元より人間にとり最も難しひ課題が其の社会が抱へる病気である。
其れは誰も治せず本来ならば神や佛が人間に代わって何とかせねばならぬ病なのだ。
だが事実上すでに神仏は殺されて仕舞った。
今や神仏は現世利益の為の抽象的価値と化し縁結びだの安産だの学業成就だの、さうした諸々の願掛けの対象として存在するのみ。
其れが悪ひと云ふのではなく、では人間は一体誰が治すのだと言ふ話とならうが人間に対する医者など實は何処にも居らず其れでは如何にもマズからう。
しかしながら邪教は集団自決したりサリンを撒ひたり核爆弾を開発したりで結局全部が逮捕されるに至る。
後はもう頭のおかしひ奴か文人しか残されて居らぬではなひか。
其処で頭のおかしひ奴が神社でもって巫女殺しをしたり障碍者を沢山殺したがそんな奴も結局は逮捕され死刑になるに決まって居らう。
だとしたら後はもう社会派作家や社会科詩人の出番である。
なのでまさにそーゆうところから文人の語る貴重なお話をしかと聞ひて居らずしてどうする?
作家や詩人の世に対する諫めを襟を正ししかも正座して是非とも拝聴せよ。
くれぐれも豪華客船などに乗り酒池肉林の遊興などに耽ることの無ひやうに。
其のやうな人間の分際を弁えぬ悪行に対し神はウイルスを撒き散らさうぞ。
事実わたくしは前々から予言して居たではなひか。
豪華客船などに乗り酒池肉林の宴に酔ひ痴れて居てはならぬのだと。
其れから✈に乗り海外旅行などしてはならぬのだと。
何故君等は其の詩人の諫言を無視するのだ。
其の厳しひ精神の世界を生きる詩人の諫言を君等は一言も聞ひて居なひぞ。
今こそ、今こそ其の詩人の予言を君等は受け容れねばならぬ。
さうして共に闘おう。
闘ふのだ!此の地獄の生と闘ふのだ。
諸々の病と闘ふのだ!
嗚呼、でも今日はいい天気だ。
我が家の庭では可愛ひメジロが囀り蜜柑を啄む。
何て平和な此の世界。
さうして自然界の闘ひが繰り広げられて居るのだぞよ。
おおまさに自然界とは闘ひの世界ぞ。
人間の世界もまた闘ひの世界ぞ。
人間は今まさに其のウイルスと闘って居るのだ。
さても其のウイルスとは何だ?
ーウイルスは細胞を構成単位とせず、自己増殖はできないが、遺伝子を有するという、非生物・生物両方の特性を持っている。現在[いつ?]のところ自然科学では生物・生命の定義を行うことができていないため、便宜的に細胞を構成単位とし、代謝、増殖できるものを生物と呼んでいるが、ウイルスは「非細胞性生物」として位置づけられる。あるいは、「生物学的存在」ともいわれる[17]。感染することで宿主の恒常性に影響を及ぼし、病原体としてふるまうことがある。
ウイルスは様々な点で一般的な生物と大きく異なる。
- 非細胞性で細胞質などは持たない。基本的にはタンパク質と核酸からなる粒子である(→ウイルスの構造)。
- 大部分の生物は細胞内部にDNAとRNAの両方の核酸が存在するが、ウイルス粒子内には基本的にどちらか片方だけしかない。
- 他のほとんどの生物の細胞は2nで指数関数的に増殖するのに対し、ウイルスは一段階増殖する。またウイルス粒子が見かけ上消えてしまう「暗黒期」が存在する。
- 代謝系を持たず、単独では増殖できない。他生物の細胞に寄生したときのみ増殖できる。
- 自分自身でエネルギーを産生せず、宿主細胞の作るそれを利用する。ウイルス #特徴より
ウイルスとはまさに変な存在だ。
だがそんな変な存在が居るのが此の世での実相なのだ。
此処からも、
1.ウイルス感染により即人間が重篤な病気に罹る訳では無ひ
2.感染症との闘ひこそが近代医學の闘ひ其のものだった
結局ウイルスは生命以下のもの、生命とは呼べぬ半生命とでも云ふべきものだ。
だが其れが遥かに巨大でかつ完全な生命体である動植物に寄生しつつも増殖していく。
さうして悪性のウイルスの場合には寄生した動植物の命をも奪ふのだ。
ー生命の定義は哲学、生物学双方の分野で、非常に困難な問題である[2][3][4]。生命とは何らかの過程を意味するものであり、純粋な物質というわけではないからである[5]。ー生命#定義より
生命の定義其れ自体が實は困難なのだ。
生命とは生ものであり生ものを實は概念的に規定することは困難なのだ。
生ものとは変化体であり基本的に言葉ー概念ーにては規定出来ぬ。
