目覚めよ!

文明批判と心の探求と

危機の今を宗教はどう捉へて居るか

パンデミックに関しては事實上次第に抜き差しならぬものともなって参りました。

もはや此れは文明規模での大問題となって仕舞って居ます。イタリアで新たに651人死亡、死者5500人に迫る ドイツ首相は自宅隔離へ

 

だがわたくしは以前から文明には大きくリスクがあり過ぎると警告を発して来ても居た筈だ。

其れは生まれつひての鋭ひ感覚から述べねばならぬことをさう述べて来たことであるに過ぎぬ。

 

ところが社会生活をやって居るとどうしても危機感が麻痺して仕舞ひつまりは危機に対し鈍感とならう。

 

 

だが其れはウソじゃ無かったよ。

勿論妄想ですら無かった。

 

さうして詩人はまさに予言をして来たのだった。

 

あへて詩の方にでは無く社会への警告として其の能力の全てを費やして来たのだ。

 

 

 

でも真面目な話ほんたうに困りましたね。

 

先日もかかりつけの医者へ行ったら先生は意外と元気でテキパキと仕事をこなされておりましたのですが要するに其れが火事場の馬鹿力だったのだらうか。

 

先生は中学の2、3年先輩で昔は中学校へ登校するのを屡見ても居たものでした。

先生もまた中学生のわたくしを覚へて居られる。

 

わたくしは15年程前父の死後に体調を崩しまさにボロボロだったのですが其の折に先生こそが窮地を救って下さったのだった。

 

 

 

其の先生が一カ月程前に訪れた折に「つひに来ましたね。ーパンデミックがー」とまずはさう申されました。

 

先生は名古屋大学の医学部を出て居られ著書などもおありの方だ。むずむず脚のカラクリ-ウィリス・エクボム病の登場

 

ゴルフが好きな方でもあるので始終ゴルフの話をし二年程前には共に練習したことさへもがあった。

医師仲間に負けぬやう飛ばしたひので教へて呉れと頼まれたのでとりあへずスウィングを見てはみました。

 

 

ところが飛距離を伸ばすのは医学部を出ること以上に先生にとっては難しひことだったのだった。

 

其の頃わたくしの場合は何故かブッ飛んでも居たのでさうして人を教へることさへ出来たのでした。

 

 

かうしてつひに来たパンデミックは今後社会を混乱の渦の中へと引き摺り込んでいく筈です。

 

経済的な面で我我個も圧迫され最悪ネットをする余裕なども無くなる虞すらある。

 

おそらく餓死するまでに何も無くなる訳では無ひのでせうが、要するにあらゆる物理的精神的余裕が無くなって仕舞ふ筈です。

 

 

なのですが、もしもネットをする余裕が経済的に失われたにせよ、其処でわたくしの場合はまるで困りません。

何故なら家では常に蔵書の山に囲まれて居るからだ。

 

むしろ絶好の機会の到来です。

これからむしろ坂口 安居選集にせよ夏目 漱石全集にせよまたまだ読んで居なひ新書やらを読み込んで行けると云ふものです。

 

 

また昔読んだ詩集などを読み返すことさへもが出来ませう。

個人的にはリルケのことを一度突き詰めてやってみたくも思って居ります。

 

 

リルケは性に合ふ詩人ですのでもっともっと深く読み込んで行きたひものだ。

ところが今はまさに詩どころでは無ひのです。

文學どころでは無くまた儲けるどころでは無く観光どころでもまた無ひ訳だ。

 

 

詩は所詮イメージの美化であり文化の本質とはさうしたところに常にあるが其処は矢張り御飯が食べられなくなると同時に其処に文化も何も無くなる訳です。

兎に角現實として弱ひところから壊れていく訳ですので、文化はまたぞろ昔の貧乏画家、極貧詩人の様に逆戻りし嗚呼、かのゴッホのやうにまたかのモディリアー二のやうに、或は啄木のやうに兎に角貧乏でもってしてしかも病を得てさへ居る。

 

嗚呼、何時の世でもゲージツ家は辛ひ。

 

誰ぞ助けて呉れ、どうかどうかお助け下され。

だが周りのみんながバタバタと倒れ次々と死んでも行かう。

 

 

尚一つ疑問なのですがこんな時にこそ宗教はむしろバリバリに頑張るべきなのではなひのか。

 

其の割に宗教から何も発信されて来て居らぬのは一体どうした訳なのでせう?

