其の価値観と云ふものが、人間の生活に於ひては常に重要である。
ところが、其れこそ🐈や🐕にとっては元より其んなものはどうでも良ひことなのである。
何故人間の生活に於ひて価値観が大事かと言へば、人間の生活に於ひて同調や対立が引き起こされるのがまさに其の価値観によるものだからなのだ。
よってむしろ人間とは其の価値観に従ひ生きる抽象的な現象なのだとさう言ひ得ることであらう。
大はイデオロギーでの対立から小は家族間での価値観の衝突まで全くバカバカしひ迄に此の世は其の価値観の違ひによる問題に苛まれて居りでも良く考へてみれば結局其れは抽象的な価値の対立ばかりなのであった。
自然界はたとへば腹が膨れて自然災害さへ無ければ総じて幸福な状態にあらうが、何故かかうして人間界は訳の分からぬ価値観の対立に苛まれ事實として其処から仲違ひだの喧嘩だの殺し合ひだのが生じ全くのところ鬱陶しひこと此の上なひ。
わたくしはさうして人間界の様々を鬱陶しひとして捉へる性分なので其れもまさに隠棲者と云ふか哲人と云ふかそんなタイプなので或はわたくしの言って居ることなどは一部の人々にしか伝はらぬのやもしれぬ。
さて其の抽象的な価値観に生きるのがまさに人間である。
たとへば左翼と右翼の思想ではまるで物の見方が異なって来やう。
また進歩主義者と保守主義者とでは根本より物の見方が異なって来やう。
但し其れも社会の枠内での話で、観念的な価値をもっともっと遡り宗教的領域まで行くと次第に価値が一元化されて来やうからまさに其処が不思議なところである。
何を言って居るかと云ふに価値は社会的には決め切れぬと云ふことをまさに言ふて居るのだ。
即ちイデオロギー対立は基本的に解決不可能なのだ。
わたくしなんぞは四〇年もの間其のイデオロギー対立の中で模索を続けて来たが其処では結局答へを出せなかった。
其れは社会が抱へる矛盾の問題、また人間が抱へる矛盾の問題は其の社会の枠内では解決不能だと云ふことを指し示して居る。
では何処へ行くかと云ふことであるがもはや其処には宗教的次元が残るばかりである。
尤も現代人には宗教嫌ひの人人が多く居る。
だが其処でたとへばかう考へてみて頂きたひ。
さてわたくしは実際に知性派なのだ。
でも周りにはそんな知性派など居なひのでお話する機会が持てず其れでもって文學作品としてのドキュメンタリーを此処で述べる他無ひのである。
そんなわたくしが最終的に精神の舵取りを任せても良ひ、価値観の修正を託しても良ひとさう判断するのがまさに宗教的次元なのだ。
だが宗教と云ふものは一種難しひ領域のものだ。
即ち其れが信心と云ふ精神的な価値観に全的に規定されしことなのでより大きく難しく精神上の問題ともならう。
但しかうも言へる。
其の信心を離れた部分にも宗教的な価値判断の基準が實は大きく拡がって居る。
此処三十年余り宗教的な思考に与して来て今わたくしが気付いた領域とは其の宗教的な価値判断の基準のことである。
其処をより具体的に述べれば其れは個別の宗派や宗教への信心を客体化することでむしろ得られる立場なのだ。
逆に言へばわたくしは現在個別の信仰を持って居らず宗教全体をむしろ信心して居るのである。
わたくしはかってとある宗教団体の教師の資格も持って居たが現在では其の頃とは比べものにならぬ程に宗教に関しては學んで来て居る。
だから個別の宗教に対する狂信の危険性や宗教其れ自体が抱へる矛盾や問題点に就ひても一通りは理解して居るつもりである。
其れでも猶あへて宗教に寄り添おうとして居るのか?
其れは結局宗教的次元でしか解決出来ぬ精神の価値の問題がほとんどであるからなのだ。
たとへば自然科学は果たして正しひのだらうか?
おそらく其れは歴史が結論を導き出すことだらうが、其の自然科学をやって居る当の自然科学者達は實は正しひと思ひつつやっては居なひのである。
ーかってわたくしは電力会社の研究所に13年間勤めて居たことがあったー
自然科学の引き起こす問題ー人類の進歩の上での課題ーは社会的にはほぼ解決不可能なところにまで事實として至って来て居る。
また👩が生意気となり結婚出来ぬ男性が増へたのは其れは一体誰が悪ひのだらうか?
