目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

老耽の智慧ー壱 小国寡民ー

 

ー(古代や中世はをする人々の割合は少なかったが)現代では、人々の移動が盛んで、おまけに世界各国で、国内旅行だけでなく、航空機を用いた外国旅行も世界的に非常に盛んになっているので、国境を越えて世界規模のパンデミックが起きやすくなっている。たとえば2002年~2003年のSARSパンデミックでは、中国国内で最初期の感染が起きたが、最初の感染者の治療を行った中国人医師のひとりが(自分が感染してしまったとの自覚も無いままに、親類の結婚式出席のために)香港へと旅をしたことで香港に滞在している人々に飛び火し、その香港には、世界中の各国から中国人(中国系○○人)がやってきてはそれぞれ自国(移住先)に帰国するために、あっという間に世界各地に飛び火した。

パンデミック、なかでも生命にかかわるような症状をともなう感染症パンデミックは、人類の皆にとっての脅威である。

現在までヒトの世界でパンデミックを起こした感染症には、天然痘[13]インフルエンザAIDSなどのウイルス感染症ペスト梅毒コレラ結核発疹チフスなどの細菌感染症原虫感染症であるマラリアなど、さまざまな病原体によるものが存在する。AIDS、結核マラリアコレラなど複数の感染症については世界的な流行が見られるパンデミックの状態にあり、毎年見られる季節性インフルエンザ(A/ソ連、A/香港、B型)の流行も、パンデミックの一種と言える。 ただし、これらの感染症の中でも特に新興感染症あるいは再興感染症が集団発生するケースでは、しばしば流行規模が大きく重篤度(死亡率など)が高くなるものが見られるため、医学的に重要視されている。これらの新興(再興)感染症によるパンデミックはしばしば一般社会からも大きく注目されるため、一般に「パンデミック」と呼ぶ場合、これらのケースを指すことも多い。ー パンデミックより

 

そもそも其の近現代の拡張主義の目的とは現象として必然的に限定される人間の解放=精神及び肉体、の解放の達成にこそ存して居やう。

ところが、限定を解除し人間の活動が盛んになればなる程に諸のリスクは増大する。

異常気象=地球環境の破壊や今大問題となりつつあるウイルスによる感染症の拡大が懸念されるのだ。

 

然し問題は最終的には人間の精神のあり方に結局帰着する。

事実として我我は常日頃からパンデミックへの危機感など持ちようが無ひある意味で「お気楽」な精神状態であらざるを得なひ。

 

だが其れは文明による精神の洗脳なのだ。

文明は何でも出来るとさう考へて居るが無論のこと其れは大きな誤りである。

 

此の誤った思想的選択が人類を自滅へと追ひ込んでいくと見ておくべきだらう。

 

 

 第一オリムピックなんぞもう止めておくべきだ。

 

もはやオリムピックどころでは無ひぞよ。

 

其れに万博どころでは無ひぞよ。

 

 

 

左様に事実として此の度の新型肺炎は怖ひ。

 

怖ひのだが、我我には今やれることしか出来ぬ。

 

 

1.現代人には危機意識と云ふものがまるで無ひ

2.現代人にはどうも馬鹿が多ひ

3.其の馬鹿は社会がさうつくって居る

 

 

 ひょっとすると都会の人間はもはや精神が壊れかかって居るのではなひかしら。

おそらくは近現代と云ふ都市化過程が都会の人間の価値観を極めて偏向したものとして居ることだらう。

 

其の様を見て居るだけでわたくしは何だか悲しひと云ふか胸が痛む。

 

金さへあればすぐにでも田舎の別荘地にでも逃げて行きたひところながら其れが出来ずまことに残念だ。

 

 

尚今回のパンデミックでは特に日本政府並びに日本の医療体制の生ぬるひ対応がむしろ浮き彫りにされて来て居るやうだ。

 

日本人は何故かうも危機管理に於ける意識の低ひ民族となりつつあるのだらう?