 

尤もキリスト教などは何ぞ声明を出して居るのやもしれません。

 

が、どうも公には出されては居なひやうです。

 

 

求めない、期待しない。性悪説でいい――キリスト教が教える対人関係の奥義

 

但し此処からは學ぶことが出来た。

有料のところで半分だけしか読めるのですが、其のキリスト教性悪説であると云ふ部分には充分納得出来ました。

尚其の「原罪」と云ふ視点からキリスト教は人間を捉へますのでどんな奴でも此の世に出て来て居る奴は皆罪深ひ「原罪」者です。

 

其の罪深さを神又はキリストの視点よりどう贖って行くかと云ふことこそがおそらくはキリスト教の全内容であり存在意義なのでもある。

 

但し佛教が性善説に傾ひて居ると云ふのは少なくとも其れは大乗佛教的なものの見方でせう。

 

釈尊の佛法ー原始佛法ーでは必ずしも性善説では無くむしろ性悪説に近ひもので、なのだけれどもあくまで法の原理としては性悪でも無く性善でも無ひとの両極否定による所謂中道としての論理的解釈が為されて行きます。

 

ではあれ、實は佛陀御自身は可成に内向的且つ哲學的に世界を認識されて居られる方であり、であるからこそ人間の欲望をあくまで「煩悩」として捉へられませうが其の捉へ方其れ自体は「原罪」と云ふ罪の概念とさほど異なるものではありません。

 

要するに現世に於ける人間の活動を良しとするか其れとも悪しきものとするかと云ふ根本での価値選択に於ひてキリスト教と佛教は共にマイナスの部分から入る、要するに人間存在又は人間の活動をむしろ悪しきものとしてさう規定していくのである。

 

 

尚大乗思想は釈迦が説ひた佛教とはズバリ別物です。

 

先祖崇拝としての墓参りの習俗だの、また仏壇だの佛舎利だのをむしろ大事にする世俗的に変容した佛教乃至は現世利益を求める他宗教や中国の習俗などと融合したものだと考へておくべきだ。

日本の大乗佛教はどんなに権威的な寺院や宗派であるにせよ所詮はさうだと云ふことです。

 

大乗思想は個としての人間が本気で解脱を目指すものでは無く佛教が教団として社会的に人々を精神的に管理する為の教へなのです。

其れが江戸時代までの日本の封建社会とは極めて相性が良かったと云ふことだらう。

 

ズバリ申しまして我が國では一般に格が高ひと思はれて居る法華経なんぞも實は可成にいかがはしひ部分のある経典なのです。

事實其処に捏造の類が認められると云った説にも屡出食はすものだ。

 

 

エス様のキリスト教と釈迦の原始佛教は左様に「世の中は常に悪ひ」と云ふ認識に於ひて同方向を向くものです。

 

又は「人間は罪か煩悩に穢れて居て元々悪ひ存在だ」とさう捉へるのだ。

 

但し先に述べた如くに釈迦は悪へと人間を縛り付けるやうな認識をほんたうは離れて居ます。

 

同時にまた善へと人間を縛り付けるやうな認識をも離れて居ます。

 

まさに此処こそが釈尊の佛法としての難しひ点で少なくとも其の両極否定が哲學的に理解出来る人の為の教へなのでもまたある。

 

 

人間が今の侭で良ひのかと云ふ重要な認識に就きキリスト教は今の侭では本質的には救われぬと説く。但し神乃至はキリストを信仰して居れば其処に全ての罪は贖はれ人間として本質的に救われやう。

人間が今の侭で良ひのかと云ふ重要な認識に就き原始佛教は今の侭では本質的には救われぬと説く。但し修行をして自らが佛陀となれば全ての煩悩は滅し去られ人間として本質的に救われやう。

 

元より大乗佛法は其処を捻じ曲げても居りませう。

人間が今の侭で良ひのかと云ふ重要な認識に就き大乗佛教は今の侭で救はれるとも説く。其れも特に修行をせずともお題目や念仏を唱へるか又は座禅を組むだけで人間は本質的に救はれるのだと説く。

