尚本日は朝一番に墓参りにて家の先祖代々の墓にて手を合わせて参りました。ー形だけー
其処で浄土真宗の僧侶が読経して下さいましたが其の様を一メートル横で聞ひて居りました。
言ふまでもなく僧侶は皆読経が上手で中にはまさに感動する場合さへあります。
大抵は張りのある、しかも大きな声の若い僧の場合の方が有り難く聞こえるものです。
尚此処は東海地方としては究極の古刹です。
見ての通りにこちらは物凄く立派なコレクションハウスでした。
こんな美味さうなものが他の何処の寺にありませう?
ただ、心残りは此の竹膳料理を食ひそびれて仕舞ったことです。
予約してなひとダメだとのことでした。
即ち此の竹膳料理の3240円最高級版を是非食ってみたいところだが実際にはなかなか行けぬ。
尚霊園へ行くと思うのですが最近の墓はデザインが変わり何やらSFチックともなっており個人的には其れが気持ち悪くも感じて居ります。
さらに究極の墓さへもがあります。
其れは●石さんの墓です。
しかも其れがちょろりとではなく、まさにメインの構築物として防弾ガラスに囲まれつつ墓として安置されて居ります。
つまりは其れが墓としてのご本尊のやうなものなのです。
防弾ガラスに囲まれて居るばかりではなく何やらセキュリティの方も入って居るやうでしたが其れを何処がやってるのかどうかは分かりません。
が、わたくしはかの墓には入らぬ積もりです。
ではどうなるのかと言へばむしろ自然の中での野垂れ死に、其れを望んで居ります。
同時に供養も何も要りませぬ。
わたくしにとって仏教とはかうして生きて居るうちにあれこれとやって大いに悩むべきものであったのであり其れ以外のなにものでもなくだから其の様こそがまさに生前での供養なのです。
其れと宗派などにも限定されたくはありません。
即ちタダの一仏教徒として生きさうして死んでいくのみ。
共に内容はとても素晴らしく勉強になる。
其処では可成に理知的な仏法解釈を為されても居るやうに見受けられる。
特に「悟り」は開けない (ベスト新書)の場合語り口の方はむしろ気さくで分かり易ひのですが、此の方の心の根の方にあるインテリジェンスがそこかしこに滲み出て来て居り結構難解な部分をサラリと仰ったりもして居られる。
さうして理知的なんですが其れもあくまで禅僧としての御意見なんですね。
禅僧は所謂観念論ではありませんので、実践と云ふか実体験から導き出され得るものを大事にしつつ法へのアプローチを続けていく訳だ。
道元禅などはまさに其の究極としての観念論の放棄を目指して居ることでせう。
基本としては勿論さうなのですが此の方の場合に限り一筋縄ではいかぬ。
たとへば様々な社会的な問題に就ひても言及されて居て読んで居て實に為になる。
其れも個人的見解に染まり著しく偏向して居ますが、などとも仏教入門 (講談社現代新書)の方で述べられて居るやうに禅僧らしく所謂ぶっ飛んだところのある法の解釈なのだとも思ふ。
特に「悟り」は開けない (ベスト新書)の方はまさにおススメの禅僧による仏教エッセー集のやうなものです。
其処に示された思考は常に深くまさに明解な論理性でもって此の世の事象につき語られて居る。
全体的には一種哲學的でもあるがたとへば合理的に座禅修行が解説されて居り其処は我我にも極めて分かり易ひ。
さらに教育だの介護だの通り魔殺人だのと云った社会問題にも切り込んで述べられて居る。
社会批判と云ふよりも社会への提言と云ふ形ではあるが社会が無条件に良ひものであるとは考へて居られぬやうで其処はわたくしにとっても随分居心地が良ひ。
また「所有」の価値を批判して居られる。
まあたまたまわたくしも先日其れを述べたのではありましたが。
何故かわたくしも最近良く使ふ「実存」と云ふ言葉なども多用して居られる。
要するに波長が合ふと云ふことかと思われますので一言で言へば「気に入った!」のであります。
一見學者風で論理的な書き方と云ふか知性を感じさせられる文なのだがもっと深ひところ、常識的な論理構造では無ひところからも多角的に問題を論じて居られる。
また何故「悟りは拓けない」のか、また何故「輪廻は要らない」のかと云った南御住職ご自身の思想に関してはさらにもう少し読み込んでみなければならなひ。
何故ならわたくしもまた「悟りは拓けない」と思ひ尚且つ「輪廻は要らない」とも最近は考へて来たからなのだ。
故に其の辺りに就ひてはまた纏めて後日に述べさせて頂きます。
ネット上での御意見なども色々と拝見するに流石に至極ごもっともなことを述べて居られます。
然しかの永平寺で廿年も修行されて居たそうですので兎に角並大抵の方では御座ひません。
此処での論題はほんたうのじぶんですか。
ところでじぶんって果たして何でせう?
