目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

文明としての抽象的な幸福の形を捨て去り内面的に個として幸せにならう

文明が抱へる潜在的なリスクは今や大変大きなものとなって居ることだらう。

確かに其れは文明に崩壊の危機を齎すものなのやもしれぬ。

 

エネルギー資源確保ー原子力エネルギーをも含むーの課題、また環境破壊や地球温暖化の問題、さらに人心の荒廃ー大衆的な精神の崩壊をも含むーの問題などが複合的に人間を窮地に陥れていくのだ。

 

 

だが其れも良く考へてみれば所詮は限度を失したことによる必然としての自滅過程であるに過ぎぬ。

即ち大きくなり過ぎた抽象的思考が諸の具象性を葬り去っていくのだ。

 

さうして畢竟其れは社会としての問題であり課題なのだ。

謂はばみんなでもってやることが誤って居るので次第次第にさうした必然としての自壊へと追ひ込まれても行かう。

 

 

元よりみんなでもってやることー社会制度ーを治すのはほとんど不可能にさへ近ひことだ。

不可能なことから逃げ出すことは人間としてはむしろ当たり前のことではなからうか。

 

つまりわたくしは何故皆様が此処ー文明ーから逃げ出さぬのか其のことだけが皆目分からぬのだった。

一体全体彼等は何を求めまた何を奉じて今と云ふ時を過ごして居るのだらう?

 

ひょっとするとわたくしとは価値観が其の根本より異なるのかもしれぬ。

 

 

特に近代的な価値は大衆をして一つの巨大なる欲望の塊へとすでに化して来て居やう。

なので其処ではまず欲の制御を為すことが困難なのだ。

 

しかもさらに社会は我我に次々と欲望の肥大化をさへ求めて来て居る。

我我は直ぐに其れにホヒホヒと飛びつく。

 

余りに飛びつくので、何だかじぶんでもってじぶんが制御出来ぬやうになり其の辺を歩ひて居る👩にもつひ飛びつひて仕舞ひ即逮捕されることにもなりかねぬ。

勿論スマフォにも飛びつき其れに熱中して居たところつひ🚇のホームから落ち🚇にも轢かれる場合が往々にしてあらう。

 

またさうして食ひまくって居たところ何故か腹が出て仕舞ひました。

其の欲望を煽る文明はおそらく何処かが根本的に間違って居るのだらう。

 

 

だが其の部分をわたくしが皆様に言ふとおまへの頭の方こそがおかしひと決まってさう言はれるのだ。

そうか、では是非理論的にやっつけてやらう。

 

 

 

まずは事實として現代社会は巨大な抽象的構築物である。

 

問題はズバリ其の巨大な社会システムとしての抽象度の高さである。

 

其の抽象度の高ひ社会システムが人間の生其れ自体を抽象領域へと追ひやって居る可能性が高くあらう。

 

ところが以前から何度も述べて来て居るのだが人間存在=肉体性ー物質性ー+精神性ー観念性ーとの複合的要素である。

 

 

其れが特に近代以降は主に抽象的に求められる価値のみを追求して来て仕舞って来て居る。

 

其れはどう云ふことか?

 

實は近代以前までに衣食住の要素としての肉体性を維持する社会システムが出来上がって仕舞って居たのだった。

 

 

だとすれば後はどうなるのか?

 

肉体性を維持する社会システムー諸価値ー以外の部分で即ち観念的に求められる諸価値へと欲望が向けられて行く他は無ひ。

 

するとどうなるのか?

 

中世以降は帝國主義としての國家主権の世界進出の時代が開始される。#帝国主義の時代

また19世紀からは國民國家同士での進歩競争が繰り広げられやう。

 

其れには資本主義としての所謂中心からの搾取構造が絡んで居た。

即ち世界の中心としての自國の利益、諸価値の充實を高める為にまさにドレイとしての植民地を開拓して行かねばならぬ。

 

要するに其れは資本主義的な欲望の拡張であり産業革命後の科学万能主義の確立でもまたあった訳だ。

 

 

ところがあへてソコをよーく考へてみやう。

 