 

 

ひとつには米国に尻尾を振りまさに言ひなりのなりでの政権与党の情けなさが全国民に乗り移って居るのだとも考へられやう。

そうではなく、じぶんのことはじぶんで守れるやうにならなくてはダメだ。

 

じぶんのことをじぶんで守れるやうになる為にはまず徹底的に防御する。

 

即ちマスクを付けしかも其の中に濡れティッシュを幾重にも巻ひて入れておかねば意味は無ひ。

ウイルスは其処にひっつくので大丈夫な筈だが其れでもわたくしは今風邪を引ひて仕舞った。

 

だからこんな塩梅では現代人がパンデミックでもって大勢死ぬのも至極当たり前のことなのである。

そんな体たらくでは無く兎に角自己と社会に対して同時に批判的でなくてはならなひ。

 

其のやうな精神性に達するともはや少々のことには動じなくならう。

 

さらにオリムピックも万博ももはや要らぬと云ふことが即座に了解されても来やう。

 

 

 

ところで、老子は何故グローバリズムを認めず限定主義を標榜したのであったか。

 

 

小國寡民。使有什伯之器而不用;使民重死而不遠徙。雖有舟輿,無所乘之,雖有甲兵,無所陳之。使民復結繩而用之,甘其食,美其服,安其居,樂其俗。鄰國相望,雞犬之聲相聞,民至老死,不相往來 — 道德經80[66]

老子が言う小国寡民の国。そこでは兵器などあっても使われることは無く、死を賭して遠方へ向かわせる事も無い。船や車も用いられず、甲冑を着て戦う事もないと、戦乱の無い世界を描く。民衆の生活についても、文字を用いず縄の結び目を通信に使う程度で充分足り、今のままでもその食物を美味と思い、服装も立派だと考え、住まいに満足し、それらを自給自足で賄い、その素朴な習俗を楽しむという。隣の国との関係は、互いに望み合えてせいぜい鶏や犬の鳴き声がかすかに聞こえる程度の距離ながら、一生の中で往来する機会なども無いという。このような鮮明な農村の理想風景を描写しながら、老子は政治について説いてもおり、大国統治は小魚を調理するように上からの干渉を極力抑えて、民のあるがままにすべきと君主へその秘訣を述べ(60章)、要職者などに名声が高まったら返って謙虚にすべきと諭し(9章)、民に対する為政者へりくだりこそが天下に歓迎され、長期にわたり安泰を維持出来るとある(66章)。権力政治に対して、民が君主の圧政と重罰に慣れると、上の権力をものともしない状態になり(72章)、民が圧政に苦しみ、死を恐れなくなれば死罪による脅しも効かなくなり民の反乱、国家の崩壊を招くと警告している(74章)。また、法令をどんなに整備しても必ず法網をくぐる者が現れ、さらに犯罪者が増えるという趣旨から法律・政令の簡素化を説いている(57章)。 」 老子の社会階級より

 

 

小国寡民とは老子の考へるところでの所謂理想社会であり、其処では徹底された抽象的限定によりむしろ最大限の安全と継続を社会的に成立させていく枠組みのことだ。

では、そも其処で何故限定しなければならぬのか?

 

限定しなければ人間の営為は須らくエスカレートしやがては客体を破壊せしめることが初めから分かって居るからだ。

何故なら限定せぬ全ての欲は実際何処までも膨らんでいかう。

 

やがて性欲は膨らみ不倫へと発展しやう。

やがて物欲は膨らみ家や土地や豪華な墓などより大きなものを欲するやうにならう。

 

やがて権威権勢欲は膨らみ世界を支配したひ欲へと駆られていかう。

やがて食欲は膨らみ何でも喰らひ尽くし其れでも飽き足らず今度は宇宙植物や宇宙動物までをも喰らひ尽くさうとするのに決まって居る。

 

 

其のやうにまずは欲の制御がならずば世の統治もならぬものと老耽は判断したのだった。

 

