目覚めよ!

文明批判と心の探求と

聖フランチェスコの「平和の祈り」より

ー中世中期、荘園領主化した既存の修道会の腐敗に対する反省としてうまれた。元来は修道院が所属する教区内で、修道士托鉢を行い、善意の施しによって生活して衣服以外には一切の財産をもたなかった。ー托鉢修道会より

ー「フランシスコ」という教皇の名は、コンクラーヴェにおける彼の得票数が全体の3分の2を超え、選出が確定的になった際に、隣に座っていたブラジルのクラウディオ・フンメス枢機卿から「貧しい人々のことを忘れないでほしい」と言葉をかけられ、この時に清貧と平和使徒であった、中世イタリアの聖人アッシジのフランチェスコの名前が思い浮かび、教皇名に選んだと本人が語っている[237]。フランス司教団の代表であるベルナール・ポドヴァンフランス語版司教によると、それは アッシジのフランチェスコ霊性を踏まえ、福音的な慎ましさと、とりわけ貧しい人々への配慮を示すものであるという[238]。また、幼少期に、会計士事務所で働きに出された経験から「労働は人間の尊厳である」という考えを持っており、スペインのジャーナリスト、マリオ・エスコバルマックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』に近い思想だと評している[11]。ーフランシスコ (ローマ教皇)#思想・信条より

 

第266代羅馬教皇フランシスコは中世イタリアの聖人アッシジのフランチェスコの名から取られたものである。

環境破壊が進む今まさに時代にふさわしひ法名なのではなひか。

 

ーただ神を讃美し、小鳥やオオカミなどをふくむ神のあらゆる被造物を自分の兄弟姉妹のように愛し、福音を伝え、単純と謙虚の道を歩むことであった[127]。フランチェスコは、ウサギセミキジハト、ロバ、オオカミに話しかけて心がよく通じ合ったといわれる[128]に説教を試み、オオカミを回心させた伝説が知られ、とくに小鳥に説教した話は有名である[注釈 1][129]。『聖フランチェスコの小さい花』にも、説教を聞く者がいないときフランチェスコは小鳥を相手に説教したという逸話が収載されており、同様の伝承は数多く伝えられている[130][注釈 2]

フランチェスコの以上のような事績から、1978年から2005年まで教皇位にあったヨハネ・パウロ2世は、1980年、フランチェスコを「自然環境保護の聖人」に指定した[131]

フランチェスコにとっては、人類すべてのみならず、天地の森羅万象ことごとく、唯一神たる天の父とマリアを母とする兄弟姉妹なのであった[132]。こうした「万物兄弟の思想」はフランチェスコとその修道会を貫くものであり、フランシスコ会の修道士が「フライアー」friar と称される由縁である[133][注釈 3]。ー万物兄弟の思想と自然保護の聖者より

 

かうして洋の東西を問はずに心根の優しひ人間は動植物と会話することが可能だ。

 

事実わたくしは屡猫や鳥と会話したりもする。

猫などとは最近テレパシーのやうなもので心が通じ合ふやうにもなり、実際にほーいと出て行くだけでみゃおーと見知らぬ野良猫がちゃんと挨拶して呉れるやうにさへなった。

 

鳥との会話は現在習得中である。

 

ちなみに植物とはスキンシップをすることが多ひ。

花の香りを嗅ひであげたり実やら葉やらを揉んであげたり良くして居るので流石に感情は受け取れぬまでも何となく歓迎されて居るやうなそんな気がせぬものでもなひ。

 

但し其の優しさとは人間への優しさとは少々異なることだらう。

 

 

故にわたくしは人間の社会に対しては常に厳しひので組織やら集団やらをボロクソに貶すことがはっきり言って多ひ。

 

其の聖フランチェスコは今や「自然環境保護の聖人」と呼ばれることとなった。

 

森羅万象が神の御子であるとする其の思想はむしろ東洋の思想に近ひものだ。

 

 

ー本覚とは、「本来の覚性」の意で、一切の衆生に本来的に具有されている悟り智慧を意味する。如来蔵仏性をさとりの面から説明したものとも考えられる。大意としては、衆生は誰でも仏になれるということ、あるいは、人間はもともと仏性を具えているということである。ー本覚より

衆生=一切の生きとし生けるもの(生類)との意ー

 

 

かって此の本覚思想を最大限に評価して居られたのが哲學者の梅原 猛先生であった。梅原 猛#人物

わたくしは先生の西洋近代哲學批判の部分と東洋の思想を大事にする精神に共鳴し一時期は其の梅原日本學に心酔して居たものだった。

 

先生の講演会へも二度程出向き懸命に其の西洋近代哲學批判を拝聴して来たりもしたのであった。

 

二度目の講演会では何とわたくしの席の前にどこぞの僧侶の方が座って居られ其の坊主頭が講義中すぐ目の前にあったことなどをいまだに良く覚へても居る。

 

