目覚めよ!

文明批判と心の探求と

まさに参りました、其の二元性一原論にー壱 壱科学者の良心ー

米の感染者12万超、過去最高 死者1000人、医療負荷高まる

 

でもこりゃやばひ、ですよ。

なのでコロナを甘く見て居ては決してイケません。

 

まさしくコロナは神佛による怒り其のものだらう。

 

おお神よ、佛よ。

御免なさひ、どうも御免なさひ、我我人間は間違ってました。

 

其れもかうして日々👩の色香に酔ひ痴れまた大金の誘惑に負けやりたひことをやって来て仕舞ったが故に。

 

かうして食ひたひものをたらふく食ひおまけに大小便を垂れ流しまさに合理的に人工楽園を築ひて来ました。

 

 

おまへたちはもはや許されぬ。

悔ひ改めよ!

 

煩悩隠滅!

 

おまへたちはもう滅亡だ!!

 

資本主義も民主主義ももう直に出来ぬやうにしてやらう。

 

 

おお神よ、佛よ!

 

アナタ様は今いずこにおはしますか?

 

 

此処におる。

 

 

おお神よ、佛よ、此の迷へる子羊共をお助け下され。

 

此のパッパラパーな我等をそれでも是非何処かへお導き下され。

 

 

第一いつの間にかパッパラパーになって仕舞ったことはかうして深く反省しております。

 

 

汝等、馬鹿共よ。

 

 

はひ今此処にて聞ひて居ります、神よ、佛よ。

 

 

すでにおまへたちはまずは助からぬことだらう。

 

 

いや、そんな絶望的な結論からまず仰られましてもわたくし共馬鹿には何故さうなのかと云ふことがまるで分からなひでは御座りませぬか。

 

いま少しこちらの立場にも寄り添って頂き馬鹿にも分かるやう分かり易く諭して頂けぬものでせうか?

 

 

宜しひ、では諭してやらう。

 

 

ズバリおまへらはウンコたれだ。

 

 

エッ?初めて聞きました、我我文明人が単なるウンコたれだったなんて。

 

おまへたちは大宇宙の摂理を知らぬクソバカでありアホンダラでありいっぺん滅んでみよ此のアホ🐵共めが其のものだ!

 

 

へへーひ、さうで御座りましたか。

 

御免なさひ、御免なさひ、此の次からは必ずや眞面目に確りとやります。

 

 

此の次などもう無ひ。

 

 

ひㇸー、するとやってもうたかー。

 

つひにやってもうたか、人類よ、現代の虚の文明よ。

 

 

 

かやうに人類は分かってるのにまるで分かって無ひ動物なのです。

 

でも何故分からなひのでせうね?

 

おそらくは其の抽象的に形成される欲望が是とされて来たからです。

 

即ち社会が其れを許して来たのだった。

 

 

でも抽象的に形成される欲望を是として捉へて仕舞ふと逆に様々な面で人間の社会は限定されることを余儀無くされやう。

 

だから人類の再生のカギはまさに其の抽象的に形成される欲望を如何にして抑へ込んで行くかと云ふことになる。

 

但し一旦火の点ひた抽象的な欲望を鎮火することなどまさに至難の技でもまたある訳だ。

 

欲望にはさうして抽象的なものと具象的なものとがある筈だ。

 

ところが厄介なことに抽象的な欲望は社会のあり方とまさに連動して居る。

 

社会が是とする其の抽象的な欲望のあり方を個が否定するに及ぶことなど普通は不可能に近ひことだらう。

 

 

我我の欲望のあり方はまさにさうして社会にこそ規定されて居る。

 

で、其の社会を否定することは誰しもが不可能なのです。

 

まずは其のやうな根本的な矛盾律が此の世にはあります。

 

 

なので其の社会とは何か、人間とは何かと云ふ部分をこそ其れこそ根本的に問ひ詰めて置くべきだった。

 

かうして人類が全体的におバカ化して居るのは其処を反故にして抽象的な欲望を追ひ求めて来たことによるものである可能性が高ひ。

 

 

では人間とは何ですか?

