目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

『ホモ・デウス』を読み解くーⅢ 不死を求める意味を問ふー

命題4

飢餓、伝染病、戦争の3つを克服した結果、人類の平均寿命は大幅に伸び、寿命を目いっぱい享受できるようになった。今では、人類の次なる課題の一つ目として不死を目指す動きが出始めた。寿命は十分延びた。次は不死だ。

 

 

さて此の不死であることが善なのか又は悪なのか、と云ふ価値観の上での選択の問題は畢竟「現在」は善なのか又は悪なのかと云ふ二元的な選択に委ねられて来る問題です。

 

然し實は其れ以前に其のやうな二元論其のものへの批判が往々にして涌き起って来ることでせう。

即ち其の二元的選択自体が誤りである、と云ふ立場又は価値観のことです。

 

しかれども、二元的選択以外は全てが相対論に陥りさうすることで曖昧化し決めきれなくなる。

其れに古くより善悪二元論に基づく価値基準こそが文明の価値基準其のものなのですから。

 

と云ふことは其処に矛盾が生じませう。

事実現在は自然科学自体が相対論となっていませうが其れがそも一神教的な二元論とはそぐわぬ訳だ。

 

故に文明とはむしろそんな矛盾をあへて生きる過程、キリスト教で云ふところでの悪の履行の過程=罪の過程であると考へても良ひ。

 

 

さて「現在」とは何でせうか?

 

わたくしは今其れを罪其のものか又は煩悩其のもの、として捉へて居ます。

 

故に現在は楽しひものだ、などとする価値観とは正反対の捉へ方をして居ります。

 

即ち現在とは永遠の牢獄のことです。

 

 

でも事実楽しひではなひか?

 

子は成長し将来が楽しみなのだし妻は或は妾は綺麗だわ、うまくいけば給料は上がるわ飯は美味ひわ、其れに科学者ならば宇宙への移住並びに宇宙への進出計画を持ちさうだ人間は其のうち宇宙に散らばりホモ・サピエンスの大帝国を築くであらう。

 

もしもさうなれば貧困など撲滅され皆が大金持ちで万々歳だ。

 

さうして全てが自由かつ意のままとなりおおまさに神の如くに生きられやうぞ。

 

 

ですがあくまで現実的には明るい話題はむしろ少なく将来に対する悲観的展望の方が多ひ筈。

 

 

ですから、「現在」とは永遠の罪でありまたは煩悩の牢獄なのです。

 

と言ふことは其れは悪ですか?

 

悪に決まっておる。

 

其れも元々さうだった。

 

 

元々生命とは悪である。

 

では現在とは悪の過程でありどんな楽しさも其処には無ひのだと仰るので?

 

であるからこそ救世主イエス様は此の世での全価値を否定なされ代わりにあの世での全価値の再構築に就き説かれたのだ。

お釈迦様は生命現象の抹消こそが永遠の常楽である旨をしかと説かれたのだ。

 

 

さて其の現在。

 

現在は皆様にとっては楽しひことなのだらうか。

 

ズバリわたくしにとっての其れは苦であり矛盾である。

 

が、其れが実相だとはまるで述べてなど居らぬ。

 

 

事実としてさう認識されるに至る価値観を自ら選択して居ると述べて居るに過ぎぬ。

 

其のやうな選択を為すと生きる上での余分な欲望が削がれて行かざるを得ぬ、と云ふ事実をのみを述べて居るに過ぎぬ。

 

かと言って欲望を削ぎ過ぎれば必ずや死に至る故其処であへてバランスを取り否定せぬ領域を残して居るのだ。

 

 

言ふまでもなく「不死」を望むのは「現在」を全肯定する立場が前提となりませう。

逆に「現在」を全否定するならば無論のこと「不死」が望まれる筈も無ひ。

其の場合には無論のことキリスト教でのやうなこととなりませう。

即ち神の王国に生きてこそ不死即ち永遠の命が達成されやう。

 

どうも此の辺りのことが「不死」や全能化と云った現代文明の目的に大きく関わって居るやうだ。

 

 

「不死」と言へばかの秦の始皇帝は不老不死の霊薬を追ひ求めて居たのだそうだ。始皇帝と不老不死の薬

 

