目覚めよ!

文明批判と美の探求と

馬鹿と利口の区別

馬鹿と利口の区別はどう付くかと云ふに、其れは全体に対する均衡力を持つか持たぬかである、とわたくしは十年程前から定義するに至った。

要するに其のバランス感覚の問題である。

 

まず、馬鹿は「全体」など見て居ない。

馬鹿は必ず「部分」に固執し結果的に至極利己的だ。

其の例としては大衆がまさに其れに当たる。

 

対して全体を見られる人は利口である。

但し先に述べたやうに、利口にも色々と種類があり、たとへば知的に優れし學者系、感性的に優れた藝術家の系統、また心理的に優れた宗教家的気質などだ。

 

「全体」を見られる力とは理性の力であり、理性の力はより顕在化した形では人間にしか備わって居なひ。

 

では狢はバカか、又は細菌やアメーバ、サルやおたまじゃくしや回遊魚は皆バカか?

 

實はバカでは無ひ。

何故なら理性がより少なひと云ふことでバカが決まる訳では無ひ。

 

では何が馬鹿なのか?

 

バカとは理性があるのに「全体」を見ぬ者のことを言ふ。

 

 

さて、かの宮澤 賢治こそがまさにかって其の「ぜんたひ」のバランスのことを常に見詰め人間にとっての「ほんたう」の幸福を追求して居たのであった。

其の「全体」とは何か?

 

結局わたくしは其れを全体論として規定するに至った。

 

ホーリズムHolism)とは、あるシステム)全体は、それの部分の算術的総和以上のものである、とする考えのことである[1]。あるいは、全体を部分や要素に還元することはできない、とする立場である[2]

すなわち、部分部分をバラバラに理解していても系全体の振る舞いを理解できるものではない、という事実を指摘する考え方である。部分や要素の理解だけでシステム全体が理解できたと信じてしまう還元主義と対立する。全体論と訳すこともある。」ホーリズムより

 

たとへば人間は物質のカタマリでもってして手や足や腰や頭などで形作られて居やう。

其の手や足や腰や頭が組み合わさり人間が現象して居ることは其処に疑われるべくも無ひ。

 

だが其の手、足、腰、頭を個々に幾ら詳細に探査したにせよ何処にも人間など隠れて居なひ。

 

だからそんな部分ばかりでは人間のことなどまるで分からずむしろ人間に就ひての誤った認識を繰り返すばかりのことと必然的にならう。

 

また、其処には心理的な要素も考慮されて居なひ。

 

いやいや、精神分析学やユング心理学の方で其れはしこたまやって来て居りますぞ。

 

ですから其の精神分析学やユング心理学其れ自体がつまりは分析心理学なので其れと同じことです。

 

つまりは全体が見へて居らぬ。

 

 

そんな訳でもはや人間には或は文明には全体など見へて居なひのだ。

 

全体とは歴史のことですか?

 

まあ歴史も入るのでせう、おそらくは。

 

 

問題は手や足や腰や頭が組み合わさると人間と云ふ何かとても特殊なものが創られると云ふことなのだ。

即ち其れは物質的次元を超越する精神的価値でもあるので、實は其処に於ひて初めて人間たり得るのだ。

 

では狢又は細菌やアメーバ、サルやおたまじゃくしや回遊魚などに精神的価値は無ひのですか?

 

無ひ。

 

但しかういふことだ。

 

其れは精神的価値に寄り掛かる必要が無ひだけより高等、と云ふか生命としてはより安定して御座る。

逆に精神的資質に特化して生きざるを得ぬ人間は極めて特殊でつまりは変わってる。

 

変わってるのに自分が偉ひと逆に思ってる。

其処が兎に角理解出来ぬ。

 

もうまるで変態的なのにじぶんは神だと思ひ込んで御座るところがわたくしにはまるで理解が及ばぬ。

思ひ込むつまりはさう信心して御座る。

 

信心、其れは大事なので常にやらねばならぬことだらうが信じ込むことの其の対象がそも間違って御座る。

 

では文明はまたは人間は間違ひなので?

 

 

ズバリ間違ひだ。

 

大宇宙に生じたたったひとつの誤り。

即ちひと夏の誤ち其のものなのだ。

 

 

何でかと云ふにまずはバランス感覚が欠如しておる。

其れにのべつまくなしに淫蕩だ。

 

おまけに全体性をまるで理解して居らず。

 

ひょっとして人間嫌ひなのでは?

 

さもありなん。

 

だが問題はわたくしの人間に対する批判力其のものにあるのでは無くおまへ其のものにある。

 

おまへは何だ、一体何者なのだ?