まあ其れは社会が悪ひのではあらうが、当の社会自体は其れを解決に導く術など持ち合はせては居なひ。
一面では此の社会が悪ひことに寄り沿ひ其の悪さ其れ自体を見詰めて行くのがまさに宗教の役割なのではなからうか。
要するに神佛以外に其の様を諫め精神的に立ち直られせて行く力は宗教以外に求められぬものなのだ。
他方で宗教は必ずしも社会の監視役では無く且つ社会の医者なのでも無ひ。
宗教は基本的に個に対する精神のあり方をより正しく規定して行くものなのだから。
さて、其の精神的な価値、価値観の持ち方の方が結局のところ経済成長や物質主義などよりは余程に大事なのだとわたくしは述べ続けて来て居る。
何故其れが大事なのか?
其れは物質主義による快楽の追求が短期的又は近視眼的な価値の追求に留まり長期的且つ俯瞰的な価値の構築には繋がらぬからなのだ。
古来、様々な文明が繁栄しやがては此の轍を踏み滅びて行っても居やう。
かの羅馬帝国然り、
まさに其の部分こそを宗教的次元は固く戒めて来て居る。
特に個人的に正しひとさう感じて居る佛教とキリスト教に於ひて其の物質的繁栄こそがむしろ心を汚して行く様だとさう断ぜられて来て居やう。
伝統的に築かれた宗教的見地には其のやうに人間をして根本的に規定する精神の輝きの部分が宿って居る。
現代人が其の宗教の眞の価値を見落としがちなのはまさに嘆かはしい限りである。
宗教は結局何を人間に齎すのか?
其れは大元での人間の精神の規定であり道徳の意義を我我個に与へるものなのだ。
近代法規は其の道徳に就き必ずしも其れを規定するものでは無ひ。
特に人権意識の高まりと共に所謂罪刑法定の原則にも屡矛盾が見られるやうになりまさに道徳的な空白地帯が拡大するかのやうだ。
かように社会的な規範は近代以降むしろ道徳的な意義を見失ひがちである。
勿論近代國家は法治國家でもまたあるのだから其の法に抵触すれば罪に問はれる訳なのだ。
だが少し考へてみれば分かるのだけれど、社会的な規範は環境破壊やいじめ又は性的な逸脱などにつき案外厳しくは無ひ。
其の点では實は宗教による精神規定の方がずっと厳しひのだとも言へやう。
近代國家に於ける罪刑法定とはあくまで近代國家を上手く維持して行く為の人為的な法体系なので神様や佛様がイカンと仰って居る道徳的要素にまではまるで手が回って居なひと云ふのが實情なのだ。
其の神様や佛様がイカンと仰って居る道徳的要素にまで反省の領域を拡げねばコロナ禍だの集中豪雨だのまた温暖化による物理的被害などにまるで対応が出来なくなる訳だ。
逆に言へば21世紀の文明に問はれて居るのはむしろ其の古臭ひ意味での道徳的要素なのではあるまひか。
高度に合理化されし欲望を是とする文明が今まさに其の欲望の大きさに対する或は罪の意識の無ひ様に対する又は煩悩の垂れ流しに対する否定を突き付けられて居るのだと言へやう。
左様な意味で西洋人でもまさに潔癖且つ真面目であった哲學者カントの思想は我我現代人の今に一石を投じるものの筈である。
尚左翼の面々は確かに潔癖なのだが基本的にわたくしはもっともっと根の部分が潔癖なので左翼思想では人間の持つ根本での心の穢れのやうなものは決して解決されぬことだらうとさう見て来て居る。
だが最近また其の左翼思想に近づいて居るのはハッキリ申して日本の保守のあり方に大きく幻滅を感じて仕舞ひヤッパリ保守の方が頭が悪かったー即ち理性には欠けて御座るーのだとさう思はされたからなのだった。
で、本日はまた少しく宗教の価値観のことにつき論じさせて頂く。
ー凡夫の分別は、主観と事物との主客相対の上に成り立ち、対象を区別し分析するから、事実のありのままの姿の認識ではなく、主観によって組み立てられた差別相対の認識に過ぎないため、妄分別(もうふんべつ)である[2]。それによって得られる智慧である分別智(ふんべつち)も一面的な智慧でしかない[2]。それに対し、主客の対立を超えた真理を見る智慧を無分別智(むふんべつち)という[2]。俗には無分別は「思慮の足りないこと」の意義で用いられるが、仏教では本来と反対の用法である[2]。ー分別 (仏教)より
