此の世に於ける根本の成り立ちは二元対立=二項対立にこそあり其処をどう捉へて行くか、どう解決を図って行くかと云ふことこそが知性に与えられし究極の課題であり価値構築の契機たり得ることだとさうわたくしは此れ迄に述べた訳でしたが其処がお分かり頂けたことだったでせうか。
価値構築とは其のやうに眞理に対して行はれるべきことであり、世の価値観が述べるが如くに所謂便利で快適な世界=社會=文明を形作る為の価値構築などであってはならなひ。
其のやうな誤った方向での価値構築の流れこそがやがては悲劇を生む。
故に其の悲劇は縁起の法則によるものであり人間自身が招きし運命でもある。
其の二元対立=二項対立が存するが故に此の世の事象は須らく劣化し不安定とならざるを得ぬ。
どだひ此処日本での天下統一の事業にせよ、信長公がまた秀吉公がさうして家康公がかってあんなに頑張って成し遂げたにも関はらず其れは時代による近代化の波には抗し切れなんだ。
其の近代化の流れは果たして我我人間にとって正しひものであったのだらうか、或は其れは根本のところで誤りを抱へて居たのではなかったか、と云った部分を壱詩人の實存としての思考を通して個としての皆様に問ひかけて居るのがまさに此のブログの内容なのだ。
近代化はさうして良ひもののやうに思はれて恐ろしひ力を其処に孕むものだ。
故に近代的な思考に対しては常に批判の眼差しを向けて居なければならぬことだらう。
かくして悲劇はむしろ近代化=合理化の過程こそが用意する。
我我を滅ぼすべく用意されし其の運命に抗ひ個として其れと闘ふ為には一体何が必要なのだらうか?
わたくしはまさに其れが信心であり且つ理性であるとさう申して居る訳だ。
信心の力は闘はずして人間をして神佛と一体化させて呉れやう。
だがまさに合理的に飼育されし現代の理性はむしろ其の信仰への契機を合理的に閉じて仕舞ふ。
ならばどうすれば良ひのだらう?
理性は一体何処を目指し進んで行くべきなのか?
或はもはや進まぬ方が良ひのだらうか?
其れともむしろ放棄すべきなのか、さうして全てを忘れ去るべきなのか。
まあ放棄し且つ忘れ去るのであれば動物に退化するか其れとも植物にでもなり人間とは違ふ生の形を取るより他は無ひことだらう。
たとへば動物に喰はれると自分自身が動物にでも退化することが出来ますか?
出来ません。
だって我我はあくまでかうして人間だもの。
また動物になったらなったで余計に本能に縛られ毎日毎日さうしてエサを探し回り常に其れを食ったり♀に飛び付ひたりでまた命を懸けた闘争ー食ふか食はれるかの闘争ーなどもありまさに生きた心地がせぬことでせう。
すると人間はまさに其処を合理化し文明を築ひたのですね。
まさに其の通りです。
人間は文明を築くことでそんな原始的な闘争からは解放されました。
でもまた違ふ闘争に巻き込まれまさに其れにて今も苦しめられて居ります。
軍拡競争だの経済的な競争だの特に戦後はそんな抽象的な意味での競争がむしろ酷くなって居る。ー宇宙開発に於ける競争なども其の良ひ例ー
そも何でさうして競ふのでせうか?
結局価値ヒエラルキーの構築主義に価値観が毒されて居るからなのでせう。
だから其れがまさに馬鹿なんです。
何でさうして一番になりたがるのでせうか。
一番になると二番の人や三番の人、またドン尻の人などを下位に置くこととなり最終的には彼等を奴隷化し搾取することで自らの優位性を保たうとする筈だ。
でも其の順位の否定こそがまるで日教組のやうな思想のやうですが果たして其れで良ひのでせうか?
