目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

神の御怒りは此処日本國に届くのか

おそらくは文明の価値観其のものに誤謬があり、其の誤りとはかって釈迦やキリストが指摘して居たものであった可能性が高ひ。

 

即ち其の価値観の誤りにて人類は崩落する。

尤も其れも昔から言はれて居たことであるが、此処に至り初めて現実味を帯びて来たと云ふところだらうか。

 

無論のこと其の価値観の誤りの部分につきこれまでに様々な知性が様々なことを言って来て居る。

 

が、其れもまた様々な話であるばかりで一体何がほんたうのことなのか判然とせぬ。

 

たとへば宗教に於ひても価値観は様々だ。

 

 

たとへば般若心経を重視する宗派ー禅宗密教などーもあれば読誦などしなひ宗派ー浄土教系ーもまたある。

 

かように一体何が何だか分からなくなるのが世の常でもってすでに其処に於ひて価値としての両極化が生じて居やう。

 

つまるところ価値観ー言語による価値ヒエラルキーの設定ー其のものが實は二元化するのである。

 

 

二元化するので、其処に於ひてあくまでキリスト教キリスト教でしかなく仏教は仏教でしか無ひ。

さらにカトリックプロテスタントは二分され、おまけに伝統的キリスト教と異端的キリスト教ー新興の異端的キリスト教をも含むーとに類別されやう。

 

また仏教でも伝統的仏教には顕教密教の差が生じ、さらに新興の仏教と伝統的仏教との差なども大きひ。

 

宗教に限らずあらゆる言語による価値は二元化され価値観の対立ー矛盾ーを生ずる。

 

まさに其れが言語=概念=観念的営為による避けては通れぬ矛盾領域なのだ。

 

 

ところが厳密には人間=ホモ・サピエンスのみが其の観念的営為を今まさに行っておる。

 

其の観念的営為こそが近代以降まさに加速しつつ行われて来た。

 

だとすると我我は今言語による檻の中を生きて居る訳だ。

 

しかも其の檻は自ら設定せし檻である他無し。

 

つまりは観念の檻の中に自らを閉じ込められるに至ったのだ。

 

 

なあんだ、そんなカンタンなことだったのか。

 

其れでは其の檻から脱け出せば良ひだけのこと。

 

いや、其れこそは無理と言ふものだ。

 

第一其の観念化の期間がすでに長きに亘って居やう。

 

実際もう三百年にもなる。

 

 

さう此の言語による全体との断裂が始まってからすでに三百年が経過したのだ。

 

では何故其れが誤った価値観だとさう言ひ得るのか。

 

 

まずは生の推進とは矛盾的駆動によるものである。

矛盾的駆動とは二元的価値の自己矛盾性により諸価値が崩壊しつつ成し遂げられていく破壊的駆動のことだ。

 

即ち矛盾的駆動とは破壊的駆動のことだ。

 

故に其れは創造でも無く命の誕生でも無く維持ですら無ひ。

 

要するに与へられた生ー物質的なまた精神的な価値ーを食ひ潰し磨り潰していく過程なのだ。

 

謂わば其れはユダヤ教又はキリスト教で謂われるところでの罪の過程としてあくまで外面的にはさう認識されやう。

 

 

其のやうなゴクツブシとしての価値観を人間は生きて居らざるを得ぬ。

 

其れが数千年に亘り文明に於ひて行われた後に其の価値の追求は新たなる段階へと至った。

 

即ち純粋なる抽象的価値の實現である。

 

其の抽象的な価値の追求は果たして何を齎すのであらう?

 

元より其れは破壊的駆動の最大化を意味する。

即ち矛盾が最大化する方向へと自ら歩を進めたのだった。

 

謂わばじぶんでじぶんを檻の中へ閉じ込め自滅するのを待って居る様だらう。

 

故に言語による矛盾としての観念は、意識した上で其れを社会化などしてはならぬ。

 

何故なら観念が社会化した途端其れが矛盾を加速させやうからだ。

 

 

其れは観念の暴走とさう捉へる方が分かり易ひことかと思ふ。

此の観念の暴走こそがホモ・サピエンス=原生人類としての宿業である。

 

 

ホモ・サピエンス元々社会化することが得意な種であった。

 

社会化としての諸制度の構築と同時に宗教的にさへ価値観を構築することが出来た。

 

故にこそ其処には破壊的駆動力が大きく蓄へられ矛盾化する度が甚だしひのだとも言へやう。

 

だからこそもっともっと注意深くあらねばならなかった。

 

二元化された価値が矛盾を生み破壊を引き起こさぬやうなるべく大人しくして居るべきであった。

 

アノ植物かまたはサルのやうに。

 

 

尤もサルは所詮はサルなので地球を壊したりは金輪際せぬ。

だが地球を壊しつつ其れでもさうしてヘラヘラと笑って御座る君等ホモ・サピエンスとは一体何処まで馬鹿野郎なのだ。

 

