目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

愛は人間を救ふのかーⅡ 思想と生活には求め得ぬ愛ー

まず述べて置かねばならぬこととは、もはやわたくしはイデオロギーとしての思想的立場には固執しなひと云ふことです。

何故なら其れは抽象的次元での信仰を齎すものなので其の思想的選択が誤りに陥ることだらう可能性が高ひが故になのだ。

 


或は元々善悪規定出来ぬ次元にて善悪を或は良し悪しを決めて仕舞ふことに陥らう可能性が高ひ。

 


其処をごくカンタンに申せば、政治的な思想の立場にて善悪の立場に立つこと其れ自体が不可能なのです。

では何にて善悪規定することが可能なのかと言へば其れは宗教的次元に於ひてのみのことなのです。

 


結論から申せば哲學的にはあくまでさうなるので右派も左派も其の考へは矛盾しもしも其の立場に絶対的に固執するのであれば即其れは誤謬となり其ればかりか其の信仰は所謂妄想へと陥りませう。

 


対して大衆的な次元での信仰は何かと申しますとズバリ其れは生活教のことです。

生活教とは宗教でもイデオロギー対立でもまた無く主に👪やじぶんに対する+の価値への信仰であり信心のこと、要するに其れは何処までも続く現世利益への追求のことで即ち人間のエゴ其のものと云ふことだ。

 


人間のエゴは快楽が大好きですが小市民的な小さな生存欲に限り其れが必ずしも悪ひことだとは申されません。

でもより大きく捉へし場合にはまた其れも悪ひことなのです。

即ち「考へぬ」と云ふ罪を其処に背おはざるを得ぬ。

 


であるからこそ宗教的次元にてすでに考へ抜かれて来し普遍的な愛に救って頂くことこそが本来ならば人間の精神を善悪規定する上での理想的要件です。

但し現代に於ける宗教のあり方其のものが変はって来ても居りませう。

 其の様や宗教が善悪規定するものからしなひものへと世俗化して過程なのだらうか?

 

 

で、其の大衆の欲望としてのあり方はまず闘ふことを好みませぬ。

即ち全てが此の侭に平和であって欲しく其ればかりか出来るだけ長生きがしたひ訳だ。

 


其の安月給しか払へぬロクでも無ひ会社や不細工な妻や出来の悪ひ子にも兎に角大きな愛情を抱ひて居るが故に兎に角其れを維持して居たひ。

たとへ悪質な安倍政権にせよまた変はりやうの無ひ天皇制にせよ過疎だの格差だのでもうどうしやうも無ひ地方自治にせよかうして生きて居られる限りは兎に角其れ等を全て維持して置きたひ。

 


さうした意味では確かに人間とは保守的な意味での「愛」に生きる生き物です。

ですが、自然界の愛はまた其れとは異なる謂はば具象的な愛なのでせう。

 


自然界の愛は一面では合理化されており其処では瞬時に死が訪れぬとも限らずでも逆に🐵山のボスとして多くのメスを引き連れ権力をほしひままにして居たりもするものだ。

即ち自然界での個のあり方は常に弱肉強食での合理的法則に刺し貫かれしものだ。

 


人間の観念はむしろ其の具象性ー限定性ーに対し闘ひを挑むものです。

だからむしろさうした自然的に規定されし合理的闘争の世界を拒むのです。

 

 

 

ですが、其のいつまでも変はらず会社だの家族だのじぶんだのに貼り付ひて居たいと云ふ感情的な欲のあり方こそがそも利己主義なのだ。

 


何でだ?

かうして会社を愛し母ちゃんを愛し子を愛し其ればかりか隣人を愛し悪ひ遊びなどにも金輪際耽らぬ。

 

此れ以上の善行が一体何処にあると云ふのか?

 

 

 

だがおまへの其の感情其れ自体が「思考停止」と云ふ罪なのだ。

 

人間は一面では自然其のもので従って其の自然による合理的闘争状態からは本来誰も逃れられるものではなひ。

だが其れを変質させる即ち抽象的ー合理的ーに改変するのが社会の役目である。

特に近代以降は其の抽象的改変をかうして一挙に加速させて来たのだ。

 


其の抽象的改変の罠にすでにおまへは嵌っておる。

まさに其のことによりおまへの其の利己主義は妄想の域にまで達して居るのだ。

 


個としての現代人はそんな妄想の様にもはや誰も気付けやせぬ。

即ち善として信ずる現世利益としての諸価値とは本質的には社会的な悪により齎されし抽象的な価値の改変のことだ。

 


其の抽象的な改変はより革新的に社会を進めまたより浪費としての諸要素を認めて行くことだらう。

ですが果たしてそんなものが一体「愛」と呼べるものなのだらうか?

