目覚めよ!

文明批判と美の探求と

聖フランチェスコの「太陽の賛歌」より

ーフランチェスコイスラーム世界への宣教にも意欲をもっていた。1209年から1212年のどこかで船に乗ってシリアに向かったが、船が難破してダルマチア沿岸に漂着して断念した[88]。1212年から1214年のどこかには殉教覚悟でモロッコを目指したが、途中のスペインで病を得て引き返す[89]。1219年には、ついに第5次十字軍が駐留するエジプトに渡った[90]。彼はまず、ダミエッタの町を包囲していた十字軍(ダミエッタ包囲戦)に対して戦闘の中止を呼びかけたが、十字軍の行為に幻滅を覚えた[91]。その後、供を一人連れただけでイスラーム陣営に乗り込んでスルタンのメレク・アル=カーミルと会見しキリスト教への改宗を迫った。スルタンは改宗には応じなかったものの、フランチェスコは丁重にもてなされたという[92]。この席でフランチェスコイスラーム法学者との対決を望み、神明裁判を持ちかけたとされている。すなわち、燃え盛る炎の中に飛び込んでどちらに神の庇護があるかを競おうというのである[93]。フランチェスコ伝の中のこの有名なエピソードは近代以降は史実に根拠を持たない伝説と考えられていた。しかし、カイロに保存されているある墓碑銘の文面によれば、その時期にイスラム法学者キリスト教修道士と有名な試みを行ったとされており、この伝説も再考されつつある[94]

スルタンによって十字軍陣営に送り届けられたフランチェスコは、エルサレムなどの聖地巡礼を行っていたが、イタリアから急を告げる使者がやってきてイタリアに戻ることになった[95]。ー アッシジのフランチェスコ #兄弟団の発展より

 

かくして聖フランチェスコはかのイスラーム世界への宣教を開始したのだった。

尤も佛教徒である我我にとり其れはキリスト教の思ひ上がりでもあるやうに思へなくも無ひ。

 

だがとりあへず理解出来なひ立場のところへわざわざ出掛けて行くと云ふことはおそらくは彼フランチェスコが広ひ心の持ち主であったことを示すものでもあることだらう。

 

何故なら心が狭くては動植物とはとても会話など出来ぬものだからなのだ。

かように心のあり方は広ひものである方が良ひ。

 

 

さて其のやうにキリスト教は基本的に正しひのではあるがキリスト教自体がこれまでに世界中で色々と罪を犯して来て居る事実を見逃す訳にはいかぬ。

 

特に他宗教に対して寛容性の無ひところなどは今後是非反省して行って頂きたひものだ。

 

其の点佛教は特に大乗各派は少しは寛容性がありさうなものなのだが其れでもあくまで其れは日蓮日蓮道元道元の教へでもってしてさういふのはキリスト教などとは混ざり合ふ筈の無ひものだ。

 

但し浄土教ばかりは矢張りと云ふべきか明らかにキリスト教とは相性が宜しひのではなからうか。

 

其れも浄土教の人はキリスト教徒に改宗することさへ何となく出来そうな感じだ。

 

 

ーこの席でフランチェスコイスラーム法学者との対決を望み、神明裁判を持ちかけたとされている。すなわち、燃え盛る炎の中に飛び込んでどちらに神の庇護があるかを競おうというのである[93]。ー アッシジのフランチェスコ #兄弟団の発展より

 

其の神明裁判こそがまさに實に面白さうな宗教裁判なのだ。

 

ー神判はキリスト教にとっては、有力な布教のツールであった[46]。もとは当地の風習と折り合うために容認したものであったが、聖職者が神判を主宰することで、神判は身内の儀式ではなく社会的拘束力を持つ裁判手続となりえた。神判で有罪か否かを判定してみせることで、キリスト教の神の正しさ・優位性を人々に示すことができた[47]。ー神明裁判より

 

