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文化の意義ー『海底軍艦』と怪獣映画と『夢』の話ー

岐阜県の熊(クマ)目撃・出没情報

コロナ疲れした日本全國各地に🐻が出没!!!

此の侭🐻が文明を制圧するか!!

此の🐻🐻🐻🐻共が!

 

稲垣吾郎がベートーヴェン役!「No.9 -不滅の旋律-」再々演決定!剛力彩芽らも続投

素晴らしひ、其れにかねてより何処か暗さのあるー翳りのあるー稲垣 吾郎はとても好きだ。

 

 

西の高級住宅街・芦屋の実態 トップに君臨する「六麓荘町」とは

其の金ある街には文化があります。

文化と云ふのは要するに衣食住以上でのことです。

 

一般の労働者や一般の事務屋は何せそんな余分な金は無ひので文化または趣味の領域に生涯4、5千萬もの金を注ぎ込むことなど出来やしません。

但し独身貴族でもって、しかも持ち家でもって中流以上の家の人ならわたくしの如くに其れがやれて仕舞ふ可能性もまた御座りませう。

 

でも無論のことそんな人は金がありません。

 

ところが芦屋だ、田園調布だ、などともなれば其の位の金はまさに屁の河童です。

さうまさに河童の屁だと云ふことです。

 

 

左様に関西や東京には一級の文化があり其れを支へる経済的地盤がある。

 

實は名古屋にも其れが無ひ訳では御座りませんが産業工業都市でもってしかも至極現實的な気風故文化には余り金を使ひません。

 

わたくしは其れを馬鹿だと思って居りそんな現世利益主義、工場中心主義、👪の生活第一主義、非文化的精神的地盤などを足蹴にして来てもおる訳だ。

 

 

わたくしは万年筆の世界でもってもう長くやりましたが、関西や東京圏の方々にはまことにお世話になり其処は勿論感謝して居ります。

皆金のあるしかも知性に溢れた方々ばかりでわたくしの如きたはけと良くぞ付き合って下さったものだとほんたうにさう思ふのです。

 

ヤフオクなどでも関西や東京圏からは時折とんでも無ひモノが出ます。

 

ダンヒルナミキでもって50号金ペン先付の当時物だとか、大阪の心斎橋だったかのアノ有名店ー名を忘れたーの凄ひ銀製の角軸萬年筆など、もう兎に角其れしか無ひと云ふやうなお品ばかりが此処弐、参年余りの間にもヤフオクに出て来て居ります。

 

が、地元でも出る場合がありプラチナでもってレアーな未使用品を弐、参年前に立て続けに発掘しても居ます。

 

兎に角関西や東京圏の文化力は一級品です。

何より其れは財力があったからなのです。

 

 

文化とはまずさうした形で財力と文化への指向性、拘りや興味から生まれ出るものでせう。

其れも都市文化ー文明による文化形成ー其れ自体がさうだと云ふことです。

 

対してアイヌやインデアンの文化は、其れはもっと具象的で且つ環境と密接に関連した生活其のものとしての文化です。

 

だとすれば都市文化は元来抽象的で、抽象的と云ふことは要するに衣食住以上でのことなのです。

 

一般に👪持ちのサラリーマンなどは其処へ行く余裕がありません。

社会の仕組みがそもさうなのでそりゃあイケません。

 

なのですがじぶんはそれでも文化的に生きておる、などと誰しもがさう多分思っているのです。

でもそんなものはまるで文化ではありません。

 

文化とは、わたくしのやうに文化的放蕩をした者にのみ許される領域での言葉なのです。

 

 

わたくしの放蕩は文學、絵画、哲學、万年筆、石、さうしてラヒターにまで及ぶ壮大且つ宇宙的な浪漫の追求なのです。

そんなものはたとへ芦屋や田園調布の大金持ちであってもなかなか出来ることではありません。

 

しかもわたくしは宗教を理解して居る。

 

宗教と文化を今まさに融合させつつある!

 

嗚呼なんて偉大な仕事なのだらう。

 

 

などといつもの如くに自己陶酔しておりますとまさしく其処が如何にもバカバカしくなって来ました。

 

 

さても其の文化的素地を形成するものとは財力即ち物質的余裕なのか其れとも精神的余裕なのか?

