目覚めよ!

文明批判と心の探求と

自然其のものである原石のキラキラ ー宮澤 賢治もかって書ひた貴蛋白石の魅力ー

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安倍首相にかかった「ドクターストップ」 辞任会見で語られなかった“重い健康状態”とは

 

かやうに間接民主制は結局壱國の首相を病気か又は発狂に追ひ込み其の政治生命を破壊して仕舞ふ可能性が高ひ。

間接民主制はすでに時代遅れであり、其れでどうするかと云ふに要するにネット投票による直接民主制に移行すべきなのではなからうか。

 

なかなか出来ぬことだらうがさうすべきである。

尤も日本の大衆の馬鹿振りからしても確かに直接民主制への移行は危険である。

が、いずれにせよ今のままでも日本國はいや世界の國國が皆危険である。

 

近現代國家の問題点とはまずそんな抽象的に規定されることだらう限定の解除の思想にこそある。

人間は何でも出来るとさう過信又は盲信する抽象的価値の部分から全ての問題、文明の崩落が始まって居るのだ。

 

そんな抽象的価値による制度的疲弊、社会的矛盾の増大から必然として現代社会は壊れて行かざるを得ぬことだらう。

 

そんな風に社会的に規定される問題点をわたくしはかって此処で逐一述べて来て居る。

社会と云ふ制度其のものに内包される矛盾をこそ語って来て居た筈だ。

 

 

全てはそんな抽象的価値と世界の具体性との齟齬より来たらされる問題なのであり矛盾なのである。

まさに其処にこそ人間存在の本質的意義が問はれて居るのだと云へやう。

 

 

さて其れでは社会は良くなって居るのか、其れとも悪くなって居るのかと云ふことこそが問題だ。

其の回答は、抽象的には悪くなりつつあるが具象的に限度が与へられむしろ良くなって居るのだとさう捉へることが出来る。

 

其の具象的に与へられる限度とはコロナ禍であり首相の交代である。

即ち具象的限定である。

 

即ち物理的に人間の肉体にはさうして限度があると云ふことなのだ。

 

だからプラスの方向へと永遠に離陸することなどは出来ぬ相談だ。

永遠に離陸し飛翔しやうとするとさうした肉体の壁に突き当たり人間は地に墜ちて行かねばならぬとさう言ふことなのだ。

 

其の意味ではむしろ我我人類は現在良ひ意味での御導きを受けて居る。

 

無論のこと動植物界は其の御導きの内部にて其の生を全うして居る。

 

生命とはそんな厄介な存在なので必然として限定されて行かざるを得ぬ。

 

ところが人間存在にだけ其の限定が解除されて仕舞って居た。

 

 

人間共とは其の限度の撤廃により地球上に繁栄した生命体のことだ。

 

ところが、まさに今其の抽象的進歩に待ったがかけられつつある。

 

何て素晴らしひことだ。

何て望ましひ、まるで釈迦やキリストの御導きとまるで同じことなのではなひか。

 

 

さう、コロナ禍であり首相の交代こそが其の釈迦やキリストの御導きと同じことなのだ。

 

嗚呼まさにサヒコーだ、此れ以上無き歓喜の時の到来だ!

 

そんなこと言ふ奴は世界中でおまへ一人だけだ。

 

だから其れが眞實だからなのだ。

 

 

それとも何か、君等は人の意見に左右され自らの意思決定を為して来て居るのか?

 

だから君等は馬鹿なんだよ。

 

馬鹿はな、死んでも馬鹿なんだぞ、今更ながら一つだけ言ふておくがな。

 

 

馬鹿はな、サヒコーとは何か云ふことを知らぬ奴等のことだ。

サヒコーですか?

アンタは今が兎に角サヒコーですか?

 

もうサヒコーです。

何故なら世界が、世界其れ自体がわたくしの預言通りになりつつある。

 

今後世界は良くなると?

いや世界は良くなりやうがありません。

 

其れが肉体的に限定され墜ちて行くのです。

 

何処へ?

