目覚めよ!

文明批判と心の探求と

キリストの究極としての観念的営為

 

元よりキリスト教に就ひてはわたくしの場合正式に學んだ訳でも無く其の種の団体に入り活動した訳でも無ひ。

 

よってあくまで文化的な側面から其れを理解し論じていくのだと言ふ他は無ひ。

 

但し父がミッション系の学校の出身者だったこともあり昔わたくしは英会話の教室などで屡教会に出入りして居たことだけは確かだった。

 

 

さてわたくしは今キリスト教を否定せぬばかりかむしろ大ひに認めたひのである。

 

何故か?

 

まさに其れが人間にとっての本質に関わる問題を対象とする宗教であるからなのだ。

 

無論のこと仏教はより根本的に人間にとっての本質に関わる問題を対象とする宗教でもある。

だからこそわたくしは一仏教徒としてかうして今を生きて居る。

 

なのだが、其のバリバリの仏教徒であるわたくしが實はキリスト教を否定出来ぬ。

 

何故ならキリスト教には一面での真理がまさに宿って居るからなのだ。

 

 

キリスト教自体にと言ふよりもイエス・キリストの思想其のものにこそ其の真理が宿って居るのだ。

 

 

 

フルムービー:イエス・キリスト-ヨハネの福音書

 

今回視ることでとても為になったのが此の動画である。

 

まず、以前から感じていたのだったが、イエス・キリストと云ふ人物は極めて潔癖な思考を携へた人物だ。

 

実際此処まで潔癖な精神性を有する人間は他ではまさに仏陀只一人のみ。

 

つまりは仏陀とイエスのみが真の意味での聖人である。

 

仏陀は解脱をなした唯一の人間としてまさに唯我独尊なのであり、イエスは究極の救ひを世界に齎したことでまさに唯我独尊なのである。

 

だから此の二聖人こそはまともでは無ひ。

 

常識的にはまるで理解出来ぬ心理的能力の持ち主なのだ。

 

 

わたくしもまさにフルに詩人的直観力を駆使して彼等に付ひていかうとするのだけれど最終的には何処かで追いつけなくなり其の場合には言葉の檻の中へと逃げ込む他は無し。

 

兎に角理解し難ひこと此の上無く従って世間に於ひてほんたうに彼等の思想が理解などされて居る訳が無ひ。

 

理解したとさう思ひ込んで居るだけのだけのことがほとんどなのであらう。

 

 

さて様々な言ひ伝へからしても仏陀は沈思黙考型の人であったと思われるがイエス・キリストとは一体どんな人だったのだらうか。

 

どうも物凄く理窟っぽい人で逆のことばかりを好んで言って居た人のやうに最近はさう思へて来た。

 

つまり所謂新約聖書が伝へるところでのイエス・キリストの性格とは変わり者其のものと云った感じすらする。

 

どちらかと言ふと不器用、其れも独身男性特有の女無しでの不器用さ、どうもそんなものを多分に抱へて居るやうで何やら其処に親近感さへ抱いて仕舞ふのであった。

 

 

実際兎に角融通が利かぬ。

 

ひょっとすると女なども避けて居られたのではなかったか。

勿論初期の教団には女も含まれて居たが其れはあくまで性的な対象では無く信仰の道連れかまたは飯炊き、洗濯👩としての役回りであったことだらう。

ー飯を炊き掃除して洗濯するだけで当時の不便な生活のこと其れでもって日が暮れて仕舞ひ布教活動などはとても出来ぬ筈ー

 

で、イエス・キリストは何を行ったかと云ふことであるがコレはもうとんでもなひことを仕出かされたのではなかったかと近頃さう思ふに至ったのだ。

 

其れは何かと言ふとズバリ其れは現世の否定だ。

 

現世は普通絶対に否定など出来ぬものだが何故か弐聖人に限り其れを完膚無きまでに否定して御座る。

 

ハアーッ、兎に角其処だけは誰も真似など出来ぬ。

 

 

かようにキリストはどうも現世での価値ヒエラルキーを全否定されて居られる。

 

勿論仏陀も現世での価値ヒエラルキーは全否定されて居られるのだけれど。

 

但し其処からの理性的構築の仕方がほとんど百八十度違ふ。

 

仏陀は全否定したかに見へて實は世界を全否定するには及ばず中道と云ふバランス感覚=佛性にのみ全価値を置ひて居られる。

 

ところが其のバランス感覚の実現=成仏の為には否定と肯定と云ふ両極の思考形式を共に否定しなければならぬのだ。

 

キリストの場合にはもう少し分かり易くー観念的にはー、要するに現世での価値ヒエラルキーを全否定した上で神と云ふ絶対の価値観に再構築し其れを全肯定するのだ。

 

 

では其処で人間の価値はどう捉へられて居るのだらう。

仏陀は基本的に人間の価値を肯定せず。

ところがかつ否定もしなひ。

 

肯定せず且つ否定もしなひところに佛性を生むのである。

但し現世ー人間の社会ーは否定的に捉へられて居やう。

 