畢竟其れは「より豊かにより便利に生きたひ」と云ふ國家の願望其のもののことであり他の何者でも無ひ訳だ。

 

で、特に廿世紀以降は個としての我我も皆其の「より豊かにより便利に生きたひ」と云ふ願望に洗脳されて仕舞って来た。

 

何しろ其れは良ひことなので、たまには戦争へ行かされ戦死したり原爆が落とされ皆死んで仕舞ったり環境が破壊され多くの動植物がブチ殺されるにせよ其れは別に取るに足らぬことだ。

 

 

良ひこととは金儲けだ、さうして進歩することだ。

 

しかも良ひ👩を世界中から探すことだ、其れでもって元々が出来の悪ひ我が子を京大か東大へどうしても入れることよ。

 

 

ズバリ今わたくしは其れらの諸価値を全否定致します。

 

そんな価値観はそも間違って居る。

 

何故なら抽象度が高過ぎるからこそ其処で間違って居るのだ。

 

 

肉体性を維持するシステムー諸価値ーと観念的に求められる諸価値とのバランスを考へてみれば其のことは即座に分かる筈だ。

 

観念的に求められる諸価値を其処に希求すればする程にむしろ肉体性を維持する諸価値とは乖離して行かざるを得なくならう。

 

 

中学の修学旅行と18歳の頃に行ったきりで東京へは行って居なひのだが東京には青ひ空などもはや見へず体に物凄く悪ひビル街ばかりになっていやあせぬか?

30歳過ぎの頃に大阪にも行ったが兎に角人が多くアノたこ焼き店を探して食ふ心理的な余裕すら無かったものだった。

 

丁度其の頃花万博だったかそんなものをやって居て其れを観た覚へだけはある。

名古屋を始めとする他の地方都市も本質的には皆同じで近代化されて行けば行く程に観念的に求められる諸価値が其処に充満し其処から具象的な肉体性ー物質性ーが奪ひ去られて行くのだ。

ー資本主義の必然として物質的には逆に不平等となる。得る者はより多くを得るが他方では得られぬ者を必然として生み出すー

 

との訳でわたくしは「都市」に就ひては可成に悲観的な見方をしておりもう最近はむしろこんなもん無ひ方が余程に文明は健康体になれるのではなひか?

などとも正直思って居る。

 

 

「より豊かにより便利に生きたひ」と云ふ國家の願望は無論のこと事實上は全否定することが出来ぬ。

 

何故なら個としての我我こそが其の國民國家の構成員だからなのだ。

 

なんだけれども、其の全体主義に従って居るとやがて人間は其れ自体が壊れて行くやうな気がしてならぬ。

 

いや、理論的にも以上の如くに肉体性を維持するシステムー諸価値ーと観念的に求められる諸価値とのバランスを崩す方向へと現代社会は進歩して行く訳なのだからおそらくは其れはやがて破綻を迎へることであらう。

 

但し人間其のものが革新されて行くのであれば此の現代社会の欲望の成就は恒常的に維持されて行くのでもまたあらう。

 

 

一体其れはどう云ふことか?

 

一言で言へば其れは人間其れ自体がSF化されて行くと云ふことだ。

 

即ちまずは人間の心が合理化されたとへば動植物とお話が出来るやうな優しひ心根の人などほとんど居なくならう。

 

 

いや、今でも其れはわたくしとまたわたくしにも似たやうな限られし人々のことだった。

 

其のやうに人間の心が合理化されて仕舞ふのでイエス様やお釈迦様を信じる人以外は皆心が物凄く貧しくもなっていかう。

 

つまりは功利的に或は打算的にしか物事を捉へられずおおまさに機械的に物事を見詰め情もクソも無ひ冷酷な人間となり果てて行って仕舞ふ。

 

都会の毒には染まらなひで。

 

とあんなに昔太田 裕美が頑張って歌って居たと云ふのにどうも都会ではさうなって行き易ひのだった。

 

 

 

何故其処まで都会嫌ひになったのだ?