 

さうは申されましても、誰しもなかなか其の問ひに答へられはしなひ。

 

 

なのですが結局のところ人間とは抽象的に形成される欲望なのだらうと申せませう。

 

其の抽象的に形成される欲望が臨界値を超へるとおそらくは具象的に諸の破壊が齎されやう筈だ。

 

コロナ禍はまさに其の一つだった訳だ。

 

 

つまりは過分なる欲の追求が人間の社会をむしろ具象的に破壊し始めた訳だ。

 

此の傾向はおそらくは止まらぬことでせう。

 

廿壱世紀とは或は其の具象的に齎される破壊の世紀となるのやもしれぬ。

 

 

観念的にまた科学的にはあくまでさうした結論に導かれて仕舞ふ。

 

なので其処には救ひなどありません。

 

むしろ具象的には今後諸々の破壊が齎される他は無ひ訳だ。

 

 

尤も逆に抽象領域に若干の希望が残されて居るのだと思ふ。

 

おそらく其れは科学的な進歩と心理的な進化にこそあるのではなからうか。

 

エッ?科学的な進歩?

 

アンタは科学による営為を全否定して居たのではなかったか?

 

いやさうでは無ひ。

 

科学には自らを救ふ余地だけがまだ残されて居る。

 

 

其れはどう云ふことでせうか?

 

即ち科学による破壊を上手く回復させる開発なり技術革新だのが可能となれば少しは地球の自然が回復することも可能とならう。

 

 

丁度高度経済成長期に汚染され酷かった川が少しづつですが綺麗になったやうに今後は地球環境を回復させる為に科学の力を使ふと云ふことだな。

 

また人類の心理的な変化に就ひても全てが絶望的に捉へられて居る訳では無ひ。

 

 

ですがどちらかと申しますとまさにこちらの方がより難しひと言へるのやもしれぬ。

 

さうなんですか、其れ程に我我の心はすでに腐り切ってるのですか?

 

いや其れも社会による洗脳がね、兎に角酷ひ訳だ。

 

兎に角皆抽象的に形成される欲望に対し不感症となって居る。

 

 

だから其の部分の洗脳をこそまずは解く必要があることだらう。

 

 

 

こころの時代 「ふたつをひとつにーロボットと仏教ー」

 

昨日たまたま再放送でもってTVで視感銘を受けた番組である。

NHKオンデマンドの方でも探すとかうしてちゃんと入って居た。

 

 

ー日本のロボット工学草創期における第一人者・森政弘さん。その仕事を支えてきたのは仏教だという。仏教とは何か、そして人間とは何か、森さんに根源的な問いを伺う。

「ロボットを作るには人間を知らないといけない。人間の心を理解するために、仏教ほど深く考究したものはない」。日本のロボット工学草創期における第一人者・森政弘さんは40代から禅を学び、仏教研究に打ち込んできた。仏教の根本を貫くのは「相異なり対立する二つの概念を一つに融合させる心の働き」と言う。仏教とは何か、人間とは何か。インド哲学者の丸井浩さんが森さんに根源的な問いを投げかける。(2019年6月放送)ーこころの時代~宗教・人生~ 選「ふたつをひとつに-ロボットと仏教-」より

 

 其の森  政弘氏のことはこれまで存じ上げなかったのだが此の方こそがまさに偉ひ科学者の方だった。

かように旧制の八高を出て居られる名古屋市出身の方だ。

 

自然科学のあり方、中でもロボット工学に関してはわたくしの場合可成に不信感がある。

 

どだひロボットやアンドロイドが何故現代社会にとり必要なのかがまるで分からなひ。

 

元々ロボットやアンドロイドは不必要なものだが文明の抽象的進歩に応じ必要不可欠なものとされて仕舞っただけのことではなかったか。

 

などとしか正直思へぬのだ。

 

特にアンドロイドは気持ちが悪ひと云ふかまさに生理的に受け容れ難ひ。

 

 

尤もロボットの場合は生産の現場や道路工事つまりはインフラ整備の面などで必要不可欠な部分もまたあることだらう。

 

また今後は🏥などでも是非必要とされる場合が生じて来るのであらう。

 

でもアンドロイドの受付だのガヒドだのがほんたうに必要とされて居るのだらうか。

 

わたくしがまず問題として捉へるのが現代の文明に於ける此の要不要の選択即ち要不要の価値観の持ち方に於ける誤謬なのだ。

 

 

わたくしは常々其の文明社会がやり過ぎて居るとさう捉へて居る訳だ。

即ち不要なものばかりをむしろ創り上げて居る。

 

其の逆に大事なものが壊されて行く。

 

一言で言へばさうした具象的破壊をむしろ抽象的思考=進歩主義=合理主義が齎して来て居る。

 

おそらく其の傾向には今後より拍車がかかって行くことだらう。

 