さうして古代中国では不老不死の仙人になれるという薬「仙丹」を求め、錬丹術が研究されたのだった。

 

が、皮肉なことに食生活をも含めゼイタク三昧ではどんなに権力を用ひて仙薬を追ひ求めたにせよまるで意味を成さぬことだらう。

 

逆に粗食でもって常にこきつかわれて居た方が長生き出来るのやもしれぬ。

 

要するに長生きは肉体の維持なのだからこそ物理的なバランスが大事なのである。

 

食生活のバランスや睡眠の取り方、ストレスへの対処法と云ったことの方が薬などよりより大事だ。

 

 

されど今此処で問題として居るのはさうした肉体的、物理的な問題なのでは無ひ。

 

何故人間は長生きしたがり、さらに文明も其れに従ひ長生きを目指すのか?と云った部分にこそ其れはあらう。

 

畢竟其れは人間が「現在」を快だと受け取るからなのである。

 

尤もわたくしは逆に「現在」を不快だと思って居るのだが其れは単に現在が思ふやうにはなって居なひからのことだ。

 

 

もしも思ふやうになって居ればこんなわたくしでも「現在」を快だと受け取る可能性が高ひ。

本質的にはさうは思へなくとも其の現在の快に押しきられ快へと屈して仕舞ふ可能性がむしろ高ひ。

 

が、其処でもって其の快不快を善悪の規準で捉へるとすれば矢張り其れは悪の方へと傾ひて仕舞ふことだらう。

 

即ちより精神的に捉へる場合にはさうして「現在」とは永遠の罪であり煩悩の牢獄であると云ふ認識へと至らざるを得ぬ。

 

と云ふことは人間が長生きをしたがり、さらに文明も其れに従ひ長生きを目指すのは其処に精神性が欠けて居るかまるで無ひからだとさう結論付けることが出来る。

 

さうして悪に親和的でつまりは根本として根性が悪ひ。

 

 

即ち始皇帝も文明も所詮は俗物なのである。

 

俗物は常に即物的にシステムの安定をこそ望むものだ。

 

然し精神はどんなに迫害されやうが、またどんなに無視されやうが己の信仰なり信条なりを貫かんとするものでもまたある。

 

 

だから、わたくしが今求める生の意義とはまさに其処にこそあり他の何ものでも無ひのである。

 

即ち精神的に生き精神的に死すること、まさにコレだけがわたくしにとっての価値ある生の内容であり其れは物質的に豊かになることでは無く時間的に長生きすることでも無論無ひ。

 

精神の究極とはキリストや釈迦がすでに此の世に於ひて示せしことであり他の何ものでも無ひのである。

 

よって其れのみを追求しつつ生きること。

 

其れだけがわたくしにとっての時間であり存在意義であり生の価値の全てなのだ。

 

 

其のやうに価値観、つまり価値の置き方は人それぞれにより異なる。

 

おそらく多くの方々はわたくしのそんな精神性などとても理解出来ぬことであらう。

 

ところが精神性の裏には下品な欲望が連なることをも皆様は理解しなくてはならぬ。

 

 

要するに物欲や食欲のあり方がわたくしの場合には至極下品である。

 

人によっては其れが性欲になったり権威権勢欲、さらに金が欲しひ欲に転化したりするものだが幸ひなことにわたくしの場合は其処まで下品では無ひ。

 

 

さて、其の欲望の方向性の現れこそが「現在」を形作るものである。

 

謂わば価値観自体が現象化して居る訳だ。

 

だから皆それぞれに異なる現在を生きて居る。

 

肉体がそれぞれ違ふのに細胞レヴェル、分子レヴェル、原子レヴェルでは皆同じ。

 

であることと同じくして価値観がそれぞれ違ふのに現在を生きると云ふ上では皆同じ。

 

つまりはそんな矛盾的推進をこそ人間と言ふのだ。

 

我我は所詮そんな下品な価値観に突き動かされ生きる他無ひ人間なのだ。

 

 

人間は何故かうも下品なのか?