 

地べたへと又は海へと墜ちて行きませう。

 

かくして人類はさうして文明は失墜し土へと還るのです。

 

土へと?

 

さうです、元々人間とはタダの土塊でした。

 

其れを全能の神とキリストと佛陀が人間として生きられるやうにして下さった。

 

其れは感謝しなければなりませんね。

 

 

さうです、常に感謝しお布施すること、まさにコレを徹底しやって行かねばならぬことだらう。

あらゆる説法に対し最低壱萬円からのお布施が必要です。

 

たとへばおまへの「般若心経講義」シリーズも其の説法のつもりで書ひたものか?

 

勿論さうです。

此のシリーズは特別なものなので、實は一話毎に壱萬円は頂かねばなりません。

 

ところがまるで読まれて居なひ。おそらくは数十人が読んだだけだ。

何故みんなはよりによって此の眞理の言葉を嫌ひ読まぬのだ?

 

ひょっとすればみんなは頭が悪くわたくしの言葉など理解出来ぬのではなひか?

おまへ其れを言っちゃあお仕舞ひだぞ。

 

たとへ読者が馬鹿でも利口だとでもと言ってやれ。

 

まさに其れでこそみんながウハウハウハウハ喜ぶぞ。

 

嗚呼なんてみんなお利口さんばっかりなんだ。

 

もう君等の足元にひれ伏して其の足の指の間でも舐めてやりたひ程だ。

 

 

實は馬鹿でも利口だと言へぬところこそが精神的に潔癖な者の精神の特徴なのだ。

 

 

要するに社会的に問題が解決されることなどは無ひがコロナ禍にて社会が限定された分問題が縮小化する可能性も出て来て居る。

 

逆に社会的な問題だけが増大の一途を辿る。

今後の社会的な経済的補償の問題、首相の選定の問題、医療現場の疲弊の問題等まさに問題が山積みだ。

 

だが其れはあくまで社会が抱へる問題だ。

わたくしは社会科詩人ではあるが社会學者でも何でも無ひが故にそんなものはどうならうがもはや知らん。

 

なので以降わたくしは文人へと戻り文化を語るのだ、文化を。

 

要するに國語の方へとまた舞ひ戻るのだ。

 

 

嗚呼、文學、此の狂おしくもかぐはしき倒錯の世界、其の負の側面としてのお花畑が我を招き続けて居る。

 

 

 

ー「生活とは何ですか。」
「わびしさを堪える事です。」

 

「敗北とは何ですか。」
「悪に媚笑びしょうする事です。」
「悪とは何ですか。」
「無意識の殴打です。意識的の殴打は、悪ではありません。」

 

「自信とは何ですか。」
「将来の燭光を見た時の心の姿です。」
「現在の?」
「それは使いものになりません。ばかです。」

「あなたには自信がありますか。」
「あります。」

「芸術とは何ですか。」
「すみれの花です。」
「つまらない。」
「つまらないものです。」

「芸術家とは何ですか。」
「豚の鼻です。」
「それは、ひどい。」
「鼻は、すみれの匂いを知っています。」

「きょうは、少し調子づいているようですね。」
「そうです。芸術は、その時の調子で出来ます。」

かすかな声 太宰治より

 

 

ー「芸術家とは何ですか。」
「豚の鼻です。」

 

「鼻は、すみれの匂いを知っています。」ー

 

元より藝術の香気とは、香り其れ自体にあるものでは無ひ。

馥郁たる香気其れ自体には實は感度も無ければ表現も無ひ。

 

藝術とは其の感度をこそまさに表現することなのだ。

 

よって藝術家とは美しひものには非ず。

藝術家其れ自体はむしろ醜ひ豚の鼻の如きもの。

されど其の醜き鼻は何より花の香りを知る、さうして世界の香気を余すところなく嗅ぎ回って来た。

 

 

大事なことは文學による精神的な営為が現世利益主義には基づかぬものであると云ふことなのだ。

逆に言へば我我の生活其れ自体が現世利益主義に基づき営まれるものだ。

 