 

 

ま、此の際大乗佛法は考察の対象からは外して置きませう。

 

つまりはどちらに於ひても今の侭では本質的には救われぬのが人間なのでみんながみんなでもって集まれば集まる程にまさにグオーでありギャオーなのであります。

 

なんですが、中には物凄ひ理性の持ち主か又はEQレヴェルの高ひ人などが居てさうした方は別に宗教に走らずとも人間の抱へる本質的問題に関し物心が付きし頃よりおそらくは死に至るまでずっと考へ続けて来ても居りませう。

 

其の物凄ひ理性とは脳減る賞などとはまるで関係ありませんのでどうか其処をお間違へ無きやう。

脳減る賞の受賞者などはむしろ理性としては可哀想な人なのやもしれませぬ。

 

 

「人間はみんなで繋がりグオーギャオー」

尤もそんな酷ひことは普通社会に於ひては金輪際申せませんのですが。

 

 

キリスト教は基本として其の性悪説なのでせうが結果としてはまた物凄く人間を愛しても居ります。

即ち神の愛による贖罪でもって善なる心の持ち主は霊的に天國と云ふ永遠の命の霊場へ行けるのですから其処でもって初めて人間は救はれることともなる。

 

対する原始佛法は結果としてはまた物凄く人間を信じては居なひ。

其処には霊も何も無く悟りを拓けるやうな超潔癖な心の持ち主だけが佛陀となれるつまりじぶんでもってじぶんを自力救済して行くのである。

 

 

ちなみに霊がどうだこうだとか言って居る佛法は基本的には謗法の類でのもの、つまりはいかがはしひタイプでの佛法です。

なのですが霊を感ずることはむしろ良ひことであり其れが何か怖ひお化けだと云ふ訳では勿論ありません。

 

但し佛法での根本の教義の上からすればむしろ其処で霊の有無は問はぬのが基本。

つまり人間が霊として救はれると云ふ訳では元より無ひ。

 

其れでも原始佛法にもより普遍的な愛か又は慈悲のやうなものがあるとわたくしは見て居ます。

但し其れが現象の抹消へと結果的に連なって行く訳だ。

 

ところが、實はキリスト教に於ひても現象が抹消された後でまた世が滅んだ後で個としての霊が神ーキリストーにより救はれるのだ。

 

 

つまりは世界の認識に於ける最初のところへと其処で舞ひ戻り要するに其の侭では人間は何時まで経っても元々持って生まれし原罪かまたは煩悩の故に救はれずまさにグオーギャオーと生きる他は無ひのである。

 

なのでそこんところが實はキリスト教にせよ原始佛法にせよ同じなのであります。

 

現象として今を生きる人間への眼差しが同じやうなものであり其れを決して望ましきものとも善きものとも考へては居なひ訳だ。

 

 

上にもありますやうにキリスト教は憎ひタマシヒをこそ赦し愛せとさう神の次元から人間の心に語りかけても居ります。

即ち敵をこそ赦し愛せと仰る。

 

勿論佛教でも佛陀の視点か又は菩薩の視点から衆生として必然的に持たざるを得ぬ憎しみや諍ひを離れ慈悲をもって其れ等を見詰めよとさう仰る。

 

要するに此の二大宗教には共通する部分が部分的に幾つもある。

イスラム教の場合にはまた全然違ふものかとも思はれるのですがキリストの視野と佛陀の視野には明らかに共通するものがまたあるのです。

 

 

尚人類にとっての眞の危機の場合に、其処でもって役立つのは経済でもまた科学技術でも文學でも社会學でも何でも無く矢張りと云ふべきか其れは宗教です。

其れも確かにお金が沢山あれば命は落とさなくても良ひのやもしれぬがお金は本質的に人間の心を決して救っては呉れぬ。

 

だと云ふのに現代社会では今誰もが宗教の意義を見失ひがちです。

 

ですが心の御勉強は其の現代人が見失ひつつある宗教の領域でこそ行ふべきものです。

 

心の御勉強はたとへ人文系の學問を究めたにせよ其処に成るものでは元より無ひ。

其の心の御勉強こそが人間にとり一番大事なものでありまさにほんたうの幸せへ至る為の契機なのです。