 

文化其れ自体を生むものはまさしく精神的余裕なのでせうが、文化に接する機会を生ずるのは矢張りと云ふべきか財力なのだとも申せませう。

 

但し財力があれば文化を理解することが必ずしも可能な訳でも無く、何故なら貧乏詩人や貧乏画家はいつも金には飢へておりますが文化のこと位は最低限理解しておりますが故に。

 

しかしながら貧乏詩人や貧乏画家に金を与へますと逆に藝術が不作となる虞の方が高くならう。

 

貧乏詩人や貧乏画家に金を与へますと其れでもって何を買ふものやら実際良く分かりません。

 

第一かのゴッホゴーギャンに金を与へたならばおそらくはロクなことにはならなかった筈だ。

 

 

ですので、ゲージツ家は常にビンボーがエエんです。

 

ゲージツ家はやりたひことだけやってまた言ひたひことだけ言ってあとは粗食でもってして独身なのがエエんです。

 

要するに芦屋や田園調布の大金持ち達こそが藝術家のパトロンとならねばなりません。

 

また名古屋の藝術家のパトロンはかの南山町がしかと引き受けねばなりません。

 

どだひゲージツ家には金を儲ける力などは御座りません。

 

 

一部のゲージツ家は金も儲けますが後のほとんどのゲージツ家には金が無ひのです。

 

 

じぶんに金を呉れとさう言って居るやうだが。

そんなことは一言も言っておりません。

 

タダ、少しは精神的な余裕が欲しひなとさう述べて居るだけのことで。

もしもさうならもう少し何か有意義なことが言へさうだ。

 

馬鹿者!そんな余裕は自分でつくれ。

第一今のおまへはむしろ余裕ダラケじゃねへか。

 

 

いずれにせよ文化はまさに其の余裕が齎すものですが、其の文化を創る側に関して言へば必ずしも其れが必要であるとは申せません。

第一かの太宰 治に金があれば良かったなどとはまた芥川賞を取りいずれは文壇の大家となれば良かったなどとはまるで申せぬ訳です。

 

太宰はあんな滅茶苦茶なのがかへって太宰其のものだった。

其の滅茶苦茶なのがむしろ一級の文學であり得た訳だ。

 

第一芦屋や田園調布の大金持ちから太宰其のものが生まれるべくもなひことだらう。

 

 

元より文學的破壊とは逆に精神的な構築へと向かふものです。

常識的な価値観の破壊こそが新たな精神的価値領域を開拓し其処に藝術としての価値を構築するのだ。

 

藝術とはさうして創造と破壊を同時に行ふ精神的営為のことだ。

 

 

なのですが、金持ちは普通破壊をやりません。

であるからこそ創造もまた其処にはありません。

 

また壱サラリーマンも普通破壊はやりません。

であるからこそ創造もまた其処にはありません。

 

尤も其れが悪ひと言ふのでは無く役割が違ふと言って居るだけのことです。

 

尚、金や労働の成果や子孫を此の世に遺すことは出来ません。

あくまで其れも本質的には。

然し藝術作品や哲學としての思想を此の世に遺すことは可能です。

 

何故なら其れは永続化されたものなのですから。

何故なら金や労働の成果や子孫は其の時々に限定されたものでしかあり得なひのだから。

 

藝術家とはまさにそんな欲張りー特別に強い煩悩の持ち主ーのことです。

さうして此の世界にまさにじぶんを貼り付けて仕舞ふ訳だ。

 

 

此の世ではどんなものも非常でもって移り変わりやがては潰へていきます。

石でさへやがては風化しまた光でさへやがては失はれることだらう。

 

でも考へとしての結果だけは残りませう。

 

さうして純粋に抽象化されし精神的営為のみが永続化され此の世に残る。

なので藝術や哲學としての観念的営為とはまさに宗教が語る眞理にも等しい永続性を発揮するもの。

 

 

だからわたくしは其の考へこそが大事だとさう述べて来て居るのです。

所詮考へは矛盾化するので其れさへをも捨てよとさうたとへば禅宗は我我を諭して下さひます。

 

無論のこと其れはさうなのですが、まさに現實的には其の考へこそが今を形作って居ます。

 

 

其の考へこそがそんな抽象的現在を組み上げて居る訳です。

ですが其の抽象的現在こそが矛盾なのです。

 

だが言はば物質的次元ー現世利益的価値観ーにて抽象的現在を組み上げることこそが矛盾なのだ。

 

逆に文學は精神的次元ー考への世界ーにて抽象的現在を組み上げて来て居ます。

哲學や宗教もまた然りです。

 

であるからこそ其れ等は永続する価値を其処に提示して居る。

 

観念的永続性が其処に現在化して居るが故にだ。

 

ところが、物質的次元にて其れを行ふと具象性=限定性が世界から失はれて仕舞ふこととなる。

つまりは物質的次元を観念的に展開させてはならぬのだ。

 

物質的次元は其の時々のものとして愛で、藝術化して置けば宜しひ。

其れを其の侭に無制限に追ひ求めるばかりにこんな矛盾にも陥る訳だ。

 

 

実際此の辺りは可成に難しひ話をして居ります。

ですが分かる人にはお分かりのことかと存じます。

 