現状でのわたくしの理解は、所謂相対分離としての二元論にて其れを仮留めしておくものだ。
故に人文科学の方での捉へ方をしているものとさうも思はれる。
生きる⇔生きなひ
食べる⇔食べなひ
増へる⇔増へぬ
現象する⇔現象しなひ
生命は現象するものだが現象しなひ領域まで或は食ひ込んで居る可能性が高ひ。
自然科学は現象しなひ領域までのことを考へぬー分離として捉へぬーのでほんたうは片手落ちなのだ。
だが現象しなひ領域までのことをイチイチ考へて居れば自然界の分析は成らず文明の進歩も当然にならぬ。
あへて其処をイチイチ考へて仕舞ふ体質が詩であり文學なのだ。
或は宗教の分野だ。
でも下らなひことこそが役に立つ。
役立たずこそがむしろ危機に於ひては対応出来るものだ。
1.観念論と対置される形での唯物論
2.キリスト教としての生命観
3.全体論としての生命論
わたくしの理解に於ひては此の三点こそが重要だ。
1.に就ひて
物質と魂、或は物質と精神の二元構造は文明の普遍的な世界の基本構造だった。
其の二元性を齎すものが観念によるものなのか其れとも物質としてさう規定されたものであるのかと云ふ二元論が近代以前までは世界観の対立の全てであった。
言ふまでも無く近代科学は唯物論にてさう規定され得るに至ったものだ。
其処からも近代科学には観念性が欠けて居るだらうことは即座に了解されるのである。
またさらに精神性にも欠けたものであることが即座に了解されやう。
なんだけれども、であるからこそ近代科学にて世界の成り立ちー性質ーが正確に分かるやうにもなる。
其れは世界を見詰める其の眼差しの分離度を一次元増したからだ。
なんだけれども、物質と精神の二元構造の全体はむしろぼやけて見へなくなる。
タマシヒは何処へ行ったか、又はタマシヒがあるのかどうかさへ分からなくなる。
要するに近代科学の眼では見へぬ部分の方がむしろ巨大なのだ。
尤も誰も其のことには気付かぬのではあるが。
2.に就ひて
ーキリスト教では、人間と動物の生命はまったく別のものとする傾向が強く、人間という存在は「神によって命を吹き込まれたもの」であり特別な存在である。さらに言えば、背信者を「命を失った者」と呼ぶ比喩が存在し、神を信じるようになった者、天国に至る権利を得た者を「命を得た者」「永遠の命を得た者」とも呼ぶ場合がある。ー 生命#宗教における生命より
人間は善悪を知る者であり其の善悪自体の二元分離こそが相対分離としての罪の過程だとする其の認識自体は正しひ。
但し程度は違へど動植物にも認識が生じ非現象的世界より分離して居ると云ふ意味での罪は生じて居やう。
従ってキリスト教こそが其の動植物に対しても開かれるべき門であった。
其処を閉ざして仕舞ったことこそがキリスト教の犯せし誤りだった。
かの聖フランチェスコの如くに動植物とお話の出来る修道士でなくてはならなかった。
かうして動植物とお話の出来る詩人は今まさにさう思ふのだ。
神によって命を吹き込まれたのは其れは動植物でも同じことであらう。
厄介者としてのウイルスさへもが其の神の被造物なのだ。
キリスト教は常に正しひが惜しひ哉其の部分に於ひてのみ認識を誤ったのだと言へる。
ーフランシスコ会は、同時代に設立されたドミニコ会とともに清貧と禁欲の生活を理想とし、従順・清貧・貞潔を掲げるベネディクト会戒律とも共通していたが、清貧の徹底という点で既存の修道会とは一線を画していた。フランシスコ会とドミニコ会はともに、居住する家屋も食物ももたず、すべてを他者の喜捨にたよったため、「托鉢修道会」と呼ばれた。ーアッシジのフランチェスコより
托鉢する修道士、本来ならば其こそが真のキリスト教徒の姿ぞ!
托鉢ししかも動植物とお話が出来る程に宗教者は清ひ心根であらねばならぬ。
さうして其は佛教とて同じぞ!
デカひ寺、デカひ肩書、デカひ佛像などひとつも要らぬぞよ。
本来ならば僧とは乞食ぞ。
乞食であるばかりか、まるで無能力者だ。
宗教はさうして何かを勘違ひなどして居てはならぬ。
どだひ宗教に寺や教会は不要だ。
宗教の要諦とはまさしく其の心のあり方にこそあり。
まさに其の托鉢だ、宗教の垣根を越へて兎に角其の清貧だ。
清貧こそが釈迦ぞイエス様ぞ、即ち神様佛様ぞ。
キリスト教と佛教は今共に手を携へ其の清貧にこそ生きなければならぬ。
悪夢としての環境破壊を食ひ止めるべく心を通わせ人類を救わずしてどうする?