キリストは基本的に人間の価値を肯定する。

但し現世に於ける人間の価値は否定される。

 

ならばどうするかと云ふに、キリストの場合は人間としての価値の再構築をする他は無くなる。

 

仏陀の場合は其の佛性を生じさせるやうな生き方=修行!をする他は無くなる。

 

さうして此処に於ひてひとつの大問題が生ずる。

 

 

即ち仏陀の場合は佛性と云ふ価値の実現なのでむしろ価値観が脱構築されていくのだ。

 

即ち佛性には価値のヒエラルキーなど含まれては居なひ。

 

だからこそ元々お寺の序列も坊主の序列もクソも無く価値ヒエラルキー自体がもはや其処には無ひ。

 

でもあくまで佛からすると現世を野放しにすることなどは出来ぬ。

 

何故なら子宮の悪魔的駆動力により現世はやがて腐っていくからだ。

 

であるからこその修行であり諸価値としての脱構築なのだ。

 

 

ところがキリストの場合にはまずは現世の価値ヒエラルキー=悪魔の価値ヒエラルキーそのものなので其れを全部遮断する。

 

此の全否定こそが如何にもイエス様らしく独身男性的な否定の仕方なのでもある。

 

第一妻子などあってはとても全否定など出来ぬことだらう。

 

 

だが釈迦もまた現世をとりあへず否定して居るのでせう?

釈尊は妻子などお捨てになられたのだ。

 

もう妻でも子でも無ひ、とさう決心され現世的価値ヒエラルキーとは明らかに縁を切られたのだった。

 

つまり釈尊は妻子=此の世でのしがらみ、とは精神的に縁を切られ其のことにより一人の独身男性にお戻りになられた。

 

其れでもって修行中は特に👩嫌ひになって居られたのだった。

 

即ち女などは絶対に成仏など出来ぬ!

 

とさうも思われて居たやうだが年嵩が増して或は丸くなられたのか徐々に女に対する見方が甘くなっていかれたやうだ。

 

 

が、兎に角共に独身として布教活動をなされていったのだった。

 

 

 

さても独身などさうもコダワるやうなことか?

 

馬鹿者!

其の独身であるかどうかと云ふことこそが聖俗の閾、聖か俗かの価値観を生む最重要の要素ぞ。

 

そんな女の尻に敷かれまた出来の悪ひ子の養育に気を取られてそれでもって真理の道など歩める筈も無ひではなひか!

 

其の独身であるかどうかと云ふことだけが、おおまさに其れだけが宇宙の真理を攫むか否か、真理に目覚めるか否かの分水嶺のことぞ。

 

 

では独身の方が良いのですか?

 

良ひ。ー真理に対してはー

さうして悪ひ。ー長生きに対してはー

 

即ち生き抜く為には悪ひ。

ところが真理に目覚める為には必須の要件ぞ。

 

 

生粋の独身者であらせられしイエス様は嗚呼、何と現世的価値ヒエラルキーを全否定されるに及んだ。

 

つまり当時の社会の全てを全否定されて仕舞った。

 

羅馬帝国然り、ユダヤ教然り。

 

いや、釈尊もまた確かに社会を捨てては居られた。

 

社会とは無関係に修行へと走られたのであるからある意味では其れは否定する以上に酷ひ社会放棄だ。

 

なのだが、別に釈迦族を否定して居た訳では無くまた国家を否定されて居た訳では無ひ。

 

即ち思想犯では無かった。

 

 

ところがイエス様は其の思想犯其のものとおなりだった。

 

普通は其れは出来なひ。

 

どだい現代文明の中に居ながら現代文明を全否定することなど出来ぬ。

 

でもわたくしに限り其れに近しひことを確かにして居りますが。

 

ただわたくしは行動など決してしては居なひぞよ。

 

駅でビラ配ったり絶対にかうしなければならぬなどとはまるで言って居なひ。

 

タダかうした方が良ひのではないでせうかと其のやうに至極穏やかにお話して居るだけのことで無論のこと命令して居るのでは金輪際無ひ。

 

 

ところがイエス様は実際に行動されてしまわれたのだった。

 

其の思想たるやまさに過激でせう。

 

謂わば神の王国の王が神の子キリストなのでもはや其れは自分が神だと吹聴して回って居るのと同じことではなひですか。

 

普通は其処で頭のおかしひ奴が妄言を語って居るとさう見られる訳だ。

 

事実パリサイ人はさう判断し神を冒涜する者としてイエス様を亡き者にしやうとして居た。

 

一方羅馬帝国にとっても彼イエスの考へは大危険思想であった。

 

現世を全否定すると云ふことは、其れ即ち羅馬帝国による統治を否定することにも繋がる。

 

ましてや神の子キリストは無論のこと羅馬皇帝よりもずっと偉ひ訳だ。-次元が違ふ程に偉ひ-

 

 

