、
他人や社会に引きずり廻されない。そして
その命の活力や、
遠くの子孫にまで伝わっていく。
だってそれは大自然のエネルギーだからさ。

 

 

 

 

さうしてタオの人は他人や社会には振り回されぬ。

何て「自由」な境涯なんだらう。

 

其のタオのエネルギーとは脱観念化のことなのだらうか。

おそらくは観念の抽象性をあへて捨て去ることで収束させ精神と物質が未分化の状態へと戻すことなのだらう。

 

脱観念化することがもし可能であれば確かにさうして人は自由になれやう。

 

其れは要するに精神の抽象性を具体化して仕舞ふことだ。

 

だから其処にもはや悩むことが無くなり限りなく自由で自然体で居られるのだ。

 

ー但し、自然自体は決して自由では無ひ。あくまで自由もまた抽象的願望のひとつなのだ。ー

 

 

 

「汚い」があるから「美しい」が在る

 

美しいと汚いは、別々にあるんじゃあない。
美しいものは、汚いものがあるから、
美しいと呼ばれるんだ。

善悪だってそうさ。
善は、悪があるから、善と呼ばれるんだ。
悪が在るおかげで、善が在るってわけさ。

同じように、ものが「在る」のも、
「無い」があるからこそありうるんでね。
お互いに
片一方だけじゃあ、ありえないんだ。

 

 

 

 

此の詩で語られるが如くに二元性の超克と云うことが此処五年ばかりはわたくしにとっての枢要なテーマであった。

 

其の直観された陰陽即ちマイナスとプラスのせめぎ合ひ、まさに破壊的な対立と創造的な矛盾力こそが此の生の過程を理解する為の何か根本的な原理だったのだ。

 

だからこそわたくしは此処でもずっと其の二元性の相剋と相即につき語って来たのだ。

 

おそらく其れは東洋思想としての陰陽思想を直観したものであらう。

 

わたくしは其れを読んでは居らぬがさうして直観した。

 

 

最終的には其れは相互に関連し合ひバランスすべきものだと悟った。

其れは一つになるのではなくむしろ異なる二つである侭にバランスを取るべきものだ。

 

たとへば自然と文明。

其のやうに分かれる。

 

其れは丁度男女のやうなもので、また美醜のやうなものだ。

 

或は貴賤と云ふことでも良ひ。

 

だが其れ等の正反対の要素が対立した侭では駄目だ。

 

其れは対立する侭にむしろバランスされなくてはならなひ。

 

 

其の眞のバランスの達成はおそらく対立する思考ー概念的な分別ー其れ自体の消去でこそ生じやう。

 

ところが、現代人に限り其れは不可能なことと必然としてならう。

 

何故なら我我はすでに西欧近代としての相対分別思考を世界の事物全てに対し向け成立させて居るからなのだ。

 

相対分別思考を是認すればする程に自我は確固たるものとして我我に認識されて来るのだ。

 

 

だが東洋思想はむしろ其れを消し去れと言ふ。

 

煩悩を捨てよと捨てて無為になるのだとさうした無分別の世界を我々に指し示す。

 

でも其れは現代人にはもはや出来ぬことだ。

 

ならばどうすれば良ひのか?

 

 

わたくしは其のことばかりをずっと考へて来て居たのだ。

さうして最近になりようやく分かった。

 

 

ー其の違ふ者の方の立場を考へないでどうする?

 

人間の持つ抽象的思考能力ー理性ーはむしろ其の為にこそあるべきものだ。

 

他の何の為にでもなひ。

 

即ち金持ちになることやデカひ國になることや便利で快適な生活を送る為のものでは無ひ。

 

 

 

自然⇔文明

 

男⇔女

 

美⇔醜

 

貴⇔賤

 

 

此処に成立する関係は元より対立するだけのものでは無ひ。

其れは相剋しつつも相即する関係にこそあるのだ。

 

 

故に二元的要素は其の対立する要素を尊重し尚且つ其の侭に対立しておかねばならぬ。

何故なら所詮一つにはなれなひからだ。

 

確かに太一はさうして涅槃は究極としての一つになることを目指すものだ。

 

だが其れは大昔での文明圏でのお話なのだ。

 

確かに真理なのだが其れはもはや現代人には無理なことだ。

 

 

今出来ることをやりませう、とかってわたくしは塾の生徒さん方に屡語って居たものだった。

 

やるしかなひ、今でしょ。

 

などとどこぞの講師のやうな言ひ草ながらもはやそれしか無ひ。

 

 

最も重要なこととは其の正反対の要素を尊重すると云ふ立場である。

 

 

 

果たして今文明は自然を尊重して居るのか?

 

果たして今女性は男性を尊重して居るのか?

 

果たして今美人は不細工を尊重して居るのか?

 

果たして今貴人はルンペンを尊重して居るのか?

 

果たして今大金持ちは貧乏人を尊重して居るのか?

 

果たして今自然科学者は文學者や哲學者を尊重して居るのか?

 

 

どうもまるで尊重などして居なひやうに思はれてならぬ。

 

かのイエス・キリストは汝の敵を愛せとさう述べられたやうだが或いは其れがさう云ふことなのではなかったか。

 

 

果たして今自民党共産党を尊重して居るのか?

だから其のどーしても認められなひ部分をあへて尊重していかねばならぬのだ。

 

だがある意味では自民党の政策は新自由主義としての極左政策なのだ。

 

何故そんなことになったかと云ふに、其れは小泉政権と安倍政権が米国の新自由主義政策を真似て来たからであるに過ぎぬ。

 

新自由主義政策とはそんな極左合理化政策であり、元より其れはこんな伝統国家である日本國に対して行ふやうなものには非ず。

 

かくして自民党共産党はどーしても理解し合へぬものだ。

 

なんだけれども、共産党自民党がそんな極左合理化政策を断行して来たことにだけは理解を示して置ひてあげるべきだ。

 

 

 

果たして今キリスト教は佛教を尊重して居るのか?

 

其れは分かりかねます。

 

果たして今キリスト教イスラム教を尊重して居るのか?

 

其れも分かりかねます。

 

でも日本人が韓国人に色々と根深ひ感情を抱ひて居るが如くにキリスト教イスラム教は余り仲が宜しくありません。

 

 

果たして今男性は女性を尊重して居るのか?

 

其れも分かりかねます。

 

ですが尊重しなひと👩は付ひて来ません。

 

だからおそらくは尊重して居ませう。

 

 

即ち其処には問題は無ひ。

 

対して女性が男性を尊重しなくなると其れはもうエラヒこととなりませう。

 

同様に文明が自然を尊重しなくなると其れはもうエラヒこととなりませう。

 

大金持ちが貧乏人を尊重しなくなると其れはもうエラヒこととなりませう。

 

自然科学者が文學者や哲學者を尊重しなくなると其れはもうエラヒこととなりませう。

 

 

果たして今出来る人は役立たずを尊重して居るのか?

 

尊重してなど居ません。

 

だからこそ出来る人こそが馬鹿者なのです。

 

果たして今役立たずは出来る人を尊重して居るのか?

 

おそらくは尊重して居ます。

 

だから役立たずこそが聖者=タオの人、なのです。