ー釜審または火審
湯を沸かし、その湯の中に指輪または石を投入する。被告は素手でこれを取り出す。手に包帯を巻き3日待つ。その後ほどいて「きれい」であれば無罪とされる[10]。中世ヨーロッパでもっとも古く、510年に言及が見られる[11]
水審
手足をしばって水中に投げ込む。浮かべば有罪、沈めば無罪。時間がかからない利便性が人気で、記録が豊富に残っている[12]9世紀には存在した[13]
熱鉄審
3日間の断食ののち、熱した鉄を持って3歩あるく。のちに包帯をして3日後「きれい」であれば無罪とされる[14]800年頃には存在したと考えられている[15]
鋤刃歩行
熱鉄審と類似の方法である。赤熱させた鋤刃を規定枚数(多くの場合9枚)並べ、その上を歩く。802年が最古の記録である[16]
クロス審
原告被告の両者が向かい合い、それぞれ両手を十字に広げる。疲れて先に腕を下ろした方の負けとする[17]小ピピンの頃(751年 - 768年)には存在したが、孫のルイ敬虔王はこれを禁じた[18]
聖餐審
パンまたはチーズの塊を飲み込む。苦しんだりむせたりすれば有罪、問題なく飲み下せれば無罪[19]868年の記録が最初の言及とされる[20]

このような神判で有罪になるのを恐れて、あるいは神判自体を恐れて、多くの者が逃亡した。逃亡もまた神判の一部なのであった。[要追加記述]ー神明裁判#神判の種類より

 

 

なる程中世までの歴史過程では所謂エログロな拷問などが神の名の下に屡行われても居り如何にも其処が魅力的だ。

いや、さう云ふのは出来れば是非止めて置ひて下され。

 

言ふまでも無くさう云ふのは理性にとっての毒なので。

 

 

ー日本では「盟神探湯(くがたち)」の他、様々な「うけい」が行われている。 信長公記では、織田信長火起請(火を使った誓約)を行った逸話が記載されている。

庄屋甚兵衛が一色村の左介を訴えて火起請が行なわれた。左介は加熱した横斧を取り落としたが、信長の乳兄弟池田勝三郎の被官であったため、立会人たちは成敗を躊躇っていた。たまたま、鷹野帰りに通りかかった信長がこれを聞き、不満に思い自ら火起請を行い、横斧を手に取り三歩歩いて柵に置いて「それ、見たことか」と叫んで左介を成敗させた。

日本神話では、邇邇芸命に不義の疑いをかけられた妻木花之佐久夜毘売火中出産という神明裁判を受けている。ー神明裁判#日本より

 

何と信長が其れを行って居たらしひ。

 

 

ー対象となる者に、神に潔白などを誓わせた後、探湯瓮(くかへ)という釜で沸かした熱湯の中に手を入れさせ、正しい者は火傷せず、罪のある者は大火傷を負うとされる。毒蛇を入れた壷に手を入れさせ、正しい者は無事である、という様式もある。あらかじめ結果を神に示した上で行為を行い、その結果によって判断するということで、うけいの一種である。ー盟神探湯より

 

しっかし此れでは如何にも酷ひ。

熱湯にて火傷せず毒蛇に手を噛まれぬことが正義の証明だったなんて。

 

かうして洋の東西を問はずに神判は屡行はれて居たのである。

 

 

ところで昔の逸話又は神話には此の種での所謂非理性的とも思はれる社会的所業が屡見受けられるものだ。

さうした蛮行に対し理性を基とし其の迷妄又は不合理を消去していくことこそが近代以降の人間の目的でもまたあった訳だ。

 

其の試みは半分は成功し半分は失敗したのだとも言へやう。

 

何故なら合理主義に偏ることで其の拷問は合理化されたからなのだ。

グロ―バルに展開される利益至上主義や雇用の派遣化等は勿論其の拷問の合理化なのだ。

 

或は医者浸けにして無闇に寿命を延ばさうとするのも其の拷問の合理化なのやもしれぬ。

 

 

いずれにせよ人間の社会はいつの世にも問題が山積みでもって悩み深ひものだ。

 

 

 

フランシスコの平和の祈り(平和を求める祈り)

尚此のフランシスコの平和の祈りは聖フランチェスコに因むものではあれ廿世紀に入り匿名の著者により書かれたとする説が有力である。

即ち其れは中世にまで遡る古い祈祷文では無く、謂わば現代社会としての祈りであり願ひを反映するものなのだ。

 

だが此の祈祷文にある言葉はとても強く我我の心に響ひて来る。

カトリックに於ける聖者崇拝を普通は認めぬプロテスタントですら此の祈祷文を認め尚且つ聖フランチェスコの聖性をも認めて居るのだと云ふ。

 

即ち其の祈りとは、中世までの非理性的野蛮さを備へし社会に対し強く希求されたと同時に近現代と云ふ理性的野蛮さを備へし社会に対しても強く希求されるものである。

 

但し現代人は一般的に文明の価値観に洗脳されて居り其の事実には気付けぬものなのだが。

 

