ズバリ言って文明がとても大事なものである、其れは何か高等なものである、と云った認識は生命の負の側面を見詰めて居なひ認識であり謂わば其れは片手落ちでのものです。
まず何が平和だと言って石や植物程平和なものもまたありません。
但し植物は生命体ですので其処で其れなりに生きることに対して色んなアクドひことをまた致します。
其れこそ虫を捕へて食ふ=消化する植物もまたあり、或はアルカロイドなど出して他の植物が周りに生へて来ぬやうにしたりで奴等は存外に根性が悪ひものだ。
兎に角毒など良く撒き散らして居りますので少なくとも聖なる生命体では無ひことでせう。
但し動物に比せば明らかに彼等は穏やかでありかつ静かでありもの言わぬ故にこそかへって上品でもある。
かように言葉と云ふものは何処か下品なところがあり、其の下品なるコトバにて概念化する他は無ひ人間など所詮は其れだけのものであるに過ぎぬことだらう。
ですので、其の植物の上品なる様はまさにコトバ以前での静謐さを湛て居る様なのです。
尤も植物は生きて居りますので雌雄もあれば生殖だってします。
其処からすれば石はもうほんたうに静かですねえ。
何せ生きて居なひので水すら飲みません。
其の静けさはおそらく物理的なものの持つ静けさなのでせう。
水や雲の流れや星々の瞬きにもあるやうに無情ー非情ーのものはそんな風に皆静けさに包まれて居ます。
たとえ灼熱の陽光や火山の爆発などでさへ本質的には静かなものだとわたくしにはさう捉へられる。
対する生命現象は兎に角ウルサくある意味では煩わしひ。
ところが、有情のものは無情のものには無ひ感情的且つ観念的な意味での世界観を其処に構築することが出来る。
尤も其処もまた二元的に解釈される訳です。
逆に言へば感情的、観念的な意味での世界観を其処に構築すること自体が要らぬこと=余分なことでありむしろ世界にとっての破壊活動だとさう結論付けることさへもが可能だ。
そんな訳で人間其れ自体が様々な破壊を齎し悪ひものだと言ふ以上により大きく捉へた場合に其の有情の本質としての積極的関与のあり方、世界への積極的な=前向きな姿勢と云ふ部分の是非が問われて来るのであります。
即ちサルのまたイノシシの或は鯨のさうして他の動物の其の如何にもしぶとひ生き様、即ち欲が深く性欲が強くエサも沢山食ふと云った其の罪深き欲望の領域のデカさ、さうしてケモノ臭さ。
其のケモノ臭ひものこそが人間に乗り移りかうして自然を破壊しても其れを顧みることの無ひやうな現在をつくり上げて居ることでせう。
此のケモノ臭ひケモノである人間が抽象的に観念欲を極大化させていきます故余計に社会は混乱し常にウルサくしかも煩わしひ。
さて其の積極的ー能動的ーな世界への関与とは何でせう?
よりエネルギーの高ひ世界への関与の仕方こそがより高等なものであるとさう結論付けられるのでせうか。
然し植物型生命は少なくともさうした道を歩んでは居なひ訳です。
左様に庭でも山でもとりあへずは兎に角植物は静かです。
生きて居る割には兎に角静かでもって穏やかです。
其の静けさと其の対となる概念のウルサさ、積極性とは或は元々其処に破壊性、破壊衝動を内に秘めたものなのかもしれません。
物事は拡がる=規模が大きくなる、か又は激しくなる=より能動的になる、につれ「全体」に対する破壊性を増すと以前からわたくしは考へて来ました。
わたくしが感じて居たのは、其れも幼き頃よりずっと感じて居たのは其の破壊其のものへの虞だったのではなかったか。
能動型生命と受動型生命、此の二種の生命が今地球上で現象して居ます。
無論のこと文明などと云ふ大それたものを創り上げたのは能動型生命である其れも人間のみでのこと。
ところで人間は其れも文明は一体何でこんなにウルサひのでせう?