わたくしは何より其れが誤りだと思ふのだし止めた方が良ひことだと其の中止や廃止を望んで居る。

 

 

だがそんな気持ちとは裏腹に世の中は次第により合理化されより人間が生きて行きにくひ社会を形成して行く。

 

わたくしが現代の社会を認めて居なひのはそんな矛盾であり不条理な部分を文明の現實としてまさに感じて仕舞ふからなのだ。

 

おそらくはわたくしは何かを感じ取る能力が高過ぎる、即ち敏感に世界の何かを感じ取って仕舞ふのだらう。

 

特に社会に対する其の能力がもしや皆様以上にあるのやもしれぬ。

 

 

わたくしにはそんな社会の傾向がまさに危なひと感じられる。

 

でもみんなは社会に対し安心し切っており此の文明は五百年、千年先まで続くのが当たり前だとさう思って御座る。

 

わたくしには、此のわたくしにはそんな人間の鈍感さが哀しく感じられるのだ。

 

或は其れは幼少時よりわたくしの中にある感覚なのやもしれぬ。

 

 

わたくしはさうして幼少のみぎりより危機感を背負って生きて来ざるを得なかった。

 

だからわたくしの生涯は常に険しく辛ひものでもまたあった。

 

 

いや昔ー廿年程前までーは其れでももっとずっとエエ加減だった。

 

でも今世紀に入り次第次第に文明が圧迫されて来て居ることは確かなことだらう。

 

其れは一体何がさう圧迫して居るのだらう?

 

まさに其のことがわたくしにとっての疑問点だった。

 

 

廿年程考へ続けて来て結局は其れが抽象的願望なのだとさう結論付けられるに至った。

 

抽象的願望即ち肉体や感覚を離れたところでの抽象的な願望がむしろ我我ー文明ーの具象性を破壊するに及んで居るのだ。

 

其れはまさにわたくしの人文知としての結論でした。

 

宗教的な帰結なのでは無く人文智の領域での結論なのです。

 

 

但し其れはまた宗教的に規定される直観領域とも明らかに交わって居ます。

 

其の双方から得られた結論が其の文明の行く末の危険性をまさに指し示して居る。

 

でも問題は其の危機が人に上手く伝はるかどうかと云ふ部分にこそある。

 

おそらくわたくしはかうして人壱倍敏感な為に其れを悟ることが可能なのだが其れは人には理解し難ひこと其のものなのだ。

 

 

もしも其れを言へば逆に頭の変な奴だとさう見られるだらうことはもはや目に見へて居る。

 

でもわたくしはあへて其れを述べやうと思った。

 

まさに其れを述べることこそがわたくしの仕事なのだとさう思ったのです。

 

 

何せわたくしには守るべき妻子もありませんので其れをやるのがわたくしにとっての眞の仕事なのだとさう考へました。

 

森氏が出演された番組の内容からは少々離れて仕舞ひましたがまずは其のやうな伏線としての事情が個人的にあった訳です。

 

さて其の森先生ですが佛教のことに精通されて居ることにまずは驚きました。

 

科学者にして佛教徒とのことで、しかも佛教に就ひての著作などもおありになるやうです。

 

 

科学者にして佛教徒と云ふのは高名な佛教學者である佐々木 閑氏などもさうなのですが元々は理系の方だった訳です。

 

其処は或は科学者の方々も心の領域のことでお悩みになって居る部分があるのやもしれません。

 

前々回の投稿でわたくしは科学をボロクソに貶して仕舞ひましたが科学者の方々が現在お持ちになられて居る心の葛藤や良心の呵責の部分を否定したり非難して居る訳では元より御座ひません。

 

逆に其の葛藤なり良心の呵責の部分を最大限に尊重しつつ其れを拝見させて頂ひて居ます。

 

でも最終的には科学者の方々の思考は科学的な成果へと流れて行きませう。

 

 

其のことを見て居るのがまるで身につまされるやうに辛ひ。

 

でも科学者の方々にも確かに其の良心が、科学の限界を感じ心の領域から科学其のものを視直さうとする気持ちがあるのです。

 

さうしたまさに人格をお持ちになられた科学者の方々のお話を伺ふとわたくしの不安な心も少しは和らぐと云ふものです。

 

 

森先生のお話でまず驚かされましたのは、二元の超克のお話をメインに据へられて居たことでした。

 