要するに其れこそが世俗の論理なのである。

たとへ政治の世界、また教育の世界、多くの宗教の世界にせよ基本的には其の世俗の論理に基づき営まれて居る。

 

世俗の論理とは子宮思考、即ち現金思考と云ふことである。

此れは必然として全的にプラスの価値原理となる。

対してマイナスの原理とは男性原理による疑ひの領域とならう。

 

さうして豚の鼻は其のマイナスの原理からプラス其れ自体である🌸の香りを嗅ぐ時に感ぜられるであらう命の歓びを知って御座る。

 

つまり藝術とは世俗の論理を離れたところに咲く仇花のやうなものなのだ。

故に誰もが藝術を解する訳では無く、また誰もが藝術をして快く思ふ訳では無ひ。

 

藝術とはそんな負の領域への分裂のことだ。

其れは世俗の原理である現世利益の価値観を離れ何処までも飛翔して行く。

 

が、其れは物質界を歩むものには非ず。

あくまで言葉の領域で繰り広げられる世界へのめくるめく陶酔であり愛の世界なのだ。

 

 

愛、だが其れには死が常に貼り付ひて居る。

 

愛と死、其れが一対のものであるが故に愛は決して死からは解放されぬ。

 

かの中原 中也がさうして見詰めた愛息の愛と死、ヴァン・ゴッホが見詰めた此の世界への愛と死、さうした生の息吹と死の息遣ひが其処に鬩ぎ合ふのだ。

 

 

文學は其の世俗の論理を超越して居る。

だからこそ文學者の行動は一般には理解し難ひ。

 

特に戦前の文士の行動は我我には理解し難ひ。

ー太宰も安吾もまた三島も川端も分類するとすれば戦前のタイプの文士であるー

 

だが世俗の者共よ、まさに其れは価値観がそも違ふからなのだ。

藝術家の価値観は概ね世俗の論理即ち現世利益主義から離れて行く。

 

でもそんなのはおかしひ、理解など出来なひ。

さう思ふのなら君には藝術を解するセンスが無ひのだから其の問題が山積みの社会と心中でもするんだな。

 

 

オヒラはもうそんなのは御免だ。

オヒラはもう美とのみ心中するんだよ。

 

 

さて夏休みももう終はりに近づきましたので其の美の話、特に石の美の話でもって八月を締め括りたひと思ふ。

尚石の美とは畢竟其れは物質的次元でのことです。

 

なので石の美にも価値ヒエラルキーがしかとありしかも其れが値段により等級化されておる。

 

が、石の楽しみ方にも色々とある。

だがわたくしはそれほど石には散財して来ては居なひ。

 

其れも其れ以前に他の分野でもって放蕩をして仕舞ったからなのだ。

 

 

ですが石もまた金がかかる高級な趣味なのです。

 

なのですが、結婚指輪であるとか貴金属のキラキラであるとか所謂女性の方々が一般に喜ぶやうなものと鉱物趣味はまた一味違ひます。

ところがわたくし自身は其のキラキラもまた好きなので或は地味なのと派手なのとの中間位の趣味なのでせうか、でも磨き石には基本的に興味は御座りません。

 

自然其のものである原石のキラキラにこそ深く深く心を奪はれて居るので御座ります。

究極的には物質其のものの放つ光の世界に深く深く心を奪はれて居るので御座りませう。

 

そんな煌めく宝石の原石の価値とは一見永続するもののやうに見へて實は一期一会でのものです。

其の瞬間瞬間に感ぜられる石の美の印象は観察者の心理により微妙に異なります。

 

要するに観察者であるこちらこそが生命体なものですから、こちらの心理状態により感ぜられる其の美しさが日々変化致します。

 

 

但し生命体のやうに突如死んで仕舞ふやうな急激な変化が其処には無ひ。

だから概ね安定した美の世界を其処に形成して居る訳です。

 

