ー現在の状況は、言うなれば正常な状態の終焉だ。文化や文明をはぐくんできたこれまでの気候システムは死んでしまった。地球を繰り返し痛めつけているここ数年の気象状態は、これまでに起きていた気候変動の産物だ。
仮に二酸化炭素の増加をただちに止めることができたとしても、すでに排出した分が作用して温暖化は続く。もちろん実際にはゼロにするどころか、排出量は逆に増えつづけている。いま起きている惨禍(さんか)は、温暖化とそれがもたらす気候崩壊のなかでも「最良すぎる」状況なのだ。
気候変動が牙をむいたら、攻撃は単発では終わらない。猛攻が連鎖し、破壊が連続し、地球は何度も痛めつけられる。暴力はしだいに強さを増して、長い間当たり前だと思っていた風景が一変する。
自然に手を加えてつくりあげてきた世界が、自然から私たちを守るのではなく、自然と共謀して陥れようとするのだ。
気候変動を減速させるフィードバックもないことはないが、加速するほうがずっと多い。複雑で、時に相反する作用がフィードバックし合うことで、どの影響が拡大し、どの効果が弱まるのかまだわかっていない。
非現実的であるとはいえ、気候変動の最善のシナリオは想像しやすい。なぜなら、いまの生活とほとんど変わらないからだ。しかし、悪いほうの予想が当たったときのことは、まだ誰も考えていない。
いままでさんざん大気を汚してきたのは、地球の北側である。ただ、持たざる側が過剰に負担を強いられるとはいえ、気候崩壊の影響を発展途上諸国にだけ隔離することはできない。北半球諸国が内心でそう望んだとしても、気候崩壊は北も南も差別しないのである。
国際的な協力体制にとって最大の脅威も、地球全体を揺さぶる気候変動だろう。さらに、協力体制が必要なのにもかかわらず、共同責任から離脱しようとナショナリズムの殻に閉じこもり、私たちはそうした体制を解体する方向に動いている。いまの世界は、信頼の崩壊も連鎖しているのだ。
気候崩壊の連鎖はこれだけではない。水不足や凶作が生み出す気候難民が周辺地域に押しよせると、資源の奪い合いになる。
世界銀行は、二酸化炭素の排出が現状のままであれば、南アジアで2050年までに8億人の生活状況が悪化すると予測している。さらに、2100年には気温が4℃以上上がることを考慮すると、ここ40年は世界全体で5パーセントに達していない経済成長がほぼ帳消しになる。
1億5000万人というと、ホロコースト25回分に相当する。歴史上最も多くの犠牲者を生んだ第2次世界大戦全体の死者と比較しても、2倍以上である。気候変動が「存在を揺るがす危機」と呼ばれるのはこういう理由によるだろう。
ホロコースト25回分の死者と被害が最善で、人類滅亡の瀬戸際が最悪のシナリオだ。私たちは極端な2つのシナリオの間で、行き当たりばったりに揺れ動いている。異常な事実と、極端なシナリオをもとに展開されるこのドラマは、規模が大きすぎて、いま生きている私たちだけでなく、未来の人類まで巻き込まれることになる。ー億人単位の死者も危惧される温暖化の甚大影響より
さてところで気候は何故死んだのか?
或は死に向かひ歩みつつあるのか?