要は其の抽象的現在の組み上げ方にこそ問題がある訳だ。

 

 

其の抽象的現在を組み上げるのは、ホモ・サピエンスの癖です。

当初其の癖にこそ問題があるのかとさう思ひましたのですが、最近になりさうでは無ひことが直観された。

 

結局物質的次元にて抽象的現在ー抽象的価値、抽象的利益ーを組み上げることにこそ問題があった。

 

平たく言へば物質文明の枠内でもって都市化と云ふ抽象的現在を形作ること自体が誤りなのです。

 

また平たく言へば物質文明の枠内でもって組み上げるべき領域はあくまで具象的現在の筈です。

 

 

具象的現在とは、物質的な趣味の領域でありまた色んなものを食ふことであり仕事をすることであり生きることです。

されど其処に抽象的欲望が混じって居るやうではイケません。

 

抽象的欲望即ち都市化であるとか、家や墓の永続であるとか、また子孫の繁栄であるとか、組織や國の発展であるとか、地位であるとか名誉を求めることなどの。

 

元来其のやうなものは抽象的に規定すればする程に矛盾化するものなのです。

 

 

よってズバリ抽象的現在を物質的次元にて組み上げてはならぬ。

抽象的現在を組み上げることが許されるのは精神的次元に於ひてのみだ。

また物質的次元にて組み上げることが許されるのは具象的現在のみだ。

 

物質的次元にて抽象的現在を組み上げるからこそ全ては矛盾化し危機へと至る。

 

とさう規定することが出来やう。

 

 

「抽象的現在ー物質的次元⇔精神的次元」⇔「具象的現在ー物質的次元⇔精神的次元」

となって居るので其の矛盾を取り除く為に、

 

「抽象的現在=精神的次元」=「具象的現在=物質的次元」

 

と一元化するか又はバランス化致します。

かうすると二元対立がとりあへずは消へ去るので文明の継続性が其処に高まる訳です。

 

 

重要なことは精神的次元は物質的次元に対し優位でも何でも無くあくまで同じだと云ふことだ。

其れは違ふのですがまさに同じなのです。

 

だから飲み食ひのことなどをまた掃除洗濯のことなどを疎かにして居たりしてはイケなひ。

其処は本質的には金があらうと無からうと同じだと云ふことです。

 

より良ひ価値観、又は正しひ価値観とはかうして考へ抜かれたものでなくてはならなひ。

エエ加減な考へ、又は無思考では人間の生、文明のバランスなどは取れぬとさう言って居るのです。

 

 

さて文化の話に戻りませう。

文化はどちらの話なのかわたくし自身が分からなくなっても来ます。

 

即ち「抽象的現在=精神的次元」のものなのか、其れとも「具象的現在=物質的次元」なのかが。

 

其処でもって文化を創る側と観る側に分けます。

要するに作家と読者の関係に分ければ宜しひ。

 

 

すると、作家にとって創作とは常に「抽象的現在=精神的次元」のものとなるが、其の対価として購読料を貰うとなれば其れはあくまで「具象的現在=物質的次元」のものとならう。

対して読者は購読料を払ふとなれば自分の金が其の分減るので其れはあくまで「具象的現在=物質的次元」の話なのだがかうして良ひお話が聞け自分の人生に為になった分おおまさに金を払っただけの甲斐はありボクのワタシの「抽象的現在=精神的次元」にとり大ひに役立った。

 

さうでしたか、そんなに役立ち喜んで頂けましたか。

アナタの人生を変へる程の力になった云ふことなのですね、其れも此のわたくしの一文が。

 

つまるところわたくしもまた太宰から安吾からさうして芥川から漱石からもうどんだけ「抽象的現在=精神的次元」へのお役立ちの面を得たか分からぬ程だ。

だが岩波書店やら新潮やら角川やらにはもうどんだけ金を注ぎ込んで来たことか。

 

だから文化とは、何より其の両面を内包することだらう営為である。

 

 

つまりは文化には金が要る。

まさに要るんだよ、其の金が。

 

其の金は、貧乏詩人や貧乏作家、また貧乏画家や貧乏作曲家からはびた一文出なひ。

だから其の金は大豪邸に住むパトロン達が払はねばならんのだ。

 

パトロンにも作品を選ぶ権利があらう。

其れもイヤな作文を読まされて其れでも金を払へと云ふおまへの論理は到底承服出来ぬ。

 

いや、だから、其処にわたくしが新たに打ち出したのが此の藝術界へのベーシックインカム制度なのだ。

其れもかうして理性を働かせ労働した成果にこそ一定の報酬を与へるべきだ。

 

 

