目覚めよ!

文明批判と心の探求と

天台本覚思想を厳しく且つやわらかに批判してみるーケモノと大乗佛法との関係性に就いてー

79.天台本覚思想を厳しく且つやわらかに批判してみるーケモノと大乗佛法との関係性に就いてー

 

 

 

 

さて先の木曜日に石川橋の銀行へ寄って山崎川横の道を走ると名市大の厩舎の横の公園の際に靑い紫陽花が咲いて居り其れが余りに美しいので拾分程眺めて居た。

靑い紫陽花 - Bing imagesーまさにこんな感じでしたー

結局🌸はさうして静かに何処かで咲いているが其れを眺めたりして居る人が居ないのでおそらくは人間の心の方こそがケモノ化して居るのであらう。

 

ケモノはさうして常に美を愛でる心の余裕が無く此の人間界の下らぬことばかりにかまけて何がどう美しいのかもまるで分からずに其処に生涯を終えるのだ。

嗚呼、何処までも哀しい。

なんと哀しい出来事なのだ。

 

幾ら限定したにせよさうして欲望こそが生を駆動させる推進力であることには変わりが無い。

欲望こそが生命であり生命こそが欲望である。

 

理性はそんな欲望の前にあっけなく吹き飛ぶ。

知を形作るどんなものもまた本質的には其の理には勝てぬ。

まさに其のことの哀しみが此のところわたくしの心の中に居据わり続けて居る。

 

 

だが多くの人間は其の己に突き付けられて居る其のケモノの姿にまるで気付いては居ない。

 

さうして欲望こそが現在を変えて行く原動力だ。

其の欲望こそが實存を根本より支える。

 

 

さうアナタ方が今を生きて居られるのは其の邪なる支えが何処かにあるからなのだ。

其れを取っ払えばもはや彼等は裸同然である。

 

裸、其の裸。

其れはケモノ其のものではまたないのか?

 

いいや其れはケモノ其のものには非ず。

ケモノとはあくまで人間の心の中に巣食うケモノの謂いである。

 

誰しもがさうして己のケモノ臭さ、即ち毛深さに対し不感症となって居る。

毛深さ?

 

もしやそんな毛深いのがお好きで?

まあ嫌いでは御座らぬが別に好きなのでも無い。

 

然し少し前までは案外好きであった。

おお其のやうに何処までも毛深い人間共が!

 

其の毛深い人間共が毎日大罪を犯しておる!!

 

ところで其の詩人としての劇画モードは止めて下さりませんか、読むだけでもうとても疲れます。

 

 

分かり申した、では至極静かにやってみませう。

例えば今日もまたショパンの調べがとても哀しく心に食い入って来る。

 

ではショパンと心中でもする御積もりなのか?

はい、ケモノ共と心中することは所詮我には無理でもう心中するなら是非ショパンベートーヴェンとです。

 

ふーん、また如何にも良い御趣味だことで…。

どうぞお好きに其の藝術の苑とやらで彼等と心中を果たして下さい。

 

アナタはさうして毛を剃り過ぎて居り要するに人間離れして仕舞って居りもはや我我庶民には理解不可能な人となり果てて居られる。

だからアナタの考えはもう全部が非常識だ、其れもかう何かつるつるてっかんでまるで面白く無い。

 

何ですか、其のつるつるてっかんとは?

つるつるてっかんとは結局つるつるてっかんのことです。

 

 

其のケモノですが自分は今其れがとても怖い。

どう怖いのですか?

 

何かかう其れが常に毛深くてしかも乳が出ます。

 

其れは🐈のことでせう?

まあ🐈のことでせう。

 

其れが大抵五匹の子を産み其れを家の何処かに隠すのです。

すると其れが苦なのですか?

 

いえさうでは無く其れが愉しみでもまたあるのだ。

アナタはさうして猫がお好きなのですね?

 

さうですが、其れが逆に苦しみの元なのでもまたある。

即ち好き=愛と云うことは同時に苦を生み出す元である。

 

おそらくは世間の人人もまさに其れと同じことをやって来て居るのだ。

 

 

まあさうですね。

世間の人人はそんな詩人さんのやうにさうして自分の世界に閉じ籠り藝術や本と戯れて居る時間などはまず持てぬことでせう。

 

だから其れが何故さうなるのですか?