まずは此の「分別」とは何かと云ふことである。
まずは凡夫とは佛法の価値観の上での凡人即ち悟れない人々のことなのでまず其処で何だかバカにされて居る感じがして仕舞ひ特に現代人のやうに人権があり偉ひ人間様には我慢のならぬ言ひ方であらうが事實としての我我現代人は可成のバカである。
理性とは其の自らの馬鹿を即ち自らの力の至らなさを知って居る働きのことを言ふ。
だから眞に理性的な人はいつも腰が低く決して威張ったりはせぬものだ。
尤もわたくしは時に威張る、威張るのだが本心は決して威張ってなど居なひ。
其れは文人として威張って居るばかりなのでありほんたうは自らの低級さを分かって居るから見た感じでも兎に角常に腰が低ひ。
要するに威張ることなど出来ぬのが人間なのだとさう知って居るので何処で威張っても仕方が無ひとさう思って居るのである。
逆に人間を卑下して捉へる傾向の方が實は強く其れも自分もまた人間なので自分自身を卑下して居るやうなところさへもがあり其処はまるで現代人的では無ひ。
分別がある⇔分別が無ひ
世俗の世界では当然に所謂分別のある大人こそが偉ひ人なのだ。
だが往往にして宗教に於ける価値観は所謂常識とは逆、まるで正反対なのである。
即ち「分別」する人がむしろ其の常識的価値観に毒された凡夫ー眞理には縁遠ひ人ーであり逆に聖者こそが「無分別」の智慧の世界を生きる人のことだ。
では「無分別」とは諸価値を分別しなひのであるからむしろキチガヒのやうな人ではなひかとする意見も一面ではまさに当たっておる。
佛法は基本的に此の世から煩悩にまみれ苦に満ちた生命を永久に抹消することを目指す為の教へなので謂はば其処で逆ヒエラルキー化して仕舞って居るのである。
いや、最終的には其の逆ヒエラルキーとしての価値をも全て抹消することにより解脱ー涅槃へと至るーする。
そんな人間が果たして常識人などであり得やうや?
よって解脱者にはむしろ分別など無く即ち金も要らぬは👩も要らぬは、またどんな所有も無くおまけに考へー思考ーすらもが無ひ。
価値概念其れ自体が其処に抹消されて居り其れは我我から見ればほとんどキチガヒであり同時に人間でも無ひ訳だ。
人間らしひ僧侶の方々などはまだまだそんな段階へは至れぬ状況にある訳で従って佛教に於ひて悟ったと言ひ切れるのは釈尊御一人のことで大乗の僧侶などで悟ったとされて居るのはほとんどが眉唾物のお話であるに過ぎぬ。
そんな訳でズバリ解脱とは人間が人間では無くなることを言ふ。
其処はイエス様の言動にも我我凡人がどう考へても分からぬやうな常識とは正反対の言動が屡見出されやうがまさに其れが本物の宗教としての証なのだ。
尚上のWIKIでの解説にもあるやうに我我凡人は皆相対分別された世界を認識して居ざるを得ぬ訳だからまさに其の分別された世界観に基づき其処に独自の価値観を個として築き上げて居ることになる。
或は相対分別の上で社会的な価値観を刷り込まれ特に近代以降の個は認識世界を成立させて居る訳なのだ。
そんな様を佛法は無明と決めつけても来る。
またキリスト教に於ひても罪深ひ者とさう決めつけても来る。
まずは其処にて大抵の現代人は頭に血が上りもう宗教なんぞ無ひ方がずっと良ひなどとも思って仕舞ふ。
宗教はそんな常識とは正反対の価値観の塊のやうなものなので其れに拒否反応を示すことはむしろ至極当たり前のことなのだ。
だが当たり前のことを続けて居ると何故か追ひ込まれて行くのが悲しひ哉人間なのであり或は生命としての相場なのだった。
ー我々は、分けて世界を認識していて、それが本当の姿だと思っていますが、実は世界は分けることの出来ないもので、宇宙が一つの存在であり、私たちは宇宙の一部だということです。
これを「一如」、または、「真如」と言います。ー月の雫 仏教のお話より
其の分ける認識をして居るからこそむしろ世界は生じて仕舞ふのであります。
世界は生じて当たり前だらう?
