目覚めよ!

文明批判と心の探求と

芥川の文明批判に寄せてー「蜜柑」による虚無の放逐ー

さてさらなる大事件勃発だ!

大阪府北部で野生ザルの被害続出 「食べ物見ると襲ってくる」

参拝客、サルに襲われけが 伊勢神宮内宮の別宮・伊雑宮 市内の被害相次ぐ

 

🐵が兎に角かように暴れておる。

 

故に🐵にはエサを与へぬやうに。

 

だが特に子🐒は可愛く🐼などもまた可愛ひ。

 

心優しき👫はどーぶつが嫌ひでは無ひ故どーしてもどーぶつ達にエサを与へて仕舞ふ。

 

 

ちなみにわたくしの場合は丁度今の時期につひメジロ達に蜜柑を与へて仕舞ふ。

わざわざ蜜柑を買ひ🍊の状態となし其れを庭の木々の枝に挿しておくのだ。

すると可愛ひメジロ達が素早ひ動きにて飛んで来其れを啄む。

 

メジロは所謂鶯色をした美しく小さな鳥だ。

 

だが其れはウグイスなのでは無ひ。

 

メジロの飛び方はまさに神業でもってしてとんでもなく複雑にさうして俊敏に庭の木々の間を縦横に飛び回る。

 

ところが彼等には天敵がおる。

 

其れがヒヨドリだ。

 

 

 

普通はヒヨドリが其の🍊を独占する。

 

其の為庭の木々の八か所に分散させ其れを挿しておる。

 

するとヒヨドリが🍊を食ってる隙にメジロが他の枝の🍊を食ふ確率が高まるのだ。

 

ところが其れでもダメな場合もある。

 

即ちヒヨドリは根性が悪ひのですぐにメジロを追ひ払ふのだ。

 

 

元より動物界では根性が悪ひ奴程のさばる傾向が強くあらう。

其処からも人間の根性が悪ひことだけはまずは間違ひ無ひことだらう。

 

尚カラスもまた根性が悪ひものだが何故かわたくしにとり最近は余り縁が無ひ。

 

 

尚わたくしはどーぶつの根性が悪ひのは一体何故なのだらうと以前よりさうも考へて来たのである。

結局其れは意識がより具象化されて居るからなのやもしれぬ。

 

 

具象化とは其れ即ち現実的に欲張りだと云ふことだ。

其の具象化されし欲張りには然し限度があらう。

 

ではヒヨドリやカラスの欲張りも結局さうしたことなのですか?

 

其れはさうでヒヨドリやカラスの欲張りはあくまで具象的な欲望の範囲内でのことだ。

 

其れでも欲張りだから結局は悪なのだが。

 

 

ではデカひ欲に蹴散らかされるメジロのやうな小さな欲は善なのですか?

立場が弱く見た目も弱ひものは其れだけで救われるべくしてある生命なのですか。

 

 

とりあへずは可愛ひメジロの方が見て居て気分も良ひ。

逆に権威権勢権力を握る奴=強ひ奴は横暴にて醜ひ心の持ち主となり易ひ訳だからとりあへずは弱ひ奴の方を応援しておく方が気分が良ひ。

 

第一悪だ善だと云ふ基準は相対的に何とでもなる基準なのだ。

 

即ち宗教さへもが権威化することで堕落して其処でもってとんでもなひ謗法、神をも畏れぬ背徳の限りを事実としてして来て居るのだとも言へやう。

 

 

 

そんなんではもう何も信じられなくなる。

だから信じちゃイケナヒのだ。

 

社会化されし組織はいずれにせよ矛盾化し劣化することは免れ得ぬ。

そんな社会により掛かり価値観を形成してはならぬ。

 

 

では自身の中でどう価値を構築していくのですか?

 

勉強しろ。

兎に角脇目もふらずに数十年間もの間お勉強をするのだ。

 

 

さうでなければ世間の抱へる矛盾など決して見へては来ぬ。

 

事実芥川や漱石は当時から物凄ひ知識人だった。

 

 

彼等には漢文の素養があり英文學、其ればかりか芥川は仏蘭西文學にも詳しかったのだし漱石は理系の理論などにも興味を持っており事実其れ等にも詳しかった。ー元々漱石は理系の作家ー

 

さらに共に短歌を詠む歌人でもあった。

 

かくて昔の作家の知的レヴェルは現在とは比べ物にならぬ程に高く存して居たのだ。

 

 

芥川は利口過ぎてキチガヒになる一歩手前で踏み留まり創作に勤しんで居りしが實は漱石の方が其のキチガヒとしての度は酷かった。

家庭内暴力やら被害妄想などと兎に角酷ひ精神状態でまともな人間では無ひとさう思はれても仕方が無ひ。

 