何故さうなるのかと言われても世間の人人はそんなアナタのやうに難しいことばかりを考えて生きて居る訳では無いので其れがあくまで普通なんです。

 

どうも其の普通と云うことは哀し過ぎます。

だから其れはアナタに取っては哀しいことなのだらうが逆に彼等に取ってはアナタこそが可哀想な人なのです。

 

うーむ、さうなのか。

でもどうも納得出来ないなあ。

 

 

そんなところで何時までも悩んで居ないで其の仔🐈と戯れて遊んでみたらどうですか?

いや其の仔🐈は大抵の場合弐匹は半年以内に死ぬものです。

 

だからわたくしは其の生の哀しみを先取りして今すでにかうして悲しんで居るのである。

 

アナタは普通の人間じゃ無いから宗教の方へでも是非行くべきですよ。

いや僕から言わせるとそんな危険な實存的価値に対し余りにも無頓着な世間の人人の頭の中身の方が変なのです。

 

 

変?

さう変。

 

多くの人間はさうして危機に対しまるで無頓着です。

何故なら彼等は理性を生きて居る訳では無く常にケモノを生きて居るからだ。

 

 

さて価値は何を基準とするかで其れこそ相対的に決まるものです。

 

文明に対し〇⇔文明に対し✖

欲望に対し〇⇔欲望に対し✖

理性に対し〇⇔理性に対し✖

科学に対し〇⇔科学に対し✖

宗教に対し〇⇔宗教に対し✖

人間に対し〇⇔人間に対し✖

 

つまりは価値其のものが常に弐元化される形にて認識されざるを得ないものだ。

其の弐元化される形にて認識することこそが我我ホモ・サピエンスとしての正しい認識法です。

 

ところが其の相対分別による価値は眞理に対しては常に誤謬の形を取らざるを得ない。

何故かと言えば相対的価値を絶対化することなどはそも出来ぬからです。

 

ですが文明こそがまさに其の相対的価値をあえて絶対化して行く過程です。

 

 

そんな風に我我人間は「正しく間違った道を歩む」者であるより他は無い。

いま少し分かり易く述べれば本質的に矛盾的存在であると云うことだ。

 

其の人間が本質的に矛盾的存在であることを分かって居る人は常に少数派です。

眞に美しいものや優れたものが少ないのと同じくして常に少数派です。

 

では其れこそ獣の世界はどうなのでせう?

 

獣は然し「正しく間違った道を歩む」者である必要などありません。

何故なら「間違った道を歩む」こと自體が彼等には決して出来ないのだから。

 

彼等が自然界にて繰り広げて居る事とは其の正誤や善悪などの分別概念以前での本能世界です。

ですから其処にはどんな問題もまた生じない。

 

 

では果たして何処に問題が生じて仕舞って居るのか?

其れは「正しく間違った道を歩む」者=人間=文明世界が其れを須らく問題化して居ます。

 

でもってむしろ多くの人間が其の「正しく間違った道を歩む」者であることから免れ得ない。

今ならばさしずめ大體75億人位が其の「正しく間違った道を歩む」者であることから免れ得ない。

 

では「正しく間違った道を歩む」者では無く「正しくなく正しい道を歩む」者になれるのかと申せばむしろ其れは不可能では無い。

 

尚其の正しいと思い込まれて居る正しさとは「間違いを正しいと思い込む正しさ」のことであり正しくは無い考えのことです。

では正しくないと云うのは「間違いを正しく無いと思い込む正しく無さ」のことです。

 

要するに壱言で纏めれば「間違いを正しく無いと思い込む正しく無さ」を身に付けねば認識が濁りむしろ虚の欲望や虚としての文明の価値観に踊らされ続けやがてはドーンと崩壊して行くこととならざるを得ぬ。

 

 

故にかうして「正しくなく正しい道を歩む」者こそがまさに正しい認識の保持者たり得るのである。

但しわたくしは其れが何宗がまた何教がさう正しくあるものであるなどと述べた積もりはまるでありません。

 