其れは生命体である人間の社会や👪等の人間の関係其れ自体よりも変化が少なく余程のことが無ひ限り大きくは変はらぬものです。

 

おそらくわたくしは其処こそが好きなのだと思ふ。

人間相手の場合には大恋愛をしたとしても突如として破局を迎へたりもするものだ。

 

また大事な子孫が生まれ付き馬鹿だったり重ひ障碍を背負って居たりもするものだし交通事故でもって愛する人が死ぬ可能性すらもがある。

さうした激動の変化の無ひ分あくまで美としては其れは安定しておりませう。

 

 

オパール

先にも述べましたやうにわたくしは今オパールが兎に角好きです。

其れと翡翠ですが、翡翠の蒐集は兎に角金がかかるー一級の標本の場合にはーので世界中の何処からも出るオパールの方が良品は出易ひものだとも申せませう。

 

尤もわたくしは宝石の業者では無く磨ひたー人為的に加工したーオパールの価値のことなどはむしろどうでも宜しひのです。

さうでは無く兎に角原石でもってこれは!と云ふものを探し回り蒐集して来て居る訳です。

 

原石は一般に桁違ひに安くなるが故に其の点でも蒐集には有利です。

 

プレシャスオパールの原石

たとへば此の位の石ならば原石の蒐集趣味としては御の字でせう。

 

貴蛋白石の原石

ですが此処まで来ると原石でも可成に高価なものとなる筈です。

 

原石其れ自体がまさにピンからキリですので、なるべくキリに近ひピンの石を我我愛好家は蒐集して行くのです。

 

尚、其の石の美も多分に相対的なものです。

美しひと感じる其の感じ方其れ自体が相対的なものなので全部で一万円分の鉱物標本と一千万円分の鉱物標本の良し悪しを絶対化することなどは出来ません。

 

さてもかの宮澤 賢治などはまさに石コ賢さんだったのです。

 

ー幼少期に石を好んで収集する鉱物愛好家だったことから、11歳頃より家族に「石コ賢さん」という愛称で呼ばれた[11]。盛岡中学校時代は、休日に盛岡周辺で鉱物採集をしたり、道中で「矢ノ根石」(石鏃)を収集するためあえて徒歩で帰省したりした[112]。盛岡高等農林学校研究生時代に、人工宝石製造業を東京で起業するプランを手紙で父に送ったこともあった(実現せず)[113]

作中には動植物、鉱物、地質学など科学用語や鉱物の名称が多く登場する[114]

大学で学んだ土壌学を農民へ還元する農業技術の指導員としての評価もある[115]。ー宮澤 賢治#科学より

 

 

 

ー 二人ふたりうでを組んでぼうのように立っていましたが王子はやっと気がついたように少しからだをかがめて、
「ね、お前たちは何がそんなにかなしいの」と野ばらの木にたずねました。
 野ばらは赤い光の点々てんてんを王子の顔に反射はんしゃさせながら、
「今った通りです。十力じゅうりき金剛石こんごうせきがまだ来ないのです」
 王子はこうの鈴蘭すずらんもとからチクチクして来る黄金色きんいろの光をまぶしそうに手でさえぎりながら、
十力じゅうりき金剛石こんごうせきってどんなものだ」とたずねました。
 ばらがよろこんでからだをゆすりました。
十力じゅうりき金剛石こんごうせきはただの金剛石こんごうせきのようにチカチカうるさく光りはしません」
 碧玉へきぎょくすずらんが百の月があつまったばんのように光りながらこうからいました。
十力じゅうりき金剛石こんごうせきはきらめくときもあります。かすかににごることもあります。ほのかにうすびかりする日もあります。あるときは洞穴どうけつのようにまっくらです」
 ひかりしずかな天河石アマゾンストンのりんどうも、もうとてもおどりださずにいられないというようにサァン、ツァン、サァン、ツァン、からだをうごかして調子ちょうしをとりながらいました。
「その十力じゅうりき金剛石こんごうせきは春の風よりやわらかく、ある時はまるくあるときはたまごがたです。きりより小さなつぶにもなれば、そらとつちとをうずめもします」
 まひるわらいのにじをあげてうめばちそうがいました。
「それはたちまち百千のつぶにもわかれ、またあつまって一つにもなります」
 はちすずめのめぐりはあまりはやくてただルルルルルルと鳴るぼんやりした青い光のにしか見えませんでした。
 ばらがあまり気が立ちぎてカチカチしながらさけびました。
十力じゅうりき大宝珠だいほうじゅはある時黒い厩肥きゅうひのしめりの中にもれます。それから木や草のからだの中で月光いろにふるい、青白いかすかなみゃくをうちます。それから人の子供こども苹果りんごほおをかがやかします」ーー虹の絵具皿(十力の金剛石)宮沢 賢治より

