目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

クリスマスに道元禅を語る

 

さて此の世には二種の領域ー二面ーがあり其れは生と死の側面である。

理性にも二種の領域があり其れは創造と破壊のことだ。

 

創造と破壊は生と死の側面でもまたある。

理性ー抽象性ーは愚かにも其の破壊を忌避しやうとするー非限定化、無限化するーが其の欲望が其処に遂げられることなど無ひ。

 

何故なら世界は限定ー相対化又は二元化=分離化ーされたものであるに過ぎぬのであるから。

 

其のことをまさに我我知性は分かって居らぬ。

 

いや、わたくしに限れば分かってる。

がむしろ分かってるが故に分からぬのだ。

 

さて其の理性とは一体誰のものぞ?

神のものか其れとも佛のものか。

 

其れとも我我自身に帰属すべきもののことか。

 

我我自身に帰属すべきものと仮に定めホモ・サピエンスは近代を開闢させた。

 

だが本来ならば其の理性は神仏へと導ひておくべきものだ。

 

なんとなれば理性により生を構築ー維持ーすることなど元より出来ぬ相談だ。

さうしてやがて知性は必ずや破壊ー死ーの方を選択しやう。

 

もはや理性体には死のみしか見えてはおらぬ。

おおまさに其れは詩では無く死ぞ。

 

其の死を選択するのが理性の常なのだ。

 

 

かように藝術とは、また人文の知性とは死を見詰め歩むものだ。

 

 

だから文系思考はイヤなんだ。

 

暗ひぞよ、イキナリ話が暗ひ、暗過ぎるんだ。

 

第一シチュエーションを理解して居なひ。

 

もう年末だよ、もう今年も終わりなんだよ。

 

そんな時に哲學なんぞまっぴらごめんだ。

 

 

 

あれ、さうですか?

 

むしろ全然普通ですよ。

 

では理系とは何ですか?

 

要らぬものばかりを造って地球と人間を破壊に至らしめるのが其の理系の真の目的なのでは?

 

 

どうも理系思考の底にはそんな生への疑ひの部分などまるで見へては来ぬ。

其れでわたくしはそんな数的還元の世界、合理化の世界がもしや子宮の欲望と結託して居るのでは?と考へるに至る。

 

 

つまりは子宮の願望が近代科学をしてより加速させ此のやうに自然とのバランスを欠く世界を創り上げて居る。

 

其れをイメージとして分かり易く云ふと所謂教育ママのやうなものだ。

 

其処では兎に角スパルタ教育的に東大かまたは京大へ入ることをこそ目指すのだ。

 

さうして一流企業へ行くか官僚にでもなれば〇だ。

 

 

だが其の官僚もまた👩で失敗した。

 

いや其ればかりか校長先生もまた屡👩で失敗する。

 

所謂理性と下半身はまた別物の話なのであり従ってわたくしのやうな理性の権化としての堅物でも理性が全部吹っ飛ぶ場合が往往にしてあり得やう。

 

ところで君の其の下半身の方は果たして大丈夫だらうか?

 

 

だが其れとはまあ別の生き方もあらう。

 

わたくしはあくがれの早稲田など受験すら出来ず昔青学も関西大も全部落ちたが地元のバカ大で確りとお勉強出来其処での成績は超優秀だったのだぞよ。

 

またお勉強を生涯に亘り続けて来ても居る。

 

さうだ其の御勉強の仕方が君等とは比較にはならぬ。

 

 

ところで今日はクリスマスですが何ぞ良ひことがありましたか?

 

嗚呼、さう言へば昨日帰宅の折に家の近所の英語塾の姉ちゃんー講師か又は経営者ーと目が合った。

 

わたくしがいつも覗き込むやうに塾の内部を見詰めつつ帰るので或は不審人物だと思われて居るのやもしれぬ。

 

 

さて其の教育ママ思考には謂わば科学的な+思考ー科学的価値ヒエラルキーーしか見へては居らぬ。

であるからこそ科学が子宮と融合して居るのではなひかしら。

 

むしろ其の+思考を破壊する-としての太宰の力、乃至は芥川の力が今は是非必要だ。

或は文太のまたランボーの反骨の力、または破天荒なる禅僧の力、かの一休禅師や良寛さん、其の他あらゆる破戒僧としての無頼の力が是非必要なのだ。

 

 

其れが相対分離されし理性的なる価値観としての一方の極には存すると云ふことをこそ今回述べておる。

理性としての抽象性には+の力と-の力が共にせめぎ合ふと云ふことにつき述べて居る。

 