わたくしが述べたこととはあくまでさうした概念上の正しさのことなのであり教義の正邪の話ではまるで無いのです。

 

でもってして現代文明の価値観を其の概念上の正しさのこと=概念上の眞理規定の方から眺むれば其れは明らかに「正しく間違った道を歩む」者であることから免れぬものだ。

つまりは其れが✖です。

 

✖✖✖✖✖✖✖の✖です。

 

だから其れはむしろやっちまって居ます。

やらかして仕舞って居る。

 

 

なので世界はかくも哀しいのであり其れを詩人がさう素直に感じ取って居る迄のことだ。

さうしてむしろ其の哀しさこそが世の實相なのだ。

 

ですがアナタ方に今其れが感じ取れることだらうか?

僕は其れが感じ取れぬことに関してまた弐重に哀しいのです。

 

 

いやあ、今回はまたチョット踏み込んだ形で吠えて居ますね。

まあ詩人がナメラレて居てはイケナイんでね。

 

重要なことは行動其れ自體、肉體其れ自體、また欲望其れ自體には元元罪は無いが苦は常にあると云うことだ。

要するに獣共の生ー自然界の生ーもまた無明其のものです。

 

ですので自然が悟りを開くことなどそも不可能です。

尤も天台本覚思想なるものがまたありますが其れは佛性の拡張解釈であるに過ぎずあくまで理性的に齎される帰結なのでは無い。

 

例えば梅原 猛先生などはかって天台本覚思想に思想的な意味での理想を投影して居られたが晩年には其れを否定的に見詰められて行かれたものだった。

 

 

 

本覚(ほんがく)とは、本来の覚性(かくしょう)ということで、一切の衆生に本来的に具有されている悟り(=覚)の智慧を意味する。如来蔵仏性をさとりの面から言ったものと考えられる。平たく言えば、衆生は誰でも仏になれるということ、あるいは元から具わっている(悟っている)ことをいう。

主に天台宗を中心として仏教界全体に広まった思想と考えられ、今日では本覚思想天台本覚思想とも称されている。本覚 - Wikipediaよりー

 

 

其の自然もまた佛の現れとでも申すかそんな考えもまた悪くは無いものなのですが当のお釈迦様はそんなことは壱言も説かれては居られません。

だから其れは誰かの思想に過ぎぬものですね。

 

要するに其の佛性の拡張解釈よりみんなを成佛させねばならなくなったのです。

何故なら大乗佛法こそがまさに其のみんなを成佛させんが為の教えなのです。

 

なんですが、お釈迦様以外に成佛したことが確認されぬ以上まずみんなが成佛など出来る筈が無い訳だ。

なんだが大乗教説と云う組織自體が其れをやらねばならなくなった訳でだから釈迦の教説を捻じ曲げやうとどうあらうとみんなが成佛するやうに理論を捏造して行くより他は無いのです。

 

ま、そんなものが本覚思想だと思って頂いて宜しいです。

 

 

 

本覚思想と日本仏教

上述の通り、この本覚思想は、衆生の誰もが本来、如来我・真我・仏性を具えている(本来、覚っている)が、生まれ育つと次第に世間の煩悩に塗(まみ)れていき、自分が仏と同じ存在であることがわからなくなる、ということである。もちろん、これは無明と共に輪廻が始まるとする釈迦の教説とは全く相反するものである。

しかし、この本覚思想は、時代を経ると後々に他の教理と関連付けられ、新たな解釈を生むことになる。すなわち、人間は誰もが悟っているのだから修行する必要もなければ戒律も守る必要がない、凡夫は凡夫のままでよい、などという急進的な解釈がされるようになった。これは、最澄撰である(偽撰との説もある)『末法燈明記』の「末法には、ただ名字(みょうじ)の比丘のみあり。この名字を世の真宝となして、さらに福田なし。末法の中に持戒の者有るも、すでにこれ怪異なり。市に虎有るが如し。これ誰か信ずべきや」がよく引用されるようになったことに由来すると考えられている。