だから藝術家なんて皆まともでは無ひのだ。

 

まともであればサラリーマンでもして居れば其れで良ひのだ。

 

だが藝術家にはどうしても表現せねばならぬことがある。

 

 

ほんたうの作家やほんたうの詩人はだから其の点に関しては恵まれて居やう。

かの又吉氏などもほんたうの作家になれどんなに毎日が楽しひことかと思われるがでも其れを羨ましひなどとは金輪際我は思わぬ。

 

と云ふのは、個としての生命の其のそれぞれの闘ひに於ひて優劣並びに軽重などは元より存して居なひのだから。

 

 

いずれにせよ作家や詩人による生との闘ひの様、其の生き様とは一種壮絶なものであり其れは決して皆様には御勧め出来ぬ究極としての精神的苦闘其のものなのだ。

だから其れは有名にならうが無名だらうが皆同じことだ。

 

もっと大きく見れば本質として背負ふ生命のゴタゴタ、其の苦闘の様は人間であれ鳥であれケモノであれ何であれ皆同じである。

 

 

其処での根性の悪さもまた皆同じなのですか?

 

いや、其処は少しづつ違ふのだ。

 

謂はば根性の悪さの程度=大きさが皆少しづつ違ふことだらう。

 

 

根性の悪さの程度が大きひとイキナリ中東にて戦争が勃発したりもすることであらう。

 

中東にて戦争が勃発することは我我日本人とは余り関係の無ひことです。

だからサラリーマンを毎日やって居れば良ひだけのことです。

また妻子を愛し神社詣でをして神様に国家の安泰を、さらに仏様に家内安全と一族の繁栄を祈って置けば其れで良ひ筈です。

 

 

いや、元より其れでは足らぬ。

所詮其れでは利己主義に陥らうぞ。

 

其れが何で利己主義なんでせうか?

國を愛し郷土を愛し家族を愛し会社を愛し日本をいや世界を愛してかうして一サラリーマンとして日々を生きて来ております。

 

いや、其の価値観自体が戦争をひいては人類滅亡を齎さうぞ。

 

 

でも愛♡は大事だらう。

かのジョン・レノンが仰ひますやうに愛こそがすべてだ。

 

いや、其れは愛では無ひぞ、真の愛とは違ふぞ。

 

真の愛とは抽象的に行ふ鉄拳のことだ、即ち精神による批判のことだ。

 

確かに具象的な鉄拳とはタダの暴力のことながら批判とは暴力には非ずしてむしろ真の意味での愛なのだ。

 

 

事実イエス・キリストは何処までも当時の社会を全否定するまでに批判して居たのだった。

 

釈迦もまた当時の社会の価値観其のものを批判し解脱することを説ひた。

 

其ればかりか實は作家連中も實は怖ろしく社会を批判して居たのだった。

 

つまるところ批判の出来る作家だけが真の作家なのだ。

 

 

 

特に漱石と芥川の社会に対する批判は凄かった。

 

漱石は主に近代文明其のものに深く疑ひを抱ひて居た。

故に日本の近代化に対し疑義を呈し西欧近代其のものに対する否定的な見方を当時から示して居たのだ。

実際漱石の文明論は鋭く其の本質を突ひて居り凡百の作家共にはまるで真似の出来ぬ文明批判其のものだったのだと言へやう。

 

 

芥川はまた晩年に「河童」を書き文明社会をこっぴどく批判する。

此処にもまた文明に対する根強ひ不信感が垣間見へて来る。

 

元々芥川の短編には人間批判としての要素が強くあった訳だがー蜘蛛の糸、鼻、地獄変などに見られるが如くにー、晩年には其れが社会への批判へと移り変わって行く。

 

逆に言へば芥川にとっての人間への絶望は次第に社会への絶望と化し彼の精神を其の根本から蝕んでいったのやもしれぬ。

 

さうしてつまるところは日本の近代文學を代表する作家二人が共に近代社会と闘ふことで言はば其処に戦闘死して居たのだ。

 

 

其の戦闘死をせし二作家の影響をわたくしは強く受けて来ても居る。

 

 

尚芥川はとても優しひ人だったことだらうと個人的にはさう思ふ。

芥川は意外と👩好きでもって多くのラヴレターを書ひて居たやうだ。

 

尤もどうも👩のことで常に悩んでも居たものらしひ。

 

 

芥川には所謂アフォリズムを駆使したところでの理知的でしかも懐疑か又は皮肉に充ちた短文が多く遺されて居るが其処に示されし彼の鋭さよりもさうした彼の心の温かみを感じさせるもの、感情の機微を描くやうなものを個人的には時折読んでみたくもなる。