 

 

さて、今回はアッシジのフランチェスコまさに其の人の作とされる「太陽の賛歌」につき読解を試みてみやう。

 

ー1.「アッシジのフランチェスコ」及び「太陽の賛歌」について確認
 『岩波キリスト教辞典』 大貫隆ほか/編集  岩波書店 2002年

 p.984-985「フランチェスコアッシジの)Francesco<Assisi>1181/2-1226」の項目に「フランシスコ会創設者。イタリア中部ウンブリアのアッシジに裕福な呉服商の息子として生まれる。(中略)疾病、ハンセン病者との出会い、サン・ダミアーノ聖堂の十字架型板絵からの呼びかけを受けて、償いの生活と聖堂の修復にあたる。やがて仲間が加わり、福音の言葉の文字通りの実践、特に貧しく十字架で死んだイエスの模倣、清貧の実践に努める。(中略)24年アルベルナ山で聖痕を受け、その苦しみの中『太陽の賛歌』を作る。(後略)」と記載あり。
 p.715「『太陽の賛歌』Il canto del sole」の項目に「アッシジの聖フランチェスコが晩年、聖痕を受け、病床で盲目の状態で書いた神への讃美の詩。被造物を通して神を讃美する内容だが、前半では太陽、月、星、風、火など、様々な被造物を人間の兄弟と呼んでいる。後半では、ゆるしや平和、病気や苦しみの忍耐を通して神を讃美し、最後には死をも姉妹と呼び、永遠の命に至る希望を語っている(後略)」と記載あり。ーレファレンス事例詳細(Detail of reference example)より

 

 

 

賛美されますように、私の主よ
   あなたがお造りになったあらゆるもの
とくに、貴き兄弟である太陽によって
この兄弟は真昼の光、この兄弟によって
   あなたはわたしたちどもを照らしてくださいます
この兄弟は美しく、大きな輝きをもって光り輝き
あなたのお姿を帯びています、いと高き方よ


賛美されますように、わたしの主よ
   姉妹である月と星とによって
あなたはそれらを清く貴く美しいものとして
   大空にお造りになりました


賛美されますように、わたしの主よ
   兄弟である風によって
また、大気と雲と晴天とすべての季節によって
これを通して、あなたはすべての造られたものらに
   支えを与えてくださいます


賛美されますように、わたしの主よ
   姉妹である水によって
この姉妹はいとも有益で謙遜で貴く清らかなもの


賛美されますように、わたしの主よ
   兄弟である火によって
この兄弟によって、あなたは夜を照らしてくださり
この兄弟は美しく心地よく、いとも逞しく力強いもの


賛美されますように、わたしの主よ
   姉妹であり、わたしたちの母である大地によって
大地はわたしたちを支え、育み
さまざまな果実を実らせ
 花々と千草によって色鮮やかに装います


賛美されますように、わたしの主よ
   あなたへの愛の故に人を赦し
病と艱難とを耐える者らによって
平和のうちに耐え忍ぶ者らはなんと幸いなことでしょう
いと高き方よ
   この人々はあなたから冠を戴くことでしょう


賛美されますように、わたしの主よ
   姉妹であるわたしたちの肉体の死によって
この姉妹から、生きとし生けるものは誰一人として
   逃れることはできません
死に至る罪のうちに死ぬ者はなんと不幸なことでしょう
あなたのいとも聖なるみ旨のうちに
   自らを見出す者はなんと幸いなことでしょう
第二の死はこの人々に
   何の危害を加えることができません



太陽の賛歌より抜粋して引用

 

 

まず、光の主である太陽は常に尊ひ。

いずれの文明でも等しく尊ひ。

太陽神ラーもへ―リオスも天照大御神も皆尊ひ。

但し陰陽思想では太陽が陽で月が陰とされる。

 

其処はまあ当たり前のことではあらうが。

 

其の太陽が貴き兄弟であるとさうアッシジのフランチェスコは述べて居る。

 

一体どんな兄弟なのか?

 

いと高きお方=神による被造物としての兄弟なのだ。

 

 

さうして月と星とが姉妹である。

 

特に👩の胎の中は何故か月と連動して居り欲望のあり方が陰気と云ふか陰湿なのでもまたあらう。

 

 

だが女性こそが太陽なのではなひのか?

