決まって日本の左翼インテリが軍事費など要らないといつも云ふ訳ですが、其れが皮肉にも軍事費をタンマリと使って居た方が世の中平和になるんです。
ですから、此の世の本質はさうした矛盾領域にこそある。
其れを利口は気付いておる訳ですが左翼の利口では所詮其の矛盾には気付けませぬ。
つまるところインテリバカと云うことです。
逆に体制バカと云うことがあり女性並びに宗教家乃至は藝術家の場合其の体制バカに陥り易いので是非其処は気を付けておきませう。
しかも利口バカと云う領域さへもがある。
學者とかは多分其れに該当しやう。
ではあなただけは特別でバカではないんですか?
いいや、残念ながらまるでバカのやうです。
でもわたくしは人間の愚かさだけは知って居るからほんたうはバカではないんだ。
とさう思って居りましたがどうも其れは甘ひ考へでした。
わたくしもまた自分で自分を律し切れぬバカそのものです。
バカは大抵食ふ事、女の事、それに何ぞマニアックなことばかりに熱中して居らう。
ですが究極的には美です。
矢張りと云ふべきか美こそが永遠なのです。
美こそが永遠だと捉へる心こそがまさに藝術家の心なのだ。
美の方へ行きさうして個的ヒエラルキーの世界につひ安住して仕舞ふ。
だから実は其れが体制バカとしての一形態なんだ。
つまりは美の為ならばウソもこく罪を犯す家族をも裏切る。
かうして運命に翻弄されやうがどうしやうが兎に角美が大事だ。
其の美とはたとへば夜景のことですか、または南海の楽園でのアノ最高の海の色や空の色のことですか。
まさにそうじゃ、いや違ふ。
ひょっとして美とは人間の心そのものなのではなかろうか。
と云うのも、自然界の生物に基本としての美しひココロと云うものは無ひ。
つまり美しひココロである必然性を有して居らぬ故にむしろ其れは外面的にー全体としてー美しひ。
対する人間の心は醜ひ。
かうして醜ひので、実は其の対極に美しひココロもある。
要するに自然界のココロは美醜以前のものとして其れは統合されて居り逆に言へば其れはさうした分別以前の心そのものー物自体としてのココローだ。
と云うことは美なる心は人間界にのみ生じて居やう。
どだい美しく舞う蝶ーオスのーは自らが美しひと云うことを知らぬ。
だが其れを見詰めるメスの蝶の目からすれば其れは美しひ。
でも其れは単なる本能領域での美しさなのだ。
今わたくしが問題となしておる美しさとは其れとはまた違ふ次元での心の美しさのことだ。
どうも人間にはココロの美醜がある。
逆に人間にこそ其のココロの美醜があらう。
ココロの美醜とは結局価値観が決めて居るのではないか。
左翼バカと右翼バカでは一体どちらがより心のあり方が美しひと言へるのだらうか。
また女と男では一体どちらがより心のあり方が美しひと言へるのだらうか。
まあ所詮概念としての何かの追求は徒労に終わらう。
さうした概念規定は全て無意味だ。
そも無意味なんで、今此の瞬間に感ぜられる美に耽溺しやう。
でもそんな美はウソの美じゃらう。
あー、綺麗な女の裸だ、あー、綺麗な石だ、石。
ところで石は生きて居なひが其れは何故だ?
しかもオスメスの違ひさへ無ひ。
此の究極の物質としての石。
其の石は化石でもない。
わたくしが余り化石を好まないのは其れが生命としての痕跡を遺して居るからだ。
さうではなく無生命としての石の美しさをのみ鑑賞して居たひ。
何故そんなに石が好きか?
其の石こそが解放なんだ。
石こそが現代文明からの解放なんだ。
でも本質として人間から解放される訳ではない。
石を眺め或は舐めたりして居る限りに於いては。
何故なら有情としての心の解放とはおそらく心の錬磨にこそあらう。
心の鍛錬、心の修行の果てに其れは成し遂げられやう。
だから石の鑑賞は単なる感覚の上での慰めにしかならぬ。
でも文明の価値観の履行も皆其の単なる感覚の慰めにしかならぬ。
或いは下卑た欲望の成就にしか繋がらぬ。
石は死んでるのに何故そんなものを見て楽しひのですか?
