美の世界は、いざ其れを得やうとすればむしろ何処までも逃げて行くかのもののやうだ。
其れはむしろ愛と云ふことにも似て居る。
世俗の人々は其の愛が實體だとさう思ひ其れに捉はれて仕舞ふ。
だが其の愛には實體など無くあるのだとすればキリスト教の説く如き信仰による愛ばかりなのだ。
けだし是非気を付けておかねばなるまひ。
其の愛は謂はば負の愛だ。
負だからこそ眞となり得る愛なのである。
佛法に於ひても慈悲による愛の階梯があることかと思ふが、其の愛こそが實はもっと負の領域のものだ。
此の世に愛は無ひと云ふことを謂はば悟り其の無ひ筈の愛に縛り付けられる俗人の心のあり方を嘆くことこそが其の慈愛の内容なのだ。
わたくしにとっての美とは、また生きることとは、そんな負の領域、虚の世界の中にひっそりと咲く仇花のやうなものなのだ。
元より其れは悲しひまでに光り輝き我我の心を常に擽るのだが永続のものでは無くましてや結婚など出来るものでは無ひ。
さうして美とはなかなか結婚することなど出来ぬ。
だがそんな美のあり方其れ自体を述べることは出来る。
美其のものを語るかのやうに個としての美との距離感、其の関係性を述べることが出来やう。
美を語らせればかうして何処までも行くのがわたくしの性質で要するに美を観念として捉へ其れに就き述べることが至極好きなのだがそんな言葉による美への賛歌よりは画像の方がより魅力的だらう。
何故なら美は言外にて語られて居る部分がまた多分にあり其の部分は結局どう形容しやうが人には伝はらぬからなのだ。
「他人は地獄」だと云ふことを述べたのがまさに芥川の文學だと思ふのだが人が違ふー個性が違ふーとまた感じ方が違ひ人間同士は基本的に理解し合へはしなひ。
尤も其れも本質的には。ー『他人は地獄だ』と云ふ韓国の漫画乃至はドラマがあるさうだが其れとは関係の無ひ話にてー
さうして今わたくしにはあらゆる美が負の遺産、まるで地獄の遺産でもあるかのやうにさへ捉へられて居る訳だ。
しかしながらだからこそ其れは美しひ。
美しさを、其の眞の美しさとはさうしたことなのだ。
わたくしはそんな苦悩をこそ美しく感じて居る。
だから太宰もまたゴッホも飛び切りに美しひ訳だ。
近代社会に悩んだ漱石もまた飛び切りに美しひ。
さうした心の美しさとはまた別に自然は物理的に美しひ。
わたくしはどちらの美にも興味があるのだが基本的には人間嫌ひなのだらう、物理的な美の方により惹かれて仕舞ふ。
然し概ね文學はまた宗教は心の美の方をより重視して行く。
只そんなことを言ひつつも文學がまた宗教が人間の心を正したことなどかってあった試しなど無ひことだけがわたくしにとり残念なのだ。
まさに其処にこそ疲弊し切り且つ絶望して居るのやもしれぬ。
かうしていずれにせよわたくしの話は最終的に暗ひ方向へと進むのでまさに其れを打ち消す為に物理的な美の世界を希求して居るのだとも言へやう。
わたくしにとっての美の世界とはまさにそんな負の世界のものなのである。
まさに本質としてはさうなのだ。
だからこそ君等の感じて居る美よりはよりクッキリとさうして色とりどりでもってより美しひ訳だ。
謂はば其処でより美が美として分離されて居る訳だ。
此の地元の店の標本ももう五年位売れずにかうしてあるのだけれど、結構綺麗ではなひか。
何故皆はコレに興味が無ひのだらうか。
今回幾つか画像を貼り付けて分かったことかとは思ふのだが、貴蛋白石の標本はまさに絵画的な色彩の変化、特に印象派や象徴主義のやうな色彩の組み合はせを見せて居る。
尤も其の遊色は輝きなので実際には絵画の絵の具の色などよりもずっと輝ひて見へる。
其の光の乱舞、輝きの魔術こそが貴蛋白石の色の持つ本質なのだ。
とどのつまり其れはあくまで物理的な美の世界のものなのだ。
福島の宝坂産のノーブルオパールこそは💎級のものだ。
但し此処のものもまたピンキリで、かっては普通に良ひものが流通して居たが今や良品の蒐集は難しひことかと思はれる。
此れこそが其の良品だらう。
宝石もまた人間と同じでイケてるものはイケておりイケて無ひものはイケて無ひ。
ところが良品を入手することこそがまさに難しひ。
其れも金の問題だけなのでは無くなかなかさうした機会に恵まれぬと云ふ点に於ひて難しひ訳だ。
ー古来から三州街道(塩の道)の足助宿として栄え、奥三河の主要な町のひとつだった。香嵐渓の紅葉で知られた。2005年(平成17年)4月1日に近隣町村(藤岡町・小原村・旭町・稲武町・下山村)と共に豊田市へ編入された。旧足助町役場は豊田市役所足助支所となった。ー足助町より
ー足助街道[編集]
愛知県の足助 - 岡崎間は「足助街道」という呼び方が定着しており、この地域では「三州街道」という呼び方は一般的でない。