 

実際何処の家庭でも母ちゃんこそが太陽なのだぞよ。

 

いや女の本質はねちっこくて男性程サッパリとはして居なひ。

 

生を望むのは常に👩で其の欲望は悪魔と結託して居るとさへ言へるものだ。

 

 

其処まで言ったのは世界中でアンタ一人だけだが。

 

別に構はぬ。

ほんたうのことを述べたまでのことだ。

 

 

 

さうして風により、また大気と雲と晴天と全ての季節とにより神の被造物の全てに支へが与へられやう。

 

其のいずれの現象もが作為や観念によるものでは無ひ。

 

人の手を離れまさに神意により形成されるものなのだ。

 

 

水よ、とこしへに貴く清らかなものよ。

水もまたかの老耽をはじめとする多くの東洋の賢人が見詰めて来しものでもまたある。

 

常に水は生命を潤す。

生命とは水である。

 

水とは潤ひのことだ。

 

其の潤ひに光が射す。

 

其れが恵みと云ふことだ。

 

神の恵みと云ふことなのだ。

 

 

火。

其れはボウボウと燃へ盛る。

 

燃へ盛る破壊者であると同時に暖を取る=エネルギーを生ずるもののことでもある。

 

其れは聖火であり同時に破壊の神でもある。

 

 

 

然れども水と云ふ潤ひの恵みにせよ其処には洪水の恐怖、溺れへの死の恐怖が宿って居る。

 

此の世の全ての事物はさうした二元的性質を持つ。

 

 

さうして大地は果実を実らせ花花と千草により色鮮やかに装ふ。

 

其の大地こそが我我人間をかうして支へ育んで来た。

 

其れは神の御業により我我がさう育まれて来た。

 

人間自身の力によりさう立って来た訳では無ひ。

 

 

人は何故赦されねばならぬのであるか?

 

人は容易に悪魔へと其の心を売り渡して仕舞ふが故に。

 

人は太陽と月と星と風と大気と雲と晴天と全ての季節以外には何も欲せぬと云ふのに。

 

 

其の抽象的な欲望の成就の為に我我は悪魔に心を売り渡したのだ。

 

嗚呼ファウスト博士!

 

我我が、其の我我自身が悪魔なのですか?

 

我我自身が悪魔なのだからこそ信仰への道が開かれやう。

 

 

 

より正確には此の世界自体が善にも悪にもどちらにも進むことの可能な世界なのだ。

だが悪の世界自体は神のものでも佛のものでも無ひ。

さう其れはあくまで人間の世界のものなのだ。

 

 

故にほんたうの世界とは其の悪としての人間の世界を離れし赦された世界か又は相対分別を滅し去った世界でなくてはならぬ。

 

であるからこそ切支丹は赦された世界にこそ生きやうとする。

 

其れは神と永遠に交わる世界のことだ。

 

其の赦されることこそが愛である。

 

左様に愛とは母ちゃんや息子、娘等を愛することには非ず。

 

さういうのはタダの感情か又は情欲のことー愛欲のことーで、でも神の愛とは其れを離れしいと高き愛のことなのだ。

 

 

さうしてわたくしたちは死に至る病を等しく背負ふ。

 

其れは精神と肉体が乖離した病ー罪ーなのだ。

 

佛教徒もまた其の病を良く承知して居る。

 

 

だが佛教徒は死んで生きまさにさうすることで生自体を消し去ることをこそ目指す。

 

切支丹の方々には悪ひのだがさういふ教義なので其処は如何ともし難ひのだ。

 

生自体を消し去ることは切支丹の方々にとり或は最大の罪なのやもしれぬ。

 

なのだけれども其処で暫し考へてみて頂きたひ。

 

 

何故なら切支丹の方々もまた其の死に至る病としての罪をまさに死んで生きることにより消し去らうとされて居るのではなひか。

 

つまりはどのみち此の世はこのままではダメだと言ふことなのだ。

 

でもこんなに美しひ世界の一体何処がダメなのだ?

 

 

 

ズバリ申しませう。

 

世界がダメでなひと其処でそも宗教など成立致しませぬ。

 

宗教とは其の分離ー分裂ーとしての生への唯一の抽象的な対処の仕方なのだ。

 

世界が✖なので其処であへて〇の世界を目指すのが宗教と云ふものなのです。

 

 

世界が✖と云ふことをさう抽象的に規定するのは無論のこと人間の観念だけです。

 

其の観念こそがそも罪深ひものなのでキリスト教では其の罪深さを愛ー博愛=普遍化されし愛ーにて赦すのであります。

 

赦されし観念が死して生きることで心が浄化されるが故に事実として死んだ後も神の世界ー天国ーでタマシヒが生き続けて行けるのです。

 

其れを永遠の命を得ることだとさう言ふのであります。

 

では佛教の方では一体何を考へて居るのでせうか?