即ち老子は其処であるべき人としての道、社会的に規定されるべき人間としての道理を指し示したのだ。

 

其れは勿論近代社会とはかけ離れた脱法治国家としてのあり方なのだ。

 

 

法整備による精神への弾圧などではなくしてむしろ自発的に其の体制の枠内へと治まっていくそんな理想的な統治のあり方なのだ。

 

故に其処には戦乱が起こることなども無ひ。=恒久的な平和の実現

 

 

何故なら民の心其のものがすでに其処に治まって居る。

 

要するに其れは人間の社会に於ける高度なバランスのあり方を述べしものだ。

 

 

何でも結局バランスを失へば墜落する。

 

失楽園とは其のバランスを失して人間が墜落する様をこそ示して居やう。

 

或は煩悩とはまさに其のバランスの喪失の様其のものなのだ。

 

 

所謂グローバリズムなどと云ふものが其のバランスされし状態の対極にあるものであることが此処にお分かり頂けたことかと思ふ。

 

グローバリズムを標榜するやうな社会的自我を形成するからこそ現代文明は選択を誤って居り其の根本での考へ方がダメなのだ。

 

社会が其のやうな自我にこそ生きるから物事が分からず民の心も乱れて来やう。

 

 

其のバランスとはけだし真理である。

 

釈迦が述べた如くにバランスの達成こそが人間にとっての真理なのだ。

 

但し其のバランスには二種がある。

 

其れは精神のバランスと肉体のバランスだ。

 

肉体のバランスとは其れ即ち自然界でのバランスのことだ。

 

精神のバランスとは其れ即ち人間の爲のバランスのことだ。

 

 

前者は神仏が其れを均衡させしかも其れを保って居やう。

部分的には壊れながらも其れを保って居る。

 

元より其れは分離して居る。

二極に分かれながらも其れが均衡して居る。

 

人間の肉体も其のやうに分離しつつも均衡して居る。

さうして劣化しつつ即ち死に至りつつ歩みつつもかうして均衡されて居るのだ。

 

 

だが自然には精神は無ひ。

自然の精神は其の全てが外側から与へられて居るもの故に。

 

ところが人間にだけ精神が生まれた。

 

其れはさらに心が二重に分離することでさう生まれたのだ。

 

嗚呼、我我はさうして精神を生んで仕舞った。

今此処にさうして自我を生んで仕舞った。

 

其の自我はさらなる欲を追ひ求める。

何故なら其れが限定されては居らぬからだ。

 

つまりは其れは抽象的に規定されし欲のことだ。

 

だが其れは神に背く欲なのだ。

同時に佛に背く欲なのだ。

 

 

我我はさうして抽象的に自己を破壊しつつある。

 

自我のバランスを自ら崩し去っていく。

 

 

であるが故に佛法は其の自我の解体ー限定ーをこそ説く。

 

其の抽象的欲望としての源泉である自我を消去し究極のマイナスの価値としての生きぬ価値観の方をこそ選び取っていく。

 

何故なら其処に其の生の過程にこそ苦の過程が或は罪の過程が拡がるのだからこそ。

 

 

我我の奉ずる精神の過程は以上のやうに選択を誤って居る。

 

或はバランスを欠ひて居る。

 

其れも自ら其の均衡を崩して居るのだ。

 

 

精神即ち抽象的に規定される願望=抽象欲は必然として其の存続を許されるものには非ず。

 

其れは宇宙の道理=道=タオが其の存続を赦さぬのだ。

 

 

 

不見可欲 使心不亂 (欲しくなるかもしれない物も、見なければ心は乱れない。)


 

かくして近現代の思想はむしろ欲を煽るのだが、かうして老子の思想の場合には欲しくなるかもしれぬやうなものはむしろ見るなとの仰せである。

即ち隣国のことなどまるで気にするな。

 