 

うん、まあ、とりあへずは世界中と資本主義ー万年筆の取引ーもやったのだしかっては大企業のOLとも13年も付き合って居たのだし仕事もフラフラとあちこちへ出掛け最後には病院のさる現場での責任者もやって来たのでもう全てはやり終へたのだ。

 

後は自然の中で詩人の部分をこそ完遂したひ。

 

つまりは早う引退したひ。

 

引退ばかりか兎に角脱俗したひ。

 

かの西行のやうにまた高村 光太郎のやうに山の中でもって是非仙人文人化するのだ!

 

 

 

と云ふことは今後現代社会が人間を壊していくとさう仰るので?

 

ま、今でも可成に壊れては来ては居ますがね。

 

其の心の面の合理化は但し真面目な人が深刻に悩み過ぎるやうなことでは無ひのやもしれぬ。

 

 

何故なら人間は其の生まれた時期に見合っただけの心の持ち主が生まれて来るものなのだから。

 

末世には末世としての業を背負ふ人がまた其処に生まれて来るのだとも言へやう。

 

但し昔の方が人間の心は良かったと云ふことでは無ひ。

 

昔は昔で人間の心はおそらく皆結構ドス黑くまさに醜ささへ持ち合わせて居たのであらう。

 

 

勿論キリスト教や佛教また他の宗教にて常に人間は眞理の方向を向き或は自然から直に学び取りつつ己が選択の道を決して行かねばならぬことだらう。

 

なのだが人間の心は眞には変はりやうが無ひ。

 

人間の心は変はりやうが無く常に其れはグオーでありギャオーでありさうしてすぐに酒をかっくらひ👩にさへ飛びつくのだった。

 

其処からも兎に角人間はイエス様やお釈迦様の説法を大事にし尚且つ常に其れを有難く拝聴して置かねばならぬ。

 

 

 

尤も神佛以前に其の人間の醜き心に灯を、一つの戒めとしての灯を授けて呉れるのが眞の意味での理性の働きなのだ。

 

だが其の理性を変な方向に使っては決してならぬぞ。

 

「より豊かにより便利に生きたひ」と云ふ國家の願望が人間をして抽象性のドレイに、所謂「幸福追求」と云ふ抽象的な願望に結び付けるものである以上其れはむしろ理性を使ふ方向性としては誤って居り本来ならば其処で逆に「おまへのさう決めた幸福なんぞは真っ平だ」と云ふ位の価値観に至って居なければならぬ。

 

むしろ國家がさう決めし「幸福追求」に背を向け或は其れをボロクソに貶してやる位の知性をば常に持ち合わせて居なくてはダメだ。

 

 

オヒラは此の方がむしろ幸福だよ。

と河川敷や公園にて寝起きし兎に角抽象性が悪ひのだともう其ればかりを喚き散らし現代文明其れ自体を兎に角批判的に捉へ続けて行かうではなひか。

 

そんな人間離れしたことばかりを述べて居ると次第に赤子のやうな優しひお顔となって来おお其れはまるでかの寒山であり拾得なのでもあらうか。

 

寒山であり拾得であるものは大抵が見た目はタダの子供っぽい薄ら馬鹿にしか見へぬものなのだが其の實は悟りを拓きし覚者なのでもある。

 

かやうに精神の領域を究めし者はやがて世間の人々からは遠く隔たった価値観を生きて行かざるを得なくもならう。

 

 

つまりは其処にて寒山はさうして拾得は、また西行円空は世俗の世界を離れ自然と直に戯れるそんな境地へと達して行くのである。

わたくしもまたごく自然にそんな境地へと誘ひ込まれつつあり、即ちこんな世での闘争の様、また酒池肉林の様を離れ寂静の世界へと、其の一つの悟りの世界へと徐々に吸ひ込まれて行きつつもある。

 

だけれども君等はまだまだ此れから闘って行かねばならぬ。

 

さうして👩にも飛びつくのであらう。

但し🚇の中や道端で飛びつひては決してならぬぞ。

 

 

だけれども人もまた還暦ともなればかへってかうしてムキムキになって来る。

いや、違った。

 

其れなりにヘロヘロにもなって来た。

そんなヘロヘロの眼に何故自然はかうも美しひのだらう。

 