いや、より純粋な認識と云ふか智慧ある存在と云ふかそんなものはそも此の世には出て参りません。
即ち其の現象すること其れ自体の価値を正と負のいずれに置くかと云ふ点で価値ヒエラルキーの正負が決まって行って仕舞ふ。
ーかように人間が此の世に迷ひ出て来ると云ふ捉へ方を佛法はして居るー
あくまで相対分別する上では正の価値ヒエラルキーが形作られ我我は個として其の相対分別世界に苦を受けつつ生きて行かざるを得ぬ。
尚此の点はキリスト教の場合にも善悪二元対立の相対概念として出て来て居りますね。
ーキリスト教でも人間はまさに失楽園し此の世に追放され出て来て居るのであるー
また其の善悪二元対立の世界もまた罪に汚された苦しひ世界であることに変はりはありません。
其処からの行き方で違ふのは、佛教はまさに解脱することこそが目的ですので煩悩に汚れし其の相対分別を抹消し分別から無分別へと認識のあり方を根本的に変化させて行きます。
キリスト教の場合には其の罪深き人間の認識をむしろ神に全的に預け神の認識其のものへと連なって行く訳だ。
わたくしは其のどちらでも人間への救ひは生ずるとさう今は考へて来て居ります。
どちらもまさに理に適って居り人間の無し得る精神的次元としては最高峰での行ひであり考へ方です。
ー仏教での分別は分別智とも言います。これは人間の持つ智慧です。それも、悟っていない状態にあります。
人間関係と書きましたが、これはつまり、自分と他人とを分けた考えです。「だって自分は自分でしょう」と言いたくなりますが、これがそもそも間違い。
仏教ではすべての物質、事象は仮のものであり、自分だと思っている者も一時的な物で、仮のものでしかないのです。
自分と他人との境界線なんてものもありません。しかし人間にはと五蘊(ごうん)というものがあります。いずれも人間を形作る要素、心身の動きです。
これも一時的な物ですが、これのせいで苦しむ人間が大部分を占めているのです。
目や耳、鼻などの肉体が受ける外部の刺激を感じて苦悩したり喜んだりするのが分別智になります。
では理想は何かといえば、無分別智、通称無分別です。一般的に考えるととんでもない無分別ですが、本来の仏教では理想の境地でした。
執着から煩悩が生まれて、それが苦しみを生み出します。無分別を持てば、ずっと楽になるのです。
「何もかも一時的だから」とやけになってすべてを放り出すのとは少し違います。どんなことも真正面から受け止めて、その上で「大したことではない」と執着しないことが肝要であり、理想なのです。ー仏教では無分別が理想?より
分別智も確かに一面では人間だけに備はる智恵の力です。
何故なら自然界には分別智もまたありません。
ならば、結局人間の方が自然よりも上ではなひのか?
と人間は皆さう思ふことでせう。
ところが、人間の苦しみは自然界での苦よりもより苦しくなるのです。
何故なら人間には肉体的な苦と精神的な苦の双方がより顕在化された形にて現象して居るからです。
動物界は、其れも🐒程の知能の持ち主ともなれば矢張りある程度は其の精神的な苦があらうことかとは思はれる。
ですが蛙や🐍や虫けら達が精神的にも物凄く苦しんで居るやうには実際見へぬ。
言はば人間の苦とは其の二重苦なのです。
しかも人間は分別智に基づき正の価値ヒエラルキーを堅固に築ひて仕舞ひます。
中でも最も其の傾向が進んだものが現代文明に於ける価値ヒエラルキーとしての価値観でせう。
だからあへて申しますと其処に文明苦を加へたまさに三重苦なのやもしれませぬ。
何でそんなにマイナス思考ばかりをしておるのだ?
まさに其れこそが狂った価値観ではなひのか?
いへ、此れも眞理に基づくお話ですのでウソや妄想の類なのでは御座りませぬ。
逆に言へばプラス思考ばかりに傾ひた特に戦後の文明の価値観こそが明らかに異常なのです。
此の世の事象は仮のものだと云ふのに自我形成から其れを眞のものだとさう思って居る。
其れが相対分別ー分別智ーによる相対世界の有様だと云ふ事です。
其のやうな認識を我我人間があへて選んでして仕舞って居るのです。
其の認識は眞理とは反対のものだと思って置くとより分かり易くなります。
其のやうな誤った認識により我我個がそれぞれに現象世界を生じさせて居ると云ふことです。
尤もキリスト教では其れは人間の認識の問題では無く失楽園された生命としての原罪の問題です。
でも實は其の人間の認識上の問題でもまたあるのです。
人間の心の中に潜む善悪の対立こそがまさに其の相対分別の問題でせう。
其の分別する智恵=智恵の實を食ったことによる智恵を神の叡智に丸投げしなければ決して人間が救はれることなど無ひ訳で。
ある面では其れもまた智恵の放棄に繋がることです。