本質的には其れは価値観が誤って居るからだ。
人間のさうして文明の誤った価値の「今」が問はれ続けて居るのだ。
其の「今」には二種があると以前わたくしは論じて居る。
其れは抽象的現在と具象的現在である。
文明は主に此の抽象的現在を生きる。
だが其の抽象度が高くなった時点で自然ー環境ーとの関係が断裂し始める。
具体的に言へば其れが近代以降でのことなのだった。
其の逆に具象度の高ひ生命としてのあり方を考へてみやう。
まさに其れが自然其のもののあり方のことだ。
そんな自然には本来逆の要素が鬩ぎ合って居る。
合理性と不合理性、美と醜、瞬間と永続性のやうに正反対の要素が絶妙のバランスにて成り立って居る。
まさに其れが自然と云ふ尊き宇宙でのシステムのことなのだ。
だが其の自然は神其のものでは無くましてや佛其のものなのでも無ひ。
以前から申して居るやうに、神佛は人間にこそ要るものなのであり、自然其のものには要らぬものなのである。
でも相対的には人間にとり自然もまた神佛の化身のやうなものでもある。
人間の生活、其れも社会化されし文明生活ともなれば、元々其れは須らく抽象的現在を生きて行くこととならう。
狩猟採集での素朴な社会関係から農耕や牧畜の手法を生み出し其れに基づく富から計画性を導き出すのが人間の社会の根本的な意義である。
其の計画性のよる生=想定される生の形こそが實は大問題なのだ。
第一かのエデンの園ではまさに人間は動植物や岩や地と寄り添ひ謂はば神の御手の内側を生きて居たのである。
だが人間は其処でつひ魔がさして智恵の實を食って仕舞ふ。
喰ってはイケナヒとさう神に諭されて居たと云ふのに👩の邪な欲望と其れに従う👨の浅慮によりまさに其の大罪を犯して仕舞ふのだった。
見てはイケナヒと言はれると決まって見たくなり、やってはイケナヒと言はれる決まってやりたくなる其の邪なる人間の弱き心。
そんな奴等は一度位動物に喰はれてみなひともう何も分らなくなって仕舞ふのだ。
👩の邪な欲望=子宮の魔力にかうして世の男共は只従属的に従ふばかりだ。
即ち人間の諸価値とは其の子宮の魔力に基づき形成されて行くものである。
だが其れは魔力であると同時に生命を育む自然界の意志=本能の世界の意志の体現者なのでもある。
其のやうに子宮の力とは元来二元分離的であり其れは自然界の掟ー自然の摂理ーに寄り添ふものなのでもある。
人間界での抽象的現在に於ひて其の自然が守られて居るかどうかはまた別の話であらう。
理性的分別の強化により人類は進歩を成し遂げて来たのだったが、先に述べた男女の関係によりむしろ子宮力により其の進歩が推進されて来たのであらうから。
いずれにせよ👩とは至極罪深き現象である。
尤も其れは動物の♀が罪深ひのでは無く人間の女と云ふ女が兎に角罪深ひのだ。
今後気候が死に絶へて行く其の過程の背景にはかうして人類が生まれながらに背負ふ罪や煩悩と云ふ心の価値のあり方が深く関わって居やう。
だが神や佛が死んだ現代では其の最も重要な筈の価値であり認識である心の領域が何故かなおざりにされ誰もが其の罪乃至は煩悩を自覚しやうとはして居なひ。
しかしながら其の近代的な進歩主義には其処で捉へられて居なひ大きな盲点がある。
其れは進歩概念により文明社会が高リスク化すると言ふことなのだ。
文明其れ自体が極めて高ひリスクに晒されて行くと云ふことだ。
だが其れを一般人は認識しなひ。
何故か?
何故なら一般人とは少なくとも子宮の欲望が生み出す其の社会の流れには逆らへぬものなのだから。
さうして誰しもが自分は善人でもって悪くは無ひ、正しひ心の持ち主だとさう思って居やう筈だ。
自分はさうして世の為人の為に尽くし正しひ。
かうしてじぶんはみんなに好かれてるのだし犯罪などは何もやって居なひ。
だから其れがまさに犯罪なのだ。
おまへはさうして社会に即ち子宮に従ひ其処に何ら疑問を抱ひて居なひ。
人類は正しひと、さうして社会は偉ひとさう思って居やう。
だが實は其の認識こそが誤りの元であった。
即ち価値観なんぞはどうにでも変はり得る。
何故なら人間の価値観とは須らく抽象的に規定されし価値なのであらうから。
其れは思考又は概念つまりは言語によりさう規定されし価値だと云ふことなのだ。
さうした価値こそは佛法で云ふ分別的価値である。
分別的価値は欲望の価値ヒエラルキーをより堅固に形成し其処により強固なる自我執着を築ひて仕舞ふ。
其のやうな分別的価値に基づき社会が行動して居るから此のやうなこととなる。
所謂其れが相対的価値分別の流れである。
尚地球温暖化による災厄は人間にとっての物理的な破壊を今後齎して行くことだらうが究極的には其れは人間の心の問題なのだ。
我我の存在意義とは分別的価値による欲望の価値ヒエラルキー化による愚に自ら気付き其れに抗することが出来るか否かにかかって居る。
わたくし自身がかうして文明や人間を論ずるのもまさに其の部分への贖罪であり修行の為の試みなのだ。
近代以降人間の社会は自然を加工することで人工的な環境を其処に築き上げて来た。
其の人為的な加工は果たして是とされるべきものだったのだらうか?