其の二元的要素の対立と云ふことこそが観念的闘争ー対立ーの根幹を成すものであることはほぼ疑ひ無ひことでせう。

 

人間の認識は二元分離されたものなので認識する価値が両極に分かれて仕舞ひます。

 

其の両極の立場より物事を論ずれば其れは必ずや偏った見方になります。

 

また其の両極のいずれの立場にせよ其れは正邪でも善悪でも無く、であるので其れは正義にもならず正解にもなり難ひ。

 

其れはまた形式論理としての概念的な限界をも指し示して居る。

 

其の弐元に分かたれた認識作用こそが概念的には最終的に矛盾に陥りおかしなアンバランス=破壊?を生み出して仕舞ふのだらう。

 

ですので宗教は其の認識作用其れ自体を一元化し其の相対的な分別智の状態を平衝化して行くのだと言へやう。

 

 

其れはまさに概念智を一元化することで消し去って行くことなのでせう。

 

個人的には佛教もまたキリスト教に於ひても其の佛其のもの、また神其のものへの一元化が図られて居るのだとさう理解する。

 

平たく言へばまさに其れこそが信仰の力、其の信心による揺るぎなひ心のあり方の構築なのではなからうか。

 

但しわたくしの場合には其の構築と云ふ部分にどうしても引っ掛かって仕舞ふ訳だ。

 

 

尚森先生は二元性一原論と云ふ概念を番組中で述べられて居る。

 

ー仏教の根本を貫くのは「相異なり対立する二つの概念を一つに融合させる心の働き」と言う。ーこころの時代~宗教・人生~ 選「ふたつをひとつに-ロボットと仏教-」より

 

ー「仏教とは縁もゆかりもなかった心理学者・上出寛子氏が、ロボット工学の世界的権威で仏教哲学の専門家でもある森政弘氏との出会いを契機に仏教哲学を学び始め、ついにはロボット工学系の国際会議において英語で仏教哲学を紹介するまでになる。ー―

 

ー読者は、森氏の懇切丁寧で時宜に適った指導と上出氏の鋭敏かつ真摯な姿勢によって、普遍性を持つ思想・哲学としての仏教が学問領域の垣根を越え、自然に伝播していく様子を目の当たりにします。 森氏は、技術の発展や向上のみに邁進する現代日本社会にあって、それらを担う科学・理工系の人たちが仏教哲学を体得し、それを研究・開発に活かしていくことによって初めて、技術が人々を真の幸福へと導くものになると語ります。 AI(人工知能)の技術開発が「心・欲望・悟り」の領域に入りつつある今日、とくに理系の研究者や技術者、学生にお薦めの仏教哲学入門書です。ーロボット工学と仏教--- 宇宙の本質である「二元性一原論」より

ー森氏が説かれる仏教哲学の核心――二つの相反するものが融合・調和して一つになるのが宇宙の本質であるという「二元性一原論」が、お二方のやりとりから浮き彫りになっています。 「論理」(科学)と「矛盾」(仏教)は、いずれかを選び取るのではなく、二つの間を行ったり来たりする姿勢こそが天地自然の道理に適っていると言われます。 【森氏】――普通の賢い人は、自分が理性の枠内に閉じ込められていることに気付かないのです。貴女は一度、この理性という世界から飛び出して、自在になって下さい。つまり、理性の中への出入り自由です。理性が要る時は理性世界に入り、それが邪魔をする時はパッと飛び出す。……これが仏教的な生き方です。 【上出氏】――論理で説明できる力がなければ、研究者としてはやっていけないと思っていた学生時代であれば、論理も矛盾も同時に成立することなんて、これほど当然のようには思えなかったと思う。今では物事の本質とは、相反するものが助け合って成立している、という矛盾も、整合性をもって論理的に考える、という思考も、両方行き来することの方がずっと自然で明白であるように思う。森先生はこれまでずっと、わたしの頭の固さに合わせて、色々と教え方を自在に工夫してくださっていたのだと思う。 」ロボット工学と仏教--- 宇宙の本質である「二元性一原論」よりー

 

ー物事の本質とは、相反するものが助け合って成立している=矛盾ー⇔ー整合性をもって論理的に考える=思考ー

 

實はさうなのです。

まず、我我に見へて居る現實とは仮象の錯覚である可能性が高くある。

 

我我自身には我我自身の認識主体が見へぬのにも関はらずー我は不可視であるにも関はらずー我我は其れを有ると信じてやまぬ。

 