鎌倉仏教と天台本覚思想との関連については、鎌倉仏教が天台本覚思想を否定することによって成立したという見方がごく近年になって、新奇な注目を浴びるようになった。しかし、これは、伝統的見方ではない。これらは、主にいわゆる奈良仏教学派よりの鎌倉仏教への遅すぎた反撃ともいえるものである。[2]。伝統的には、鎌倉仏教は天台本覚思想の発展とする考え方であり、従来から、島地大等宇井伯寿ら仏教学者によっても唱えられている。とくに島地は、日本には「哲学」がないと説いた中江兆民に対して、「哲学なき国家は精神なき死骸である」と述べて批判し、日本独自の「哲学」を代表するものとして本覚思想を掲げている。本覚 - Wikipediaよりー

 

 

個人的には我もまた以前は此の本覚思想のことが好きでした。

なんだけれども其れがお釈迦様の教説とは似ても似つかぬものとなって居ることもまた確かなことだ。

 

第壱お釈迦様は人間がしかも高度に修行を積んだ出家者だけに解脱への道が開かれて居るとさう説かれたのでした。

其れがまた何でイキナリ「人間は皆生まれながらに悟ってる」と云う教えへと変わるのでせう。

 

まあハッキリ申せば話にも何もならん訳です。

理性の其の遥か以前でのもはや感情的なレヴェルでの御話です。

 

坊主共はさうして立派ななりをしてしかもあれだけ勉學を重ね研鑽につとめ挙句の果てにまた何を言い出すのでせう?

だからわたくしは個人的には其の低姿勢の學僧である最澄が好き♡なのだが、其の好きと佛法上の曲解、捏造の類とはまるで違う御話のことであり但し其の辺りの経緯を詳しく調べてみた訳では無いのでとりあえずは最澄個人に対する攻撃は保留して置きます。

 

 

 

ー本覚思想と日蓮宗

鎌倉時代中期、浄土宗系の著しい発展のなか、当時の比叡山は本覚思想の教えがさかんで、その教義をもって念仏など新興の仏教運動に対する弾圧をくりかえした(この項資料必要。一般には、浄土教に本覚思想に上に成り立っていると解される)が、(したがって以下の記述のように、この土台で、浄土教と対立したのではないとする見方が大半である)日蓮は、天台教学のなかに広まりつつあった浄土教との妥協に反発し、新しい法華信仰をもって浄土系と対抗し、末法の世において人びとを救う天台復興を決意したといわれる[3]

日蓮本仏とする宗派では、これらの文献や経典などから「末法無戒」を説き、釈迦在世の細かい戒律などは末法の世では無益であり何の役にも立たない、とする。したがって、修行せずとも題目を唱えることが受持即持戒である、とする宗派をも派生することになった。

ただしこの文章(文脈)では、日蓮が「名字即菩提」などと、「名字」の語義に注目し「煩悩即菩提」などと同じく、「名字即(初めて正法を聞いて一切の法はみな仏説であると覚る位)」による転換を指し示したもので、単なる戒律を否定したものではない、あるいは「末法無戒」とは釈尊の法や戒律が末法では通用しないので、本仏である日蓮が明かした金剛宝器戒こそが末法に於ける戒律である、等々さまざまな説を生むきっかけとなった。本覚 - Wikipediaよりー

 

 

いずれにせよ何宗であれ日本の大乗各派は可成に胡散臭い佛法であるとさう見て置いた方が何やらスッキリとまた致すものです。

但し胡散臭いからダメだとはまた言い切れぬところが此の世での常であり第壱皆其のまさに胡散臭い母ちゃんの股の間からボコッと生まれて来るのであります。

 

で、日蓮による末法の御本佛論ですが此れもまた如何にも胡散臭い教説です。

いずれにせよ其の末法思想に捉われ過ぎて日本の佛教はさうして過激に改変されて行くこととなった。

 

左様なわたくしの言説から頭に来た方がもしも居られるのだとしてらどうも御免なさいね。

アナタが信じて居られる佛教は多分正しいですよ。

 

世の中には佛法のことなど何も分からず例えば「佛とは死ぬことだ」位に思って御座る馬鹿が結構居るのです。

其れに比ぶればアナタの其の信仰はずっとずっと立派なものです。

 

 

 

