こんな危機のさ中に遊びの話でまことに恐縮ですがつひ先日わたくしは山へ行き暫しの間遊んで参りました。
其処は相生山と云ふ隣の区の山で其れこそが都会にある貴重な自然環境の一つなのです。オアシスの森
里山なので雑木林や花々が咲く美しひところで噂では兵藤 ゆきーゆき姐ーの實家があるところだとも聞ひて居ります。
相生山は自転車でもって20分で行けるところが素晴らしひ訳です。
子供の頃より其の自然に親しんで来た訳ですのでわたくしにとっては見慣れた場所でもある訳だが其れでも最近は半年に一回位しか行って居なひ。
現代社会が何かと邪魔をしこんなに山好きな文人だと云ふのになかなか山へ入る心の余裕を与へては呉れぬ。
さて山で散策をして来る訳ですが其ればかりでは無く實は石を拾って参ります。
さうです、わたくしは鉱物コレクターでもって主に結晶鉱物の世界の愛好者なのだ。
要するに地学部か又は地学クラブの趣味がある人だと云ふことです。
アノタモリがまさにそんな人で石やら地層やらに物凄く詳しひ訳ですがわたくしは中学の折に地学クラブに居たことがあったばかりで其れに理系の學問は其の全部が不得意です。
なので理論的にどうのこうのと言ふ話では無く要するにタダタダ美しひもの言はぬ石が何処までも好き♡なだけなのだ。
元々わたくしは万年筆の愛好家であり其れも並外れた部分までやって来て居た訳です。
元々わたくしは文字を書くことが好きですので万年筆に限らずボールペンや芯ホルダーなどにもまずまず詳しく要するに御勉強の為の道具の愛好家、所謂筆記具愛好家だったのでした。
御勉強其れ自体がそも好きですので其処で必然的に學ぶ為の道具にも凝るやうになる訳だ。
何かを考へる時わたくしは万年筆か銘木ボールペンを手に握りつつ考へて居るのです。
万年筆は中学時代からすでに好きでしたが愛好家となったのは塾の先生をして居た廿台後半の頃からだった。
なのでもう随分長くやって来ても居り正直参千万位は其れに注ぎ込んでも参りました。
ところが万年筆って所詮は文明の利器であり故に人間クサひ部分が何処かにあるものだ。
万年筆同好会だの何だのと意外とさうして群れたがる訳で、其の群れてる中へわたくしは万年筆ライターとして物語を語って来て居たのでありました。
ところが人間は突如としてさう云ふのがイヤになることさへもがあらう。
御勉強にせよ御勉強すれば御勉強する程に人間の馬鹿がもうイヤと言ふ程に見へて参ります故もうそんなもの捨てて仕舞ひたくなることがあるじゃなひですか。
特にわたくしはさう云ふのが明らかにある。
ところが石は只黙って其処にあるだけなのですがまさに其れが何処までも美しひものだ。
万年筆は所詮文字を書く道具なのでたとへアンティークの品であるにせよ何処か文明臭ひ。
つまり鉱物趣味は文明をそも離れて居るんです。
尚わたくしが言ふ鉱物趣味とは磨ひた宝石ー加工品ーなどへの趣味では無くあくまで原石への尽きせぬ興味と其の美への賛嘆ー賛歌ーのことなのだ。
要するにかって西洋人が植民地から宝石をかっさらひ主に貴族の趣味として一級の鉱物標本を所有して居た訳だが其れが二級、三級になったものを今わたくしがやって居ると云ふことなのだ。
元より鉱物は生存を離れて居り謂はば純粋な物理的現象なので心の鬱陶しさをもまた離れて居て其処が凄く癒される部分なのだらう。
要するにとても静かである。
いずれにせよわたくしは静けさを好む性分なので鉱物だの植物だのがとても好きでむしろ其れ等にこそ癒されて居るのである。
但し世間にはさうした高踏的な趣味の世界を微塵も理解せぬ下品な奴等がまた数が多く居るもので、さうした輩は決まって以下の如くに言ふのである。
ヘッ、石?
石がなんぞ面白ひとさう仰りますのか?