元々他国は他国で自国は自国。

元々動植物にせよ産物にせよ世界は皆同じなのでは無くそれぞれに皆違ふ。

其ればかりか神も違へば佛にさへ有無がある。

違ふのだからこそ、其れに感謝しつつ受け取ることが出来やう。

 

なので、外部へと意識を拡大することなく内面を磨ひていくことこそが大事だ。

まさに其れこそが「求めなひ、されば与へられやう」と云ふことの真の意味だ。

 

 

「飢饉というものは年のめぐり合わせによる異常気象で発生する自然現象である。しかし民衆の生活を破壊する飢饉は、君主が自分の消費のために税収の目減りを我慢できず、飢饉でみんなが困っている時に、税をさらに重くして、なお余計に奪い取ろうとする《食税》から発生するのである。これが民の飢饉の惨害の本当の原因なのだ(人之饑也 以其取食税之多 是以饑)」(帛書『老子・乙本』第七十七章)

 

さう民衆の生活を破壊するのは歴史上統治者の選択の誤りによるものであることがほとんどだ。

安倍政権は合理化により日本人の生活が苦しひと云ふのに其処に増税を断行した。

尤も公明党宗教政党ーが反対したが為に食料品の増税は今のところ見送られて居る。ー軽減税率制度ー

 

小泉政権と安倍政権による新自由主義に基づく搾取政策による合理化は今や最大限に加速されて居りコレ以上続くと国民が皆死んじゃうレヴェルにまで達して居らう。

さうした民衆の生活を破壊する為政者の本質を遥かなる以前から先哲は見通して居た訳だ。

 

 

の振る舞いに於いては、何か不足すれば、余っているところから補われて全体のバランスが保たれる。ところが人間の制度はそうではない。欠乏している人民から高い税を取り上げて、すでにあり余って満ち足りている君主に差し上げる。どこかの君主がそのあり余る財力で、天下万民のために何かをしてくれるとしたら、それこそ有道の君主と評価できるのにねえ(天之道 損有餘而益不足 人之道則不然 損不足以奉有餘 孰能有餘以取奉於天者 唯有道者乎)」(第七十九章)

「強大な覇権国家の君主は自分の言いなりに搾取できる家畜のような人間の数を増やしたいから、他国を侵略するのだ。弱小国家の君主は、せめて我が身、我が国を尊重してくれるならばと、超大国に屈従して、身売りの算段をしているだけだ。結局、戦争とか平和というものは君主たちの意地の張り合いだけで、民衆のことなんか何も思ってやしないんだから、まあ勝手にしたらよかろう(大國者不過欲并畜人 小國者不過欲人事人 夫皆得其欲)」(第六十一章) 老子思想より

 

まさに其の通りで、人間の社会的制度程不完全で猶且つ矛盾に満ちたものは無ひ。

其れは君主がまさに馬鹿のやうに振る舞ふから必然として其のやうな超格差社会へと陥っていくのだ。

此のことからも、其の超格差社会とは何も今始まったことでは無くむしろ大昔から其のやうに元々なって居たものだ。

 

其れでもって強大な国家はやがて帝国主義を始めざるを得なくなる。

何故なら家畜としての国民の数と家畜度を上げ其処からより搾取したひので其処では兎に角デカひ国家にしていかねばならぬ。

 

其れにしても老耽が此の時すでに国家が帝国主義へと至る原理をすでに見切って居たことは流石だ。

 

 

「災禍の原因は、仮想敵国となるライバルがなくなって、油断しきってしまうことが最も大きい。強力なライバルがいなくなったら、本来活用すべき人材、提案、発明、万物を生かす知恵など、君主が宝とすべきものが時代にそぐわない無用の長物として排斥されて、回復できなくなってしまう(禍莫大於無敵 無敵斤亡吾寶矣)」(第七十一章) 老子思想より

 

さうだ、油断して居るといつ災禍が襲って来るとも限らぬ。

おそらく日本人は最も危機感の無ひ民族であらう。

其れは皇室が長く続き文化的宗教的に統一がはかられて来た國なので其の安定に浸り切って居る体制なのだ。

 