古代インドのヴェーダや仏教では、人間の命と動物の命は同列的に扱われていた。仏教では、人間が動物に転生する考え(畜生道)なども見られるし、宗教家が動物を食べることはあまりよくないとする例もある。またジャイナ教では、虫を踏み潰して無駄な殺生をすることがないよう、僧侶は常にほうきを持ち歩くという習慣も見ることができる。 生命#宗教における生命より
わたくし個人としては何を食べなひか、また何を殺さぬかと云うこと以上に大きな欲に対しどう考へて居るかと云ふことの方をより重視する。
大きな欲とは社会的な欲であり其れは個に於ける欲とは質的に異なる欲望のことだ。
ーマハトマ・ガンディーは1925年10月22日に雑誌『Young India』(英語版)にて、「七つの社会的罪」(Seven Social Sins)として次の七つを指摘した[10]。
- 理念なき政治(Politics without Principle)
- 労働なき富(Wealth without Work)
- 良心なき快楽(Pleasure without Conscience)
- 人格なき学識(Knowledge without Character)
- 道徳なき商業(Commerce without Morality)
- 人間性なき科学(Science without Humanity)
- 献身なき信仰(Worship without Sacrifice)
「七つの社会的罪」はインドのラージ・ガートにあるガンディーの慰霊碑の外壁にも刻まれている。ー#七つの社会的罪より
社会的な欲は個人として規定される食欲や物欲よりも質的にタチの悪ひもののことだ。
個人として規定される食欲や物欲ー但し度を超さぬ限りでのーは以上の社会的な罪程の破壊を齎すものには非ず。
逆に言へば世界を破壊するのは社会的な罪によるのである。
畢竟環境破壊は是等から引き起こされて来て居る。
故に社会は過ちを認め是非改変されていかねばならぬ。
なのだが社会は余りに強大で作家や詩人以外には立ち向かふことなど出来ぬ存在だ。
ガンディーは真実を述べたが故に暗殺されて仕舞ったがまさに偉大なる宗教的指導者であり思想家でもあった。
パンデミックが引き起こされる現代社会の状況を俯瞰するに此の「七つの社会的罪」がいずれも高ひ割合にて達成されて居ること自体に驚きを禁じ得なひ。
現代社会の馬鹿振りに驚くのでは無くしてガンディーの慧眼振りにまさに驚かされて仕舞ふ。
尚わたくしは人間の社会に対して潔癖なので社会の罪に対しては決して其れを赦さなひ。
つまりは社会が悪ひのでかうして人間は窮地に立たされて居るのだ。
3.全体論としての生命論に就ひて
自然界にせよ人間界にせよ生命が馬鹿なのは生命が利己主義に陥り易ひからなのだ。
生命は元々利己的に振る舞ふやうに設計されておる。
其れを抑へるのが神仏と云ふ理性体なのだ。
其の理性体は所詮抽象的な概念である。
されど自然自体が其の理性体に見守られても居やう。
何故なら其処は楽園であるのだから。
ところが其処へ失楽せしタマシヒが生まれる。
其れは二重の分離過程を経し人間だ。
其の人間が原始の利己心を発揮すればやがて世界は破壊し尽くされて行かう。
だから人間だけが理性的でなければならぬのだ。
尤も近代以降の人間はまるで理性的には非ず。
其は大破壊ばかりを齎す獣臭き奴等のことだ。
其の罪をさうして煩悩をまずは自覚するのだ。
ところが穢れた心の人間共には其の自ら招きしところでの罪の原理が即ち業の原理がまるで見へては居らぬ。
其処へもって来て今回のパンデミックだ。
其のパンデミックこそが嗚呼まさに地球の浄化よ、神による罪の破壊其のものよ。
さうして文明人は皆滅ぼされやうぞ。
滅びたくはなひ人は是非其処に全体論を學んでいきなされ。
即ち生とは物質的な次元の集積の記録には非ず。
其れは物質を離れた次元の連なりでもまたあらう。
するとタマシヒは有るのですか?
其の事は以前詳細に述べさせても頂ひた。
タマシヒは有るのでも無く無ひのでも無くだが有ると決め付ければ有り無ひと決め付ければ無ひ。
強ひて言へば其れは具象的に規定されるべきものであり抽象的に拘るやうなものなのでは無ひ。
いずれにせよ抽象的に規定されし概念分別は最終的には矛盾化しやう。
但し其の矛盾を恐れるな。
現在とは其の矛盾の連なりであるより他は無ひ。
其れは人間界にせよ自然界にせよまるで同じことなのだ。
だが自然其れ自体が自然を破壊し尽くすことは無ひ。
だから特に人間界の社会的矛盾につき考へていかねばならぬ。
強大でもってのろまな社会は自己批判が出来ぬ故個にて社会の矛盾を鋭く突ひていく他は無し。
でもガンディーもジョン・レノンも結局は殺されて仕舞ひましたが。
ガンディーやジョン・レノン程まともなことを第一我は言って居なひ。
半分位は面白おかしく述べて居るのでむしろ読み易からう。
だから此処での絶望振りを余り真面目に考へ込まぬやうにね。
そんなものは屁でも無ひとさう思ひ日々明日へと立ち向かっていきませう。