目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

生きることは是か其れとも非か

是か非か、と云ふ其の二元的選択につき此処数年の間わたくしは悩まされて来て居た。

 

其れは社会に於ける選択では無くあくまで個に於ける選択の上での話である。

 

社会の考へ

進歩は〇

退歩は✖

 

つまりは文明は是=〇

 

わたくしの考へ

進歩は✖

退歩は〇

 

つまりは文明は非=✖

 

なのであり、其処で何故か正反対の立場となって居るのである。

 

 

あくまで観念的にはさうだ。

 

煎じ詰めれば其れは合理性と非合理性の相剋であり相即としての問題なのだ。

 

 

分かりにくければもう少し具体化して述べてみやう。

 

男性原理⇔女性原理

神⇔悪魔

金持ち⇔貧乏人

宗教⇔科学

 

と云ふやうに森羅万象は対義的に組み合わさり現象して居やう。

ところが、其の正反対の要素が實は互いを補完し合ひしかしながら其れでも最終的には対立して御座る。

 

問題は、其の二元的な対立世界自体を是とするか非とするかと云ふことである。

 

 

普通生命=動植物の認識は其れを是とする。

 

まさに生命現象とはさうした盲目的な生への執着の過程だ。

 

ところが理性は其れをさらなる二元性へと分割するのだ。

 

生命は尊ひ⇔生命は悪(死んだ方がマシ)

 

理性とはつまりは其の二元化の幅のことを指す。

 

 

此処で大事なのは、自然は決して生命は悪(死んだ方がマシ)だ、などとは思わぬ点にこそあらう。

 

🐻でも🐗でも🐒でもまたたとへ植物でも皆只生きたひとさう盲目的に其処で願ふばかりのこと。

 

対して理性は、所謂考へる。

 

考へることで其の盲目的本能の軛を離れ新たなる生命としての段階を得るに至る。

 

即ち考へることこそが人間の活動=歴史過程の根幹にはあらう。

 

 

さて君は考へて居るか?かのロダンの考へる人のやうに。

 

勿論ちゃんと考へて居ます。

 

ことによると考へ過ぎなのでは。

 

 

其の生命の尊厳と生命の虚無性との相剋と相即の部分こそが此処数年に亘りわたくしのの頭を悩ませて来て居たのだった。

平たく言へば其れが神と悪魔のさうして善と悪の対立と相互の貫入に於ける問題なのだ。

 

もっと噛み砕ひて言へば生きるのがスキかイヤかと云ふ問題ともなる。

 

また最終的には其れは👩が好きかどうか、女が認められるかどうかと云ふところにこそ収斂して来やう。

 

但し重要な点は其れが理性による選択の幅だと云ふ部分である。

 

🐻でも🐗でも🐒でもまたたとへ植物でも皆只生きたひとさう盲目的に其処で願ふばかりなので生命の尊厳の部分と生命の虚無性との相剋と相即の部分が元より其処に生ずるべくも無ひ。

 

要するに奴等はより分離度が低ひ。

 

 

分離度が低ひとより神に近くもならう。

但し佛は違ふ。

 

いや、でも神仏は基本的に彼等のものには非ず。

自然には神仏など居らぬのである。

 

つまりはエデンの園だ。

彼等は永遠にエデンの園の住人なのだ。

 

生命は尊ひ、と特に近代社会はさう規定せしがまずは其れを疑ってみなければならぬ。

 

何故なら逆向きの思考こそが實は大事だからだ。

 

たとへばかの宮澤 賢治は役に立たぬものが役に立つと云ふ思想をかって虔十公園林の中で示した。

 

 

だが其れは生命の虚無性を突き生命の否定にかかるやうなものには非ず。

 

逆に生の輝きであり其の輝きでの色彩の豊かさを虚無の側からむしろ描ひてみせることこそが賢治の基本的なスタンスなのだ。

 

 

生命が虚無でしかも悪であるならばほとんどもう其れは鬱の考へで或はかのオウム真理教の教義のやうなものではなひか。

 

さうではなく、人間のやうに考へる=観念化すると原理上、生命は尊ひ⇔生命は悪(死んだ方がマシ)との二元的価値観に分離せざるを得ぬことを事実として此処に示して来て居るのだ。

 

 

と云ふことは、🐻だの🐗だの🐒だのまた植物だのの方がまだしもマシなのですか?

 

マシと言へばマシだが彼等には生命の虚無性など何処まで行っても分かりはしなひ。

 

其の生命の尊厳と生命の虚無性の両方が同時に分かるのが謂わば人間様だけだ。

 

 

だから人間とは悪だけじゃない、同時に善でもまたあり得やう。

さうした極度に分離されし現象なのだ。

でも🐻だの🐗だの🐒だのまた植物だのの場合には悪も善もクソも無ひ。

 

彼等と人間では住んで居る領域と云ふか精神の次元がまるで異なる。

但し危険度は人間に於ひてこそ最大化されやう。

 

だが同時に生命を尊厳として捉へる幅も其処に醸成されやう。

 

 

🐻だの🐗だの🐒だのまた植物だののやうにエデンの園でいつまでも暮らして居たひ。

だって人間なんてイヤなのだから。

 

元よりわたくしにはこんな人間の器など似合わぬわ。

こんな腐った皮衣など脱ぎ捨てて早く蝶蝶にでもなりたひ。

 

貴方もつひ本音が出て仕舞ひましたな。

 

 

生命の尊厳と生命の虚無性の両方が同時に分かる人間様が生命としては最も危険であることが何となく以上より分かって来ました。

 

其れでは生きるのがスキかイヤかと云ふ問題はどちらが善でどちらが悪だと規定すべきなのでせう。

 

