目覚めよ!

文明批判と心の探求と

欲望の時代の哲學に寄せてー壱 米國流の文明に対するガブリエル氏の批判ー

今まさに東京が危なひ時に申し訳無ひが以下のものを書ひたのでとりあへずは投稿させて頂く。

 

 

神戸魔法の生チョコザッハ

嗚呼何故か今神戸の御菓子が食ひたひ。

ところで神戸はまだ滅亡して居ませんでしたか?

 

さてわたくしは案外洋物が物凄く好きなのですが、ところで西洋文明はまだ滅亡して居ませんでしたか?

 

西洋人が皆死んで現代文明が滅亡したならばしたで中国を中心に新たに東洋文明を築けば良ひだけのことです。

が、西洋菓子を食へなくなることだけは避けねばならぬことでせう。

 

尤も日本の大都市も今やどうなるか分からない程のものです。

 

先に述べたやうに一カ月位は仕事も遊びも全部止め國自体を封鎖しておくべきなのです。

其れが出来ぬのはひとへに政府や官僚そして会社組織また町内会や家庭に至るまでもが文明により洗脳されて居るからなのでせう。

 

 

ちなみに東洋文明であるにせよ杏仁豆腐はとても美味ひ。

 

物凄く美味くて安ひ香苑と云ふ店へたまに出向きますが何とランチが650円程で二品選べおまけにデザートの杏仁豆腐まで付いて来ます。香苑 野並店

 

普通に見へるのやもしれぬが此処の杏仁豆腐は安くてしかも絶品です。-確か百円程-

 

しかも台湾ラーメンが何とも不可思議な香りがしてもはや其れは日本のものではありません。ー台湾人か中國人の店なのでー

 

 

さて洋物をカットしたにせよ日本人は何とか生きてはいけませうが神戸とか横浜などはほとんどが洋物の為カット出来ぬゆえに滅ぶのやもしれません。

ですが其の前に大都市は皆滅ぶかのやうでもある。

 

其処からしてもクソ田舎の人、おおまさにアンタ、アンタこそがほんに幸せだぞよ。

 

山の中でさうして毎日芋やら味噌やら漬け物やら、そんなものばかりを食ひ嗚呼どこまでもつましひ食事だななどと思って居てはならぬ。

 

ほんたうはそちらの方がリスクはずっと少なひ。

 

現代文明はリスク管理がなって居なひ故どのみちいつかはドーンと何かが出て来やう。

 

即ち洋物ばかりを信じて居てはいけなひ。

洋物は独逸製を除ひて大抵は壊れ易くしかも頭が悪ひ。?

 

独逸人は日本人に似て利口なのだが気は狂ひ易ひ。-かの総統閣下のやうに-

が、カントもショーペンハウアーヘーゲルも皆独逸人であった。

 

西洋の利口独逸人と東洋の利口日本人が組んで何故戦争に勝てなかったのかと云ふまさに其処が理解に苦しむところなのでもあらう。

 

おそらくは共に利口過ぎて気が狂ひ易ひところが多分にあったのでは無かったか。

つまりは共に利口バカだったのではなかったらうか。

 

 

さて、わたくしが今何をして居るかと云ふとNHKオンデマンドにて新実在論の騎手マルクス・ガブリエルー独逸人ーによる現代社会に対する考察をまた全部通して視直して居るところです。

 

ここのところつひプライム・ヴィデオ浸けとなりNHKオンデマンドに加入して居ることを忘れて仕舞って居ました。

 

ですが學問の方は矢張りと云ふべきかNHKオンデマンドの方でするべきでせう。NHKオンデマンド 欲望の時代の哲学他

 

 

私はメタ存在論とメタ形而上学というカント以来の伝統を復活させようとしています。周知の通り、メタ存在論という言葉を導入したのはハイデガーであり、また彼はカントの哲学が「形而上学についての形而上学」であるとも明言しています。私が用いるメタ形而上学ニヒリズムという言葉の意味とは、世界など存在しない、つまり、世界についてその究極的本性、本質、構造、構成、カテゴリー的輪郭などが問われるとき、その問いかけには意図されているような概念的内容が欠けている、ということです。万物を絶対的に構成している何か大きなものがあるという考えは、それが自然的なものであれ理性が不可避的に有する性質であれ、幻想なのです。現代の議論において影響力を持っているネオ・カルナップ主義者たちも同様の結論に至っていますね。彼らの研究で言われていることの多くに私は賛同しており、それをカント的、ポスト・カント的哲学におけるメタ存在論/メタ形而上学の伝統と連結させようと試みているのです[6]マルクス・ガブリエルより

 

実在論(現代哲学)[編集]

