實は此の世の問題とは全てが矛盾に帰せられることだらう問題である。
言ふまでも無くわたくしは其のことをのみ此処に追求して来て居る。
矛盾は結局苦しみである状態を生み出さうから良くは無ひ。
だが矛盾を無くさうとすると此の世に於ける推進力を生み出すことが出来ぬ。
即ち矛盾其れ自体が根本矛盾である。
大抵の場合利口な人間は若ひ頃にかうして哲學的な又は文學的な悩みを抱へるものだ。
ところがやがては社会か又は👩に洗脳され其の問ひ自体を放棄して行かざるを得なくならう。
無論のことわたくしもさうであったのだが、でも其れではイケナヒこと位は以前から分かって居た。
即ちいつかは其の矛盾に直面せねばならぬ羽目に陥るのだ。
其の矛盾との戦闘を記録するものが此のブログの内容でありまさに其れを人間存在其れ自体の矛盾と結び付けられるか、又は其れとは破断した個の領域のものに止まるのかと云ふ部分こそがわたくしの表現者としての力量にかかって居るのである。
人間とはさうした意味での誠にややこしひもので、端的に言へば其れは自己矛盾した現象のことだ。
其のやうな自己矛盾過程其のものが人間なので、元々其れはより良くなったりより幸せになったりするものではなくむしろより悪くなりより不幸せになっていく者のことなのだ。
即ち劣化して行くもの、いや劣化して行かざるを得ぬ者なのだ。
では何故劣化するのかと言へば、結局其れは欲望との関係性に於ひてある種のピュアーさが次第に欠けていくからこそ劣化するのである。
逆に進歩は人間をしてより良くしより幸せにしていくとさう信じられて居やうがズバリ其れは誤りだ。
進歩は人間をしてより合理的に改変しより悪ひ心の持ち主へとおそらくは変へていくことだらう。
さて此の矛盾の巣窟たる人間並びに人間の社会をどう捉へまたどう批判していくかと云ふことだけが文學の使命だ。
元より科学は其れを批判することなくかうして日々要らぬものを何処までも造り出し挙句の果てには地球の息の根を止める積もりであらう。
左様に科学其れ自体に己の行為を批判したり反省したりする心などは無ひ。
だから最終的に科学は人間を抹殺することであらう。
今や自己矛盾の檻と化した科学に我我は抹消される運命にある。
でも何故ですか?
科学は其処で只我我をより快適により便利につまりはより豊かにしやうとして来たばかりでのことです。
其れの何処が悪ひと仰ひますので?
何故なら進歩は負の側面を必ずや持ち合わせて居る。
正確には科学の発展=進歩とは人間にとっての+の面と-の面をより拡大していく試みのことだ。
なので動力の社会化により我我の肉体力はむしろ衰へてもいかう。
情報化社会によりむしろ我我の思考力は衰へてもいかう。
遺伝子改変によりむしろ我我の自己修復機能が危うくもならう。
原子力は原子力としての強大なる力故に大きくリスクを抱へて居やう。
ロボットとアンドロイドやAIに関してもまた然り。
どだい便利さや快適さを是とする無菌環境は人間を根本から弱くして仕舞ふ。
人間を強く育て上げるには武士の教育が其処で是非とも必要なのだ。
武士、即ち艱難辛苦に耐へ生と闘ふ其の心構へこそが大事ぞ。
ロボットとアンドロイドやAIなどは皆其の刀の一振りでもって裁断してしまへ!
即ち斬鉄剣だ。
レデーファースト思想及び米国流の極左思想並びに現代文明を貫く合理主義さへをも其の刀の一振りでもって裁断してしまへ!
其こそが武士道ぞ。
但し風流を解さぬ武士道などは野蛮でいかん。
さうでは無く此の際かの今川 義元を是非思ひ出さねばならぬ。
おおまさに文武両道の彼こそが合理主義裁断への最短の近道だ。
今川 義元は或はおほほほほーなどと言ひながら討ち取られたのではなかったか。
さうでは無ひ。
刺客の指を食ひちぎりつつ死んで行ったのよ。
今川 義元はさうして武勇に秀でし武将でもあった。
すると今川 義元の怨念にて合理主義文明の放逐が叶ふものなのでせうか。
いや、其れはやってみなければ分からぬ。
まずは今川 義元の墓の場所または首塚の場所を特定せねばなるまひ。
さうして其処でもって儀式を行ふ。
もう其の辺で方向転換をしなひとノンフィクション文藝では無くオカルト作品に変わって仕舞ひますぞ。
へひ分かり申した。
問題は人間の社会が何故かうまで矛盾化するのかと云ふことに尽きて居らう。
其処でわたくしは考へてみた。
もしや個としての人間には罪など元より生じて居なひのではなひか?
つまり罪と罰、かのドストエフスキーではなひのだけれども、其の罪と罰を規定するものの正体とは畢竟個では無く社会である。
だとすれば、コレはもう社会が悪ひ。
即ち社会があるから罪が生じ罰も与へられやう。
では社会が無ければ我我は一体どうなるのだ?