 

 

 故に抽象的価値として善悪規定することが可能なのは宗教的次元に限られやう。

 

自然界は日々さうして「闘争」して居るが其の妄想としての生への固執などそも其処に持ち得はせぬ。

其れは純粋なる肉体的闘争であり其処では「明日何を食ふか」だの「何時死ぬか」だのそんなことはまるで考へては居らぬ。

 


確かに自然界にも価値ヒエラルキーは存するが其れはあくまで具象的にさう序列されしもので文明の価値の如くに抽象化されしものには非ず。

 

 

 

元より「愛」とは神佛からのみ与へられるものだ。

其れは自然と云ふ肉体性から発したものでは無く人間の精神が其れをさう規定せしものだ。

 


だが先に述べた如くに愛は庶民の生活の上にもまた社会的などんな活動、さうして思想の上にも認められぬものなのだ。

さう、さうして人間に見へて居る領域には實は愛など存在しては居なひ。

 


故に現代人の多くが固執して居る愛とは利己愛であり妄想として築かれし社会による偽りの愛である。

 

 

 

此の世は其の利己的な愛と社会的な妄想の愛による破壊の過程である。

さう愛とはまさに其の破壊なのだ。

 


愛とは憎しみであり尚且つ破壊である。

其の本質的な意味合ひとしては其のやうに二元分裂する。

 


兎に角愛とはさうして常に二元分裂する厄介なもののことだ。

 

 

 

其の理性による妄想を解くこと。

曖昧にしてなど置かずに二元分裂としての対立か若しくは矛盾を理解すること。

 


ほんたうの意味での知性の働きとはむしろ其の部分にこそあらう。

即ち大衆の如くに現世利益へと永遠に固着せずまたイデオロギー的に対立するのでは無くむしろ互ひに受け容れる。

 


大衆はさうして生ー快楽ーに固執する。

だからこそ逆に死を受け容れるべきだ。

 

尤も常に其れは難しひので神佛へと縁する訳なのだが。

 

 

 

神佛の正反対が共産主義だが其れもまたひとつの社会変革の為の思想なのだ。

 

尤も思想は不完全なのだから其処には愛は無ひ。

大衆の利己愛と同じやうなもので其処にはほんたうの意味での愛など生じては居らぬ。

 


「信仰」は生活に対してもまた主義に対しても行ふべきものには非ず。

信仰」を生活に対してまた主義に対して行ふ限りに於ひて其れは即矛盾化し対立と破壊を生ぜざるを得ぬことだらう。

 

 

だから信心其れ自体が悪ひのでは無く信ずるもの其れ自体が悪ひのだ。

さうして誤った愛に導かれ現代人は何処までも精神の荒野を漂流して行かう。

 


だがそんな社会への愛はウソの愛だ。

またそんな信仰はウソの信仰だ。

 

 

 

もしや皆保守こそが善で革新が悪だとさう信じ込んでいやあしなひか?

いやわたくしもまさに其の立場に陥るところであった。

 


いへ、事實陥っても居り申した。

さうして現世への固着の罠に嵌り込み🐜地獄のやうにいや🐜地獄に堕ちた🐜の如くに何処までも其の保守的な愛の罠に引き摺り込まれて行ったのです。

 


でもアリジコクに食はれる寸でのところでしかと気付きました。

他ならぬじぶんが其の愛の妄想に捉はれて居ることを。

 

 

 

科学技術文明と資本主義の組み合はせは科学技術文明と共産主義との対概念でおそらく其れは合理化と云ふ全体主義としての分離過程でもあることだらう。

即ち其の全体主義の罠の理解の為には双方を否定すること無く學ばねばならぬ。

 


尤も學んだ挙句に双方とも否定して行かねばならぬことだらう。

いや、否定と云ふよりも放棄して行かねばならぬことだらう。

 

 

思想とは、また現世利益での価値観とは以上の如くに本質的価値を形成するものでは無ひ。

 

故に其処にて生ずることだらう諸の意見の対立即ち批判だの否定だのに対し臆して居たりして居てはイケナヒ。

 


日本人が一番ダメな部分がまさに其処で、社会的な思想だの将来設計だのがさも何か金科玉条の如くに大事なものだとさう信じ込んで居たりするが其れは誤りなのだ。

さうでは無く思想もまた将来設計も實は其の都度大幅に変更され得るものなのであり、同時に其の思想の両端や将来設計の幅ー悲観論と楽観論の間でのーは常に大きく変はり得ると其処に見ておくべきものなのだ。

 

 

 

わたくしなんぞは今でも革命はあり得ぬ訳では無ひなどとも考へて居りとは言へまるで変はりたく無く動きたくも無ひー要するにモノグサーのでとりあへず保守だと言って来ただけのことでそんなものはどちらに転ぼうがまるで知ったことでは無く但し問題なのは昨今の保守の立場に胡坐をかひた上でのまさにひでへ國の統治のあり方なのだ。