大陸哲学における解釈学の枠組みの中で、構築主義的・虚無主義的な帰結に対する反動として、マウリツィオ・フェラーリスは、いわゆる新実在論(new realism)を提案している(『新実在論宣言(Manifesto del nuovo realismo)、2012)。これは、分析哲学者と大陸哲学者の両方が共有する哲学的方針である。前者の例として、マリオ・デ・カロ(Mario De Caro、『Bentornata Realtà』ed. by De Caro and Ferraris, 2012を参照)、後者の例としてはマウリスィオ・ブーショ(Mauricio Beuchot、『類推的実在論宣言(Manifesto del realismo analogico)』, 2013)やマルクス・ガブリエル(『意味の場:新実在論存在論(Fields of Sense: A New Realist Ontology)』, 2014)がいる。南米では、ロッサーノ・ペコラーロ(Rossano Pecoraro)がイタリアの新実在論に基づく政治哲学を提案している(『現代哲学のシナリオ:ポストモダニズムの終焉と新実在論?(Cenários da Filosofia contemporânea: fim da pós-modernidade e new realism?)』, São Paulo, 2015;『現代哲学に何が残るか?(Cosa resta della Filosofia Contemporanea?)』, Salerno-Roma, 2013)。新実在論は、同様のニーズに応える独立して生起した他の大陸的実在論運動と交差している。例えば、フランスの哲学者カンタン・メイヤスーアメリカの哲学者グレアム・ハーマンが擁護する思弁的実在論がそれである。

実在論にとって、科学は真理と実在の体系的な究極の尺度ではないという仮定は、実在、真理、または客観性という観念を放棄すべきであることを意味せず、この点で20世紀の哲学の大部分とは区別される。そうではなく、この仮定の含意とは、哲学は法学、言語学、または歴史学と同様に、世界について重要かつ真実である何事かを述べることができる、ということである。この文脈では、新実在論は、主に消極的実在論(negative reaslism)として自らを規定する。すなわち、外的世界が私たちの概念体系に与える抵抗は失敗としてではなく、資源として見られるべきである。これは、独立した世界が存在することの証明である。しかし、これが成り立つのであれば、この消極的実在論は積極的実在論(positive realism)に転じる。すなわち、私たちに抵抗する中で、実在は私たちが立ち入ることができない限界を設定するだけでなく、機会と資源をも提供するということである。これにより、自然界において、いかにして異なる生命体が同じ環境において概念体系を共有することなく相互作用し得ているかが説明される。また、社会(的世界)において、最初に与えられた実在によって人間の意図や行動が可能になり、後になって初めてそれが解釈され、必要ならば変容されることも説明される。新実在論より

 

 

 

さて分かりましたか?

まあ兎に角分かりにくひものが哲學です。

 

マルクス・ガブリエルはカントに就ひての話を屡して来て居るやうだ。ーわたくしにとってもカントは最も重要な哲學者であるー

 

其ればかりか彼は戦前の我が國の哲學者西田 幾多郎に大きく影響を受けて来て居るやうだ。

また實はどうも其の新実在論は独伊の思想的連携にて推し進められて居るもののやうである。

其処に戦前の西田の思想が加はれば何と日独伊三國思想同盟の誕生と云ふこととなるのやもしれぬ。

 

なのだがパンデミックにて其の哲學も何処かへ吹っ飛んでいく虞が多分に出て来た。

其れどころか洋菓子もまた危なひ訳だ。

 

 

NHKオンデマンドの番組中で語られるマルクス・ガブリエルの哲學的考察は元より非常に勉強になるつまりは為になる。

 

其処で欲望の時代の哲學の第一話と第二話を此の度視てみた。

 

 

結論から言へばまさに痛快であった。

 

ガブリエル氏の独逸人らしひ精神的潔癖さが米国流のショーとしての資本主義、行き過ぎた資本主義を明らかに否定して居る其の心の底が屡垣間見へ實に痛快であった。

 

米国流のショー資本主義は元より精神の上ではなって居なひことであらう。

 

なのだけれども戦後我が國では其れが大きな価値であり目標でもあるかのやうに理解されて来たのだった。

 

だが矢張りと言ふべきか独逸人は其れに対して極めて批判的だ。

 

もうナチスドイツの如くに批判的だ。

 

 

だから我我も神風思想を吹かせまくり其のガブリエル氏の米国批判に追随していかねばならぬことであらう。

 

ところがいまひとつの盟友の伊太利亜の方が今回滅亡寸前だ。

 

いや、もはや独逸も危なひのか。

 

いずれにせよかっての同盟國のみんなが危なひ。

 

勿論大日本帝国にせよ可成に危なひことはまるで同じ。

 

 

 

尚、ガブリエル氏の哲學乃至は思想にはまず西田哲學の影響が大きく垣間見へて来る。

 

事實彼は数年前に来日した折に京都の哲學の道を訪れ西田幾多郎のことを偲んで居たものだった。

 