ですから、其の観念の扱ひ、観念の持ち様がオカシヒ故に我我は此の母なる地球と仲良く出来ずむしろ其れを傷付けて来て居る訳だ。

 

自然→非概念的=本能に生きる。本能的矛盾にて変化するが進歩はせず。故にほぼ永久に循環していくもの。但し本質的には空であり無常。

人間→特に近代以降は概念ー言語=観念ーを生きる。本能的矛盾にて変化ししかも進歩を目指す=観念的にも矛盾する。但し本質的には空であり無常。

 

 

其の変化ー無常であることーこそが限定性の根拠です。

 

即ち生命は限定されて居る。

 

其処に不満があるのが人間なのであり、自然は其処に不満を持ちません。

 

何故不満なのかと云ふにすでに須らく頭の中身を概念化して居る訳です。

 

其の観念的営為にこそ最大の危険が潜んで居ます。

 

即ち観念的営為を社会化ーよりデカくーすることにより大破壊が生じて参ります。

 

 

進歩とは其の観念的営為のさらなる純粋化であり謂わば結晶化すると云ふこと。

なんですが、無論のこと其処までしている生命は此の宇宙広しと雖も人間のみ。

 

では宇宙人はどうかと言われるが宇宙人も皆人間と同じやうに文明化致しましたが全部が全部皆同じやうに自滅しましたのでまたは今後も自滅いたしますのでそんなものはもう何処にも居なひと考へておくべきだらう。

 

此の観念の持つ力の両義性ー創造と破壊ー、まさにコレこそが人類にとり大問題なのです。

 

即ち観念的営為こそが矛盾ー破壊へと至る創造ーを最大限に加速させる元凶なのです。

 

だが理性もまた大事なのでは?

 

ですから理性もまた二元化されて居るものなのだ。

 

 

事実として理性は原始退行し易ひのだ。

理性の意義は確かに存して居るのだが現在社会化されるに及んだのが分析的に推進される合理的理性である。

 

合理的理性を其の侭に推進すれば諸の破壊は益々推進されていくことであらう。

 

人文や歴史過程と云った経験としての知の集積をむしろ社会化していくべきなのであり、さうでもしなければ社会の抽象的進歩を押し止めることなど出来ぬ相談だ。

 

 

より本質的には生命現象とは謂わば破壊の拡張であり最終的には自らを地獄へと導く矛盾其のもののことだ。

 

だから聖なる者は其の邪悪なる原理を悟った上で何とか其れを食ひ止めやうとして来た。

 

 

釈迦は解脱しかつ解脱することを人間に対し勧めキリストは神に祝福されし世界への復帰である救済を説ひた。

 

社会化した範囲で行われ得る文明による抽象的な進歩こそが其の観念的破壊其のものであり邪悪なるもの、即ち神に背き佛を謗ることだらう宇宙一の間違ひ其のものなのだ。

 

 

其の矛盾的駆動を巻き戻した方が良ひのですか?

 

そんなものもはや巻き戻せやせぬ。

サルにも戻れる筈がないわな。

 

どだひホモ・サピエンスホモ・サピエンスだわな。

 

さうしてどうもホモ・サピエンスには二面性が大きくある。

 

即ち聖なるものと邪悪なるものとの両面が其処に存しておる。

 

要するに何処か👩っぽい。

 

 

其の👩を避けよ、と弐聖人はかって仰った。

 

 

では👩を避け同時にホモ・サピエンスであることを辞めればほんたうのさいわひが其処に訪れるものなのでせうか?

 

いや、さうでは無ひ。

 

まずは観念的営為としての抽象的社会化を今すぐに止めよ。

 

即ちシンポの全てを捨て去れ。

 

抽象的願望を捨て去り信仰に生きるのだ。

 

さすれば👩もまた信仰の道連れじゃ。

 

ホモ・サピエンスであることもまた信仰の発露じゃとて。

 

 

さて其の観念的営為による破壊的駆動により達成される価値とは何か。

 

あくまで其れは無価値でせう。

 

そも無価値なところへ価値ヒエラルキーを構築して居るのであるから無価値でせう。

 

感覚的にはかう捉へられる。

 

たとへば美しくならうとして部分的に整形しまたアデランスして植毛し見栄えを良くしてみました。

 

が、どうせ皆約八十歳で死にませう。

 

見栄えと云ふのは外面的な価値ですので本来ならばどうでも良ひやうなことですがむしろ其れに拘るのが社会であり文明の価値観と云ふものだ。

 

 

たとへばより金が欲しひ。

 

生き抜く為には確かに欲しひが必要以上には要らぬ。

何故ならあり過ぎる金は人間の心を壊すからだ。

 

 

またより長生きがしたひ。

 

「長生きがしたひ」と云ふ価値観其のものが顛倒しておる。

「長生きがしたひ」のでは無く長生きは結果としてするものであり願望又は欲望の類なのでは無ひ。

 

 

より高級な生活がしたひ。

 

アンタ自身の頭の中身=価値観が低級な侭でどんな高級住宅街に住もうと高級な生活なんぞまるであり得ぬことだわ。

 

 

さて其の純粋なる抽象的価値の實現は今後の我我に一体何を齎すのであらう?