だが實は共に破壊を齎す力なのでもある。

 

理性は創造するが、同時に破壊をも齎す。

 

👩は世界を生むが、同時に世界を死に至らしめる。

 

 

要するに生きることこそが死ぬること其のものだ。

 

創造することこそが破壊すること其のものなのだ。

 

 

さても怖ろしひことに理性も女も激しく矛盾して居らう。

 

さうか、だから科学と子宮はくっつひたのだ。

 

何よりマズひぞ、其れは。

 

くわばら、くわばら、もう怖くてとても外など歩けぬ。

 

 

もう折角のクリスマスだと云ふのに一体何だ、其の様は。

 

しっかりしろ!

 

ちゃんと前を見て歩け!

 

ちゃんとクリスマスケーキは食したか?

 

へひ。

 

昨日従妹が持って来たので其の半分を食べました。

 

半分も良く食へるものだな。

 

いや、實は全部でもいけます。

 

何せかの漱石と同じで甘党なものですから。

 

 

でもクリスマスには実際毎年クルシミマス。

世の矛盾と我の矛盾に苛まれさうして苦しむのです。

 

さうか、其れはイカン。

さあ、気分を変へて。

 

たとへば万年筆で遊ぼう。

届ひたばかりの其の点眼式の印度の万年筆でもって遊ぶのだ。

 

 

でも一般人には何で万年筆で遊び得るのかと云ふ部分がまるで分からぬことでせう。

世人に分かるのはおそらくは👩が魅力的に見へると云ふ其のことのみ。

 

ではおまへには👩が魅力的には見へぬのか?

 

女の、其れも尼僧やシスターの其のふくよかな肢体が!

 

ああ其れは畏れ多くも罪深きこと。

 

女犯せし僧又はクリスチャンは地獄に堕ちまするがゆえに。

 

 

事実👩を色欲の眼差しにて見詰めるならば其の目をばくり抜ひて捨てよとさうイエス様は仰せであった。

 

 

さうか、其こそは聖なる道だ、まさにクリスマスにふさわしひ目出度き話だ。

 

おまへは其の道を独り歩まんとするか。

 

たった一人で其の色欲と闘ひ続けていくのか。

 

 

偉ひ、確かに其は偉ひぞよ。

 

おまへこそが聖人の鑑ぞ。

 

おまへこそが仏法を正しく継承する者だ。

 

 

いや、急にそんなにおだてられても、何だか恥ずかしひなあ。

でも何だか少し楽になったのでまたケーキを食ってから印度の万年筆でもって遊ぼう。

 

 

馬鹿者!

おまへの躰はさうして腹が出しかも歯もボロボロでもはや其れが破壊の域にも達して居らう。

おまけに頭の方も危なひぞ、鬱病だ、鬱病、いや考へ過ぎ病、即ち観念病だぞ。

 

 

ええわ、全部が余分なお世話だわ。

真実を言ふな、真実など語ってはならぬ。

 

須らく此の世のことは秘密の花園ぞ。

おおまさにウソの堆積物ぞ、矛盾の権化ぞ。

 

即ち👩が本質的には悪だなどとは金輪際語ってはならぬ。

 

たとへ真実であれ其れを語ってはもう仕舞ひよ。

 

 

第一其のクリスマスケーキは誰が呉れたのだ?

其のボロボロの体は誰が産んだのだ?

 

其れは尼僧又はシスターの方々が下さりさうして産んで下さったのだ。

 

 

さうであったか。

かの気高き尼僧又はシスターの方々のやうにまずは👩の理性の可能性をば信じなければならなかった。

 

わたくしには其の信仰こそが欠けて居たのだ。

 

正直言って女には理性が無ひと見做し其の本質は皆淫売だとさう思っても居た。

 

或は其れは誤りであったのやもしれぬ。

 

 

禅 (道元禅師) + 日本語字幕

 

尚わたくしの場合はプライム・ヴィデオの方でもって今回視聴したが、およそ十年前に中村 勘太郎ー六代目 中村 勘九郎ーが道元を演じ切り話題作となったのが此の作品である。

此処に俊了と云ふ若き美しき禅僧が登場する。

 

俊了はかの道元とは長く共に修行に励んだ仲でもあった。

其処におりんと云ふ元遊女の👩が絡んで来る。

 

凛々しき俊了とおりんは次第に惹かれあっていく。

ある日キノコを採りに山の中へと分け入った二人。

 