さうだ、庭に来て居る鳥たちに本日もエサをやらう。

サアサ、こんな蜜柑ですよ。

 

 

 

尚「幸福追求」とはまた如何にも抽象的な願望だ。

 

「日本國憲法第二十五条」

ーすべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
国は、すべての生活部面について、社会福祉社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。ー

待てよ、すると河川敷や公園にて寝起きして居てはいけなかったのか。

また、國は社会福祉社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならぬのだから社会生活にてコレを否定することなども元より難しひ。

 

つまり、日本國憲法第二十五条ひとつにせよ否定することなどはかなはぬものだ。

ましてや文明の抽象性其のものを否定することなど出来やせぬ。

 

ーすべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。ー

 

いやあ、困った。

かうして此処には、「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」、と書かれて居るばかりだ。

 

確かに絶対にさうでなければならぬ訳では無く不健康でもって非文化的なまるで悪魔のやうな生活をして居たとしても其れを規制するものでは無論無ひ訳だ。

但し「國民の誰もが健康で文化的な最低限度の生活を営みたく思って居る」と云ふ価値観の上での前提が其処にはあるのだった。

 

不健康でもって非文化的なルンペン生活を好んでする奴、又は其れをしたひと思って居る奴は其の権利云々以下でのほとんど人非人扱ひなのではあるまひか。

其処からも逆に社会を離れる権利はどうなっておるのか?

 

もう僕はこんなバカバカしひ社会とは付き合っては居られません。

とさう意を決し自ら社会を捨て去る権利を特にこれからの社会は認めて行くべきなのではなからうか。

 

 

其れもそも禁治産宣告とか準禁治産宣告とかそんなものがあるのではなひか。

いや、そんなのとは違ふ。

 

謂はば「下山」又は「限定」での自由のことを言って居るのだ。

もう人間及び社会には付き合っては居られませんからとさう述べる人は日本の社会から逃げても一向に構ひません、と云ふ独立した条文乃至は条項を憲法上に是非盛り込まれたし。

 

 

まあ其れも憲法改正の折には是非さうして頂きたひ。

 

さて「より豊かにより便利に生きたひ」と云ふ國家の願望を持たずに幸福度の高ひ國家があり其れが御存知ブータン王國だ。ブータン 経済 農業

 

 

そんなブータン王國にも今は様々に社会問題が発生しつつあるのやもしれぬ。

 

ブータン国立研究所所長である、カルマ・ウラはGNHについて次のように述べている。

「経済成長率が高い国や医療が高度な国、消費や所得が多い国の人々は本当に幸せだろうか。先進国でうつ病に悩む人が多いのはなぜか。地球環境を破壊しながら成長を遂げて、豊かな社会は訪れるのか。他者とのつながり、自由な時間、自然とのふれあいは人間が安心して暮らす中で欠かせない要素だ。金融危機の中、関心が一段と高まり、GNHの考えに基づく政策が欧米では浸透しつつある。GDPの巨大な幻想に気づく時が来ているのではないか[4]。」

一方、2013年現在ブータンでは若年層の失業が問題となっており、こうした現実から国内でもGNHの概念が必ずしも支持を得ているわけではない状態にある。批判に対して、GNHを考案したブータン研究センターの研究者は「GNHはブータン国民全体の目標であり、達成しようと目指しているものだ。現時点でブータンがGNHを達成したとは誰も言っていない」と述べている。[1]

本項と直接関係はないが、中国の地方政府が2011年から始まった5カ年計画で、「幸福指数」を政策目標にかかげるケースが相次いでいる。GDP偏重になるあまりに、過剰投資や貧富の格差などの社会問題を生みだしていたとの認識が広がっているためで、重慶市北京市広東省貴州省などが具体案を掲げている[5]国民総幸福量 #展望より

 

ブータン王國は宗教上も可成に安定した國であるやうだ。

個人的に日本人の宗教離れは高度経済成長でのツケだとさう考へて居る。

 

戦前での誤った道を進んだ経緯からも神道はあくまで地域的な習俗に止め佛教を國教として定めキリスト教への改宗などもやり易くする旨の憲法上の改正を是非為して行かれたし。ー事實上政教分離の原則はすでに壊れて居ることもありー

 

 

さて日本國は今幸せですか?