ですので、イエス様は其処でもはやこれ以上なく反社会的であらせられたのであり、従って其の反社会性こそが社会に問われ磔の刑に処せられて仕舞ふのだった。

 

然し、考へてみれば此処まで直球勝負にて社会と闘った宗教家は他には何処にも居らぬ。

 

エス様こそがまさに社会と刺し違へた宗教者であり革命者であった。

 

 

其の神の王国こそがまずは現世を全否定することで構築される究極としての価値なのだ。

 

即ち現世的価値ヒエラルキーを引き摺るものでは無ひ。

 

此の世では決して成らぬ価値を死後に再構築するものなのだ。

 

即ちあへて次元を違へた上でようやく其処に達成され得る救済としての価値こそが神其のものの価値なのだ。

 

 

其の神とは至極観念的なものである。

或は抽象的なものだ。

 

が、其れを言へば釈迦の思想もまた怖ろしく観念的なものだ。

 

どちらがより観念的であるのか区別がつかぬ程に抽象的なものだ。

 

要するに聖人級の観念対決なのでどちらも常人の理解の域を超へて仕舞って居り共に似たり寄ったりと云ふことにしかならぬ。

 

 

が、神と云ふ概念は要するに救済=他力本願と云ふことであり釈尊御自身が説かれた自力本願とは逆方向での観念的傾向を持つ。

だが結果的に仏教は自力本願に於ひて布教に失敗したとへば現在我が国では他力本願のキリスト教的仏教である浄土教系の宗派が幅を利かすに及んで居る。

 

わたくしは其の他力本願にはずっと疑ひの眼差しを向けて来て居た。

 

なのだが現実として現世での方向性は明らかに他力本願の方を向ひて居るのだ。

 

つまりは人間と云ふものは其れ程に理性に欠けしかも悪に染まり易く信用ならぬものなのだ。

 

其のどうにもならぬ、まさにどうしやうもなひ人間共を救ふのはむしろ他力本願の教義なのやもしれぬ。

 

 

が、わたくし自身は他力本願にはまだ頼りたくは無ひ。

 

とりあへずは禅の方を學んでいかねばならぬ。

 

但しキリスト教は凄まじひ宗教であったことが最近初めて分かった。

 

謂わば其れは究極としての観念的否定から発しむしろ其れ故に究極としての観念的肯定へと至るものだ。

 

中途半端なものでは無く、人間の観念としての限界を其処に指し示すものである。

 

世界の全否定から全肯定へと至る、其のプロセスの中で神は抽象的なものから具象的なものへと生まれ直すのであり其の過程こそがイエス・キリストの観念的内容其のものなのだ。

 

 

特にわたくしが感銘を受けるのは其の救世主としてのイエス・キリストの信仰の強さである。

 

社会全部を敵に回してもなお死の瞬間まで保ち続けた信念としての強さ、まさに其れが人間の業では無ひことは確かである。

 

よってキリスト教とはある意味で悪夢としての現世での価値を逆流させることで永遠なる真の価値に至ると云ふ観念的革命のことなのだ。

 

社会主義革命などに比せばむしろずっと大きな精神的革命のことなのだ。

 

まさに霊的な次元にて行われる革命、あらゆる価値をあの世でもってして逆に構築する観念としての究極の革命なのだ。

 

 

尚其のあの世と云ふことに関してはクリスチャンの方々には異論もまた生ずることかと思ふ。

 

或は具象的に死んだ者が再び此の世に戻り神の王国は建設されるのだとさう以前に聞ひた覚えもある。

 

だが具象的な世界に其れが成らぬことは縁起の理法からもまた明らかなことだ。

 

其れでもクリスチャンの方々は所謂奇蹟の力を信じて居られるのやもしれぬ。

 

実際上での動画でもさうなのだがイエス・キリストには数々の奇蹟を行ふ能力が事実としてあったやうだ。

 

其れでもわたくしはイエス様が常に霊的に救われると述べて居られたことを思わずには居られなひ。

 

 

おそらくは救世主としての観念には霊的にのみ人間は救われるとの理性的判断が宿って居たのではなかったか。

 

事実人間は救われ難く其の価値観だってなって居なひ。

 

其れを其れこそ全的に救ふことが出来るのは霊的に構築されし全能としての神の世界でしかあり得ぬことだらう。

 

つまりは悪魔の支配せし現世を生きる他は無き人間が其の対義=眞逆としての神の領域を生きるのはまさに死んでからのことなのだ。

 

死なずば、天国の門など開かれやう筈も無ひ。

 

いや、確かにしかもクリスチャンの方々には生きてすでに天国の門が開かれて居やう。

 

其れを可能とするのがまさに信仰の力なのだ。

 

 

でもわたくしはクリスチャンでは無ひ。

つまりは非クリスチャンである仏教徒だ。

 

だがイエス・キリストの観念的営為には常に敬服の念を感ずる者だ。

 

救世主が観念の力の限界まで其れを示したと云ふ点に於ひて其処に常に敬服の念を感ずるのである。