先生の西洋近代哲學批判は手厳しひものであったやうに記憶して居るが細かな内容に就ひてはもはや忘れて仕舞った。-何処かに講義メモが仕舞ってはある筈なのだが-

 

先生は地元の中日新聞に「思うままに」と題したエッセイ=哲學的断片集を当時連載されて居りわたくしは其れを欠かさず毎号読み尚且つスクラップ記事となしまた読めなかった部分を図書館にて読んで来たものであった。

 

其の「思うままに」は文春文庫として出て居たやうだがどうやら今は絶版になって居るやうだ。

 

 

さて其のやうに洋の東西を問はずに共生の思想、生き物皆兄弟の思想が無かった訳では無ひ。

 

ところが「万物兄弟の思想」も「本覚思想」も最終的には矛盾化するのである。

 

何故なら、人間が発展するとは自然を搾取することでしか其れを為し得ぬことだからなのだ。

 

さう人間が発展するとは即自然を痛めつけることでしか無ひ。

 

だがもしも人間が発展しなひのであれば自然との共生は可能であることだらう。

 

わたくしは是非其れをやるべきだと述べて居るのだ。

 

 

實は其れでも充分に我我は豊かなのだ。

 

特に此処日本國に於ひては特に豊かな海の幸、山の幸に恵まれて居り古来より我我日本人は其の恩恵に浴して来て居たのだった。

 

どだひ日本の各地にはどんなに美味ひものがあることか。

 

北海道にも九州にもさうして日本海にも瀬戸内海にも遠州灘にもいいものが一杯ある筈ではなひか。

 

此処愛知でもウナギは獲れるわ🐡は獲れるわ、其れに八丁味噌は出来るわエビ煎餅は出来るわで実際もう死んでも美味ひものばかりだぞよ。

 

さうした豊かさに我我は是非気付かなければならぬ。

 

 

其の地域的な特殊性から齎される恩恵こそが人間が感謝して受け取るべき恩恵のことなのだ。

 

其の恩恵の分を守り活動して居る限りかうしてグローバルな大問題に直面するリスクは大幅に減らう。

 

 

つまりは発展=進歩などせずとも我我日本人は充分に豊かなのだ。

 

だからもう鎖国しやう。

 

いっそのこと鎖国して徳川 家康の統治を是非見詰め直してみる必要がありはしなひか。

 

また関西などでは徳川 家康の統治に対しもしや恨みがあるやもしれぬので此の際豊臣 秀吉でも別に良ひのだ。

 

豊臣 秀吉は切支丹を弾圧したが或は其れは正しかったのやもしれぬ。

 

 

キリスト教は確かに正しひのだが何せ此処日本國は神道と佛教の國だ。

 

此の際伴天連を追放し佛國土を築かねばならぬのやもしれぬ。

 

 

尚、其の自然の恵みの豊かさと自然による災害の被災国であることとは表裏一体である。

 

だからこそ此処日本國での先進技術國化はどう考へてもマズひ。

 

だから、其処で其の進歩の為の技術革新と鎖国とが両立しなひ。

 

なので此の際先進国であることを辞め自然の恵みと共生する自然立国へと是非国是を訂正するのだ。

 

即ち「万物兄弟の思想」と「本覚思想」を併せ持つ環境立国として先進国となっていけば宜しひ。

 

 

ー上述の通り、この本覚思想は、衆生の誰もが本来、如来我・真我・仏性を具えている(本来、覚っている)が、生まれ育つと次第に世間の煩悩に塗(まみ)れていき、自分が仏と同じ存在であることがわからなくなる、ということである。もちろん、これは無明と共に輪廻が始まるとする釈迦の教説とは全く相反するものである。ー本覚より

 

天台宗を中心に広まったとされる本覚思想には根本的な問題点もまたある。

釈迦の教へでは元来悟ることが出来るのは人間のみで其れも個として厳しひ修行を積まねば悟ることなど無論のこと出来なかった訳だ。

 

其れを此のやうに変へて仕舞ふーある意味では捻じ曲げるーことで結果的に原初の佛教が持つ教説の純粋性を失っていく訳だ。

 

なんだけれども、衆生の誰もが本来、如来我・真我・仏性を具えて居ると考へておく方が此の合理主義の進んだ世の中への反駁がやり易くもならう。

 

問題は其の合理化、其れも社会的な欲望の合理化にこそ存して居り其れを理論的に屈服させることだけがわたくしの望みなのであへて其の問題の多ひ本覚思想を持ち出してみた訳だ。

 

梅原先生も其の晩年には本覚思想を否定的に捉へられて居たやうに思ふ。

 

 

本覚思想に限らず大乗佛法其のものが釈迦の教説とは乖離したところでの矛盾的佛法なので其処はそもそも元々がダメだとも言へやうが矛盾であれ何であれ其れも佛法は佛法で合理主義による破壊地獄の様とは勿論比較にならぬ程に其れは浄土であり佛國土であり豊かな恵みの大地であり神々に護られし特別な存在なのだ。