そりゃ単に選択の問題であるに過ぎぬ。

 

但し理性体に限りイヤの方に傾き易ひが故にむしろスキの方へと近づいてみる。

 

即ち理性を外側ー自然の側ーへと解放する。

 

 

生命の尊厳と生命の虚無性との相剋と相即と仰ひますが其の言わんとするところの意味が良く分りません。

 

なんとなれば対立する対義的概念は相互に貫入し合ふのだ。

 

要するに一方が無ければ一方もまた存立し得ぬ。

 

かように観念的に捉へられし事象は全て相剋し尚且つ相即する。

 

 

よりカンタンに言へば利口はむしろ馬鹿のお蔭でさうなって居られやう。

善はむしろ悪のお蔭でさうなって居られやう。

👨は👩のお蔭でさうなって居られやう。

 

でも、

なので女を持ち上げやう。

とする思想は危険なので✖。

 

何故なら👩もまた👨のお蔭でさうなって居られやう。

 

同様に先進国は途上国のお蔭でさうなって居られやう。

 

釈迦の法は邪法のお蔭でさうなって居られやう。

 

 

ところで生命の尊厳とは何ですか?

 

生命の虚無性=悪のことよ。

 

 

次第に禅問答じみて来ましたが大丈夫でせうか?

 

大丈夫。

観念上の問題は所詮言葉のお遊びのやうなものでもある。

 

かうした観念上の問題の虚構性につき本日は論じて居る。

虚構性こそが文明の価値の柱であり抽象的概念の本質となる。

 

 

ズバリ進歩とは其の虚構性の問題であらう。

観念上の問題はかように大きく二元化するが故其処にはより大きく負の側面=リスクが生じて来るのだ。

 

其の抽象性故のリスクが生じて来やう。

 

社会的なリスクは実際に増して来ても居やう。

 

1.自然による災害へのリスクの増大

2.インフラ等文明維持の構築物としての劣化

3.精神的な意味での劣化

 

近代以降人間の奉ずる抽象性は飛躍的に高まったのだと言へやう。

 

洞穴➡竪穴式住居➡掘っ建て小屋➡茅葺の家➡書院造り、数寄屋造り➡近代的住宅➡団地、アパート、コーポ➡高層マンション

 

住居ひとつ取っても事実大きく移り変わって来た。

 

結局其れは住環境としての合理化がさう成らしめたのだ。

 

 

其の抽象化は人間の暮らしをより快適により豊かに彩るやうに見へる。

 

何故なら抽象化とはかうあれぞかしと云ふ観念の望むところでのことなのだから。

 

観念の欲する望みをこそ我我は只ひたすらに追求して来た。

 

だが其処には具象性としての適応力、または融通性のやうなものが備わって居なひ。

 

逆に言へば具象的なものの方が危機には強ひのだ。

 

 

昔の車のエンジンにはキャブレターが付ひて居てコレを調整すれば何とかなったものだったが今のPC車では其れは元より無理だ。

大昔の家は掘っ建て小屋のやうなもので大地震で其れが壊れれば幾らでも建て直すことが出来た。

 

此のやうに抽象化されしシステムは調整が効かず要するに〇か✖かでありさうして✖ともなれば全てが分断されやう。

 

其処はPCの原理が1か0かと云ふのと同じやうなものでさうした数的還元の範囲でだけ人間の持つ抽象性が限りなく発揮されていくのである。

 

尤も其れも停電すれば意味なきものと化して仕舞ふ。

 

第一其の電気と云ふもの自体が抽象性の権化のやうなものだ。

 

 

抽象性の追求は戦後に於ひてコンピユータ―の発展を生み我我はかうして其の電脳による便利な生活を享受するに至った。

 

事実上其れは誰もが否定し得ぬ進歩の流れとして現在と其れに連なる未来を規定しつつある。

 

だが其処にはおそらく大きな落とし穴が待ち受けて居ることだらう。

 

何故かと言へば先に示したやうに抽象的理念は正ー安全ーと負ー危険ーの領域を同じ幅にて巻き込み邁進するものであるからだ。

 

つまりは観念的欲望ー抽象的願望ーは暴走し易ひ。

 

 

其処でわたくしが今注目して居るのが其の抽象的理念以外の部分、即ち自然界での危機に対する適応力の高さや修復力なのだ。

 

地震や大噴火、小惑星の衝突などで一瞬にして文明其れ自体が崩壊する虞はむしろ高く存することであらう。

 

かくて問題は其の災害や災厄自体の部分にあるのではなく人間の頭の中身其れ自体に存して居るのだらう。

 

 

文明は自ら築き上げたところでの巨大なる価値を維持せんとして常に躍起となって居やう。

 

だが生の維持の仕方にはおそらくは其れとは違ふやり方があるのだ。

 

其れは抽象化による生の大肯定の対概念としての負の領域から學ぶ価値観のことだ。

 

 

だからこそわたくしは文明にとり今価値とはされぬもののことを話す。

即ち🐻だの🐗だの🐒だのまた植物だののことを見詰め続けていく。

 

其れに悪や魔や反抗のことを考へ続けねばならぬのだ。

 

尤も🐻だの🐗だの🐒だのまた植物だのさうした自然の現象が其れだけで救われて居る訳では無ひ。

合理的に生き残るより他は無ひ彼等も常に苦に晒されて居ることであらう。

 

彼等もまた其のやうに限定され二分化されし現象であるに過ぎぬ。

 

 

だが人間ー文明ーの背負ひし業は其れとは比べものにならぬ程に深ひ。

 

其の業の報ひが或いはすでに逼迫して来て居るのやもしれぬ。