わたくしは自分のことがむしろ一番分からなひ。
コイツは利口なのか其れともバカなのかまるで分からなひ。
逆に其れでイイんじゃないかと最近思ったりも致します。
あくまで仏法上は自分がむしろ消えちゃう位の方がむしろイイんでせう。
何せ価値ヒエラルキーの消去を目指す訳なので自分は消へてまさに死んで生きる位のことで丁度イイのでせう。
まあ近代社会は逆に生きにくいですがね、其れでは。
此処で南御住職は縁に規定される自己としての価値、即ち他者との関係を考へたり、或は他者との縁を大切にしていく中で自然に見えてくるものとしての自己、さうしてじぶん以外の部分で規定される自己の重要さを述べて居られますがまさにさうしたことなのかもしれなひ。
ただしかって其の部分でわたくしは過激なことを言ひました。
即ち社会とは縁を切れと申しました。
でも其れは現代文明の奉ずる価値観は偏向して居て危険だから余り真面目に受け取るな、と云ふ意味ででのことでした。
ただし其れはむしろ縁を大事にして生きよと云ふことなのです。
何故なら現代社会の奉ずる価値観に振り回されると何か大事なものを見失ふ公算が強くある。
だからそんなものよりはむしろ共同体での縁や、或は知人との縁や、またたまには田舎出身の人の意見やら、普段は無ひことだらう小学生との繋がりなど、さうした身近な縁を大事にしむしろこちらから積極的に働きかけていくべきです。
さうした面倒臭ひ人間関係がイヤなら其れでもイイのですが、少なくとも其処で良くワイドショーなどでやってる事件や事故の報道、並びに離婚や不倫の報道などには惑わされずしかと地元を生きていく方が良ひ。
勿論地元にも多々問題は生じませうが少なくとも其れは我我にとり生まれつひて関連付けられたもの、即ち縁のあるものなのです。
現代の、特に昨今のグローバルな問題提起と其の問題の共有は元来非常に無理がかかって居るもので其れは近代主義の無制限な適用から生ずることだらう共同体レヴェルでのまさに矛盾であり破壊です。
なので兎に角町内を大事に致しませう。
勿論友達も大事に致しませう。
でも社会を其のままに認め其の言ふ事を全部聞き信じ込んで居てはならぬ。
欲望を是とする社会構築は全的に誤謬である可能性すら大きく存して居りますがゆえに。
(「自由であり、自己決定をする」ということは、実は非常に重荷なんではないかと思う)
以前にも申しましたが、自由とは不自由のことで不自由とは逆に自由のことです。
さらにのべつまくなしの自由は破壊さへをも齎すものだ。
自己決定しつつ自由を勝ち取れなどと現代社会は述べませうがそんなものは其れに向ひた人がやるべきなのでありこんな封建的かつ変わりたくない立憲君主制国家日本の臣民である日本人に相応しひものである筈が御座ひません。
「これが終着点だという線を、宗教や思想が引いてくれるとは思わない方がいい」
思考としての終着点は矢張り自分でつくりあげる他は無し。宗教ですらあくまで参考にしかならなひ。
「むしろ他者との関係を考えたり、他者との縁を大切にしていく中で、自然に見えてくるものがある」
ただし会社関係での特に仕事絡みでの縁は気を付けてむしろ避けて置ひた方が良ひことだらう。
利害関係が絡む縁はむしろ不要である。
(「善悪」というのが一概に言えない)
御坊様でもってかうしたことを述べて居られること自体が素晴らしひ。
「つまりある一つの価値観念みたいなものというのは、何故それが価値観念として自分にとって重要なのか、ということを、ちゃんと自分で見極めていないと、今度は欲望の場合に、その価値観念に振り回されるようになると思うんですね。」
其の価値観念こそが非常に大事です。人間で最も大事なことが其の価値観を正し自分なりに練り上げると云ふことだ。
ただし個としての価値観念は社会的に大いに影響されます。
社会的な価値こそが實は大きひ。
たとへば社会的に規定されし価値には普通誰しもが唯々諾々として従って仕舞ふものだ。
戦争中に戦争に反対する奴はまず居なひのだしもしも反対すれば決まって牢屋行きです。
近代主義がまたは宗教が命は尊ひ、とでもすれば其れは全部のイノチが大事となる訳で其処でもってイノチの負の側面を見詰めることさへもが難しくもならう。
ブランド品はブランド化されているから良ひ訳なのであり、ブランド化されて居なひ価値は二束三文のもので顧みるに当たらぬ。
さう云ふのが實は価値ヒエラルキーに毒されし硬直化したところでの絶対的規定なのです。
其の絶対的規定に寄り掛かるからこそ社会は虚としての価値の構築に勤しんでいくよりほかなくなる。
ですが其れは真の価値追求にはあらず、そんなのはむしろ虚の価値の追求であり其の意味では無価値だ。
ですので価値を与へられる側にじぶんを置ひて居ると極めて危なひ状態だ。
さうして価値は自分で創り出すものです。
世間的な価値に踊らされて居るやうでは其れはタダの屁コキ虫です。
ああ、わたくし?
わたくしはもう思想なんてこれっぽっちも無ひですよ。
ですからもう捨てたんです。
即ち脱思想の境地に居ります。
脱思想どころか脱観念、脱人間、脱物欲性欲ゴルフ欲。
ゴルフはやった方が体にイイですよ。
いや實は頭に来ていましてね。
何故頭に来てるのかと云ふに、ほれ、つひこないだ女子プロが海外の試合で優勝したでせう。
そしたら日本の社会全部が其の子だけを絶賛する訳だ。
其れでもってまさに連日ゴルフ、ゴルフです。
其れまでゴルフのことなんぞかの阿部トランプ対決だけが注目されて居ただけのことで其れも其の日だけのことでした。
どうしてかう日本の社会は下品なのでせう?
所謂節操が無くまさに大衆的即ち屁コキ虫の集まりに過ぎなひのでせうか?
暫くはまた仏法のお勉強の方へと戻ります。
とりあえずは南御住職の本など是非読ませて頂き其処でもってよーく考へてみます。
真面目な話ほんたうに勉強になる、まさにコレぞ本物の禅僧だ、即ち禅即本ー観念ーだ。