 

ー西田の哲学体系は西田哲学と呼ばれる。

郷里に近い国泰寺での参禅経験(居士号は寸心)と近代哲学を基礎に、仏教思想、西洋哲学をより根本的な地点から融合させようとした。その思索は禅仏教の「の境地」を哲学論理化した純粋経験論から、その純粋経験を自覚する事によって自己発展していく自覚論、そして、その自覚など、意識の存在する場としての場の論理論、最終的にその場が宗教的・道徳的に統合される絶対矛盾的自己同一論へと展開していった。一方で、一見するだけでは年代的に思想が展開されているように見えながら、西田は最初期から最晩年まで同じ地点を様々な角度で眺めていた、と解釈する見方もあり、現在では研究者(特に禅関係)の間でかなり広く受け入れられている。

最晩年に示された「絶対矛盾的自己同一」は、哲学用語と言うより宗教学での用語のように崇められたり、逆に厳しく批判されたりした。その要旨は「過去と未来とが現在において互いに否定しあいながらも結びついて、現在から現在へと働いていく」、あるいは、鈴木大拙の「即非の論理」(「Aは非Aであり、それによってまさにAである」という金剛経に通底する思想)を西洋哲学の中で捉え直した「場所的論理」(「自己は自己を否定するところにおいて真の自己である」)とも言われている。そこには、行動と思想とが言語道断で不可分だった西田哲学の真髄が現れている。論文『場所的論理と宗教的世界観』で西田は「宗教は心霊上の事実である。哲学者が自己の体系の上から宗教を捏造すべきではない。哲学者はこの心霊上の事実を説明せなければならない。」と記している。ー西田 幾多郎#思想より

 

 

さて分かりましたか?

こんなにもカンタンなことです。

 

其の絶対矛盾的自己同一と云ふ概念は謂はば矛盾を矛盾として認識し得ぬやうな認識のあり方を示したものであらうとわたくしは思ふ。

 

また禅宗を學ぶ場合には屡出て来る「即非の論理」を「場所的論理」として捉へ直して居る点などもまた彼ガブリエル氏の哲學乃至は思想の形成に大きく影響を及ぼして居るやうにも見受けられる。

 

ガブリエル氏の考へ方にはかうした温故知新的な部分が多分にある故わたくしには理解がし易い点もまた多々ありひょっとしたらわたくしの考へとも似たやうなところが部分的にはありはせぬかとさうも思ふのだった。

 

でも結論として全然違ふところもまたあるのやもしれぬのだが。

 

 

 

欲望の時代の哲學の第壱話にてガブリエル氏は現實はデジタル的には捉へ切れぬ程に複雑だと述べて居られるが其の部分につきまるで同感だ。

 

現實ー現象ーはそも数的還元出来ぬものでありつまりは分析的には明らかにすることの出来ぬ対義的要素の複合体であらう。

 

つまり数学、物理の対義領域にお化けとしての何者かもまた居て或は其れが文學であったり宗教であったりもするのやもしれぬ。

 

またそんな真面目な話では無くほんたうにお化けが其の辺に居て其れは多次元世界との境目を示すものであったりもするのやもしれぬ。

 

 

だから誰もお化けなど否定は出来ぬ、そも出来ぬのだ。

科学はまた科学技術は文學や宗教を否定出来ぬのだし其ればかりかお化けの存在を決して否定など出来ぬ筈だ。

 

其れを否定するからむしろ科学者や技術者は馬鹿其のものになって仕舞ふのだらう。

 

これから科学者や技術者は研究に勤しむのでは無く何処までも何処までもリヤカーを引き行商か又は農業の為に其の貧弱な筋力をむしろ捧げて行くべきなのだ。

 

 

ちなみにわたくしは某研究所に13年間勤務して居たことがあった。

 

其れもまさに燃料電池だのバイオテクノロジーだのを研究する第壱級の研究施設であった。

 

尚リヤカーは今とても良ひものが造られて居り個性的なものが幾らでも選んで行ける状態ともなっておる、幸ひなことに。

 

 

さてそも知能とは何か?