人為的な加工物は常に我我にとり便利であるが必ずしも其れが快適な訳では無ひ。
即ち人為的な加工物がむしろ人間の感性や悟性を圧迫して行く面もまた否めぬことだ。
第一我我は常に其れを望んで来たのだらうか?
いやむしろ誰一人そんなことを望んで居なかったのではなかったか。
一般人はむしろ平穏にさうして無事に寿命を全う出来ればもう其れで良からう筈。
元より其の価値観が誤って居やう筈など無ひ。
だが其処からが問題だ。
熟慮せず、批判力にも欠けた一般人は結局唯々諾々と社会に従って仕舞ふ。
戦争が起こった。
ー軍隊へ志願し勇ましく戦って来やうー
経済的戦争が勃発。
ー会社人間となり一円でも多く儲けて来やうー
嫁を貰ふ。
ー価値観を子宮に征服され死ぬまで奴隷となるー
原発建設
ー原発に勤めると良ひ給料を貰へる、たとへ其処に核廃棄物が生じるにせよー
つまるところ平穏にさうして無事に寿命を全う出来れば其れでもって人間の価値観が正されると云ふものでは無ひ。
其処には常に精神的な闘争が必要なのであり、まさに批判其れこそが必要とされるものなのだ。
ちなみに国際的な協力体制とも此処にあるのだが、其の国際的な協力体制がいまだかって上手く機能した試しなどは無ひ。
即ちより大きな組織は決して上手く行かぬものと相場が決まって居やう。
ー 万物は「自然法則」に従う。
しかし、人間のみ、「理性の法則」にも従う。
「自然法則」というのは、
「上から下へ落ちる」(万有引力)などもそうですが、
「食べたくなったら食べる」
「眠くなったら寝る」など、
自然的欲望も、自然法則の中に入れます。
カントは、人間以外は、
すべて、「自然法則」にしたがって生きている。
と言います。
そして、「食べたい特に食べ、眠りたいときに寝る」
それが「自由の楽園」のように、私たちは思うのですが、・・・・
しかし、それは、他人(自然・神?)が作った法則に従っているだけなので、
【他律】的と言い、自由とは言えないとカントは断言します。
本当の自由とは、
人間は、
腹減った・・・でも、今は会議中だから、食べてはいけない・・・とか
眠いー・・・・でも、今は授業中だから、寝てはいけない・・・など、
常に、「自然法則」に逆らうような「理性の法則」にも従うというわけです。
この「理性の法則」の中でも、
会議中食べたら、部長に怒られるし・・・
⇒怒られたくなければ食べるな!
授業中に寝たら、大学落ちるし・・・
⇒大学に受かりたければ寝るな
のように、「もし~ならば」「もし~でなければ」などの条件が付いてしまうと、
これも、他人の命令に従っているだけなので【他律】的となり、
やはり、自由とは言えないんですね。
カントの「自由」とは、
条件を付けない、絶対やるべき・・・という「理性の命令」に従うこと!
これが、カント的自由ということになります。
みんながやっているから・・・・
親や先生が言うから・・・・
友達がやるから・・・・
もうかるから・・・・
やりたいから(単なる欲望から)・・・・
など、すべてカントに言わせれば、自由とは言えず、
他律的な生き方をしていて、
動物となんら変わらない・・・というんですね。
勉強したいから、勉強する。
今は寝てはいけないから寝ない。
など、無条件で「~すべし」という理性の命令に従うこと、
これこそが、人間だけに与えられた特権であり、
「自由」ということになります。
自分の理性の命令は個人によって違います。ーカントの自由論より
其の自然的欲求とは本能的欲求のことです。
生体のシステムを維持したひのであれば其の本能的欲求に従はねば生きてなど行けぬことだらう。
人間は著しく矛盾した生物であり其の本能的欲求に常に突き動かされて居る。
ところが一方には理性と云ふまさに理念的で抽象的な世界を生きて御座る訳だ。
さう生きざるを得ぬ分だけ自然界よりはより罪が深くあり煩悩にまみれて居るのだとも言へやう。
其処の捉へ方こそが實は大事なのです。
1.自然より人間の方が偉ひ
2.人間よりも自然の方が偉ひ
近代以降の教育では1.の捉へ方が為されて来て居りませうがズバリ其れは認識上の誤りです。
むしろ2.の立場を選択して置く方がずっと良ひ文明又は社会制度を築くことが可能でもあった筈だ。
わたくしが「喰はれよ!」とかそんな変なことをいつも言って居るのもさうした認識上の方向転換を促んが為にでのことです。
さて欲望は結局「自然法則」に基づき規定されて行くのです。
ところが其れは人間にとってのみ自由なのでは無くむしろ不自由である。
本能に基づく行ひを人間が社会生活にて致しますと其れは大抵の場合法に触れ罪を犯すこととなる。
人間とは本質的には理性的存在であるべきなので【他律】的では無ひ理性による命令に従ふことこそが人間にとっての眞の自由の實現であり自己實現としての姿なのです。
【他律】的では無ひと云ふことはまさに【自律】的なのであり、其の【自律】的な内なる理性の声に常につき従ひ思考し且つ行動して置けば近代的なバランスを取ることが可能だとさうカントは考へたことだったでせう。
但し問題は人間の理性的能力には差があり【自律】的な理性的存在は常に少数派だと云ふことなのです。
ーカントは「人格主義者」と言われています。
それに対し、人間以外は、
役に立つか立たないか「価値」がつけられる存在ですので、
「価格」的存在と定義します。
つまり、自分への命令「格率」を持たない人間は、
単なる「価格」的存在になってしまいます。
「格率」を持ち、それに従うから、人間は尊厳があるんですね。
昔の「奴隷制社会」では、奴隷にされた人々の「格率」を無視して、
単なる「価格」的存在にしてしまいました。
カントは言います。
他人の「格率」を尊重せよ・・・と!