 

 

そんなことさへもが分からぬのか。

 

我こそは君の分身だ。

 

謂わば抽象的な力の一方の極での具象物の化身なのだよ。

 

 

さうでしたか、ありがたう、良く分り申した。

 

 

さて問題は此の全体性への断絶が文明の危機を其のままに表して居るのではなひかと云った部分である。

 

まさに木を見て森を見ず、全体としての森を理解することなく部分性に拘ること=所謂還元主義的認識手法がひょっとすると現代社会に於ける全ての問題の中に横たわる過ちとしての核心部なのやもしれぬ。

 

 

 存在論全体論 構成要素の物理量の総和ではない全体もある

 特性論的全体論 構成要素の特性の総和ではない特性を持つ全体もある

 法則論的全体論 構成要素の構造や行動を決定している基本的な物理法則で決定されない法則に寄っている全体もある

全体論 ー科学に於けるーより

 

分離不能量子力学では、2つのものを同時に測定するということがその2つを一つの「全体」に組み込んでしまうことになるのです。

 2つのものを評価した途端に、2つの対象はシステムになります。

理論負荷性「科学的観察は観察者の持っている理論によって、解釈され意味を持つ」

 

全体は部分の総和以上であるー全体とは人智を超へた領域を含む領域のことで部分の足し算ではなく謂わば掛け算のこと

 

 

 

 

尚社会科学の分野で屡言及されて居ることがあり其れは「統治」の劣化でありエリートの劣化です。

 

「官僚の劣化」が教える3つの人事教訓

 

其の財務次官の辞任の問題にも、また今回の教師による教師のイジメ問題の核心にも、理性の劣化=幼稚化と云ふ大問題が實は横たわるとわたくしは見て居ます。

ところが、官僚にせよ教師にせよ基本的には利口であり即ち理性的に全体が見渡せぬ訳ではありません。

 

なのに全体性を見失ふ部分が一番の問題である訳だ。

 

其の全体性とは然しあくまで個としての知的要素なのではなひか。

 

何故なら集団化して発揮される力には何故か全体性が伴わぬからなのだ。

 

たとへばナチスドイツや軍国主義には其の全体性が理解出来て居ません。

ナチスドイツや軍国主義は所謂全体主義ですが全体論では無く謂わば還元論なのです。

 

即ち利口はむしろ集まるとより利口にはならず逆にバカ其のものとなり易ひ。

 

元々集団と云うのは群集心理でもってしてバカなことをし易ひものです。

 

ですが、官僚の劣化と教師の劣化が即現代人の知的な劣化を示すと云ふことではおそらく無ひ。

 

 

さうではなく見方の方こそがオカシヒ=認識が倒錯して居る、のだ。

 

つまるところ利口が閉鎖的な環境の中でぬくぬくと生きることで真の意味での苦労をして居なひ。

 

苦労つまり金欠病気罵倒されるなどの人間苦を経験して居らぬ。

 

ところが逆に苦労すればするほどに全体のことがやがて見渡せるやうになる。

 

 

認識が全体論にまで達すればある種達観した部分が出て来下らぬ理性的劣化に付き合って居るヒマがむしろ無くなって来やう。

 

即ちかの宮澤 賢治のやうに常にぜんたひの何たるかを考へるやうになりまた人間にとってのほんたうの幸ひとは何かと云ふことのみを認識の対象となすことが出来やう。

 

だから其れがほんたうの意味での理性の使ひ方であり、即ち理性とは何かと言へばズバリ其の全体論なのだ。

 

自然科学者、此の者共もまたぜんたひのことなどまるで分かって居らず其れは何故かと云ふに部分的に自然をほじくってばかり居るからだ。

 

其れでもって其処に大成果をつひ期待するので逆に何とか細胞はあります、などとつひウソをこき上司の立派な科学者が自殺するに及んだりもするのである。

 

だからそんな何とか細胞などまるで要らぬぞよ。

 

金輪際要らぬわ。

 

何とか細胞もエーアイなどもまるで要らぬわ。

 

 

今人類に必要なのはそれぞれの個にて考へる孤独な時間だ。

 

無論のこと大衆としてのおバカさん方もそれなりに其処で考へなければならぬ。

 

官僚だの學者だの教師だのそんなものは勿論余計に考へておかねばならぬ。

 

 

政治家?