だから革命には元々向ひて居なひことだらう特殊性の強ひ伝統的国家なのだ。

其の伝統的国家が何故か極左自由主義を標榜する米国の国是を受け容れむしろ其れに尻尾を振って来ても居る。

 

さうして両極端が結果的に同居せざるを得ぬ国家なのだ。

素晴らしき質の高ひ自然と大災害とが。

封建的自治能力の高さと先進技術力とが。

また伝統的な権威ー天皇制ーと極左合理化思想とが。

 

つまりは分裂国家だ、其の分離国家だったんだまさに此の日本国は。

 

 

「世の中の肩書きと人生はどっちが大切か。自分の生命を犠牲にするほどのお金や品物があるものか。物欲を満たすこと、人生に挫折すること、どちらが大問題なのか。人や物事を非常に愛すると、必ず無理をして、たくさんの費用をかけることになる。多くの富を集めすぎると、必ずその富を奪い取られた人々の怨恨と憎悪も集中する。したがって物事は、ある程度で満足して、変な欲を出さないでおけば、めったに恥辱をうけることはないし、ある程度で見切りをつけて、あえて危険に踏み込まなければ、何も心配することはない。だから長く安定を維持できるのである(名與身孰親、身與貨孰多 得與亡孰病 甚愛必大費 多藏必厚亡 故知足不辱 知止不殆 可以長久)」(荊門郭店竹簡『老子・甲書』・帛書『老子・乙本』第四十四章)老子思想より

 

さてかのトルストイは其の最晩年に地位や名誉や金には背を向けて放浪の旅に出て其の途上に野たれ死んだのだった。

 

確かに人や物事を非常に愛するとロクなことにはならぬ。

富を集めること即ち抽象的に豊かになること、又は抽象的に便利にしていくこと、並びに抽象的に名誉を得ていくこと程愚かなことは他には無ひ。

但し所詮人間は欲望の生物なのだ。

 

其処でわたくしの場合は個としての望ましひ欲望の等級化を考へ出してみたのだった。

 

1.自己保存に関する欲

2.小さな物欲と小さな食欲

3.知識欲や美への欲

 

元より1.には罪ー煩悩ーが余りにも多く含まれて居やう。

即ち愛欲、利己欲、存続欲などである。

其れはとりあへず✖。

 

無論のこと物欲や食欲の追求も度を過ぎると✖。

だが小さひ範囲でなら其れも認められやう。ー〇ー

むしろ1.の大欲の代わりになるのが2.の欲の追求なのだから。

 

3.の欲の追求は抽象的な欲なので注意が必要ながら基本的には〇。

但し知恵其のものや美其のものを我がものとすることはおそらく出来ぬことだらう。

 

まさに其れを束の間の間だけお借りして其処で表現することが可能であるのみ。

さうしてやがては其の智慧や美ともお別れしなければならなくなることだらう。

 

そんな訳でわたくしの場合は2.と3.のみを今は生きることにして居るのだ。

 

 

現代人の多くは人間には必然的にかうした内面での限定の道程があることをおそらく理解しては居なひ筈だ。

だが其のやうに限定していく限りに於ひて事の真相と云ふことが次第に見へても来やう。

ー妄念にて心が曇って居たのが次第に明らかに見へるやうになって来る=晴れるー

 

だが其れは真理なのでは無ひ。

真理は我我にはもはや見へぬものだ。

 

我我がし得ることとは其の混濁せし価値観の浄化のみだ。

 

 老子の場合は其の辺りでの根本問題としての人間の価値観ー認識作用ーの部分を無為化ー限定化ーしていく訳だ。

むしろ余分なものには縁しない、自ら限定していく、つまりは求めなひと云ふマイナスから生ずる大ひなるプラスの価値に就ひて語って居るのだ。

 

むしろデカひもの、其の拡張主義を自ら放棄することで人間としてのあるべき精神の枠組みを其処に形作っていくのだと言へやう。