尚此処でもってわたくしは常に本質的に問題を吟味して居るのであり其れ以外のことをどうのこうのと考慮して居る訳では無論のこと無ひ。
さて、では女は何故怖ひのであらうか?
何故女は其の悪魔たり得るのであらう?
ひとつには👩は矛盾的な存在であるとかねてよりわたくしは述べて来た。
ところが、生きることの実現に対しては其れは常に直球勝負なのだ。
謂わば直球の欲望の持ち主だとさう言ひ換へても良ひ。
だからこそ矛盾化するのである。
何故なら世界は限定で、其の直球の欲望を実現すべく用意されし世界では無ひ。
従って女の罪障とは此の子宮思考=愛の矛盾的展開にこそ存して居やう。
即ち生への直球の欲望がむしろ破壊を齎すのだ。
まずはかように女は怖ひものです。
女は打算的、即物的に物事を評価し根本的には現実をのみ生きて居ります。
其れに生に対しては常にしたたかで其の故にか意見や態度がコロコロ変わったりもする。
即ち彼女にとり其の打算的現実こそが価値の中心となるのでいったん其の価値を外した事象は即無価値化するのです。
勿論男性でもかうした内面での価値転換のやうなものは屡引き起こされることでせうが、但し男性の場合は観念的に世界が構築されて居る可能性が高く其処で女性程本能的に矛盾が推進されていく訳では元より無ひ。
そんな女性にとり一番理解し難ひのは男性による観念死ではなひだらうか。
たとへば藤村 操や芥川 龍之介による観念的自死、また最近では西部 邁先生の自裁などが其れに当たるのではなひか。
尤も藤村 操や芥川 龍之介の自死は自己否定をも含む所謂煩悶死であり、西部先生の死はむしろ自己肯定としての客体への破壊死ですので違ふと言へば違ふのでせうがいずれにせよ共に観念的死であることには変わりが無ひ。
其れからもっと分かりにくひのが三島先生による国家への殉死である。
また釈迦の思想なども本質的には女性には理解出来ぬ筈。
釈迦の思想又は古代印度の思想や中国の神仙思想などは其の♀的なものとは正反対なところに位置する観念的な価値でありある意味では極めて♂的な価値観に基づき構築されしものだ。
何故なら此の世から消え去ること及び此の世を捨て去り生きることこそが子宮による生の大肯定と云う本能とは真逆の価値観を形成するものであるのだから。
其の理解など出来ぬものを、まさに信心だなどと言って存外に女共は信仰を貫ひたりするものですが其処がまた謎と申しますかまさに矛盾的であり理解し難ひ部分での最右翼だ。
其れが一種動物的であり感情的でもあるが故に余計に理性にとり理解がし難ひものなのだ。
が、子宮思考からすればまさに煩悶死や自裁死は理解し難ひ訳である。
永遠の生への信心のやうなものを👩は誰しもが抱へて居り其の生に対する信心の上での価値観を形成するが故に批判的理性からすると余りに其れは短絡的でしかも動物的なものにさへ見へて仕舞ふ。
だから兎に角本質的には理性に欠けるのが女の本質ではありませうが、但しごく稀には理性的な👩も生息するものだ。
何故なら男女の差と云ふものも相対的な差であり絶対的な差異などでは無ひ。
事実誰もが最初は男にも女にもなり得る体でもってして母胎に入って御座る。
生まれてからも性別が転換する可能性が精神的には存する。
但しほとんどの場合は所詮女は女でしかあり得ぬ。
まさに其処こそが怖ひところなのだ。
さて此処には「九相図」のことが論じられて居り此の度其の内容を興味深く読ませて頂きました。
「中世の仏教説話を読んでいくと、必ずしも女性の死体のイメージというものが、男性に対してだけメッセージを発信しているわけではないことがわかります。説話のなかでは、女性に対しても、罪障の身である自分自身の存在の危うさを自覚し、その上で発心することで、他者をも導くこともできるという女性教化の側面が語られています。
また、より現実的な問題として、日本中世仏教において、女性の信仰を集めること、あるいは高位の女性からの経済的支援を獲得していくというのは、教団や寺院にとって不可欠な戦略でありました。女性たちに訴えかけるダイナミックなイメージとして、九相図が用いられたと考えることができます。」以上より
流石は共立女子大の先生の仰ることで、如何にも知性的な分析の内容です。
知的でしかも其れなりに美人に見へかういふ大學の先生はまさにわたくしのタイプです、タイプ。
確かに其の罪障の身である自分自身を自覚することでこそ女性は女であることを超越し得るのではなひだらうか。
尤も母であること、是こそがまずは生への愛=生への欲望を普遍化する第一段階です。
が、母になれば矛盾化による破壊が無くなる訳では無くむしろ無限に其れが続ひていくことともならう。
何故なら母がポコッと子を産むからこそ戦争も起きれば諸の対立も生じて来るからです。
しかしながら一段階高ひ次元=アガペーや慈愛の次元で其の愛が発揮されるとなれば無論のこと女の本質的罪障など全て消へて無くなりませう。
わたくしは正直申しまして女子教育のことにつき疎ひのではありますが、とりあへず女の本質的罪障を理解すること、まずはコレこそが全女性にとり最も肝要な学びかと存じます。
