たとへば悲恋と云ふことがありわたくしは其のやうな愛の形こそが好きだ。
ありきたりな恋愛では無くもう其れで死んでも良ひと云ふ位のものでなくてはならぬ。
つまるところ其処に命が賭けられたものでなければならぬ。
かようにわたくしの愛に対する本音の部分は常に激しくも深ひ。
其の激しく深ひ部分を一般の👩は大抵誤解する。
多分其の並外れた熱意を逆にヘンだと思ふのやもしれぬ。
要するにクド過ぎる訳なのだ。
其れももう兎に角ドバッとクドヒ。
まるで神佛に対する信仰でもあるかのやうに攻撃されし👩は大抵逃げる。
實は伊太利亜人以上に情熱的で花束攻撃、電話攻撃と兎に角物凄ひエネルギーなので大人しひ日本人の👩の大抵が辟易して仕舞ふ。
悲恋でもって特に好きなのは上にもあるやうにオーギュスト・ロダンとカミーユ・クローデルの負の愛の軌跡としての物語だ。
うはあアマゾンにもこんなのがあった。ロダン カミーユと永遠のアトリエ
「恋するロダンには、愛弟子カミーユが天才に思えた!」『ロダン カミーユと永遠のアトリエ』ジャック・ドワイヨン監督が明かすロダン、師弟愛、J・バーキンのこと
オーギュスト・ロダンとカミーユ・クローデルの出逢ひ程劇的なものは無かった筈だ。
其れはかのランボーとヴェルレエヌの出逢ひの如くに運命的なものであったことだらう。
だが彼女カミーユ・クローデルの恋情が彼ロダンに通じることは結局無かった。
結果としてロダンの身勝手さに翻弄されし彼女は次第に精神を病んで行くこととなる。
藝術家同士に芽生へた愛はかように大抵悲惨な結末を迎へる。
まるでランボーとヴェルレエヌの愛の結末の如くに其れは破綻しさうして壊れて行く。
尚、個人的にはさうした破滅的な愛こそが美しひものだとさう思ふ。
所謂世間的にまともな愛は美しくは無く即ち糠味噌臭く謂はば退屈な日常の一コマでしか無ひことだらう。
其のやうな愛はむしろ御免被りたひ。
さうでは無く愛とは対決だ。
さう其れは實存としての♂と♀との対決だ。
わたくしはかうして力が入り過ぎるが故に普通の👩にはまず理解などされぬのだ。
だが兎に角美しひ愛の形が一番だ。
たとへどんなに長生きし愛を成就させやうとも其処にはピンと来ずでたとへ瞬時でも燃へ尽きる迄に人を愛する形の方が我にとってはより望ましひものとなる。
即ち破滅的でもって悲しひ愛こそが最も美しひ。
人の世での美しさとはさうして成就して居なひことだ。
成らなかったこと、欠けて居ること、損失であること、悲しく終はって仕舞ふこと、なのだ。
またどんなに愛したのだとしても愛が届かなかったことだ。
ほんたうは其れだけが人間界での眞の恋愛の形なのだ。
美しさとは左様に欠乏である。
だから文明は常に美しひ。
文明も👩も常に能足りんな分がさうして光り輝ひておる。
実際に嗚呼、なんて綺麗なのだ。
女と云ふ女は腐って居るが故同時に美しくもある。
ーそれもあってか、わたしのなかで、カミーユの印象は「激情の人」というもの。愛情も憎しみもぐんと深く、彼女の作品を見ても、それらの情がこもっているように思えてなりません。ー激情の人、カミーユ・クローデルの美術館がフランスに誕生
かうして藝術家の内面は自然と激しくなる。
藝術をやればやる程其の中に埋まり込んで行きそんな風に激しくなって行かざるを得ぬものだ。
また其れは画家だらうが彫刻家だらうがまた音楽家だらうが詩人や作家だらうが皆同じことだ。
たとへ表現其れ自体は穏やかなものであれ其の表現者の内面では正と負の感情の対立が、迸る熱情と虚無との葛藤が常に渦巻ひて居るのだ。
美を対象として生きる藝術家は常にそんな二元対立の世界に晒されて居る。
さうしてとどのつまりはそんな心理こそが凡人には及びもつかぬ精神性かまたは感覚の裾野を広げて行くのだ。
齢六十一でもってまだゲージツ的な恋愛がしたひのですか?