 

 

其の観念こそがそも煩悩にまみれしものなので其れを無分別化することである意味無意味化していく訳です。

 

意味分別を去ると云ふことですので、ある意味では其処では無茶苦茶にもなりませう。

 

僧侶クラスでは無茶苦茶になり一休さんのやうに風狂坊主にもなりますのですし密教のやうに一部に邪教が成立したりもし確かに其処では滅茶苦茶ですがまた其れもごく一部でのことです。

 

どだひ一般クラスでは其処までの無茶苦茶は無ひのですし、第一お釈迦様の説法だけを読んでおく方が僧侶の個性による教義上の癖に悩まされることなども無く何だかとてもスッキリするものです。

 

 

其の意味分別を捨て去ることは概念否定と云ふことですので、キリスト教に於ける神への概念ー価値観ーの丸投げに一種似たところさへもがある。

 

但し佛教は無神論ですので神に全価値を委ねるのでは無くむしろ全価値を捨て去っていくのですから生自体の否定のやうにさへ其れは見へやう。

 

ところが佛になると永遠に生きなひ訳ですのでむしろ永遠に佛こそが生きて居る訳だ。

 

要するに抽象的に永遠に生きること自体は共に同じなのやもしれませぬ。

 

 

キリスト教では神こそが永遠に生くるものであり至高の存在なのですが佛教では佛こそが永遠に生くるものであり至高の存在なのです。

 

でもね、佛教では佛こそが永遠に生きぬものであり無の存在なのだともさうも言ひ得るところこそが生の二元性を根本より超越して居ります。

 

 

但しキリスト教の場合にも其の生の二元性をば超越して行きませう。

 

まずは楽園から失楽することで此の世は悪魔と番った✖の世界だと捉へられやう。

 

其れを神の愛にて赦し死後に神の國にて霊的に〇の世界として生きる。

 

 

さても死に至る罪のうちに死ぬる者は元より不幸だとの仰せである。

神の愛=罪への赦しを受け自ら信仰の世界へと飛び込むことで死其れ自体を超越する=神に死を丸投げし罪を贖ふことが可能とならう。

 

ところが佛教に於ひても同様に死に至ることだらう煩悩の発揮のうちに死ぬる者は元より不幸なのです。

でも佛教には神は居ませんので、其処で畢竟じぶんが佛になっていくより他ありません。

 

其れが實は本職の御坊様でも困難なことなのです。

 

だから元より我我には無理。

 

無理だから、やれることだけを今やりませう。

 

 

かうしてキリスト教の御勉強をすることも其の佛になることへの修行のひとつです。

 

尚一番カン違ひしてはいけなひのは死んだだけでは佛にはまるでなれて居なひと云ふことだ。

 

バカな刑事ドラマとかで佛は教師だったとか医者だったとか良くそんな風にカン違ひされ佛と云ふ概念が使われても居りますが其れは誤りです。

 

 

では佛とは何ですか?

 

其れを説明しやうとするとおそらく十時間位は費やさねばなりません。

 

まあ正直申しましてキリスト教の方が概念的には説明し易くはあります。

 

但しわたくしがキリスト教を正確に理解して居るかどうかは分かりませんのですがね。

 

可成のところまで行ってる筈だと自分ではさう思ひますのですがさてどうなのでせう?

 

 

「太陽の賛歌」には第二の死は信仰者に何ら危害を加へぬと云ふ部分が出て来ます。

其の第二の死とは肉体の死のことでせう。

 

其れに対する第一の死とは「精神的に死してー霊的にー生きる」ことです。

其の第一の死を迎へることこそが悪であり罪であるものの否定であり善であり神であるものの肯定へと直結します。

 

だとすると矢張りキリスト教に於ひても死への恐怖は超越されて居ります。

其れが一種具象的に超越されていくのかもしれません。

 

 

さて成道前の釈迦の一番の悩みが其の死への恐怖を乗り越へることでした。

釈迦は直観的に其の方法を悟られたが其れを具象的に説かれることには其の後苦労されても居られる。

 

其処からも佛法の場合には肉体の死があくまで抽象的に超越されていくのではなひか。

 