まあ日教組が全部悪ひとは言へぬことでせう。
實際に資本主義が明らかにやり過ぎて居り其のやり過ぎたことでこんなんなって居る可能性が高ひ訳だ。
そんな競争など止めて其の不毛な又は空虚な価値観を改めよとさう仰るのでせうか?
いや其れは結局止めることなど出来ぬのです。
かうして幾ら正論を吐ひたにせよ此の世はさうして何処までも矛盾的に推進されて行くことだらう。
何故なら其の矛盾こそが人間にとっての確かな推進力だからなのだ。
其れにつけても何だか何処にも救ひが無ひやうな話ですね。
其処にはもはや夢も希望も無ひ、いや夢や希望を持つこと自体が誤りだとさう述べて居られるのか。
其の夢も希望も、結局其れ自体が極度に分離された考へ方なのだらう。
極度に分離された考へに価値観が傾くと逆に夢無き様や絶望をむしろ實現させる可能性が高まって仕舞ふことだらう。
結局人間の心に巣食ふ根本での闘争の欲、即ち本能的な欲が其の侭に抽象化されたものが近代的な思考の根本には存する。
つまるところ近代を規定する力とは所詮其の抽象化されし本能の力であるに過ぎぬことだらう。
其処がまさに幼稚であるとかうしてわたくしは述べ続けて来た訳だ。
理論的には其処に理性の原始退行が引き起こされて居り其の原始退行を止めぬ限り文明は常に崩壊のリスクに晒されるとさう述べて来た訳だ。
ところで詩人さんは何で其処まで世の常識に対し反抗的なのでせうか?
いや反抗と云ふよりも反省力が強ひと云ふことなのだらう。
理性の力が強くてしかも其れが適度にバランスされて居るからこそ其処で常に反省することが可能なのだらう。
さても此の侭では文明は悲劇を迎へざるを得ぬのでせうか?
さうですね、結局文明は悲劇を迎へざるを得ぬことでせう。
なのですが、個人的にはずっと其れに抗ふつもりで居ます。
抗ふことは其れ即ち批判と云ふことですが實は其ればかりでは無ひ。
批判する其の心の底には愛があるべきでせう。
眞の愛とは優しさでは無く且つ同調にも非ずだ。
愛とはむしろ鞭打ちであり叱責のことでせう。
また軍隊のやうなことをイキナリ仰る。
いやさうして両面を見詰めて行かねばならぬのです。
まさに右でも左でも無く、また男性でも女性でも無ひのだ。
さらに子供でも無く老人でも無ひ。
左様に一方の価値分別だけに偏るものの見方こそがまさに人間の認識の不完全性を支へて居るのだからこそ。
でも神佛とはそんな不完全な人間への赦しであり救済なのではありませんか?
だから其れこそが受容であり愛であり慈悲なのだ。
だがわたくしの愛は其の宗教的なものでは無く謂はばもっと理性的なものだ。
では其の人文理性による御導きにて此の文明は救はれるのですか?
無論のこと理論的にはさう考へて居る。
また感情的にもさう願ってやまぬところだ。
但し其れは救はれるのでは無く認識を改めることにより異なる方向性を模索しまさに其処に眞の意味での夢と希望を発見して行くことだ。
じゃあデカひ家に住み美人妻と東大へ入るやうな出来の良ひ子を持つことでは無くたとへボロ家に住み不細工な妻と馬鹿息子なのだとしても其の眞の意味での夢と希望を其処に見出して行けるのでせうか?
充分にイケませう、おそらくは。
ではどうしたら其れが可能となるのでせうか?
だから其れがまさに悲観的に物事を捉へられるやうにして行くことだ。
現代文明に於ける価値観は全てが+化されて仕舞ったがまずは其れが根本での誤りだ。
正しくは生の暗ひ側面、まさにどうしやうも無ひやうな苦悩の部分を生の中に見出す必要がある。
するとコロナ苦は其の価値観の転換の契機となり得るものなのだと?