三河湾(大浜〔碧南市〕や一色や吉良など)で取れた三州塩を矢作川とその支流の巴川を舟で遡って足助まで運び、そこから馬で信州まで運ぶ「塩の道」。奥三河、足助の宿は中馬[注釈 3]などで輸送された塩や茶荷などをここで積みかえられて信州方面へ送られた。伊那地方では「足助塩」とか「足助直」とよばれるほど、足助は中馬の拠点としての位置を占めていた。
伊那街道[編集]
根羽宿で分岐し三河吉田に至る。途中の新城宿は「山の湊」、「山湊(さんそう)」と呼ばれ、足助同様、豊川の舟運から陸運に積み替える中馬の拠点として栄えた。
要するに其の三州塩を信州まで奥三河を通り運んで居たのである。
香嵐渓は良ひところだが元よりさうさう行けるところでは無ひ。
わたくしの場合三十五歳~五十歳位までは鉱物採集の屡訪れて居た訳だったが其れ以前は子供の頃に弐度程訪れたきりだった。
紅葉の名所でもって観光地なのだが其れでも町を離れると途端に山の中である。
其の香嵐渓から国道420号へと入ると後はずっと奥三河の山の中をドライヴして行く訳だ。
1.🚙がほとんど走って居ない
2.よって道が荒れて居なひ
3.景色及び空気が素晴らしい
ので、實はドライヴするには最高のところなのだが過疎の村のやうなものが点在して居るばかりでほとんど飲食店らしきものが無ひ。
まさにかうした道をスーパーカーなどで走ると最高かと思はれるのだが時折スーパーバイクが走って居るばかりで走り屋が集ふやうなところには非ず。
で、途中山の中で名古屋で買った弁当などを食ふ訳だが其処には近年🐻が出没するとのことで実際飯を食ってる間でも警戒しておかねばならなひ。
国道420号を走り切ると国道257号へと合流し其れを南下するとやがて海老の交差点に達する。
其処から棚山の方へ登って行く。
梅の栽培で有名な川売の集落を抜けると川があり其の辺りからすでに實はオパールの採集が可能だ。
が、此の辺りではほとんど何も採れなひ。
まさにこんな感じである。
山を登り採集出来る場所まで行くが厳密には採集禁止の区域も設けられて居る。棚山についての考察
だが実際には其処まで細かく考へて居る人など何処にも居なかった。
其れを細かく考へたり各地の鉱山跡地などで採集が禁止され始めたのが五年程前からのことだ。
わたくしが鉱物趣味に嵌りつつあった九十年代の末頃に何故か鉱物採集のブームが起こり大きな書店などに多くの書籍が出て居たものだった。
わたくしは其れ等の本から産地の情報を得地元である愛知や岐阜でもって鉱物採集を始めたのだ。
ところがネット時代になり産地の情報が楽に得られるやうになった。
すると有名産地だった奥三河の田口鉱山などにも遠方から人が押し寄せることとなる。
但し実際にはマイナーな趣味なのでさほど人は来て居らず特にわたくしの場合は平日に出向き終日ほとんど一人で採集して居たものだった。
棚山の場合でも平日に出向き終日ほとんど一人で採集して来た。
オパールも白の屑石は廿年前幾らでもあったが現在は其れすら見つけ出すのが難しくなった。
第一オパールを含むであろう球顆が今は採り尽くされほとんど無ひ。
上の画像での右の球顆の方を割ると稀に遊色を示す貴蛋白石ー宝石のオパールーが出て来るのだ。
対して左の白オパールはタダのコモンオパールであり良ひものでも弐、参百円程の価値にしかならぬ。
モノが悪ひと弐、参拾円である。
だから此処まで苦労して棚山まで行き弐、参拾円か又は弐、参百円では元が取れぬ訳だ。
わたくしなどは参年程前山の中で一旦停止違反で捕まり優良免許がおじゃんとなり全く酷ひ目にあった。
其の折に警察官二人に十分はかけ説明し此処の道路標示は消へかけて居て此れではダメだ。
警察なら其の位のことは分かって居る筈だ。
何故其処にて取り締まりをやるのだ。
と別に怒った訳では無く素直に罪は認めたのではあるが其の標示が悪ひ件が何とも承服しかね食ひ下がったのだった。
面白ひことに其の年🚙に乗ったのはさうしてワザワザレンタカーを借り棚山へと出向ひた其の日だけのことだった。
其れもまた運が悪ひことに山の中で警察官二人がパト🚙の中から違反を見張って居たのである。
そんなこんなで元を取ろうと何せ頑張る訳だが其処は棚山のこと、實は石が自然に山の中から出て来るのである。
風雨に浸食され石が涸れた澤や崖などから転がり落ちて来るので實は枯渇すると云ふことは無ひ。
石なんぞ何処にでも幾らでもまたあるものなのだ。
但し鉱山の稼働は戦後暫くまでのことで、また治山工事による岩盤の掘り返しなどもまた限られて居るので其処にしか良ひ石が出て来なひと云ふ話であるに過ぎぬ。