 

無論のこと其れは何も齎しはしなひ。

 

我我はすでに多くを持ち過ぎて居る。

 

持ち過ぎて居るが故にむしろ全体への罪を背負って居る。

 

 

故にさらなる抽象的価値の上塗りは不要じゃ。

 

其処で必要なのはむしろ断捨離ぞ。

 

断捨離するには何を捨て何を残すかと云ふ其の選択こそが大事なこととならう。

 

其の選択を真に理性的に行ふことが出来るか否かと云ふ部分のみが大事。

 

 

かように人間の営為を突き詰めて辿る場合に、其の認識上の瑕疵性、負債の様が否応なく炙り出されて来やう。

 

まさに其れは不具性と言っても良ひやうなものだ。

 

其れが何かと言へばまさに其れこそが抽象的願望なのだ。

 

 

腹が減った。-本能-

女に触りたひ。-本能-

植物が好きだ。-個性-

地下鉄が嫌ひだ。-個性-

大衆は馬鹿だ。-事実-

利口も馬鹿だ。-事実-

 

経済成長したひ。ー抽象的願望ー

オリムピックを是非やりたひ。ー抽象的願望ー

宇宙へ移住したひ。ー抽象的願望ー

必要以上に長生きしたひ。ー抽象的願望ー

必要以上に幸せになりたひ。ー抽象的願望ー

神のやうになりたひ。ー抽象的願望ー

優生思想ー抽象的願望ー

帝国主義ー抽象的願望ー

現代のバビロンー抽象的願望ー

 

 

此の抽象的願望を決して社会化などしてはならぬ。

 

抽象的願望は必ずや個の範囲に留めておけ。

 

抽象的な諸の価値の追求、謂わば其れこそが罪であり煩悩だ。

 

 

 

また其のデカひ抽象的欲望を持つ文明は必ずや神の怒りにより滅ぼされやう!

 

かっては放恣なる肉欲に溺れしソドム及びゴモラが滅ぼされし訳「ソドムとゴモラの破壊」だが今度こそはおそらく我我の番だ。創世記の真実―ソドムとゴモラの滅びは神話か?天の火、塩の柱、ロトの妻

 

 

ユダヤ教から連綿として続く一神教の神は必ずや怒りさうして裁きを下す。

 

其処にはさうした二面性が観念的に拡がるとみて置ひた方が良ひ。

 

神とはそんな抽象的な概念なのでより純粋に創造と破壊、善と悪また聖と俗との境界線上を彷徨ひまさにどちらにも転ぶことだらう観念的存在なのだ。

第一悪魔と云ふものは堕天使なのでもある。

 

神は佛のやうにある意味では具象的な救ひなのではなく謂わば人間の精神其のものに畳まれし抽象的能力としての罪への救ひの象徴なのだ。

 

であるから逆に社会的に其れは関与し人間に救ひをもたらすと同時に文明をも滅ぼす力を兼ね供へて居やう。

 

 

かように抽象的願望としての負債=罪により我我の営為は特に社会的な営為はまさに矛盾化し悪へと傾ひていくのだ。

 

其の歴史過程は我我にとり無関係なのではなく我我とてすでにしかと其の神が創造しさうして時が至れば破壊すらをも被る二元的な世界観としての文明に深く与して来て居るのだ。

 

従ってすでに神社詣で、お寺巡りなどでは解決のならぬ段階へと實は我我は歩を進めておる。

 

他ならぬ我我自身が西欧近代から現代へと至る文明の構成員でありかつ神の御怒りの対象物なのだ。

 

 

だからまずは神への祈りを捧げよ。

 

其れも八百万の神とか仏法の守護神とかそんなものに祈る位ではまるで埒が明かぬ。

 

兎に角ヤハウェの神に祈りを捧げ日本國の滅亡、日本大沈没と云った大惨事が引き起こされることの無きやう必ずや地にひれ伏した上で祈るのじゃ。

 

さうして何処までも何処までも地にひれ伏した上で祈る。

 

どうかどうか良ひ御縁がありますやうに。

 

 

とかそんなことでは金輪際無ひ。

 

どうかどうか神の御怒りによりかの日本國が崩壊しませんやうに。

 

と必ずやさう祈るのじゃ。

まずは禊をしてからしかとさう祈るのじゃ。