 

いいや、全然。

何故なら不安だらけの國になって仕舞ったからだ。-兎に角矛盾が大きくある-

でも何故か若ひ人々は皆物凄く元気ですよ。-其れも自分が老けた故にさう感ぜられることなのか?-

 

 

此処からしても抽象性が高過ぎる先進國の幸福追求に関する欲望が現實的には逆に大きく不幸を招ひて来て居るやうな気がしてならなひ。

幸福度の抽象性が高過ぎる=数的に還元された幸福度の高さ=合理化された幸せ、と云ふこととならうが幸せが合理化されればされる程にむしろ我我の實感としての幸福度は低くなっても行かう。

 

要するに文明が進むと必然的に幸せ其れ自体へのハードルが高く設定されるきらひがあり其ればかりか危機の時には其の危機による諸の損害と抽象的に目指すところとのギャップがあり過ぎ其の矛盾により社会其れ自体か又は人心のあり方が崩壊し易くもなって仕舞ふ。

 

要するに其れではまるでリスク管理がなって居なひのだ。

従って幸福度の抽象性はむしろ下げて行った方がより望ましひ。

 

 

つまりはブータン王國並に経済成長はむしろ最初から抑へておくこと、抑へて置ひても別に美味ひものがまるで食へぬやうになる訳では無くせひぜひ外食産業が潰れる位のことで、又は株や財産を持つ金持ちが利益を失ふ位のことで庶民にとり生死に関わるやうな大それたことでは元より無ひ。

其れに🚺だって其の低成長であれ實は選り取り見取りだぞよ。

 

昭和四十年代位まではたとへ貧乏で役立たずな👨でもちゃんと結婚し子供をもうけつまりは家庭を持って居たのだ。ー事實として役立たずな父ちゃんが当時は何処にでも居たー

 

其処のハードルを社会がじぶんでもって高くするから社会的に様々な矛盾に陥り逆に社会的に全てを崩壊し易くもして仕舞ふ。

 

 

兎に角其の幸福に関する抽象度を下げることこそがまずは理性的に日本國民を救ふ為の第一の手段であらう。

 

尤も宗教的に救われたひ方であるならば其れはもはや釈迦か又はキリストの教へに素直に従ひ下され。

 

兎に角其の近代以降の抽象度の高ひ幸福の形程無理なものは無ひ。

 

 

帝国主義もまた世界大戦も勿論無理で、原発もまた経済成長による環境破壊も過分な情報社会ももう何もかもが無理其のものなのだ。

近代以降の社会はさうしたそも無理なものを無理矢理に地球と云ふ鋳型へと押し込んで行く行為を為して来たものだった。

 

かうしてみんなでもって幸せになりませうだとか何とか抜かしつつ戦前にせよ戦後にせよ全然平等に幸せでも何でも無ひのだが其処のところを一体どうして呉れやうか?

だから其れは社会の思想の持ち方の方こそが悪ひのである。

 

其の悪の部分の鍵は社会の奉ずるところでの其の幸福への抽象性の高さ=進歩による文明の拡張主義にこそあり。

 

 

なので其れを個にて調節しやう。

但し理性的な方だけが。

 

だって大衆にはそんなカラクリを見抜く能力などそも何処にも無ひと来てる。

 

 

其の幸福への抽象性を一挙に下げてみました。

アレ、わたくしは何時の間にこんなに役立たずになって居たのだらうか?

 

でも役立たずでも良ひ、其れに勉強のし過ぎは体にも心にも両方悪ひから庭へでも出て暫し遊んで来やう。

嗚呼、まるで十歳児の頃に戻ったかのやうだな。ーだからこその還暦なのだー

 

ピーチクパーチク。

鳥さん、お花さん、春の歓びの息吹を此の爺めにどうかお与へ下され。

 

かうして幸福のあり方へのハードルを極端に下げし彼の心の中は今まさに幸せ其のものだ。

たとへ世間がパンデミックではあれ自然と戯れる彼の胸の内は何処までも何処までも晴れやかなのだ。