また人件費がかかるが故にわざわざオパールの採取の為に山を掘る訳にもいかぬ。
兎に角昔から石は好きだったが特に好きだった訳では無ひ。
ー昔は國産の紫水晶の標本を一つ持って居たきりだったー
だが四十前位の頃から、其の鉱物の持つ美しさにまさに嵌ったのだ。
「一見、塊に見えるオパールの表面は小さな粒々からなっており、実際、棚山さんのオパールも写真1のように非常に小さな粒からなっていて、その粒々によって光を反射しています。
実際のオパールでは虹色(遊光)が明確であったり、色が赤みを帯びるほど高価になる。虹色が明確なオパールは反射率が高い=構造はっきり並んでいる。と言える。」
実質上は其の遊光が明確であり尚且つ広範囲に及んで居るものこそが良ひノーブルオパールだと呼べることだらう。
赤の遊光は確かにまた独特にドキッとすることもあるのだが、個人的には靑や紫、また緑の遊光も格別な美しさを持って居るものと思ふ。
かと言って、我我鉱物コレクターの趣味による遊光への興味は、所謂オパールの宝石、即ち百貨店や高級宝飾店で売られて居る高価なオパールへの価値ヒエラルキーへの興味とはまた異なる部分もあるものかと思ふ。
要するに其処には自然賛美、自然への讃歌の思ひがまた強くあるが故に其れが常に一級品の品である必要などは無く従って💎の業者が見向きもせぬやうな石でもまさに其れが自分にとっての大事な石ともなり得る訳だ。
どだひ業者は鑑別眼即ち社会的に規定される💎への価値ヒエラルキーに毒され過ぎて居りもっともっと純粋な原石への愛、原石への實存的な愛着の部分に概して重きを置かぬから逆にダメなのだ。
そんなものでは無く自分と石との関係性、即ち愛、まさにケッコンしたひまでに其の石を愛し抜ひておると云ふ心性の部分こそが大事でつまりは其れが痘痕も靨と云ふことなのだ。
即ち其の不細工な妻、其の不細工でしかも家事が苦手な馬鹿👩、其れでも君は其れと一緒になった其の事實こそが大事だ。
つまりは其れが實存的眞實なのだ。
實存的眞實は動かし難ひたったひとつの価値である。
人間の命、また動植物の命のひとつひとつがかけがへのなひもの、他とは交換することなど適はぬ實存的眞實であることを君等人間は此の際是非知って置くべきだ。
さて、其れでは💎詩人が体験した凄ひ話をひとつ話してしんぜやう。
其れは今から十五年程前のことである。
其の時わたくしはまだ自分の🚙を持って居た。
其れはパルサーのハッチバックのX1-Rだった。
わたくしは兎に角走る🚙が好きなので当時其れに乗っておった。
其れでもってわたくしは香嵐渓から国道420へと入りまた国道257へ至り海老の交差点を左折し川売の集落を過ぎ暫くして🚙を止めた。
無論のこと🍱を食ふ為だ。
確りと🍱を食ってからわたくしの場合は山へと入って行く。
さて、🍱を食ってから棚山高原のオパール①の川原へ歩ひて降りやうとしたところ其処に川から水を取るホースが伸びて居て其処から水が噴き出して居た。
其れもホースが破れたところからさうして水が噴き出して居たのだ。
しかも其れが霧状に水が噴き出して居たのである。
すると其処には何と!虹がかかって居るではなひか!
美しひ七色の虹が其処に確かにかかって居たのである。
其の折にわたくしは本日の収穫を確信したのだった。
で、事實として採れたのが画像の貴蛋白石だった。
其れは林道ゲートよりも下流の方で採れた。
しかも泥だらけでもって誰も気には留めぬやうな石だった。
ところが川の水でもって洗ってやると突如ギラリとして光り輝くではなひか!
まさしくコレだ!
アノ虹の化身こそがコレなのだ!
此の石の遊光は兎に角緑が強ひ。
昔の画像なのでピンボケなのだが其れでも其の緑の光が兎に角出て居やう。
實は角度により靑の遊光も出る。
靑と緑、此のわたくしが最も好む色の組み合はせが何故か其処にはあった。
そんな訳で今日は採れるとさう確信して良ひ石が採れたのは其ればかりでのことであった。
棚山では結局三つだけ貴蛋白石を採った。
其のうちの一つは細かひが赤の遊光も出る。
だがわたくしの宝物とはまさに此の標本なのだ。
何故なら其れは虹の化身だからなのだ。
他にもわたくしは購入した多くの棚山産ノーブルオパールの標本を持つ。
だが其れ等はやがて売って仕舞ふのやもしれぬ。
でもコレだけは売ることなど出来ぬ。
かうして眞の美とは売ることなど出来ぬひとつきりでの性質のものなのだ。
💎の業者は其の点での感度が鈍って居り要するに💎の持つ社会的な価値ヒエラルキーに毒されて仕舞ひ易ひ。
だからわたくしは案外💎の業者を信用して居なひ。
其処は原石のコレクターさん方の方がむしろ此の辺りの機微と云ふか事情を良く御存じの筈なのだらう。