と云ふことにつき残りの全生涯を費やし山奥でもって考へていくのがわたくしにとっての理想の生の内容だ。

 

ああー、山奥へ行きたひ。

最近民放にて山奥の一軒家とか云ふ番組を屡やって居りますがあそこへ是非住みたひものだ。

 

 

一方で死が二元化することもまた考へておかねばならぬことである。

 

生死は一体にして相克しかつ相即する。

 

生は死の始まりであると同時に死は生の始まりをも意味する。

 

故に死のうと思ったら生の方も止めないととても死ねやしなひ。

 

また生のこと、死のことをそれぞれ別箇に考へても分かりゃあせぬ。

 

元より生のことは生のことで分かり死のことは死のことにて分かるがイザ混ざって来るととても分かりゃあせぬ。

 

死は観念的にー分別としてー捉へられず其れは精神的なものと肉体的なものとの関係性の断裂であり破壊でもまたあるからなのだ。

 

また他方で生はー分別としてー捉へられず其れは精神的なものと肉体的なものとの関係性の常設であり構築でもまたあるからなのだ。

 

 

肉体と精神の関係性でのバランスの有無の問題が即価値観の持ち方の問題だとわたくしには捉へられ其の間でのアンバランスな追求=アンバランスな価値の設定こそがむしろ破壊を生むのである。

 

精神的なものと肉体的なものとの関係性とはむしろ受け取るものであり能動的に築き上げるやうなものでは本来無ひ。

 

能動的に築き上げていく程にむしろ其れは受け取るものではなく自己の価値其のもの=利己的な価値其のものと化していくのだ。

 

対して其の受け取ると云ふ部分での究極的な価値は救済構造にこそ存する。

 

救済される価値は自己を離れる故に浄化され易ひ。

 

自我による価値決定は其処で認められぬので全ての価値を受動的に頂くのである。

 

 

「不死」にせよ全能化にせよ其の能動的な抽象的価値の構築ほど愚かなことは無ひ。

 

人間はむしろ死ぬから幸せなのであらう。

 

死なぬ人間に幸せなどが来やうものか。

 

人間はむしろ限定だから幸せなのであらう。

 

無限のー可能性に満ちたー人間に幸せなどが来やうものか。

 

其のやうな受動性はむしろ現代人が今後學んでいくべきもののことだ。

 

 

第一植物型生命を見て御覧なさひ。

彼等は太古の昔より受動の生を生きて居るが不老不死の仙薬を求める訳でもなくーつまりは下品でなくー 其の癖物凄く長生きだ。

 

即ちあれこれとウルサク動き回る人間共の方が上品には生きられぬものと相場が決まっておる。

 

日が暮れた18時以降もなんだかんだと兎に角ウルサイ。

 

そんなウルサイ奴程下品なのだ、生命の格としてのほんたうのほんたうのところは。

 

 

さて「不死」とは抽象的に齎される究極の観念的欲望である。

 

現代社会としての根幹を形作る高度な情報化社会にせよまた止めどなき技術革新にせよ其の人間の持つ観念性=抽象性が具現化したものである。

 

其の抽象性の追求としての最終段階が其の人間の不死であり全能化を求めることだ。

 

されど其処には肉体性が置き去りにされて居る。

 

先の話で言へば肉体と精神の関係性に於けるバランスが極めてアンバランスなので次第次第に壊れて来る。

 

其処では肉体も精神も共に壊れていくと見ても良ひのやもしれぬ。

 

 

ー其の例ー

 

 

私たちの目が危ない “近視クライシス”

 

今大問題とされて居るのが現代人の目の破壊に関する問題だ。

 

特に良くなひのは携帯される端末にて長時間細かひ字を読んだりすることではなひか。

 

かく言ふおまへもPC人間だらう?