其の罪障の理解とは一言で言ふと生に対する批判的な視点であり謂わば正と負の負の部分をしかと理解する心のあり方=理性的展開のことだ。
何故なら👩の頭の中身こそは矛盾化しておる。
矛盾化するが故に肉体=本能のドレイとなる他は無し。
さうしたカラクリにて永遠に本能的駆動をなすものがメス的なものの本質にて他のどんな浪漫でも無くマイナス思考なのでも無ひ。
つまりは永遠なる+思考こそが女共に与へられし本質的罪障だ。
ところが釈迦やキリストでさへもが其の女から生まれる他は無し。
我も君も皆女から生まれ高僧でさへまた羅馬法王でさへ皆其の女から生まれる他は無し。
さうして女こそが此の矛盾に充ちた世界の母であり推進力だ。
であるからこそ👩が目覚めればまさに世界は其れ自体が救われやう。
確かに女は心理的に罪障が深くあり救われにくひ。
なのだがおそらくは聖母にもなれ、また菩薩にさへなれやう。
其処で決して希望を失くしてはならぬ。
さうだ、さうして檀林皇后のやうに反省力を我がものとせよ。
死ぬるとかように誰もが醜く朽ち果て最終的には無に帰するのだ。
むしろ其の死こそが唯一の実体であり生きて居ること其のものは嗚呼まさに夢幻の如きものであるに過ぎぬ。
だから其処に何故大欲望の花を皆が咲かせたがるのか、むしろわたくしにはそこんとこだけが理解出来ぬ。
わたくしなんぞは兎に角かねてより行方不明死を願ふて居り出来得れば何処か其の辺の山にて深ひ穴にでも落ち腐り果て白骨となり立派に往生したひものだとさうずっと思ひ続けても来た。
ところが念願と云ふものはなかなか叶わぬものでさう言うておる我に限りキチッとした病院のベッドに縛り付けられながら死を迎へたり或は所謂畳の上でしか死ねぬのやもしれぬ。
此の世では何故か一番イヤなところがまずは身に降りかかって来る故常に願望とは逆を考へておかぬとイザさうなりし時に絶望に陥る可能性が高ひ。
なのでイヤだと言って居るのに👩がくっつひて来る可能性すらもが實はある。
かようにイヤじゃイヤじゃとさう日頃思って居ると往々にして何故かそこんとこが突かれて逆の目が出るものと相場は決まっておる。
だから逆にイヤなことに限り好きじゃ好きじゃとさう思うて居ればほんたうのじぶんのしたひことが何故か其処に実現するものだ。
兎に角生前は美貌でもって高貴な身の上であった檀林皇后でしてからもがこんな風に死ねばタダ腐っていくばかりなのだ。
要するにコレは生への執着への戒めなのだ。
ところが現代は逆に其の生への執着の範囲をより拡げて来て居やう。
其れもよりによって要らぬものばかりを寄せ集め謂わば欲望を抽象化することにより顛倒の範囲を拡げて来てもおる。
其のやうな不埒な様に一番薬として効くのがまさに此の「九相図」なのではなからうか。
従って此のやうな負のエネルギーのものは政治家や企業の要職者などに是非観て頂きたひものなのだ。
逆に庶民が観るやうなものでは無ひ。
第一タダでさへ悲惨な庶民がコレ以上悲惨になったらもはや目も当てられぬではなひか。
さて、僧侶には実際に死んで腐っていく女を具に見る修行などもあったとされて居るが其れが何時頃のことであったのか定かではなひ。
おそらくは時代の変化により合理的なものの見方が重視されるに及び次第次第にかうした女性蔑視的な諸の見方が影を潜めていったことであらう。
但しわたくしは其れが女性蔑視に繋がるなどとはまるで思って居なひ。
何故なら合理的に捉へる程に逆に女性の心理の持つ矛盾の部分が炙り出されて来るからだ。
たとへば釈迦は可成に理性的な方であらせられた訳だが女性に対しては当初可成に冷淡で其処で成仏の機縁はまず無しなどと考へて居られたやうである。
キリストも女性に対して存外に冷淡で母マリヤ様のことなど時に此の女は、などと酷く他人行儀な態度でもって冷たくあしらわれて居る。
其のやうに聖人にとって👩はさほど魅力的な現象では無ひ旨を我我現代人はしかと知る必要があるのではなひか。
現在は特に女が目一杯に持ち上げられて居る社会なので逆にわたくしなどは良ひ世の中では無ひとどうしてもさう思って仕舞ふ。
むしろ👩が家事労働に精を出す真の意味での良ひ世の中が来ぬものかともう其ればかりを願って居るやうな始末なのだ。
が、理性的な女性は確かに魅力的だ。
そんな女でもわたくしが理性勝負で負ける筈など無ひのだがむしろ負けて足蹴にされてみたひ気が何処かに無ひと言へばウソになる。
そんな時は是非ツンツンのハイヒールでもってわたくしのカラダを思ふ存分に踏みにじって頂きたひものよ。
つまりはわたくしのコノ知力を超越する程の知力の持ち主としての👩ならば即負けてやっても良ひ。
其れにどう踏みにじられても結構。
ドレイにだってなりますぜ。
わたくしは見ての通りに優しひのでわたくしの愛に応へて呉れた女の面倒は骨になるまでみてやる積もりで居りました。
でもさうした真心に限って何処へも通じずだから其の鬱憤晴らしにかうして嫌らしひことばかりを毎日述べて居るのです。