 

 

その十力じゅうりき金剛石こんごうせきこそはつゆでした。
 ああ、そしてそして十力じゅうりき金剛石こんごうせきつゆばかりではありませんでした。あおいそら、かがやく太陽たいようおかをかけて行く風、花のそのかんばしいはなびらや、しべ、草のしなやかなからだ、すべてこれをのせになうおかや野原、王子たちのびろうどの上着うわぎなみだにかがやくひとみ、すべてすべて十力じゅうりき金剛石こんごうせきでした。あの十力じゅうりき大宝珠だいほうじゅでした。あの十力じゅうりきとうと舎利しゃりでした。あの十力じゅうりきとはだれでしょうか。私はやっとその名を聞いただけです。二人ふたりもまたその名をやっと聞いただけでした。けれどもこの蒼鷹あおたかのように若い二人ふたりがつつましく草の上にひざまずきゆびひざに組んでいたことはなぜでしょうか。

 

 王子もさけんで走ろうとしましたが、一本のさるとりいばらがにわかにすこしの青いかぎを出して王子の足に引っかけました。王子はかがんでしずかにそれをはずしました。ー虹の絵具皿(十力の金剛石)宮沢 賢治より

 

 

ですがこんなことさへ書ひて居ます。

其の💎以上に価値がある十力の金剛石とは自然其のものが齎す生命の力のことなのかもしれません。

 

但し其の逆の立場がまたあり得やう筈です。

無生命の持つ静謐さのやうなものをわたくしは常に石の世界に感じて居る。

 

 

何故なら生命はまず罪だからなのです。

生命はかうして魅力的ではあるが何より罪深ひものだ。

 

わたくしには此の部分への感度が何故か幼少のみぎりより高くあるのです。

結局だからこそ宗教へも行った訳ですが、其の宗教とは別に美だけはどうしても手に入れたひ訳だ。

 

其の美にも先に述べたやうに藝術に於ける人為的作為的な美と鉱物標本や海や山や川のやうな自然としての美があります。

どちらかと言へば四十以降わたくしは後者のやうな美のみを追ひ求めて来ました。

 

三十五歳位から五十歳位まではむしろ余り本は読まず其れも読むとすれば古生物學のやうなものか、また或は鉱物に関するもの。

文學は十五歳位から三十五歳位までにやり切って居たので地球科学のやうなものへと興味が移って行った。

 

 

そんなわたくしは元々生命現象に関しても懐疑的なのです。

其れも生命賛歌の部分に関しては懐疑的だと云ふ他御座ひません。

 

愛と死の讃歌が一セットになって居る其の矛盾に対し心性として元々懐疑的であるより他無く、であるからこそ自身で詩人だとさう名乗って居る訳です。

 

さて此れ迄のわたくしの人生で一番楽しかったことは愛知や岐阜の各地で鉱物採集をやったことでした。

 

まず何より其れは観念的要素では無く、また人間を対象とする関係の構築のことでも無かった。

 

わたくしは其れが出来た分だけまさに幸せでした。

 

 

万年筆の蒐集の方は読書やら書くことやら、さうした観念的営為と無関係では無くまた金が大きく絡む部分でもあるので最終的には石の方がより感覚的に楽しめる訳だ。

またゴルフの方は兎に角嵌るもので實は健康維持にも大ひに役立つものです。

 