自分の「格率」はもちろんのこと、
他人の「格率」も、尊重しあう社会を
「目的の王国」と呼び、カントの理想とする社会です。
その「格率」の中で、個人的ではなく、
「普遍的(いつの時代も、どこであれ、誰にでも)に通用するもの」
それを、「道徳法則」と呼び、
「道徳法則」に従って行動せよ・・・!と
カントは、言います。ーカントの自由論より
「格率」を持たぬか其れを否定する人間は容易に動物的な人間と化す。
動物的な人間の良し悪しは實は判断することが可能なのだ。
動物的な人間とは悪しき人間である。
何故ならそも人間にとってのより望ましひ価値又は自由とは本能其のものに従ふ形のものでは無ひからなのだ。
勿論其の部分を近代教育が見落として居た訳では無かった。
我我は学校にて自分のやりたひやうにやってはいけません、とさうどんだけ先生方から諭され自分達の非を認めて来たか分からぬ程だ。
だが其の先生方から怒られたとへば廊下にバケツを持って立たされた経験なども所詮は【他律】的な社会の命令なのであり其れにばかり従って居るとむしろ【自律】的な内なる理性の声に気付けぬことともなり要するにいつの間にか法律や会社に従って居れば全部自分の行動は正しひのだとさうカン違ひして仕舞ふ。
実際オレ様は何て立派なのだ。
こんなに稼ぎが良く、しかも👩にもモテる。
おまへはバカか?
おまへは一度でも文明に反抗したことがあったのか?
もし其れが無ひと云ふのであれば君は所詮文明の操り人形なのさ。
つまるところ此の人類畢生の問題である環境問題の本質的意義とはむしろ其の辺りにこそ潜んでは居なひか。
まさに其れは人間の社会が仕出かした罪であり、また其の罪に対し否定を突き付けられなかった個としての観念の愚である。
即ち眞に理性的な個は其の罪をこそ問ふて行く。
何処までも其れを糾弾し曖昧な侭にしたり放置したりはして置かぬものだ。
カントはかうして人間の理性を何より信じて居たのだと言えやう。
だが近代以降其の理性は自己矛盾化して行ったのだった。
よってカントの理想による「国際連盟」設立も結局は役立たずの巨大組織を成立させたに過ぎなひ。
「国際連盟」にもしも実効的な支配力があれば大国主導での経済発展競争や軍備拡張なども無論のこと阻止出来て居た筈だ。
尚、個人的に巨大な組織は巨大な動物であるとわたくしの場合はさう考へて来て居る。
わたくしはかの老耽のやうに大きな社会と云ふものの価値を認めては居なひ。
何故さうなのかと言へば大きな社会が人間としての本能をより拡大させるものだからなのだ。
故にカントの理想はこと社会に関して言へば成立するものでは無ひとさう否定的に見詰めて来て居る。
かのアインスタイン博士を始め歴史上の偉人は国際的秩序により人類規模での問題を解決すべきだとする理想論へと傾き易ひものだった。
だがわたくしは其れは違ふと思って居り、要するに人類規模での問題が生じて居るのは認識其れ自体の誤りによるものなので其れを是非正すべきだとさう述べて居るのである。
其の認識とは何だと問はれれば其れは根本的には分別智による価値ヒエラルキーの構築のことだがより具体的には拡大主義、やる気主義、進歩主義などの+思考のことだ。
だって学校の先生だって皆やる気を出して勉強しなさひ、進歩はいつも偉ひ、みんなが社会で懸命に頑張り生きて行くのは素晴らしひことです、などといつも仰って居たではなかったか。
其の教師の言ふことこそがズバリ誤った教育です。
正しくは、自ら進んで學びなされ、進歩など全否定せよ、また社会をも否定し是非ルンペン化しやう、だ。
ひでへ価値観だな。
一見さうも思はれることだらう。
だが文明の行ふ破壊に対してはまさに其れが正論なのだ。
要するに今後の世界では其の誤った価値観に対する破壊、自己崩壊の様が頻繁に起きるやうになって来る。
其れはたとへばハルマゲドンと云ふことですか?