技術と文字が融合したものだとガブリエル氏は述べる。

 

だが「文字が人間の頭脳を弱くする」ともかのプラトーンは述べて居る。

 

文字は所詮限定なのでむしろ視野狭窄を起こし易くするものなのだ。

 

丁度近世頃までの人文科學の時代にせよ其れ以降の近代的な科学的分析の時代にも其の文字の呪ひ乃至は限定=至らなさが常に纏わり付いて来たことだったらう。

 

人文的記載にせよ科学的記載にせよ實は其れが利口なことだとは文字の原理上言へぬのだ。

 

だから脳減る賞など利口でも何でも無ひとわたくしは述べるのだ、故に其処からもわたくしは単にヘソ曲がりなだけなのでは無ひ。

 

 

 

 

欲望の時代の哲學の第弐話ではショーペンハウアーの言葉なども出て来る。

 

ちなみにわたくしの場合にも屡ショーペンハウアーの話が出て来ることかと思ふが其れは何でかと云ふとショーペンハウアーの面構へがとても好き♡だからなのだ。

晩年のショーペンハウアー。1855年(67歳)。ジュール・ルンテシュッツ画

 

どうですか?まさに素晴らしひ髪型であり面構へである。いやそればかりか美しひ、嗚呼まさに哲學者の鑑のやうな美しいお顔をされて居られるではなひか。

 

是非わたくしもかうなりたひ。

ところが此れではもはや♀が寄って来なくなるだらうことは必定。

 

 

其のショーペンハウアーはかって「人は欲望を充たすことは出来るが欲望其のものを欲することは出来なひ」と述べて居る。

 

尚ガブリエル氏によればショーペンハウアーは所謂決定論者であったやうだ。

 

わたくしなども屡世界は必然的にさう規定されて行くと云ふ決定論か乃至は運命論のやうな考へ方を良くして居るのである。

 

所謂自由意志に関しては否定的に捉へて居て其れは何でかと言ふとわたくしは限定論者で現實つまりは現象とは全部が限定のものー精神の領域をも含めてーだとさう捉へて居るからなのだ。

 

 

なんだけれどもガブリエル氏は決定論と自由意志は両立するとさう仰る。

 

おそらくは其の辺りが絶対矛盾的自己同一と云ふ概念を取り入れた考へ方なのではなひだらうか。

 

但し「限定」の場合にもいやむしろ「限定」であるからこそ絶対矛盾的自己同一と云ふ概念が必須のものともなる訳だ。

 

 

其れは何でかと言ふと限定されると両極分離が其処に引き起こされるからなのだ。

 

また其れは認識上さうなると見て置くべきものだ。

 

現象上にもさうなるが現象以外のところ、たとへば霊的な部分や精神的な部分に於ひてもおそらくはさうなるのだらう。

 

 

なので、まさにイエス様の教へではありませんが憎ひ反対のものをむしろ愛さなくてはならぬのだ。

 

また原始佛法は大乗佛法を否定せずむしろ愛さねばならず大乗佛法もまた原始佛法を愛さねばならぬ。

 

其れどころかキリスト教もまた浄土教を愛さねばならず浄土教もまたキリスト教をあへて愛していかねばならぬ。

 

其処へイスラム教が絡むともう何が何だか分からなくならうから其れは止めて置かう。

 

兎に角皆様はおそらく初めて其の絶対矛盾的自己同一と云ふ概念を知ったことだらうがわたくしの場合には随分昔から当たり前のことのやうに頭の中に入って居たことであるに過ぎぬ。

 

 

其の絶対矛盾的自己同一と云ふ概念は所謂禅などでも語られる「即非の論理」に似たものでもあらうが此の辺りでのことは流石に解説が難しくなる故また後日へと回さうと思ふ。

 

 

 

米國流の所謂科学的唯物主義はおそらく戦後特に半世紀程前から暴走し始めたのであらう。

 

所謂自由の多過ぎる社会は米國の國是でもまたある訳だが其れ即ち自由が蔓延し過ぎ其れが目的化されて仕舞った状態なのでもある。

 

米國の作家の中にはそんな状態をバーチャルなもの又は人工的なものと現實とのごちゃまぜ状態、謂はば現實とさうではなひ人工空間との混交であり人工空間による現實の浸食であると捉へる向きさへもがまたある。

 

バーチャルなもの又は人工的なものとは所謂抽象的な内容のものだ。

 

御存じのやうにわたくしは今まさに其れを大批判して来て居るのだ。

 

 

 

カンタンに言へば抽象的な欲望を具体化することに関してはリスクが大き過ぎるので止めた方が良ひとさう述べて居るのである。

欲望は逆に具象化、個別化、多様化させて置く方がまともなものになり得るのです。

 

さうして置きさへすれば至極まっとうなものとなる。

 

つまり欲望を具象化することこそが「限定」であり、逆に欲望を抽象化することこそが「非限定」であり∞の消費である。

 

「限定」とは理性に基づき行はれるものであり「非限定」は理性の原始退行より獣の欲望が噴き出し行ふもののことだ。

 

 

かうして独逸人哲學者であるガブリエル氏は米國の抱へる∞の自由を悪しき自由としてズバリと糾弾されて居られた。

 

其処はまさにわたくしも同じでであるからこそ文明の暴走を止め「限定」せよとさう叫び続けて居るのだ。

 

其処からしても矢張りと言ふべきかお利口な独逸人こそが我我にとっての盟友なのかもしれなひぜ。