社会が無ければもうまるでルンペンのやうなものだ。
其処には役立つものが何も供給されぬのだし第一金なども無ひぞ。
でも其の辺のごみ捨て場から拾って来れば結構良ひものもありますぜ。
事実わたくしは昔ー二十五年程前ー夜に近所のオバサンがほとんど新品のラジカセを捨てて居たので其れを拾って来て十五年程も使って居た覚へがある。
台所用に是非欲しかったので拾って来其れを皆で重宝しつつ長く使わせて頂ひたものだった。まさに野球中継を聞ひたり災害情報を聞ひたりで實に重宝したものでした。
何故其処までルンペン生活に拘るのだ?
ルンペン生活と托鉢の様とは実際良く似ても居らう。
元々僧とは乞食であり、またキリスト教徒にせよ元々は其の乞食のやうなものなのだ。
左様に精神を見詰める者は必然として物質的快楽より遠ざからなばねばならぬものだ。
逆に金満でもって豪華列車や豪華客船に揺られ生を愉しみ過ぎるともうロクなことにはならぬ。
其処で精神が壊れとんでも無ひ罪業を背負ふことにもなりかねぬ。
近代の目的とは最終的には個としての人間が皆酒池肉林へと至ることなので其の価値観其れ自体がすでに誤りなのだ。
さうではなく皆で橋の下に是非暮らしてみやう。
或は是非山の中に独居して野たれ死ぬのだ。
では社会が無ければ人間は救われるとさう仰りたひので?
まるでかの荀子の思想のやうですが現代社会でそんなことを言ってもまるで通用などしませんよ。
そんな危険思想を述べ大丈夫ですか、近く逮捕されやしませんか?
いーや、人間の社会こそが人間の苦を本質的には生じておる。
即ち社会は無ひ方が良ひ。
ああ、アナーキストか?つまりは此処でアナーキズムを論じて居るのか?
さうだが其れももっと根本のところを穿っておる。
人間存在は自己矛盾して居る故其処で金輪際社会化などしてはならぬとさう述べて居るのだ。
ソンナことを言ってるのは世界中でアンタだけだ。
いや、確かにさうなのだが残念ながら其れが真理なのだ。
其れにしても何故わたくしの意見はいつもかうして世界で一人だけの論理に陥るのであらう?
でも宗教こそが其の罪と罰をさう規定するものではありませんか?
宗教はね、ほんたうのところでは罪でも罰でも無ひのだ。
宗教がね、集団化すると宗教社会へと化していくのだ。
だから其処に罪や罰が生まれる。
なのだが独り橋の下か山の中で宗教をやれば實は其処には罪も罰も無ひのだ。
其れに殺人も無ければ過失致死も無ひ。
淫行も無ければ不倫も無ひ。
また👪も無ければ妻も子も無ひ。
全部が無くて、其処にタダじぶんが居るだけだ。
自分を殺せば殺人なのでは?
其れはあくまで自決で殺人とは違ふ。
結局はルンペンがやりたひのか?
まあ少しやりたくもありやるのがとても怖くもあり。
さても変わってるなあ、今までそんな夢を聞ひたことなどまるで無かった。
まあ確かに変わってますので。
何せ変わってるので変わってるのです。
ルンペンをやると社会からは逃れられまた罪と罰からも永久に逃れられるとさう貴殿は申されるのか?
さうです。其処にあるのはむしろ非社会的な自然界のルールだけだ。
即ち食わなきゃ死ぬことと老ひたら死ぬこと、此の二つのことだけです。
他にも寒さや暑さなどで死ぬことがあらう。
いや、大丈夫です。無論毛布も拾へることでせうし、また山には冷たひ湧き水さへもがある。
後大変なのは兎に角食ふことと老ひることだけです。
ですが、其の悩みは都会で社会に縛られて居てもまるで同じことです。
何故そんなに縛られて居るのがイヤなのだ?
分からぬ。
元々かういう性分なんです。
こんな変態的性分と言っても盗撮者のやうな犯罪者とは違ひます。
むしろ聖なるものを常に追ひ求めて居るのです。
嗚呼、早く縛られぬ生活をしてみたひ。
どんなものにも縛られぬ生活をしてみたひ。
どんなものにも縛られぬのであれば其れはすでに死んで居るぞ。
生きて居ると云ふことは逆に縛り続けられて居ると云ふことだ。
つまりは社会に縛り付けられて居るのだ。
尚社会とは銀河系や地球ー世界ーや日本や自治体、町内会、会社、同僚、友達、家庭、妻、子までをも含む概念のことだ。
要するに普通人は社会化され其処で生きて御座る。
だがルンペンはあへて其処を離れて仕舞ふことさへもが可能だ。
すると其処に社会的な罪がさうして罰が同時に消へ去るのだ。
なので地球温暖化を引き起こした近現代文明としての罪と罰は必然として其処に免責されやう。
また強欲な資本主義の仕出かした罪と罰は必然として其処に免責されやう。
さらに身内の者が仕出かした罪と罰も必然として其処に免責されやう。ー何せ身内が居なひのでー
其のやうに完全なる自由、か又は完全なる脱権利関係、完全なる罪と罰からの逃走につき此のところつひ考へて仕舞ふのであった。
勿論何もルンペンにまでならずとも準禁治産者にでもなればさうした厄介な社会的義務からは逃れられるのやもしれぬ。
高校時代の親友の一人ー数学の秀才だったーが三十歳位で其の準禁治産者となったのだったがさて彼は今頃どうして居るのだらう?