其の証拠に佛法を學ぶと屡出て来るのが肉体の痛みは如何ともし難ひと云った部分です。

 

其れは釈尊でさへまたどんな高僧でさへさうだったのであります。

 

要するに生き物が死ぬまさに其の時の肉体の苦しみこそはどうにもならぬことなのだ。

 

事実包丁やナイフで躰の何処かを切れば其れはもう痛ひことでせう。

 

 

其の痛みを消すのは元より宗教の役割では無ひ。

 

其の痛みを消すのは病院の役割です。

 

さうでは無く、宗教とはあくまで心の🏥なのです。

 

でもカウンセリング位では現代病は治せやあせぬ。

 

心の間違ひ、誤った心のあり方を治すのが其の宗教の役割です。

 

 

釈尊の死への処し方は極めて抽象的なものです。

 

抽象的だからこそ他の誰にも成し遂げられぬことであった。

 

其れを具象化していったー社会化していったーのが大乗佛教中でも特に禅宗の流れでせう。

 

 

さて問題は一体全体生は肯定されるべきものなのか其れとも否定されるべきものなのかと云ふ二元的選択へと陥りませう。

 

何故さうなるかと申しますと我我の観念ー思考体系ー其のものが其のやうな弐者択一の選択をして仕舞ひ易ひからなのであります。

 

であるからこそ基本的に男性には女性が理解出来ぬ筈。

 

もっとデカひ領域ともなれば東洋は西洋などそも理解は出来ぬ。

 

近現代は古代など理解出来ずデジタル世代はアナログ世代のことなど理解出来る筈が無ひ。

 

 

ですが其れを理解し尊重し合はねばならぬことでせう。

 

其処をこそイエス様は汝の敵を愛せよとさう述べられたのではなかったか。

 

 

ところが宣教師達は植民地の宗教を無視しキリスト教へと改宗させていきましたね。

確かに其れもまた「愛」を広めたことにも繋がる訳です。

 

其の「愛」とは神への愛でありイエス様への愛なのでせう。

 

個人的にはさういふ愛では無く多様な宗教を認める愛の方がほんたうの愛のやうにも思へて居ります。

 

むしろ色んな宗教での共通する部分でのいいとこ採りをして世界宗教を創ってみるべきなのやもしれぬ。

 

 

其れはたとへばハルマゲドンとヴァジラヤーナを組み合わせた宗教のことですか?

 

其れじゃあオウム教のやうになって仕舞ひますぞ。

 

では太陽の法とかそんなのでは如何でせうか?

 

そりゃかの大川 隆法の教義のことだぞよ。

 

そんなのはとっても危険なのだぞよ!

 

 

尚佛法での価値判断の基準とされて居る断見と常見と云ふ重要な見方があります。

 

断見に捉はれると断見外道とされ常見に捉はれると常見外道となりキリスト教自体は此の常見外道と云ふこととなりませう。

 

外道とは異教の思想のことですが、異教の思想ー邪教以外のーが全部悪ひと云ふことでは勿論ありません。

 

第一キリスト教にせよ、死して生きてこそ永遠の抽象的正義の中に再生することが出来る訳です。

 

此れは明らかに唯物的な展開では無く極めて精神性の高ひ生としてのあり方です。

 

其れが何故近現代に至り自己矛盾し唯物的な展開へと至ったのかと云ふ部分こそが問題です。

 

 

あくまで分類上は其の常見外道であるにせよキリスト教はタダの常見外道ではありません。

 

まさに其処が死して生きた後に永遠の命に霊的に与ると云った部分でせう。

 

其処はまるで武士道のやうな潔さではありませぬか。

 

 

大乗の御坊様方は純粋なるキリスト教徒のそんな自決振りをしかと見届けておくべきなのやもしれませぬ。

 

実際に昔の宣教師は屡殉教者なども出して居りませう。

 

尚かの芥川 龍之介などは宣教師の其の殉教へと至るまでの信仰につき大ひに興味があったと云ふことです。

 

 

現代の信仰のあり方とはキリスト教の祈りのやうなものでしかあり得ぬのではなひでせうか。

まさに破滅は切迫して来て居ります。

対する佛法はあくまで心の中での破滅を無くす為の教へです。

 

ですので、より本質的で哲學的なのですが現代の破壊とは實は至極具体的で切実なものなのです。

さうした破壊に対しては環境聖人であるフランチェスコのやうな祈りか又は自然への賛歌こそが至極現実的に心に迫って参りませう。