 


なので、つまるところは価値観を正して行く必要が何より御座らう。

だがイデオロギーとしての立場などどちらでも宜しく、但し少なくとも其れを論じたり批判したりするのであればむしろ徹底的に其の両極につき學んで行かねばならぬことだらう。

 


其の大衆の価値観としての現世利益性のことにしても、まさに今後は大きく其の価値其れ自体が揺さぶられ崩れて行く可能性が高く存するのだ。

現在の快適?な現代人の生活は近代以降の社会的な妄想による価値観が築き上げしもので本質的には其れが虚的で且つ抽象度の高ひ価値であるが故に崩れる時はまさに一挙に崩れ去ることだらう。

 

 

 

との結論よりわたくしは以降保守派の看板を下ろさせて頂くことと相成った。

但し其の逆の共産主義アナーキストであることにも本質的にはならぬ訳なのだが。

 


本質的には一体何だ、👿か其れとも😸なのか?

 


そも其のアイコンの悪魔と猫の区別がつかぬのだが👿だと言はれれば👿なのだし😸だと言はれればまさに😸なのだ。

 

 

 

兎に角思想や宗教には弱ひ日本人大衆に言ひたひこととは思想や宗教を恐れず出来得れば其処での逆の立場をも深く理解せよとさう言ふことなのだ。

其処での其の正反対の価値でのせめぎ合ひ、ぶつかり合ひの様から西洋文明での諸の価値観は形作られて居り其れが日本國での伝統的価値とはそもまるでそぐわぬものでもある。

 


其処からしても日本人は本質的に保守指向なのだとさう思はれる。

其の保守としての体制ーつまりは天皇制のことだらうーが維持されれば何でも良ひとさう思っても居やうが天皇制が維持されるかどうかはまさに今後の文明の動向次第なのだ。

 


即ち文明が國単位で國民の近代的な生活を維持することに汲汲とするやうでは其れこそ國家解体の虞すらもが出て来やう。

かのマルクスの予言通りに國家が解体され資本主義が終焉を迎へる可能性すらもが此処に至り出て来たのだと言へやう。

 


兎に角文明はとても罪深ひものなので所詮此の侭では危険なのだし以降実際にどうなって行くかは予測が困難なことともなって来て居やう。

 


尚さうして知ること乃至は気付くこととは自分の信ずる価値乃至愛に固着することでは無くむしろ其れを疑ひ眞の信仰に目覚める為の理性の力であるべきだらう。

思想の右左に固執して居るやうでは其の眞の信仰に於ける目覚めなどつひぞ得られぬことだらう。

 


また伝統國家としての保守性に個としての価値観を全的に依存して居るやうではまた思想の両極を見詰めたことにはならぬ訳だ。

知はやがて個に対し其の信じぬこと、信じられぬこととしての具体的な価値を示して行くことだらう。

 


知は何処かで其のニヒリズムと格闘せねばならぬのであり、むしろ其のニヒリズムと対峙することでこそより強靭な知性を其処に築き上げるべきものなのだ。

世の矛盾や不条理な様に屈することの無ひ知の力の構築、其れも正しく両極を見極めた上で世の矛盾や不条理と闘ひ続けて行くことこそが知性としての其の闘争の歴史なのだらう。

 

 

 

1.善悪規定出来ぬ思想としての立場に寄り掛かることをしなひ。ー知的闘争によるひとつの解答としてのー

2.現状に対し胡坐をかくものへの否定及び闘争

3.但し上記1.2.は宗教的に於ける信仰の次元を除く

 


かように宗教的な立場以外での愛の形成は須らく矛盾化しやう。

左様に思想への愛の形成はむしろ破壊を招くことだらう元凶としての価値観を生むことだらう。

 


右の思想を振りかざし特攻死するのは其れは勝手だが其処にはどんな愛も含まれては居なひ。

左の思想を振りかざし革命の為に死するのは其れは勝手だが其処にはまたどんな愛も含まれては居なひ。

其の國家愛も革命愛も所詮は愛の次元を離れし抽象的価値のことだ。

 


思想、其れは人類に残されし最後のディストピアだ。

 

そんなディストピアとしての愛に走る位ならばより現實化した方がマシだと現世利益へと走ると途端に利己愛へと繋がれやう。

かように思想でも生活でも其処に愛の成就など到底期待することは不可能だ。

 


正しひ価値観とは相対的価値であるに過ぎず其処をあへて信ずれば其は絶対的妄想の根拠とならざるを得ぬ。

正しひ価値観を持つか又は眞の意味での愛が成就するのはさうして信仰の上での宗教的次元のみに限られて来やう。