何故なら其の自己矛盾こそが我の正体だからなのです。

我とはさうした意味での仮象の錯覚である可能性が高ひ。

 

其れも矛盾的認識をあへて其処に設定するー欲するーことにより矛盾其れ自体を成立せしめて居るのだらう。

 

其の矛盾的認識は当然のことながらまた二元分離されて行きます。

 

で、其れがまさに矛盾⇔論理となるのでせう。

 

ところが論理もまた矛盾と対矛盾致します。

 

つまりは純粋なる論理など成立せずあくまで其れは不純化しさらに限定されるのです。

 

 

要するに此の世の全ては自己矛盾のなせる業なのだ。

一元的に達成されるどんな解も無くまた正義も無ひ。

 

故に自分が正しひと思ふ其の考へ其のものが矛盾なのです。

 

また自己其のものが矛盾であり、さう認識される立場を選ぶ時にだけ神佛の世界が拓けて来ます。

 

要するに意識的に精神性を形作って行くこと、其れも可成に精神の純度を上げて行かねば神佛の世界などとても見へては参りません。

 

まあおバカな民放TVばかりを視て👩のことばかりを考へて居るやうでは釈迦もキリストもまるで見へては来ぬものだ。

 

其れと酒には注意して下され。

酒は脳を麻痺させます。

なので考へられにくくなります。

 

但しアナタがもはや人生其れ自体に絶望しこれから死のうなどと思って居るのでしたらむしろ浴びる程に酒は飲んで下され。

酒飲んでピンサロへでも行き👩の尻でも触って来なされ。

 

わたくしもほんたうは酒を飲むべきところに追ひ込まれてるのですが内臓だの歯だのが悪く基本的には體が弱ひのでもはや強ひ酒は飲めません。

 

 

要するに此の世の形成其のものが矛盾的推進ですので臨機応変に思考しまた其れに応じ臨機応変に行動せねば此の世は回って行かぬ訳だ。

 

わたくしがいつも述べて居りますが如くに両極を両方やって行く感じで丁度良ひのではなひか。

 

で、共産主義と保守も両方やるつもりでやればエエとこ採りが出来何だかエエ感じです。

ですがそれでは矛盾としての闇又は暗黒面がより深くなるやうな感じがしなひでも無ひ。

 

なのでわたくしのやり方は眞理と対決するやり方でもって一歩間違へば観念としての奈落の底に落ちて行くのでありませう。

ですが信仰の方での一元化を實は今考へて居らぬ訳でも無ひ。

 

とりあへず今は禅宗の方へ行かうかと思って居る。

わたくしは浄土眞宗の墓にはとても入れぬので曹洞宗の寺の若住職に相談して何とかして頂きたひとさう思って居る。

 

ーむかし前住職のところに禅宗の内容につき尋ねて来た佛教徒一人が今此処に眠るー

 

とか寺の片隅にでも書ひて貰ひ其処に霊として宿ることとしてみたひ。

さても禅宗にも霊はあるのですか?

 

まあ無ひでせうね、おそらくは。

まさにお釈迦様は霊に就ひては無記を貫かれた訳ですので観念には潔癖な禅宗が其れを反故にして居るとは思へません。

 

つまるところわたくしは今限りなく禅化しておる。

でも実際には何処の寺でも行きますけれどもね。

 

とりあへずはまたお寺巡りが出来るやうに状況を整へることこそがわたくしにとっての課題です。

嗚呼、其れから出来れば教会へも出向ひてみたひ。

 

教会の外をぐるぐると廻って来るだけでも良ひのではなひだらうか。

いや、実際南山教会の辺りは歩ひて来るだけでもすっげへ自分が高級な者になったやうな感じがして決して悪くは無ひものです。

 

特にクリスマスの頃にはサヒコーなんですよね、此の辺りは。

 

クリスマス?

さうしてクリスマスが好きでもって毎年クルシミマスか?

 

其の質問自体が意味不明です。

 

クリスマスには逆に禅寺へ座禅でも組みに行くとサヒコーに皮肉でもってして恰好良くはなひですか?

 

ところでクリスマスの日に禅宗の御坊様方は一体何をされて居るのでせうか?

まさかとは思ひますがクリスマスケーキだとか七面鳥だとかそんなものを食ったりはされて居らぬことかとは存じますが中には其れをやってる御坊様もまた居られるのやもしれません。

ークリスマスの日にも禅宗の御坊様方はおそらくは寺にて禅定を組まれて居ることだらう。ー