いや、必ずしも宗教的な次元での問題となる訳では無くむしろ物理的に社会が被害を被って来ることだらう。
さうだ個と云ふよりもまずは社会が様々な意味で壊れて行かう。
其の時に社会に軸足を置く思考を為して居ると個としての思考を保てなくならう。
故にもはや社会は信頼など出来ぬとさう捉へて置く方がまだしも【自律】的な思考であり其れこそが望ましひ理性としてのあり方なのだ。
ー みんながやっているから・・・・
親や先生が言うから・・・・
友達がやるから・・・・
もうかるから・・・・
やりたいから(単なる欲望から)・・・・ーカントの自由論より
みんながやって居ることはむしろ悪ひことだ。
親や先生が言ふ事もむしろ悪ひことばかりだ。
友達なども皆洗脳されてるからロクな奴は居なひ。
儲かるから仕事してる奴などは大罪人である。
やりたひからやる、では無くやりたく無ひから其れをやれ。
そんなに社会を大否定して其れでもって生きて行けませうや?
まあ少なくとも赤信号をみんなでもって渡るよりは遥かにまともでせう。
さてもカントは環境問題をどう捉へて居たのであらう?
自分への命令「格率」を持たない人間は結局動物的に生きるしかなくなる。
さうした意味で近代以降の文明は其の「格率」には欠けて居たのだとさう申す他はなひ。
其れも社会的な次元に於ひて何より其れが欠けて居たのであった。
ー最後の文末は、「たとえ無限に先に進んでいく接近の中のみであるとしても、公法の状態を実現することが義務であり、同時にその根拠である希望が現存するならが、従来呼ばれていた平和締結(これは厳密には休戦の意味)の後に来る永遠平和は、空虚な理念ではなく、漸進的に解決されて目標に絶えず接近していく課題である」と締めくくっている。
なお、本書の末尾、第2章の第3確定条項を説明するくだりで、カントは海洋進出した欧州諸国のアメリカ・アフリカ・アジアにおける侵略・簒奪的姿勢を批判しつつ、中国(清)と日本の鎖国政策を、賢明な措置として言及している[2]。ー
其の環境問題はカントが生きて居た時代(1724~1804年)の段階では結局不可視の領域だったことかと思はれる。
環境問題が切迫した問題として認識され始めたのはまさに今世紀に入ってからのことである。
しかしながら其れもまたウォレス氏が語るやうに一般的な認識は其れには程遠ひところにある。
大衆的感覚がまさに鈍感なので分からぬ訳だ。
其の永遠平和とはまさに理念的な文明が目指すべき課題なのだらうが正直言へば其れは宗教的にのみ規定し得ることで政治手法の上でまた法秩序の上で其れが成し遂げられると云ふ類のものでは無ひ。
其れどころか次第に文明は末期症状を呈し始め今まさに複合的に惨禍に見舞はれると云ふ様相をも呈しつつある。
結局其れは文明に於ける価値観の選択、其の文明による方向性の選択の誤りであったのだと申す他は無ひ。
かうして先哲の言葉を今噛み締めてみるに、結局は其れが文明の選択の上での誤り、人間の社会としてのあり方の誤りなのだと云ふことがまさに手に取るやうに分かっても来やう。
かやうにカントは鎖国政策を最大限に評価して居たやうだ。
尚鎖国がダメだと捉へる人と逆に最良の道だと捉へる人の価値観には根本的な差異がある。
言はば其の【自律】的な理性による選択には拡張主義や侵略主義などは全く入っては居なひのだ。