彼の家は無くなり今風のアパートに変わって仕舞ったが昔は良く彼の家で山崎 ハコの曲を聞かされたものだった。
さて、『一命』は封建社会の矛盾を描く映画として高く評価されるべきものなのだらう。
封建社会に限らず近現代社会に至っても猶日本の社会には特有の矛盾が存して居りつまりは其れは制度的硬直=価値観の硬直化なのではなからうか。
日本人がキチッとした民族であるが故にさうした不器用なところが社会的に構築されて行かざるを得ぬことだらう。
映画では其の封建社会の矛盾又はどうしやうも無ひ制度矛盾を主人公津雲 半四郎が壊れることで突ひて居るのである。
津雲 半四郎の👪は只下級武士として普通に暮らしていたかっただけのことだ。
だが婿としての千々岩 求女は学問があるにも関わらず仕官が叶わず、さらに千々岩の嫁となした娘の美穂は病弱なのだ。
良くあるパターンなのではあらうが結局貧しさに追ひ詰められた上で全てが崩壊するに至る。
父としての津雲 半四郎は婿の仇を討つべく単身井伊家に乗り込み暴れ回った末に討ち死にする。
元より此の死に様にはどんな救ひも無ひ。
江戸時代の平和、安定の裏にはさうした壮絶な個としての闘ひが事実として屡あったことだったらう。
誠実に生き普通に暮らすことだけを望んだ人間をかうして社会は虫けらの如くに抹消していくことすらあるのだ。
言ふまでもなく近代とはそんな理不尽さや矛盾の多ひ時代への改革として始まった何かでもあった筈だ。
近代と其れに連なる現代は人間其れ自体をさうした不条理から救ふ時代として開闢したものであった筈。
なのに、今また同じことが繰り返されて居る。
即ち人間への合理化が、👪が持てるだけの所得を奪ふ。
金儲けの上手ひ大企業と金持ちだけが死んでも数十億の金を握り締め決して其れを離しやしなひ。
また科学的合理化がAI様と云ふ神様をこれから誕生させやうとして居り人間様は其のAI様に比ぶればタダの派遣社員で即ちいつ死んでも良ひことだらう存在なのだ。
コレはもう革命だと確かにさうも思はれるが日本共産党は日本共産党で共産主義思想としての理論的破綻を抱へて居り要するに理論的矛盾を解消するだけの頭の良さには元より欠けて御座らう。
どだい革命思想其のものが大矛盾して居り其れを全世界でやったにせよ世界の滅亡が数年間先延ばしにされるのみで抜本的解決にはとても至らぬ。
ならばどうするかと云ふに、其処は場合によりまるで津雲 半四郎のやうに誰かが切れる場合が今後も屡出て来やう。
だが其れは社会が誤りを硬直化して居るからこそさうなって仕舞ふのだ。
いまひとつはまさしくルンペン化し社会其のものを捨て去る。
米国流の極左思想も其の思想の犬安倍政権も日本共産党の保守性をも全てをかなぐり捨て其処に乞食の楽園をば形成していく他無し。
ちなみに海老蔵さんの場合も確かに随分反抗して居たものだったが若くして奥さんが死んじゃったので其処で物凄く苦しひ思ひをされたものかと思ふ。
だから何でそんなにいつも人間は苦しひのでせう?
わたくしには其れだけが兎に角分からぬ。
其れは社会が罪と罰をさう規定して居るからこそいつも人間は苦しひのです。
だからまず反省すべきは社会の側なのだ。
社会はじぶんの尻も拭へずして其れで良く文明社会だ何だのと威張って居られるものだな。
そんな不条理かつあこぎなことばかりして居て其れで良く文明社会だ何だのと威張って居られるものだな。
左様に右でも左でもなく兎に角社会其のものが悪ひのじゃ。
人間の苦しみ、此の実存としての人間の苦しさを生んで居るのは結局全部が社会のせひだ。
社会を動かす奴等は皆今すぐに引退しルンペンにでもなれ。
いや、其れは間違って居た。
其こそは聖なる道であった。
ルンペンにはわたくしがなる。
其の代わりに君等を全否定してやる。
日本の社会制度の其の全てを全否定してやる。
どうだ、分かったか、はーっはっはっはっはっはーのはーっ。
そんな訳で社会に対し抗議するには二通りの選択しかありません。
いや、事実上もうひとつありました。
確かにじぶんが狂ふと準禁治産者にもなれませう。
即ち切れる、捨てる、狂ふの三種での選択でしか結局はありません。