そんなもんより競輪だろ、競艇だろ、其れに酒だろ👩だろ。
もう👩遊びの一つ位はしてみよ。
これから一緒に行かう、な。
馬鹿者めが。
わたくしのやうな趣味の良さと云ふものがまるで分からぬまさに馬鹿者めが。
おまへらには理性と云ふものが無ひのか、まるで通じぬのか此の理性と云ふものが。
そんな訳で自然愛好の世界は地味な世界のことでもまたある故なかなか世人には察しがつかぬものでもまたあるらしひ。
尤も今は大っぴらに石を拾ふことは出来にくくもなって来ても居る。
其れも多くの旧鉱山の鉱物産地が立ち入り禁止となったり採集禁止とされて来ても居るのである。
尚わたくしの鉱物趣味は此処廿年程のことで其れを昔からずっとやって来て居る訳では無ひのだ。
其れも自然の大事さに気付いた三十代後半からのことで其れ以降は万年筆の方と半々でもってやって来たと云ふことなのだ。
尚相生山でも動植物の採取は禁止されては居るが道端の石を其れも五つ位ちょろっと拾って来るだけのことでありしかもわたくし以外には誰もそんなことはして居らぬ。ー勿論地面を掘ったりもせぬー
石を探して相生山の散策コースを歩ひて居る奴などこれまでに見たことは無ひのだ。
で、何が採れるか?
石英の塊が採れる。
石英の凄く結晶化したのが水晶だが其の水晶は無くタダの石英の塊の石が採れる。
ところが其れが美しひものなのだ。
勿論極めてとは言はなひ。
極めて美しひ石ならばアマゾンでもヤフオクでもまた宝石店でも幾らでも売って居やう。
でも其の石は地元の石を自分でもって探し採ったものだから實はある意味で其れ以上に価値のあるものなのだ。
其の美しひ石英は参キロ位を歩ひて一個あれば良ひ方だ。
ところが今回は何故か何と参個も採れた。
わーはっはっはっはっはっはっのはっ。
つまり石は山の地面の下に幾らでも埋まって居り其れが半年程経つと出て来る。
台風やら豪雨やらで山の地面が削られ初めて此の世に姿を現すのだ。
其ればかりか春の山は花盛りともなって居る。
其れも満開のツツジや五分咲きの山の桜ー山桜かどうかは分からぬがーなどが兎に角美しひ。
森の中の解説板を見ると昔は全山にツツジが植へられ山が赤紫に染まったのだったが今は木々が生ひ茂り雑木林へと戻りつつあるとのことであった。
ちなみにわたくしは所謂花見などはしなひ。
昔はして居たのだったがみんなで桜を観るのは何処か下品にも感じられるのでそんなものには好んで参加などしなひ。
さうではなくほんたうに美しひのはさうしてひっそりと山で咲ひて居る桜であらう。
わたくしは兎に角人間共のグオー、ギャオーの様が性に合はぬのだ。
其のやうに美の探究者として生きて来て居るが故所謂どんちゃん騒ぎや悪ひ遊びの類が大嫌ひで元々進歩する文明なども大嫌ひなのでいつもこんなことばかりを書ひて居るより他は無ひ。
其れにしても以前と同じやうな場所に良ひ石が落ちて居ることがまさしく不思議である。
其れは石が脈にて形成されることと密接に関連して居ることかと思はれる。
尤もわたくしは地學のことを詳しくは知らなひのでさう推測するばかりでのことだ。
山道を歩ひて居て哲學をする場合などもまたあるにはあるのだが其れは昔のことで最近は専ら自然の具象性に己の全てを浸し一体となることを目標として来て居る。
哲學などは概念を玩ぶ低級なことに過ぎぬのでもはや打棄り其処にある詩の様、おおまさに生身にて書かれる自然としての詩を其処に体感し其れに酔ふと言った風情である。
其れでもって満開のツツジの淡ひ赤紫の色合いをウットリとしつつ眺めて居たところ、おや何処からかアルトリコーダーの音色が聞こえて来る。
山の向こう側に学校か何かの施設でもあるのかな。
すると突如何やら聞き覚へのあるメロディーが奏でられた。
まさに其れは讃美歌だった。
世界が病んで居る今、まさに此の旋律が胸を打つ。
尚わたくしは元よりキリスト教徒では無く言はば原始佛教徒なのだ。
なのだけれども、父はカトリックの南山大學の出身者でもまたあった。
わたくしもかって南山大を受験したが英語がまるで分からずで落ちた。
確か問題が英文になって居り其れが何のことやらまるで分からんかったやうにさう覚へても居る。
ちなみにわたくしは讃美歌が何故かとても好きなのである。
勿論其れは讃美歌を聞くことで何処か心救われるからこそ好きなのだらう。