なのですが、石の趣味の方がより原初的に感覚を擽られ其処で美と対峙するまさに其の感覚を味はえるものなのだと申せませう。

ほとんど社会性が無ひと云ふ面に於ひても其の無生命であるところでの石の美は我我生命の思惑を超越して黙って燦然と光り輝ひて居るものなのです。

 

他方では人間味が無ひと云ふ点に於ひて何とも冷たひ世界にて第一何も食はず息もせずタダ其処にじっとして居るものですからコレはもう究極としての無機的な領域のことだ。

 

純粋なる物理世界とでも申しますか、そんな感じもまた御座りますが兎に角石を眺めて居ることこそが即自然其のものを見詰めて居ることなのだと言へる。

 

 

 

ー楢ノ木大学士は蛋白石の採取のため、上野駅から葛丸川の川原へと赴いた。早速川原の砂利を探し回るが収穫はなく、日が暮れ野宿を決める。夜空を相手に上機嫌で岩頸の講義をしているうちに、岩頸の兄弟の夢を見てしまう。

翌朝、大学士は熊出街道方面で、淡白石を探し回るが二日目も収穫はなく、石切場の穴に野宿することになる。明け方妙な声を聞いて大学士は目を覚ます。大学士が石切場の鉱物たちの会話に耳を傾けているうちに夜があける。

 

 

楢ノ木大学士の野宿より

蛋白石即ちオパールの原石は、かやうに川原に転がったりして居るものなのです。

またメノウなどもさうなのだと思はれる。

 

原石は大抵山や川に転がって居るものなのです。

ですがクズ石のやうなものは多く採れても良品は採れぬ訳です。

 

オパールの良品は山の崖などに脈を見つけ其処を掘り込んで球状の石を見つけ其れを割ると出て来たリも致します。ー私の場合掘るのは面倒なのでやらなひー

即ち兎に角手間がかかるので良品はネットでもって買った方がずっと話が早くなる訳だ。

 

 

 

ーぼんやりたき火をながめながら
わらの上に横になり
手を頭の上で組み
うとうとうとうとした。
突然頭の下のあたりで
小さな声で云ひ合ってるのが聞えた。
「そんなにひぢを張らないでお呉れ。おれの横の腹に病気が起るぢゃないか。」
「おや、変なことを云ふね、一体いつ僕が肱を張ったね」
「そんなに張ってゐるぢゃないか、ほんたうにお前この頃湿気を吸ったせいかひどくのさばり出して来たね」
「おやそれは私のことだらうか。お前のことぢゃなからうかね、お前もこの頃は頭でみりみり私を押しつけようとするよ。」
大学士は眼を大きく開き
起き上ってその辺を見まはしたが
れもらない様だった。
声はだんだん高くなる。
「何がひどいんだよ。お前こそこの頃はすこしばかり風をんだせいか、まるで人が変ったやうに意地悪になったね。」
「はてね、少しぐらゐ僕が手足をのばしたってそれをとやかうお前が云ふのかい。十万二千年昔のことを考へてごらん。」
「十万何千年前とかがどうしたの。もっと前のことさ、十万百万千万年、千五百の万年の前のあの時をお前は忘れてしまってゐるのかい。まさか忘れはしないだらうがね。忘れなかったら今になって、僕の横腹を肱で押すなんて出来た義理かい。」
大学士はこのことばを聞いて
すっかりおどろいてしまふ。
「どうも実に記憶のいゝやつらだ。えゝ、千五百の万年の前のその時をお前は忘れてしまってゐるのかい。まさか忘れはしないだらうがね、えゝ。これはどうも実に恐れ入ったね、いったい誰だ。変に頭のいゝやつは。」
大学士は又そろそろと起きあがり
あたりをさがすが何もない。
声はいよいよ高くなる。ー楢ノ木大学士の野宿 宮沢  賢治より

 

 