 

 

自死せし芥川が書ひたものであるからこそ其の生の魅力が、懸命に今を生きる我我の胸を打つことだらう。

 

但し芥川の作品で最も好きなのは初期の翻訳物である。

 

格調高く訳された其の翻訳こそが彼が築き上げし理智の世界を何より物語って居るのではなひだらうか。

 

 

ちなみにわたくしは高校生の頃に一年間自主的に休学し芥川全集を読みつつ家庭教師をして居たのである。

 

其の家庭教師としての賃金でもって芥川全集のローンを払って居たのであった。

 

芥川全集はかの岩波の見事な装丁のもので其れが未だに我が個室の棚に鎮座ましまして居るが今のところは再読する余裕が無ひ。

 

高校の頃に愛読した限りで其の後は常に忙しく読む機会が持てぬ侭であった。

 

 

ところで芥川の「蜜柑」は俗な作品なのですか?

 

いやむしろ脱俗した作品なのだらう。

 

 

蜜柑 芥川龍之介

 

 

ー わたくしはこのときはじめて、ひやうのない疲勞ひらう倦怠けんたいとを、さうしてまた不可解ふかかいな、下等かとうな、退屈たいくつ人生じんせいわづかわすれること出來できたのである。ー蜜柑 芥川龍之介より

 

 

鋭ひ感度を持つ彼には今や人生は「不可解な、下等な、退屈な」ものでしかなひ。

 

元より彼にとっては一切が下らなくさうして下等なのだ。

 

だが其の下らなくさうして下等な人生又は世界に投げられた幾つかの蜜柑がニヒリズムに冒された彼の心を暫しの間救ふ。

 

 

奉公へ出る小娘から見送る弟達へと投げられた其の数箇の蜜柑こそが其の虚無に浸されし心を救ふのだ。

 

まさに其れは心を躍らすばかりに温かな橙に染まって居たのだった。

 

 

 

不可解で、下等で、退屈な人生は過去でも現在でもさうして未来でも変はることなどは無ひ。

 

人生が又は世界が低級なのは芥川が生きた大正時代に於ひてもまた昭和に於ひてもさらに平成や令和に於ひても変はること無き実相だ。

 

だが其の低級さ、粗雑さ、つまりは下品さを何か高級なもの、高貴なもの、美しひものへと化していく其の心としてのカラクリのみが此の世には存して居やう。

 

 

さう其れは無ひのでは無く在る。

 

つまるところは其の蜜柑の温かな色こそが人間として抱へ持つべき心の色なのだ。

 

其の人間としてあるべき心の色を見詰める作業をこそ文學と言ふ。

 

 

 

其の心の色を失ってはならぬ。

蜜柑の色を見失ってはならぬ。

 

いざ其れを見失へば心の全ては闇へと閉ざされやう。

 

本質的に無意味なるもの、数的に還元されるだけの世界、命の通はぬ物だけの世界へと全ては化していかう。

 

 

価値とはまた意味とはかように心を通じて醸成されるものなのだ。

 

其の心のあり方はいつも前向きで未来のみを見詰めて居れば良ひと言ふものでは無ひ。

 

芥川はさうして常に生の虚無の側面を見詰めて居たのだ。

 

元より彼は生きる意味など見ひ出せぬ程に生の虚無に疲れ果てて居た。

 

 

其の疲労と倦怠は彼が藝術家だったからこそさう見へたものである。

 

だが其の心の虚無を照らし出したのは「不可解な、下等な、退屈な」ものとしての象徴である小娘と蜜柑とであった。

 

 

翻り思ふに、現代人はもはや此の蜜柑の色の温かさを忘れ去って居るのではなひか。

其の蜜柑の色の温かさとは逆に世界を「不可解な、下等な、退屈な」ものとして見る価値観の中でこそ拡がるものだ。

 

 

尚具象的にー現実的にー欲張りなのは、動物としての本能、生命の基本設計としての役割なのだらう。

 

だから彼等は常に欲張りだ。

 

縄張りを持ち其の中のものを全て自分の所有物と為したがる。

 

但し其の欲望其れ自体に問題が存する訳では無ひ。

 

其の欲望も所詮は自然の内なる循環としての作用の一つなのだ。

 

 

問題なのは、人間の欲望は其れが抽象的に規定されしものであることだ。

 

其処では謂わば抽象的欲望が具象化されて仕舞ふことだ。

 

近代以前での具象化されし欲望の抽象化ではなくして近代以降に其の逆をやって仕舞ふことだ。

 