まあ其れは生きて居ることよりも罪障が少ない、つまりはより静かだ。
謂わば闇の世界だ鬱の世界だ。
鬱鬱たる闇の諧調が其の石の肌にこそ流れておらう。
そんな訳で、近くの山ー相生山ーで石を拾って参りました。
さうして石を探しつつ山の中を歩ひて居りましたところ、其の小径の脇に何やら怪しひ石が埋まって居る。
其れを穿りながら煙草を吸って居りましたところ突然オバサン一人が目の前に現れる。
オバサンには歩きながら煙草を吸うなと諭されたので其処であへて反論致しました。
ちゃうわい、あくまで石を穿りながら止まって吸っておるのだ。
ところでオバサン、アナタは一体此処で何をしておいでなのか。
かうして植物を見に来て居るのです。
ほれ、コレが●×ですよ。
なるほど自然愛好が目的なのか、まさに其れはよきことだ。
わたくしも植物が好きだが実は自分が植物になりたひ程にも好きだ。
此の緑地もいずれ公園化されます。
また道路も通ります。
矢張りと言ふべきか原発反対派ですか?-かと言ってインテリオバサンには見えぬのだがー
さうです、原発は良くないです。
でも原発を止めると火力発電に依存するしかなくなりませう。
なので一番大事なことはむしろ電力消費を抑へることなのだ。
文明による電気の使用そのものを限定しませう。
道路が通ると貴重な都市部の自然環境に大きく影響が出ます。
勿論心情的には相生山に道路を通すべきではない。
ですが市が其れを行うと云うのなら其れはもはやどうしやうもないことだ。
かように文明と自然の関係は常に相即的でかつ自己矛盾的です。
文明はシンポなるものを重視し常に其れを優先させますが自然を愛するオバサンや詩人にとっては其れは要らぬお世話な話であり特に詩人にとっては其れは破壊そのものなのだ。
さうかと言って其処で左翼自然愛好思想がより望ましひなどとは全く思へない。
左翼自然愛好思想はもうまるで戦争反対!原発反対!ばかりですが所詮左翼シンポ主義は革新思想なので本来自然愛好とは相容れぬ本質を有して居らう。
では何故左翼自然愛好思想が醸成されたかと云うに、其れはひとへに反体制勢力が都市の中で隠れ住むより官憲の目の届かぬ山の中で隠れ住んで居た方がより安全であったと云う其の一点に尽きて居る。
従ってシンポを是とする唯物論者である筈の共産主義思想が此の日本国に限り何故か自然愛好思想と組み合わさりそればかりか戦争反対!原発反対!の危険反対思想とも組み合わさりまるでかの日本共産党の言うておるかのやうな宇宙一矛盾に満ちた思想そのものとなった。
元来文明に対し潔癖である筈の其の平等思想があらうことか自然愛好つまり美の世界と組み合わさると云う何ともおかしな何とも形容し難ひ愚を犯し今此処に及んでおらう。
本来ならば其の人権擁護思想はまさに都会の為の思想であり山の中の思想などではない。
此処からも日本の左翼思想こそは矛盾の巣窟だ。
ところが体制派はまた其れに輪をかけて矛盾的だ。
第一何故体制派は文明の進歩を認めたりして居るのだ。
文明がシンポすればする程に伝統的な秩序との共存が難しくなり社会はなし崩し的に壊されて行かう。
事実伝統的な秩序を大事にする余りに高齢者による殺人運転を野放しにして来た体制側の罪は大きく存在して居やう。
だからほんたうの保守こそが文明を止めるんだ。
ほんたうの保守は体制を護る為に文明を全否定する。
だから其れは左翼思想ではない。
左翼思想は逆に文明を全肯定せよ。
だからいつも都会に住み変な端末やAIやらロボットやらアンドロイドといつも戯れておれ。
兎に角そんな風に思想の根幹がなっておらぬ。
根本がそもおかしひので人間の行動ー言動ーもおかしひ。
かようにキチガヒ文明はむしろドンドン軍事費をカサ上げしつつある。
さらに宇宙開発費を注ぎ込んでもおる。
では何でそんなことになっておるのか?
何でまたよりによってそんな矛盾をあへて引き受け生きて居るのだらう。
畢竟其れは人間のバカ=本質的暗愚より引き起こされておる。
其の本質的暗愚とは価値観の設定の誤りより生じて居ることだ。
さうしてつまりは左右の思想はどちらも矛盾化して居り即ち誤りでありどちらも信用ならぬもので結局どちらも認められなひ。
では一体何を信じるのですか?
其の美とやらを信じるのですか?
アナタのやうに石を拾ひ愛でて居るだけで世界を幸福に導けるとでも仰るのですか?