大學士が野宿する間に鉱物達が会話をし始めたりもする訳だ。

鉱物は普通無生命なので話をしなひ訳なのだが少なくとも心性が純粋な賢治は実際に其の会話を耳にして居た可能性もまたあらう。

 

賢治は生ものとしての女性を避け続けることで其の心性としての純粋性を保ち生涯に亘り観念的理想を追ひ求めたのだとも言へる。

観念的理想即ち法華経的な世界観の實現であり農村の経済的自立であり個としての望ましひ価値観の構築である。

 

賢治は屡「風と結婚する」などと云ふ変なことをまた述べて居たのでもあったが、要するに理想に生きて居る人なので凡人には理解が及ばぬ小宇宙の持ち主なのだ。

 



セザンヌは文化の中心巴里から遠く離れた片田舎エクスにひきこもつて一人で絵画に熱中してゐた。彼は別に新しい事を成しとげるといふやうな心構えもなく、ただ絵画そのものの当然の道を追って自分の力の不足をむしろかこち勝であつたくらゐだ。その片田舎の一老爺の仕事が、世界の新しい芸術に一つの重大な指針を与えるほど進んでゐたのは、彼が内に芸術の一宇宙を深く蔵して居り、その宇宙に向かって絶え間なく猛進したからの事である。内にコスモスを持つ者は世界の何処の辺遠にいても常に一地方的の存在から脱する。内にコスモスを持たない者はどんな文化の中心に居ても常に一地方的の存在として存在する。岩手県花巻の詩人宮澤賢治は稀に見る此のコスモスの所持者であつた。彼の謂うイーハトヴは即ち彼の内の一宇宙を通しての此の世界全般のことであった。(後略)ー「コスモスの保持者」 高村 光太郎

 

 

藝術即ち文化的要素と云ふものは基本的にかうして役立たぬひとつきりの内面世界を世に提示して行くことなのだ。

其のコスモスはどんな表現者の内面にも拡がって居るのではなひかとさうわたくしは捉へる。

 

かやうに人間の内面こそがまさに神秘である。

神秘であり基本的に其れは理解し難ひ性質のものなのだ。

 

其れが何故文學と云ふ形にて普遍化されるかと云ふに、元より其れは言葉其れ自体に其の内面としての小宇宙を鏡として写し取る能力が備はって居るからなのだらう。

 

さても愛とは生臭きものだが其れには死と対になる形で生きる力が備はって居る。

石に其の力は無ひが其の代はりに其処には時を超越した美が蔵されて居る。

 

尤も其の美は観念的な理想なのでは無ひ。

観念的理想はあくまで草に宿る露としての「十力の金剛石」であり「農民芸術概論綱要」なのだ。

 

石の美とは、其の無生命としての美とは或は其の観念的理想をも超越する何ものかなのではなからうか。

 

 

かうして天気の良ひ日にノーブルオパールの標本を陽光に翳すと移ろひゆくそんな夢幻の美の世界が拡がる。

あくまで其れは物理的現象であり其処にはどんな感情的な動きも無ひ。

 

つまりは有情である我我にとり石の美は本質的に救ひを齎すものでは無ひ。

 

只其れが何かを語って居るやうに最近わたくしには思はれてならなひ。

果たして其れは何なのだらう?

 

其の煌めく光がかうしてわたくしにだけ何かを告げて居るのだ。

尤も其れは賢治の作品の如くに擬人化されし自然の姿なのでは無ひ。

 

言はばまるで物理的な会話なのだ。

 

物理的な会話なのだがさうして常に心へ何かを訴へかけて来る。

まさに其の光こそが説法して居るかの如くに。

 

ー恒例の夏の鉱物ショーはてっきり中止だと思って居ましたが何と入場を制限してやって居りました。尤も予約が締め切られて居り今回は出向けません。然し面倒な話です、順番に少しずつ入場するだなんてのは。石の世界は意外と根性がありこんな状況が或はずっと続ひて行くのやもしれませぬ。ー