近代思想としての性の自由化、人権の尊重、自由の拡張、と云った所謂抽象化されし欲望が肉体性ー具象性=限定性ーと齟齬を来たすのだ。

 

 

かくして近代思想は自然の内なる循環をあへて人間の肉体から切り離さうとする。

すると次第に人間としての肉体がダメージを受け何か別のものへと変わって行かざるを得なくならう。

 

さうだ我我の肉体はおそらくはすでに人間では無ひものに移り変わりつつあるのやもしれぬ。

 

薬浸け医者浸け都会浸け会社浸けでもってすでに人間では無ひものに変わりつつあるのやもしれぬ。

 

幾ら長生きしたにせよそんな肉体では長生きする甲斐など其処にはまるで無ひのではなひか。

 

 

では山奥に住み人間の社会が生み出す価値を否定せよとさう申されるのですか?

 

いやさうでは無ひ。

 

山奥へは行きたひところながら金が無ひので事実上行けぬものだ。

また金のある奴に限り山奥へ引っ込んだりはせぬ。

 

仙人か又は聖者さうして作家または詩人として修羅道を歩む者だけが其処でもって花鳥風月と戯れ質素な生活を営むことを望むものだ。

 

 

さうして結局は欲望の質の問題なのだ。

 

近代以前での文明の欲望の持ち方は具象的欲望を抽象化して居たに過ぎなかった。

 

ところが近代以降、特に廿世紀以降は逆に抽象的欲望を具象化することに血道を上げて御座る。

 

 

 

そんな難しひことを申されましても、我我個にはもはや如何ともし難ひこと。

第一乞食には誰もなれますまひ。

 

会社も行かなひととても食ってはいけませぬ。

神仏が大事だなどと言はれてもちゃんと盆正月はやっております。

 

ヒヨドリやカラスよりは余程に理性的に生きておりませうが、其れの一体何処が悪ひと仰せなのか。

 

 

だが欲望が常に抽象的だぞ。

 

特に都会では抽象的価値に寄り掛かり蜜柑の温かな色合ひさへすでに見失って居るのだ。

 

即ち芥川のやうにまずは諸価値を疲労と倦怠の中へと落とし込むのだ。

 

其の虚無の中からこそ不死鳥のやうに蘇らずして一体どうして🍊の有難さなどが分からうものか。

 

 

アナタの言ってることはまるでアニメヲタクのやうに訳の分からぬことだ。

 

もしや危なひ人なんじゃなひか。

 

放火とかサリンを撒ひたりはしなひと保証出来ませうや?

 

 

だから其れは違ふぞ、まるで違ふのだ。

わたくしがやってるのはあくまで批判、即ち現代文明に対する批判だ。

 

わたくしはむしろ蜜柑の色を其の温かき人間の心を取り戻さうとさう述べて居るのだ。

 

批判即ち逆の見方こそが其の蜜柑の色を即ち小娘の置かれた辛ひ立場を、さうした生の実相としての苦悩を生と闘ふ実存としての気高さを気付かせて呉れるとさう述べて居るまでのこと。

 

 

もしや批判は正しひとさう仰りたひのでは?

 

まあさういふことです。

 

第一現代文明に対する批判はかの羅馬法皇御自身が為されて来ても居る位なのですぞ。

 

 

漢文學にも詳しひ筈の漱石や芥川が文明批判を為したのは何故なのですか?

彼等は英文科の出で西欧近代に於ける基本的な精神構造を同時に理解して居たからだらう。

 

即ち共に洋の東西に亘る幅広ひ知識の持ち主であった。

 

たとへば戦後に於ひては三島 由紀夫先生の戦後日本への体制批判が矢張り群を抜ひて居たことだらう。

三島 由紀夫もまた西洋と東洋を同時に理解して居た作家であった。

 

 

批判は文學では無ひのでは?

 

いーや、批判こそが其の文學なのだ。

其れに批判はフィクションでは無くノンフィクションでの文學なのだ。

わたくしの場合は其のノンフィクションとしての文學の場でもって日々を闘って来て居る。

 

 

要するに🐵や🐼やヒヨドリメジロには其の蜜柑による虚無の放逐、価値観の抽象的転回など必要無ひと云ふ訳だ。

 

だが人間には其れもおそらくは人間にだけ其の蜜柑の色が齎す生の意味化が必要なのだ。

 

 

結果として芥川は人生の虚無に敗れ自死するがおそらくは其の蜜柑の色が齎す虚無の放逐の瞬間を忘れ去った訳ではなかったことだらう。

 

其の虚無の放逐としての束の間の精神の楽園の様を文明にも求めつつ或は死んでいったのやもしれぬ。