 

コレはコレでもう慣れてるから大丈夫だ。

 

其れに元々目は悪ひ。

若ひ頃は読書量が多かったもので。

 

かように良かれと思って文明のなすことはほとんどが体に悪ひことばかり。

 

其れは何故かと言へば欲望に関しての抽象度が高過ぎるからだ。

 

要するにバランスを失して仕舞って居る。

 

 

かのニーチェではなひが実際神をも殺す程に抽象度が高ひので人間の肉体が破壊されていくのである。

 

だが寿命は延びて居るぞ。

 

いや無理に延ばして居ると見ておくべきだ。

 

仕合せに其れが延びて居る訳では無ひことだらう。

 

第一目が破壊され其れでも君は百歳まで生きるとでも言ふのか。

 

 

わたくしなんぞは山の中に捨て置ひておけば百歳まで或は生きられるのやもしれぬ。

 

だがこんな都会では65歳位でもはや限界だ。

 

 

尚、今の子供たちは体格は良くなったが中身がボロボロだと十年程前にとある教育関係者から聞いたことがある。

 

要するに基礎的な体力がなってなひのである。

 

其れもこれも、ゲーム浸け、ケータイ浸けにしたバカ親たちの抽象度の高ひ其のおバカさ、兎に角此の点に問題が集約されて居り其のバカ親の親こそが實は我我還暦世代なのであった。

 

馬鹿も此処まで来ると全く大したものよ。

 

 

我我が子供の頃は公害などが騒がれたにも関わらず川で泳ぎ沼にハマり山で野犬に追いかけられのっ原では屡肥溜めにさへ落ちた。

尤も今や肥溜めさへ知らぬ若き人々が居られやうが肥溜めとは生半可なものでは無く其処に落ちれば生涯に亘りアノ肥溜めに落ちた〇×ちゃん、などと皆に記憶される程実際キタナイものであった。

 

其の後も我我は其れが普通のことだとさう信じ込んで居た。

 

だが我我の子等の時代となると其のやうに外で遊ぶこと、未舗装の道路で野球をやること、などが皆昔話となって仕舞ひ外で遊ぶ子さへみかけなくなる。

 

文明が進み其の進歩こそが偉ひと思ひ込んだお蔭で其のやうな価値観の転換が齎されて仕舞ふ。

 

 

米グーグル、「量子超越性」達成と発表 スパコン超え

 

他方では訳の分からぬ抽象性が何処までも追求されていく。

 

即ちココまで、と云った限度はすでに存在せず。

 

スパコンどころか電卓、ワープロ、百歩譲ってPCがあれば其れで充分だらう。

 

其れ以上を追い求めると必ずや人間の心は腐っていく、要するに精神は次第に貧しくなっていかう。

 

 

其れと同じ原理にて抽象的に「不死」を追ひ求めると必ずや人間の肉体の具体性が奪われていくこととなる。

自然科学の盲点はまずは其処にこそある。

「不死」など必要では無ひにも関わらず科学は何でも出来るので其れをしなくちゃならなくなる。

 

第一皆「不死」など求めては居なひ。

 

庶民は搾取されこきつかわれタダでさへ生きているのが苦しひ。

 

こんな世の中ならば早う死んだ方が良ひと思われて居る方々の方が多ひ位だ。

 

だから「不死」を望んで居るのは一部のマッド・サイエンティストとミリオネアと価値観の狂った奴等ばかり。

 

だから科学的な不死など要らぬ、金輪際不要だ。

 

 

それでも「不死」になりたければ宗教にて其れを達成すれば宜しひ。

 

然しキリスト教では神を信じ死んだ後に選ばれし魂のみが神の王国に永遠に生きることとなる。

 

佛教での「不死」は佛にならずば達成されぬ。

 

だが其れは人間として永遠に生きると云ふことではなくむしろ永遠に此の世から去ることを結果的に不死と捉へるのだ。

 

即ち生自体の価値の捉へ方がそも異なって居やうが共に現世での価値ヒエラルキーを否定する点に於ひて意外と双方の立場は似通って居やう。

 

 

現世利益としての不死を乞ひ願ふ価値観は相対分別を目一杯に抽象化していくことなので兎に角矛盾化し易ひ。

 

だから神の如き能力が生み出される一方で思ひもかけぬところで破壊が齎されたりもする。

 

だがやって良ひことといけなひことが此の世の中にはある筈だ。

 

其のやってはいけなひことを知ることこそが理性に於ける真の意義であり其れはタダ抽象的に「不死」を追ひ求めたり全能性を獲得しやうともがくのとは違ふ。

 

分限を知り精神と肉体のバランスの回復に努めることこそが真の意味での理性の仕事だらう。