まさに其の時に俊了の足を蛇が噛んだ。

其の蛇の毒を口にて吸ひ出すおりん。

 

だが、其処でつひに俊了の肉欲に火が点ひたのだ。

俊了はおりんを押し倒し其の上に被さる。

おりんは私のやうなものでも良ければとさう言った。

 

然し其の時すでに俊了は破戒することへの重みに耐へかねて居たのだ。

 

俊了は其の破戒の様を師道元に告げ永平寺を去る。

其の折に道元は俊了に対し永平寺の門はいつでも開かれて居るとさう告げた。

 

ZEN 喜びも苦しみも涙も…。あるがままに。

 

かように仏教の戒律とは釈迦の教へに近づけば近づく程に厳しくもならう。

 

釈迦御自身はとても観念的ー理性的ーな方であらせられしが決して抽象的理念ー理窟としての法ーのみを真理へ至る道として尊ばれたのでは無ひ。

 

言ふまでもなく沙門には厳しひ戒律が課せられ其れを破らばまさに破戒僧として修行の場を追われたのだ。

 

 

永平寺での曹洞宗としての禅はかくて厳しひ修行の場となる。

 

では何故其の女犯が罪に繋がるのであらう?

 

女犯は生命の創造にも繋がるであらうむしろ善きことではなひか。

 

 

だが仏道修行に於ひて本来ならば女犯は即破戒である。

 

但し大乗思想はたとへばキリスト教の如くに救済思想としての側面を持つ。

 

凡夫ー凡人ー個人での自己救済は無理なので社会性を付与せしものに救って頂くのだ。

 

其の社会性が呪文即ち真言であったり、また題目や念仏であったりする。

ー異論も出ては来やうが密教もまた社会的な仏法である。ー

 

さうした社会性を持った仏法は謂わば👩に対して規制が緩くなる、緩くもなり易ひ。

何故なら社会とは女の欲望の発現の場でもまたあることだらう。

 

さらに女人成仏さへもが可能とされるに至る。参考ー変成男子

 

 

但し原始仏教の頃にも比丘尼は居た。

 

かうして必ずしも女性に成仏への機縁が絶たれて居た訳では無ひ。

 

さうして釈迦自身も娼婦などには寛容であった。

 

但し釈迦もまたキリストも女犯に就ひては同様に厳しひ。

 

其のやうな経緯をこそ現代人は是非學んでおくべきだらう。

 

 

現在日本の僧侶は世俗化し世襲化したことで其の様やまことに騒がしひばかりである。

騒がしひ=生臭ひ=仏教としては信用ならぬ、だ。

 

但し仏法と雖も👩を全否定することなど決してならぬものだ。

 

もしや全否定するのであれば観念的に其れを為し遂げるより他に無し。

 

 

まさに純粋なる理性体と化して其れを否定してかかる手などもまたあらう。

 

だがもっと簡単なのはまさにマニア又はヲタク化して👩との機縁を自ら断つことだ。

 

が、わたくしの場合實は其れとも違ふ方策を講じて来て居る。

 

 

謂わば其れは欲望の相対化のことだ。

 

要するに学生の頃屡我我が経験したアノ欲望の誤魔化しの手法でもってして。

 

勉強する➡知的ー抽象的ーにエネルギーの消費が大きくなる➡性欲が抑へられる

マニア又はヲタク化する➡物的ー具象的ーにエネルギーの消費が大きくなる➡性欲が抑へられる

 

 

此の両方をやってみるべき。

其れでも猶抑制が難しひ場合さへもがあらう。

 

そんな時には食ってみる。

さうして飲んでみる。ー此の際酒でも可ー

 

さうして山に登る。

 

 

嗚呼、疲れた。

 

もはや一ミリも動けぬぞ。

 

御目出度う御座ります、其処に脱俗は成った。

 

もはや怖ひものなど何も無ひ筈。

 

 

其の、性欲➡食欲、並びに、性欲➡運動欲、と其れから、性欲➡知識欲、とさらに、性欲➡ヲタク化、との四方よりの転換によりほぼ完全に其れを消去せしめることさへもが可能であらう。

其のやうな複合的かつ代替的な解決法でのみ其れを隠滅せしめることが可能なのだ。

 

 

即ち其れは兎に角しつこひぞよ。

 

但し一度しみつひた罪障を拭ひ去ることが出来ぬ訳では無ひ。

 

おりんは其の後比丘尼として自らの肉体の罪深さと向き合っていくこととなる。

 

凛とした其の立ち姿こそはまるで菩薩の如きものであった。