さうだ、本質的にはまさに其の生の苦悩、正ばかりでの苦悩を見詰める為の負の価値としての展開だらう。
なのでコロナ禍は文明にとりまた現代人にとってのむしろ愛の鞭のやうなもの。
だが政治のやり方が悪ひと特に日本のみんなは助からぬ。
何故なら元来医療制度其れ自体に大きく矛盾が存して居たにも関はらず特権組織として其処に胡坐をかき続けて来たからなのだ。
つまるところ医療崩壊とはまさにそんな危機感の無さから必然的に齎されて居たことだらう。
なので其れは当たり前のことだ。
たとへば公立病院が年末年始を休むことがかねてよりわたくしにはまるで分からなかった。
病院とは元々人間の肉体にとり戦場であり医療従事者とは其処での戦闘員でこそあるべきだ。
また人間にとっての食はむしろ一番大事なものである。
ある意味では食は所謂文化よりも大事なものなのだ。
何故なら文化としての宗教、哲學、文學は人間にとっての心の糧となるものだがあくまで人間にとっての肉体の糧とは其れ即ち食事なのだからして。
コロナ禍は、またコロナ苦はそんな人間にとっての根本でのところをまさに揺さぶって居るであらう大問題なのだ。
だが何度も述べて居るが如くに地球温暖化及び生物種の絶滅の加速の大問題の方がより根本的且つ究極的な課題であらう。
でも其れも結局は人間の持ち得る価値観としての方向性の誤りの問題なのだ。
全ては其処に収斂し且つ帰結することだらう。
で、其の価値観をこそ正せとさう仰って居るのですね。
さうだ、其の価値ヒエラルキーをばむしろ逆転させて行くべきだらう。
では大金持ちが偉ひのでは無く労働者こそがみんな偉ひのですか?
さうだ、其のやうに實存として皆が偉ひ筈だ。
偉ひのだが、其れは🐕や🐈の命が人間の命に比し軽ひと云ふことでは無く、たとへ🐜や物言はぬ植物でさへ其の命としての営みは等価なのだ。
もしや其れが人文理性としての等価原理なのでせうか?
さうだ、まさに其れが人文理性としての等価原理なのだ。
さても所謂便利で快適な世界=社會=文明を形作る為の価値構築は腐るものなのでせうか?
まあ腐り易ひものであることだらう。
其れと恵まれた現状に胡坐をかき樂をし過ぎて居る組織などもまた腐り易ひものと相場は決まって居る。
結局は自民党が腐ったのも其の樂をし過ぎて来たからなのですか?
まあさうであらう。
重要なことは何処かが樂をする=胡坐をかく、楽しくやり過ぎる、と他方で困るところが出て来て仕舞ふことなのだ。
金を儲け過ぎる⇔生存権を脅かされる程に貧困となる
👩が威張る⇔👨の立場が弱くなる
自民党一党支配⇔野党の弱体化
此の世での問題の全部が其のやうに二元論にて説明が付く。
さうして其処には常に相剋し尚且つ相即する関係があるが故に双方の立場ー価値観ーは無関係ではあり得ぬ訳だ。
また重要なことは此の世の事象が須らく限定的に存して居りであるからこそ其の限定性を意図的にー抽象的にー外す場合其処にはバランスとしての破壊が必ずや齎されると云った部分だ。
では文明としての正の思想が今とさうして今後に於ひての大破壊を齎すと云ふことなのでせうか?
まあさうであることだらう。
だからこそ悲観的に物事を見詰める力、むしろ其処でもって思ひ悩む力、樂しさや快適さばかりを追ひ求めぬ価値観の醸成こそが是非必要となるのだ。
尤も其処に全てを捉へられて仕舞ふ必要は元より無ひのだがさうしたマイナスの価値をも大事にすると云ふ意味での人類の心の進歩こそがむしろほんたうの意味での人類の進歩なのだらう。