いや、恋愛の本質とは所詮幻想なのだ。
だから其処では常に痘痕も靨、なのだ。
甲斐性が無く腐り切った下司野郎もドブスのメス豚もイザ恋をすればみんな決まって其処では王子様とお姫様だ♡。
さう恋愛とは幻想か又は信仰のことだ。
其れも生に対する信仰だ。
生で無ひこと=死への信仰こそが宗教で、つまり恋愛とは其の宗教の対概念である。
生に対する信仰はたとへ八十歳でも九十歳でも可能だ。
また死に対する信仰はたとへ拾歳でも廿歳でも可能だ。
どんなに満ち足りた愛の形にもやがては終はりが訪れやう。
其の終はりの形が死と名付けられる。
終はりがあるから其れは美しひ。
いや終はりがあるのに終はりにしなひ其の盲信振りこそが其処に燦然と輝くのだ。
左様にゲージツ家の愛は深くてクドヒ。
味が濃過ぎる顔が濃過ぎる兎に角鬱陶しひこと此の上無ひ。
カミーユ・クローデルはたとへば中森 明菜のやうなものなのですか?
其れは知らぬ。
だが👩には屡さうした形での苦労も間々あるやうだ。
要するに好ひた👨に裏切られると云った形での永遠の苦しみが其処には御座らう。
其れは男性にもまたありませんか?
確かにある。
何せわたくしは其れを弐遍も経験して来ておる。
兎に角悲恋、其れに勝る美しひ物語は無ひ。
でもカミーユ・クローデルは気が狂ってまさにボロボロにされたのにそんなものの何処が果たして美しひと言へるのでせう?
いいや気が狂ふまでに人を愛してこそ其れがほんたうの愛と初めて言へるのだ。
おまへたちのやうなそんな婚活パ―テーだの、そんなもので眞の愛が、其のほんたうの愛の形が成就する筈も無ひではなひか!
さうでは無くたとへ死んでも愛し抜かねばならぬ。
たとへ罵倒され殺されかけたにせよ愛し抜き尚且つ信じ従ひ其の人の為命を捧げ生きて行くのだ。
たとへ気が狂おうとも、たとへ火事で焼け死のうとも兎に角愛、其の愛の形に付き従ひ嗚呼まさに奥村チヨ 恋の奴隷になって行かねばならぬことだらう。
兎に角恋愛は悲しひもの、成就する可能性が低ひものの方が激しく燃へ上がるものだ。
みんなに祝福されレールに沿って敷かれた愛なんぞそんなものはかのサザエさんと一緒でただの大衆向けホームドラマなのだぞよ。
そんな威勢の良ひことを述べて居りますがアンタまだ女に対しちょっかひを出さうとさう思って居るのですか、そんなに腹も出てしかもハゲもでかくなって来たと云ふのに。
いや本質的には其れは外形では無ひ。
むしろ生に対する信仰力のなせるわざだ。
だが死に対する信仰即ち宗教への傾斜が強まると恋愛や👪に対する信仰は自然と消え失せて行くものだ。
カミーユ・クローデルのやうな精神的肉体的パートナーをアナタは欲して居なさるのですか?
もう喉から手が出る程に欲しひ。
日本人のカミーユ・クローデルがもし居ればわたくしはまるでロダンのやうな一流の藝術作品を此の世に遺すことさへ出来ることだらう。
恋愛は生の局面を美しく彩り謂はば我我に全能性を付与する。
神とは概念にて創り上げ其処に全能性が与へられるものだが恋愛は理窟抜きに人間の内面をさう規定しても行かう。
だが先に述べたやうに愛には二面がある。
たとへば其れは生に対する信仰と死に対する信仰のことだ。
生に対する信仰は恋愛と呼ばれ死に対する信仰は宗教と呼ばれる。
だけれども生に対する信仰に限れば適度に壊れて行くものの方が其処に深みを増し結果として其れが美しひものともなり得るのだ。