かくして佛教とキリスト教の双方の立場に於ひて何故か人間の其の侭の智恵が否定されて行くのであります。
もはや其の辺りで普通の現代人は我慢がならなくなり宗教など打っ棄ることかと思はれますが其処は何事も我慢が肝心。
どんなに貶されてもまた全否定されてもまさに歯を食ひしばりつつ付ひて行かねば狭き門より眞理の道へと入ることなどは無論の事出来ませぬ。
無分別智を構築すること、或は無分別智を足掛かりにして現世での価値ヒエラルキーを無力化して行くことはまさに聖者にしか出来ぬことかと存ずる。
但し分別智による現世での価値ヒエラルキーを神に丸投げすることで神の価値観と連なることの方がより現實的であり精神のハードルは低くなることかと存ずる。
だから佛教は母國印度ではほぼ滅びましたがキリスト教は世界宗教として現在もNo.1の信者数を誇って居りませう。
但し此れ迄にも屡述べて来て居りますが浄土教とは其のキリスト教との共通点が明らかに認められる大乗佛教のあり方です。
勿論神は其処におはしませぬが、かの阿弥陀如来様が何やら西方浄土の神様の如くに感じられぬ訳でも御座りますまひ。
要するに何かと難しひ釈迦の佛法よりも浄土思想の方が一般の民衆にはより分かり易く精神のハードルが低くなるのだとも申せませう。
佛教は確かに虚無主義の類のものではありません。
むしろ其処で生の意味を根本から問ひ直し生に於ける苦を永遠に放逐する為の教へ其のものです。
キリスト教でもまた生の意味を根本から問ひ直し生に於ける苦を霊的な楽へと転換する為の教へを述べたものです。
此の世から人間を消し去ると云ふ意味では確かに佛教は虚無的な思想でせうが其処はキリスト教でも同じで人間が霊として再生されねば救はれぬのですから結局どちらでも其の侭では誤った価値観に縛られて居るが故に絶滅と云ふか破滅と云ふか無常と云ふかまさにやがては壊れて行かねばならぬのであります。
横田 南嶺禅師による素晴らしひ法話を此処に伺ふことが出来ます。
無分別智とは根本智でありまさに其れは相対分別智を離れた認識上の手立てのことでせう。
「分割は知性の性格である。まず主と客とをわける。われと人、自分と世界、心と物、天と地、陰と陽、など、すべて分けることが知性である。主客の分別をつけないと、知識が成立せぬ。知るものと知られるもの——この二元性からわれらの知識が出てきて、それから次ヘ次へと発展してゆく。」『東洋的な見方』より
「哲学も科学も、なにもかも、これから出る。個の世界、多の世界を見てゆくのが、西洋思想の特徴である。」『東洋的な見方』より
「それから、分けると、分けられたものの間に争いの起こるのは当然だ。すなわち力の世界がそこから開けてくる。力とは勝負である。制するか制せられるかの、二元的世界である。」『東洋的な見方』より
此処には鈴木 大拙氏の著作の引用部が出て来る。
確かに知性とは其の分離のことです。
即ち知性こそが分別する智恵=分別智です。
分別智に基づく世界観は特に禅宗に於ひて否定されがちです。
眞理からすればまさにさうなのでせう。
ですがわたくしに限れば其れを否定的に捉へつつも事實として其れは成り立って居るとさう捉へて来て居ます。
事實としてさうして成り立ちやがては自己矛盾に陥り此の文明は滅び去ることであらう。
となりますと實は愈々キリスト教の出番となる訳です。
キリスト教に於ける善悪二元論と西洋思想とは實は密接に関係し合って居ます。
尤もキリスト教は佛教徒からは否定されがちなのですしキリスト教自体も昔は佛教を悪魔の宗教だなどと貶して居りました。-もしや今でも?-
ではあっても釈尊とイエス様と云ふ人間の精神の高峰の存在意義を即否定し合ふやうなことが出来得るべくもありません。
釈迦とキリストの生涯其れ自体は明らかに異なるものですが、あくまで部分的には聖人として似たやうなところもあるとさう認めざるを得ません。
「高い山が自分の面前に突っ立っている、そうすると、その山に登りたいとの気が動く。
いろいろと工夫して、その絶頂をきわめる。そうすると、山を征服したという。
鳥のように大空を駆けまわりたいと考える。
さんざんの計画を立てた後、とうとう鳥以上の飛行能力を発揮するようになり、大西洋などは一日で往復するようになった。
大空を征服したと、その成功を祝う。」『東洋的な見方』より
「この征服欲が力、すなわち各種のインペリアリズム(侵略主義)の実現となる。自由の一面にはこの性格が見られる。」『東洋的な見方』より
此の文明の侵略主義とは一体何なのでせう?
其れは結局欲望の侵略其のものなのだらうか。
だとすれば今はまさに其の欲望の侵略を自然界へと向けることで大問題が引き起こされて居る訳です。
結局其の欲望の根のところはひとつだと言ひ得るところなのやもしれませぬ。