 

其の特殊性を近代主義はまた共産主義は目の敵にしていく訳だが事実としてさうなのだからこそ右翼思想と云ふことでは無く日本國はほとんど自然の天國なのだ。

 

其の現世の天國にて布教が許される切支丹はフランチェスコ会のみだらう。

 

 

ーフランチェスコはまた、人間にとって本当に必要なものは愛と平和だけであり、それ以外のものはすべて不要だと主張し、いさかいや対立は所有することに端を発すると説いたように、その清貧の思想は彼の平和主義と分かちがたく結びついていた[140]キリスト教イスラームの宗教対立の時代、そしてまたキリスト教世界が十字軍の熱狂のただなかにあった時代に、他宗教との対話のため、対立する陣営にみずから赴いている点も注目される[141]。ーアッシジのフランチェスコ#清貧と平和の思想 より

 

フランチェスコは左様に人間のエゴを離れし聖人なのだ。

人間は所有することで自ら其の心を汚していく。

 

だから所有しなひことが其の愛と平和を實現する為の要諦なのだ。

清貧とは其れ即ち所有しなひことだ。

 

所有しなひことからこそ対立する概念への包容力が生まれ得る。

だが今我我は所有して居り、のみならずさらに別次元での所有を欲しておる。

 

其の所有は次第に電脳化されより抽象性を帯びたものへと変わっていくことだらう。

 

だが其れを欲してはならなひ。

 

抽象性を帯びた所有は具象的な所有とは比べ物にならぬ程破壊力を増す。

 

其のやうな所有は捨て、実りある國、幸ある國としての其の恩恵を享受せずして何とする?

 

確かに我我はすでに所有からは逃れられぬ。

 

 

其の多くの所有が我我の現在を成り立たせて居るが故に。

 

ではあっても其れ以上を望んではならぬ。

 

もはや充分に所有した。

 

これからはむしろ少しずつ捨てていかう。

 

キリスト教の聖人でさへ其れが出来たのだ。

 

佛教徒である我我が其れを出来ぬ筈が無ひ。

 

お坊様方、まずはアナタ方から托鉢の精神をば我々に示して頂かねば困る、まことに困るのだ。

 

 

要するに余分なものを望まぬやうにしていかう。

余分なものとは大抵が抽象的なものだ。

 

 

フランチェスコ会#日本での活動と日本宣教

 

フランシスコ会日本聖殉教者管区

 

 

主よ、わたしを平和の器とならせてください。
  憎しみがあるところに愛を、
  争いがあるところに赦しを、
  分裂があるところに一致を、
  疑いのあるところに信仰を、
  誤りがあるところに真理を、
  絶望があるところに希望を、
  闇あるところに光を、
  悲しみあるところに喜びを。

ああ、主よ、慰められるよりも慰める者としてください。
  理解されるよりも理解する者に、
  愛されるよりも愛する者に。
  それは、わたしたちが、自ら与えることによって受け、
  許すことによって赦され、
  自分のからだをささげて死ぬことによって
  とこしえの命を得ることができるからです。

フランシスコの平和の祈りより

 

 

 

ー分裂があるところに一致をー

 

人間の生とはまさしく其の分裂の過程である。

分裂は矛盾を生み諸の苦を生み出す。

 

但しわたくしは其れを一致させやうとは思って居なひ。

人間にとり其の一元化は無理だとさう判断するからだ。

だが違ひのある方への思ひやりだけは或はかけていけるのではなひか。

 

二元分裂の哀しみをさうして人は自覚していかねばならぬ。

 

 

ー疑いのあるところに信仰をー

 

宗教を問はずして正しひ教へと云ふものが必ずやあらう筈。

正しひ教へに導かれることはタマシヒの平安を齎すことであらう。

 

わたくしは仏法には限らず宗教其のものを信仰して居る。

其れでも猶疑ひ続けて居る。

 

疑ひ続けることで批判をなす為に。

 

 

ー誤りがあるところに真理をー

 

何故なら誤りは誤りとして糾弾し是非正さねばならぬからなのだ。

 

抽象的な欲望を追ひ求めることでむしろ人間の心は貧しくなっていくことをこそ是非伝へていかねばならぬ。

 

 

とこしへの命とは信仰により得られるいのちのことであり謂はば其れは死んで生きる命のことなのでもある。

 

左様に人間は死んで生きる限りに於ひてあらゆる価値観の是正が其処に行われ清貧の心へと近づいていくことが出来るのだ。

 

さうして宗教者としてのあるべき姿が其の死んで生きる命なのは佛教の場合でもまるで同じなのだ。

さうして性を捨て社会を捨て死して生き初めて分かる精神の上での価値基準があることだらう。

 

其れに従って居さへすれば無用な価値を欲せず無用な問題に頭を悩まされずとも良くなることであらう。

 

逆に進歩することやグローバルに利益を追求することこそが其の無用な価値を欲することなのだ。