 

元より政治家に理性などは無ひ。

 

理性が無ひからこそ政治家としてさうして動けるのだ。

 

なので其の根本のところでの理性としての認識がなって居らぬ。

 

 

かねてよりわたくしは理性の自己矛盾化と云ふことにつきクドひ程に述べて来ておる。

理性の原始退行と云ふひとつの學説を提唱し現代社会に於ける理性的展開がなーぜ自己矛盾に陥っていくのかと云ふことを具に述べさせて頂ひた。

 

即ち理性的だと確信しつつ行ふ行為がむしろ原始的な感情の方へとなだれこんでいく。

理性的だと言ひながらさうしてすぐに女に触りエロへと流れ込んでいく。

 

だからそんなものは理性では無くかの宮澤 賢治のやうなまたマックス・ヴェーバーのやうな理性こそが真の全体知だ。

 

人間に全能知など元より望むべくも無ひが其の全体知を目指すことは真の理性としての義務であり責務である。

 

折角其処までの利口に生んで貰ひしものを何でまたじぶんからおバカの方へと擦り寄っていく必要が御座りませうや?

 

 

また強欲グローバリズムにせよ、新自由主義による格差社会の蔓延にせよ、おそらくは根はひとつ、即ち其の全体が見へて居らぬ視野狭窄の様にこそあらう。

 

すると観念的視野狭窄、即ち抽象化による視野狭窄としての病根が其処に炙り出されても来やう。

 

故にわたくしは今其の人間の頭が生み出す抽象性につき批判を行ふのだ。

 

人間が何故抽象度の高ひ思考回路を持ちさらに其れを進展させることによってしか幸福度を得られぬのか。

 

と云ふ根本のところでの問題には實は答へなど出ぬ。

 

だから其処を問ふのでは無く其の抽象性の使ひ方の誤りにつき指摘を行ふ。

 

 

では其の抽象性をどう使ふのか?

 

さうさな、まずは社会的に其れを使ってはイカン。

 

社会的に使われし人間の抽象性は如何にも矛盾化し易くならう。

 

 

でも常に人間は社会的な動物ですが。

 

其れを言へば🐜だって社会的な動物だらう?

 

でも地球を破壊して居なひのは彼等には理性が無ひからだ。

 

理性と云ふものはそんな風に謂わば大破壊兵器なのだ。

 

まずは其処をこそ知るべし。

 

 

「エリートほどバカである」残念な国家の末路 非エリートよインテリジェンスを鍛えよ

 

鎖国下に於ひて日本人が正しく学びじぶんの頭にて考へて居たと云ふ以上での指摘には賛同出来る。

但し現代に至りエリートにせよ非エリートにせよ理性の持つ真の意味での意義と其の危険性とがまるで分かって居なひ。

 

自然科学が成し遂げし部分的成功に気を良くしもうこれで地球を征服したも同じことだなどと嫌らしひ背徳の志を抱いて居やうがまさにそんなものは悪魔の意志其のもの。

 

さうではなくこれからは心を入れ替へ大人しく自然の猛威に晒されていきます。

 

神様仏様に日々祈りを捧げつつ滅亡への坂を静かに歩んで参ります。

 

だからどうかどうか其の御怒りを御鎮め下され。

 

たとへ陽に焼かれ水に呑まれ吹き飛ばされやうがどうしやうが、雨にも負けず風にも負けずどんな御怒りにも負けず必ずや、必ずや理性の全体性をば回復してみせますが故にどうかどうかいま少しの猶予をお与へ下され。

 

 

其の返答は×です。もう待った無しでの荒れ狂ひだぞよ。

 

かように人間にはまるで反省力が無ひ。

 

もしも反省力があるのであれば、まずは科学者は何処までもリヤカーを引いてみてみよ。

さうして官僚は社会の底辺での仕事など経験してみよ。

教師は宮澤 賢治の滅私奉公での生き様をこそ信仰すべきだ。

 

つまりは反対をやれ。

今やって居ることの逆をやれ。

 

理性を持つ奴に限り其の反対こそが薬となるのだ。

 

わたくしにとっては矢張りと言ふべきか酒とギャンブルと女とが薬になるのかな。

 

其のイヤなものこそが實は薬ぞ。

 

 

まずは理性の抽象性の齎す罠に気付け!

 

次に其の抽象性をば具象的に巻き戻してみよ!

 

左様に変なところで価値ヒエラルキー化をするな!

 

其れに神仏を敬へ!

 

此の際🐜にでもなれ、🐜に。

 

尤も🐜になれたにせよ安心すべきでは無ひ。

 

 

何故なら、嗚呼、今こそ文明がかの🐜地獄でのやうに何処までも落ちていかうぞ。