全くウルサひつまりは常に耳障りな音を立て其の行動がまるで上品では無ひ。
尚「コトバ以前での静謐さ」は植物に限らず人間以外の生命ならば皆兼ね備へて居ることだ。
たとへサルでもさうなのだ。
サルなど結構ウルサひだらう、ウッキッキィーとかキャッ、キャッとかで。
左様サルは人間の前身なのだからな。
サルは然し言語を持っては居らぬ。
むしろ其の言語こそが問題だ。
ヒョッとすれば其の言語を持つ奴等=人間こそがサイコーに悪ひ何者かなのではなひかひな。
なんとなれば言語つまり概念により構築されし世界観は必ずや二元的価値に分裂ー分離ーされやう。
元々世界への積極的関与を伴ふ能動型生命の本質とは其の矛盾的推進にこそあらう。
ところが人間の場合には其の能動性が言語分裂ー相対分離ーによりより加速され行われて来ておる。
まさに其れは謂わば二重の分裂であり分離なのだ。
即ち「より良ひ世界をつくり上げる」ことこそが其の高等な?どーぶつとしての人間様の生の目的である訳だが實は「より良ひ世界をつくり上げる」行ひ又は願望にこそおそろしひ大矛盾ー大分裂ーが組み込まれておったのだった。
ああー、くわばら、くわばら。
もはやこのままでは外を一歩も歩けやしなひ。
「より良ひ世界をつくり上げる」概念の一方での極とは無論のこと其れは「世界をブチ壊す」こと其れ以外に無ひ。
よって我我シンポしたサルは「より良ひ世界をつくり上げる」と同時に「世界をブチ壊す」ことを必然として其処に行って来た訳だ。
なる程、確かにさうだわな。
確かにブチ壊して来ておるわひな。
必ず良くなりますよ、其のうちに給料も上がりますよ、間違ひ無く全部が正しひ方向へと進んで居りますよ。
馬鹿野郎、其れがそも間違ひなんだ。
だから「より良ひ世界をつくり上げる」のではなく「より悪ひ世界をつくり上げる」ことを考へた方がまだしも良ひ位だ。
と言ふよりも其の能動的自我を止めてサアサ今すぐにサルに戻れ。
サルに戻れば此の世はバラ色ぞ。
但しサルに戻ればもはや此の世は不平等の巣窟ぞ。
尤もサルに戻れば其の危険な、極めて危険な矛盾的推進を止めることさへもが出来やう。
止めよ、止めよ、おまへはタダのサルだ、もはやサル以外のことを金輪際止めよ。
結果として止まりません。
今私達にはどうしても車が要りPCが要り飛行機が要りスマフォが要ります。
PCだけは認める。
だが他は全部要らぬ。
何故ならわたくしは其れ等を使わぬからだ。
さて植物型生命はいまひとつの進化の道筋を或は歩んで居るのやもしれぬ。
即ち受動型生命としての進化を今も着々と進めて居ることだらう。
だが今後生態系の綻びなり温暖化による生化学的なダメージにより植物型生命が今世紀の末までに滅ぶ虞さへもが出て来て居やう。
だから今から百年後に此の地球がどうなって居るかなんてのはまるでこれまでの希望的観測など通用するべくも無く実際頭の良ひ自然科学者達はかへって絶望的な結論に傾ひて居たりもするのである。
ーわたくしはかって電力会社の研究所に14年間勤めて居た。但し科学者でも無ひし専門職なのでもなひ。其処で謂わば下っ端の仕事をして居たが其の頃に文系人間として自然科学を吸収する機会だけは与へられて居た。ー
受動型生命としての植物と能動二乗型動物としての能動ー即ち肉体的能動と観念的能動との複合型ー生命としての人間はさてどちらが生き残るのであらうや?
だから人間では生き残れぬからなるべく早うサルに戻れ!
おっさるのーかーごやだーほーいさっさー、
ほーいほいほいほいさっさー♪