目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

映画『沈黙ーサイレンスー』に思ふことー壱ー

沈黙 -サイレンス-(字幕版) 2時間40分 2017

此の度アマゾン プライム・ヴィデオにて此の映画を視たが此れこそがまさに凄まじき宣教の映画であった。

 

詳しくはまた次回に語らせて頂く予定なのだが、此の映画での大きなテーマとなって居ることが何故日本国ではキリスト教徒が増へなかったのかと云ふ其のそもそものことであらう。

 

映画の中で棄教し体制側に取り込まれまさに日本人化した元司祭が語って居るのだけれど、日本国の宗教のあり方は善悪又は神と悪魔と云ふ概念的な二元対立の激しひ葛藤のタイプとはまるで異なるものである。

 

其の謂はば沼の中にキリスト教は元より根付かず信仰の構造自体が似て非なるものなのだ。

 

 

マリア観音(主に中国製の慈母観音像を、聖母マリアに見立てて信仰の対象としていたもの)

ですから、其れはマリヤ様とは似て非なるものです。

コレを拝むことは観音菩薩を拝むことなのですからズバリ佛教の一形態です。

 

要するに日本人の精神性の中に其の激しひ二元対立としての葛藤など元々存して居らぬ。

日本國は神道と佛法とが長ひ時の流れのうちに融合した独自の精神世界を形成して居り其の基本構造は国家としての伝統や共同体としての同質性と根深く結び付ひて居るが故に一神教なんぞそも根付かぬのだ。

 

またキリスト教の代わりに庶民を救済する教へさへもがありまさしく其れが浄土教である。

 

浄土教で救われるのであれば何も毛唐の宗教であるキリスト教なんぞを信仰する必要は無ひ。

 

但しキリスト教の救済の度合ひは或は阿弥陀佛による抽象的救済よりも現実味があるのやもしれぬのだが。

 

わたくしは家に来るエホバの証人の人に此の國には浄土教がある故キリスト教広宣流布は事実上其れは無理な話だ。

 

だが日本で一番信者数が多ひ浄土教が半分キリスト教のやうなものなのでむしろ良かったじゃなひか、とかって述べたところ其れ以降プッツリと来なくなって仕舞った。

 

 

だからさうしてマリヤ観音を拝んでデウス様=大日如来?を信仰するのが日本国での切支丹の信仰スタイルだったのだから其れは自然崇拝やら佛教的な要素が多分に入って居りキリスト教に於ける対立関係から導き出される唯一の信仰の形とは自ずから違って居やう。

 

要するに國自体、國家としての精神自体がさうなのだ。

 

其れと非常に頭の良ひ民族でもある。

 

なので至極難解な佛教哲學なども理解出来得ることだらう理性的な基盤もある。

 

 

個人的に救済宗教としてのキリスト教は間違っては居なひと思ふのだがキリスト教に於ける信仰の構造自体が日本人の精神風土にはそぐわぬと言ったところか。

要するにキリスト教無しでもむしろ充分に上手くいくのだ。

 

むしろキリスト教無しでの方が上手く日本國は政治的にも統治されやうから豊臣 秀吉も江戸幕府も切支丹を弾圧したのであった。

 

コレがもっと頭の悪ひ國や極貧国などであれば切支丹が或は蔓延って居たのやもしれぬのだがまるでさうはならなんだ。

 

第一天皇制、コレがまずはキリスト教には合はぬことだらうまさに特殊な伝統的立憲君主制である。

 

つまり天皇が神だったのだ、其の現人神。

 

少なくとも明治以降戦前まではさうであったのだから佛よりも何よりも兎に角天皇様が神様だったのだ。

 

 

但し戦後はさうした構造が崩れ尚且つ合理化による西欧近代化により其のかっての鎖国的精神構造に変化が現れ今は特に大乗宗派の形骸化が著しく認められるに至った。

 

尚此の映画の原作は勿論かの遠藤 周作によるものだ。沈黙 (遠藤周作)

 

かうして映画化の方も二度されて居るが此の新作の方が評価は高ひやうである。

 

其れこそ拷問による殉教シーンなどもふんだんに盛り込まれて居る故視て居て疲れる映画でもまたある訳なのだが棄教へと至るパードレの心理描写が丹念に描かれて居りまさに秀作だと個人的には思へた。

 

 

ー遠藤は戦国時代から江戸時代にかけてのいわゆるキリシタン時代に強い関心を持ち、小説・評伝などの数多くの作品を残している。ジョセフ・キャラ小西行長など、実在の人物を下敷きにした作品も多い。

「沈黙」「侍」などは日本にやってきた宣教師をモチーフに描かれている。宣教師たちが長年の努力でいくらかの信者を集めたにもかかわらず、彼らは社会が変わればあるいは空気が変わるだけで全く簡単に棄教してしまう。このことが何故なのか、キリスト教社会にとっては決定的に理解しがたい日本人像であった。…キリスト教の原理を理解し守っていた日本人信者は実は現世や来世で単に幸せになりたいだけであり、キリスト教にとっての神の教えの真の尊さは関係がなかったのである。教義を理解していても真の信仰は無かったのである。

日本人は結局、個人もしくは(これが重要だが)集団として現世・来世に不利益と思えば思想そのものを大きく変更しても構わない、この原理は日本人に取りあらゆる哲学や宗教原理よりも強いことが生々しく描かれる。そして信者(実は信仰していないにもかかわらず)や宣教師は日本社会そのものに棄教(『沈黙』)に追い詰められたり、死(『侍』)に追いやられたり、堕落(『黄色い人』)に追いやられてしまう。

遠藤は、キリシタン時代に関心を持つ理由として自らが戦争時代に敵性宗教を信じる者として差別を受けた経験があったからとしている。ー遠藤  周作 #テーマとしてのキリスト教

 

日本人は其のやうに一つの信仰には拘らぬ精神的土壌を持つ。

其れは良ひことのやうに見へて實は危なひことなのでもある。

 

此処にもあるやうに日本人の信仰心は至極現世利益的に偏ったものだ。

盆での墓参りにも見られるやうな先祖崇拝と大乗各派が結び付ひた習俗の部分や正月を迎へた時の神社や寺への参拝など、勿論其れが悪ひと云ふ訳では無ひのだが往々にして其処に宗教性、宗教色が欠けて居るのである。

 

なのでコレだけ利口な民族であるのに宗教や思想の分野にはからっきし弱く其れを論ずることさへもが一般的には出来ぬ筈。

尤も思想も宗教も無ひやうで居て其の癖伝統的な基盤ー家だの墓だの御先祖様への崇拝だのまた天皇制の存続だのーに対する執着心だけは強くある。

 

わたくしなどには元来さういふのは分かりにくくどちらかと云ふと宣教師の根性のやうなものにこそ圧倒されて仕舞ふ。

 

ところが其の宣教師の根性でさへ通じなかったのが此の日本国の精神的風土であったのだった。

 

 

何だかほんたうに良く分らなひ。

 

一体何の為に彼等は生きて居るのだらう?

 

ひょっとしてひょっとするとさうした具象的な社会的伝統の為にだけ生きて居るのではありませぬか?

 

元々日本人とはそんなに現實的な民族だったのですかねえ。

 

ひとつには神道やら天皇制やら大乗佛教各派やらが混ぜこぜになって居てしかも戦後は欧米の価値観=キリスト教に於ける価値観も否応なく入って来て居るので頭の中でもう何が何だか分からなくなって居るのではなひかしら。

 

実際に佛教ひとつ學ぶだけでも實に複雑でもってして其処ではもう一体何をやって居るのやら良く分らんやうにもなって来るものなのです。