ハーハッハッハー、世界など幸福に導くことは出来ぬ、身の程を考へよ、其の暗愚としての身の程を。
なので世は滅びる。
其は必然じゃ。
でも其処で石を愛でることは可能だ。
ただし女の裸を愛でてはならぬ。
女の裸は諸悪の根源なり。
けだし女としての美しひ心を愛でることは出来やう。
かうして男にも女にも美しひ心の持ち主はきっと居るのだ。
美しひ心の持ち主は戦争反対!原発反対!と叫ぶ以前に何か美しひものを、其の心の灯を汝に灯して呉れやう。
左様に常に心が限定されておる。
ツンツンしておらずしかも心根が優しひ。
心根が優しひだけでは確かに人間をやってはいけぬ。
人間は時に鬼になり悪魔になることで此の社会を築ひて来たのだ。
だがそんな文明など止めよ。
文明の行先は赤信号だ、まさにストップだ。
第一其の価値観がおかしひぞ。
そんな文明の価値観、社会の常識、世間での同調ばかりに洗脳されて居るとみんな腐っちゃうぞ!
でも戦争反対!の何処が悪ひのですか?
誰しも平和を望みますし、また誰しも自己及び子孫の繁栄と幸福な未来を望みます。
ハーハッハッハー、あへて其の価値観をこそ捨てよ。
捨てる即ち断捨離せよ、断捨離。
ではアナタは平和を望まず、また自己及び子孫の繁栄と幸福な未来など望んで居ないと仰るのか?
基本的にはさうじゃ。
わたくしの場合は美を望むだけだ。
より正確には相対分別されし其のウソとしての美をしかと我が手に攫みたひだけのこと。
其れぞまさに利己主義なのでは?
さうじゃ其れも美の利己主義じゃ。
何より美の利己主義は実の利己主義よりも実害が少なひ。
さうした限定こそがわたくしの思想の核だ。
よって軍拡競争して居るやうなバカな価値観には背を向け石でも探しにいかう。
また其の石は採集禁止の場所から採って来ないやうに。
其の石はしかも其のままで愛でる。
磨ひたりはしてはならぬ。
タダ良く洗ふのみ。
然し洗ひ過ぎてはならぬ。
洗ひ過ぎると石の表面がダメージを受け艶が無くなって仕舞ったりもしやう。
さて今回はどんな石だ?
今回のは何やら白ひぞ。
白系のメノウ-正確には玉髄か石英ーと云ふことだ。
見た目に透明感はなくまるで擦りガラスのやうだがライトの光がスッと通る。
此のやうな石は一般の方々にはまず見つけられぬ。
見つけるには眼力が居るのだ。
即ち鑑別眼が要求されるのだ。
なので一般の方々は其の山にそんな準宝石が落ちて居るなどとはまるで思っては居らぬ。
でもあるんだよ。
あるところにはあるんだよ。
かうして山を知ってる人には見へるんだ。
おお、一個だけ準宝石級の石が拾へたぞ。
何をされて居たんですか?
いえ、石を拾ひつつ煙草を吸って居ただけのことです。
其の石をどうするの?
はあ?どうするもなにも、タダ見るんですよ、即ち鑑賞するのですよ、石を、つまりは美の鑑賞のことです。
?
いや、アナタは先程から植物を見ておられるではないですか、其れと全く同じことです。
わたくしと一般の方々との最も大きな違いが、此の石に懸ける情熱の有無の部分にこそあらう。
心無き石、謂わば死んで居る石は然し常に美しひ。
ちなみに石にも価値ヒエラルキーが存在し言うまでもなく其れはあくまで人間としての価値基準によるものだ。
要するに石にもピンからキリまでがある。
より宝石に近い石は光を通すと思って置けばまず間違ひない。
ところが石の産地ー廃坑や石の捨て場などでの採集ー以外でのしかも都会での採集は最も難度が高ひ。
でも石マニアでもあるわたくしはあへて其れをして来て居る訳だ。
其の代わりにいつも目を皿のやうにして道を歩いて来た訳だ。
無論のこと採れた美しひ石には愛着が湧く。
愛着が湧くのは煩悩があるからのことだ。
煩悩は決して滅し切れぬので社会的な欲や女に関する諸欲を断じて美に関する欲か或は批判欲、表現欲の方へと転換せしめることこそがわたくしの生の目的だった。
美もまた罪深きことなれど悪しき心に向かい合ふことよりはずっと穏やかなこと。
だが人間の心としての本質は常に善き心を欲して止まぬ。
人間の心としての罪障は石でー美でーもって救われることはなく他の心でもってのみ救われるのみ。
他の心即ち神の心かまたは佛の心、或いは菩薩の心で。
されど何処かに落ちて居るのではないか。
嗚呼何処かに落ちて居るやうな気がしてならぬ。
まるで宝石のやうに輝くまさに屈託がなく無垢なる其の心が。
美しひ其の唯一の心がきっと其の辺の街中にも落ちて居ることだらう。