さうか、でもおまへには一銭も入らぬぞ。

おまへは単なる「金が欲しく」さらに「なんとか賞」が欲しひ病であり嗚呼まさに太宰 治其のものの心性に染まり切っておる。

 

其れにおまへが毎回此処で書ひてるものは眞面目なのか其れとも不眞面目なのか皆目分からぬ。

だからまさに其の通りに両面を出して居るつもりなのですが…。

 

 

どだひ今回の話も難しひ話のやうで居て何処か下らぬやうなそんな話だ。

 

そんなものが書ける人こそが凄ひ人でせう。

並の作家には書けませんよ、そんなものはもう誰にも書けぬことだらう。

 

 

眞面目な話文化の力とは考へる力なのだと特に今は強く思ふ。

文明は概ね考へぬものだが、対する文學はトコトン考へて来た。

考へた挙句に多くの文學者が自決したのだったが、まさに其れは現世利益ー物質的次元に於ける抽象的現在の構築ーとは正反対の価値観だったのだと言へやう。

 

文學はさうして現實主義を頑なに拒んで居る。

其れが何故かと言ふことをわたくしは此のところずっと考へ続けて来て居た。

 

其れでもってして一通り結論が出たので今回かうして其れにつき述べたのだった。

 

文學とはさうした意味での観念力の醸成の場である。

其れも観念の修行の場だと言っても良ひことだらう。

 

 

「抽象的現在=精神的次元」=「具象的現在=物質的次元」

 

対して宗教は最終的に信仰により此のバランスを勝ち取る。

宗教は疑はぬことで諸矛盾を放逐する。

 

然し文學は悩み且つ疑ふことで此のバランスを勝ち取ることだらう。

 

 

よって宗教と文學は矢張りと云ふべきか似た者同士なのだ。

 

根本的に違ふのだけれども其処に価値を統一すると云ふ意味に於ひてはさうなのだ。

 

対する此の世の、つまるところは世俗の価値観とは以下であらう。

 

「抽象的現在ー物質的次元⇔精神的次元」⇔「具象的現在ー物質的次元⇔精神的次元」

 

此のやうに何処もかしこも矛盾だらけで、おまけに現在文明が選択して居るのが以下の価値なのだ。

其れ即ち「物質的次元に於ける抽象的価値」の追求だ。

 

文明は如何に此の現在の矛盾を乗り越えて行くか、人類は如何に考へさうして今後を行動して行くべきなのか?

其の答へとは、「物質的次元に於ける抽象的価値」の追求をもはや止め具象的なるものと抽象的なるものとのバランスを取ること以外には無ひことだらう。

 

 

海底軍艦1963

うはあー、まさにコレが視たかった。

其の感想としてはなかなか面白ひ戦争物SF映画だったと云ふことです。

 

其の海底軍艦とは旧帝國海軍神宮司大佐が秘密裏に建造した最新鋭の戦艦であった。海底軍艦 (映画)より

其の日本製の戦後の戦艦が徹底的に謎のムー帝國を殲滅すると云ふ単純なストーリーながら特撮技術にせよキャストにせよ矢張りと云ふべきか素晴らしひものがある。

 

[幻の美女]東宝特撮女優コレクション2  藤山陽子(ふじやま ようこ)

其れに幻の美女とされる藤山 陽子ー神宮司大佐の娘役ーが兎に角美しひ。

かの白川 由美なども若ひ頃はほんたうに美しひ人でしたが昔の女優は兎に角今の女優よりも魅力的です。

 

 

本多猪四郎 #映画作品

本多 猪四郎監督と言へばつまりは怪獣映画の巨匠でした。

我我幼稚園児~小学生は皆其の六十年代の怪獣映画を映画館に観に行きつつ育ったのです。

 

当時は親も一緒に映画館に行きそんな怪獣映画を観て居たものでした。

其処は今思へばまさに古き良き時代だったのだと思はれる。

 

其の怪獣映画はお世辞にも科学的なものだとは言へぬ訳ですが何故か今視ても悪くは無ひものです。

また本多 猪四郎氏は後に影武者や乱や夢 (映画)ー1990ーなどの黒澤 明監督作品にも関与して居たものらしひ。

 

Dreams || Yume || 1990 || CD1 || Akira Kurosawa ||

Dreams || Yume || 1990 || CD2 || Akira Kurosawa ||

 

黒澤明 夢 メーキングムービー 1/8

 

「夢」はまるで詩篇を寄せ集めたが如き詩的な映画である。

 

最も好きな映画のひとつなのだが、長らく視て居ないので今夜視てみるつもりである。

が、今夜はEテレの方でまた凄さうな番組があるやうだ。植物に学ぶ生存戦略

 

かように文化的なものや學問的なものにまでアンテナを張り巡らせて居ると兎に角毎日が忙しひばかりなのだ。