ー本覚思想と邪教

異教の教えとされた密教系の「彼の法」集団[注釈 1]天台宗系の玄旨帰命壇も、タントラ的な性交を以って即身成仏を体現するといわれる。そのため一般的には邪教として危険視されたが、この本覚思想の影響を少なからず受けているという指摘がされている。特に「彼の法」集団は『理趣経』に説かれる自性清浄(経本では如来蔵の仏性や菩提心を指すが、これを一種の「本覚思想」と見ることもできる)がベースとなっている点を注目すべきであろう。

ただし、真言宗の異端に由来した宗派を『本覚思想』と結びつけたのは、近代仏教学の過渡期における論調から来る一部の仏教学者の説であり、真言宗の『大悲胎蔵曼荼羅』における単なる名称の字義を曼荼羅の意味と誤解している。如来蔵の原語である「タタガター・ガルバ」の意味である「胎蔵」を、仏教語ではない「胎盤や子宮」と直訳し混同して、それに無理に結びつける論理であり、正しい『本覚』の理解とはいえないとされる。これらの本覚についての誤った理解は、鎌倉時代の「彼の法」集団勃興からであるとしてよいであろう。一部の仏教学者の宗派意識によって、それらを故意に関連づけた説もある。本覚 - Wikipediaよりー

 

 

性交→成佛

なんちゅう邪教じゃらう。

 

かうしたことをやるから佛教はキリスト教から邪教視されて仕舞うのだ。

其のー如来蔵の原語である「タタガター・ガルバ」の意味である「胎蔵」を、仏教語ではない「胎盤や子宮」と直訳し混同して、それに無理に結びつける論理ーと云うのもまた理性どころかまるで本能丸出しでの解釈ですね。

 

なので大乗佛教にはそも此の種のいかがわしさが満ち満ちて居ます。

だから眞面目な御坊さんがそんなもんやらされたら矛盾に苦しんで崖から飛び降りることなどもまたおそらくはあったことでせう。

 

さうした意味では禅宗だけは其れが無くて良いですね。

少なくとも邪教はやらんで良いと云うことであり其処は流石は禅宗だな。

 

兎に角そんな邪教だけは止めて下され。

 

 

まあ然しキリスト教もまたある意味では邪教でせうがね。

 

ですから日本の佛教は學べば學ぶ程に邪教が出て来てかうして大変面白くなるのです。

 

尚お釈迦様は自然自體が成佛出来るとはまるで考えて居られませんでした。

さらにみんなも成佛など出来る訳が無いとさう考えて居られた。

 

 

ですので結論めいたことを申せば其の釈迦の佛法と日本の佛法はほとんど別物なのです。

なんですけれどもダメだとは言って居ませんのですよ。

 

どだい釈迦の教え以外での他の宗教が全部ダメな訳ではありません。

 

 

但しそんな坊主共のなりや組織力のやうなもの=権威、権勢の力に屈して居てはならないと云うことだ。

重要なことは其れが如何に理性的に組み上げられた教えであるかと云うことです。

 

 

だからそんなSEX教だの自然崇拝教だのはたまた何とかの神の生まれ変わりだの、さらに僕こそが末法の御本佛ですよ、などと云うおかしな考えを持たずに居ることこそが理性的な宗教だと云うことです。

ちなみにわたくしは教祖がやれる位に理性的な人間で教義などそんなもん幾らでも考えてもやれませうがバカらしいので其れをやらぬと云うタダ其れだけのことです。

 

尚個人的には其の本覚思想と釈尊の佛法はまるで別物だと立て分けた上で所謂「山川草木悉皆成佛」なる思想を崇めることに関してはダメだとは思いません。

なのですが、自然界のストレートな欲望の世界はまさしくケモノの産物であり其の侭では佛陀にもまた神にもなれぬものであることもまた確かなことだ。

 

さうして人間と自然は違い神や佛と自然も違いまた神や佛と人間もまた違います。

なので自然に神や佛は要りませんが人間にだけ其れがどうしても必要となる訳だ。

 

だから其の理が分からぬ人人に対し不肖此のわたくしめがかうして説法をさせて頂いて居るのであり其れは何でかと申しますとそもわたくしがまるでお釈迦様のやうに沈思黙考することが生まれ付きに大好きな人間だからなのだ。