即ち野球が大好きなのだが反面思想的には勝ち負けの生じる所謂勝負事とは所詮人類にとり好ましくない精神的段階ではないかと考へて居る。
いや勝ち負けが生じても良いのであるが、其の勝ち負けにより実存的な人間としてのレヴェルの差が生じるべきではない。
元より実存的な人間としてのイノチは等しく尊く侵し難い尊厳に護られて居てしかるべきものだ。
なんだけれども、実力差と云うものは常に社会に存する。
其処で所詮利口は利口だしバカはバカなんだ。
体の方にしても何処に限らず四番バッターを張れるやうな奴はもうまるで体が違ひつまりは能力差は明らかだ。
プロ野球の選手になれるのはまさに一握りの人間でしかなく東大や京大へ行くやうな奴が一握りの人間でしかないことと其れは同じだ。
ただし常に体がモノを言ふのがスポーツの世界の決まり事だ。
メンタル、などとも場合により言われやうが実のところはほとんど体だ。
さう其の肉体こそがほぼ全てなのだ。
観念の世界は決まって肉体を軽視するが精神即ち心と肉体は相即関係にあるゆえ特にスポーツに於いては肉体こそが最も重要な要件なのだ。
重要なのは個としての努力なのであり必ずしも順位つまりメタルの有無ばかりではないことだらう。
共産主義社会が資本主義的差別としての金メタルを求めていくと云うのは明らかに思想的矛盾ではないか。
尚当初オリムピックは詩作などでも競い合ったものだったそうな。
即ち藝術の分野でのオリムピックと云うものがかってはあったのだった。
元より人間の矛盾は精神の矛盾であり其の肉体自体には罪など無ひ。
肉体自体に罪の無ひことをしかと示して居るのがまさに自然の様である。
然し其の肉体が観念化された途端に罪の領域が生じやう。
或いは煩悩の諸に捉へられて仕舞ふ。
罪乃至煩悩は良し悪しで言えば悪ひものなので生まれないか神と共に生きるかのどちらかでなければ其の罪障を拭ひ去ることなどかなわず。
尤も其れは根本のところなので、欲望は上手に解消すると云うことを我我は常に考へていくべきだ。
が、女絡みでの生殖に関する欲は常に此の世界での一級の罪である。
此の世での罪のあり方はまるでウソの罪刑法定主義なのでそんなもんに従ひ生きて居るともう皆地獄へ堕ちるしかなくなる。
だから其の価値観に従ひポコッと生まれてお目出度う、などと居っているが勿論そのままでは其れはまた一匹悪魔が生まれただけのこと。
或いは煩悩まみれでの魔の誕生のことだ。
女絡みでの生殖に関する欲は婚姻関係の成立後は罪刑法定されて居ないが其れは神仏に対してそのままでは大罪とならう。
では肉体は罪なのか。
キリスト教では屡肉体を忌避するのであるし仏教でも純粋なものになればなる程肉体に関する執着を断じていく。
ただし仏教でも不純なものは肉体を忌避せず逆に祀り上げたりもする。
然し肉体には常に限界がある。
限界があるゆえ可視化される範囲で常に其れは美しひ。
限界のあるものこそが美しく矛盾こそが其の美の母なのだ。
さうかと言って我は肉体を賛美して居る訳でない。
肉体は醜くかつ滅びゆくものであるゆえに。
其れは老ひ壊れ死に至るものであるに過ぎぬ。
元より肉体は最終的には腐り蛆がわきかつ存在しなひものだ。
だが肉体こそが生であり美である。
観念は純粋な美を形作ろうとするが其の美には血肉が通わぬ、其れはまるで蝋人形のやうな美だ。
対する肉体は自然として与えられし骨格を保って居やう。
其れは観念ではないゆえに自然そのものなのだ。
ところが、人はパンのみにて生くる者に非ず。
人はむしろ其の観念をこそ生きるのである。
人間の不幸は此の観念ー精神ーと肉体の分離の部分にこそ生じて居やう。
であるからわたくしは人間を犯罪者であると捉へて来ざる得なかった。
皆様は犯罪者とは罪刑法定だとさう考へるのであらうがあくまでわたくしにとっての犯罪者とは人間其れ自体かまたは社会其れ自体のことなのだ。
実際には肉体と観念は相即して居り其の相即ー相互依存関係ーを生きるのが人間の本質であり時空ー環境ーの本質だ。
相対分別されし縁起世界を肉体及び精神と云う二元対立の枠内で生きざるを得ぬのが我我人間と云うこととなる。
其のやうな情けない罪または煩悩の権化たる現象になーぜ皆様は権威を付与しやうと躍起になって居られるのか。
権威つまりより拡張されし価値観、其のデカい価値観でもって上から下まで統一していかうとして居られるのか。
だからさういうのがまさに社会の矛盾であり悪なのであらう。
だからそんなもんに価値などそも設定出来ぬ。
価値設定の権化が即ち文明なのでわたくしはそんなもんそも認めては居らぬ。
で一体何を申されたいのか?
即ち罪である肉体は美しひと云うことだけが言ひたかった。
美しひ。
即ち女の裸。
西洋絵画に良く描かれて居る其の女の裸。
または彫刻のやうな男の裸体。
元より其れは滅び去るものゆえ美しくはない。
が、生きてある其の美しさ、観念ではない其の物質ー現象ーとしての美しさ、唯一のものとして其処に描かれし美しさのみが其処に現在化して居やう。
たとへば四番バッターの其の存在感。
彼は陽川と云う阪神タイガースの二軍の四番バッターだ。
昨日見た彼の存在感と来たらもうまるで別物だった。
案の定彼は本塁打を放つ。
其の打球の美しさは、充実であり力であり現在である。
さうした力こそが世界を貫き流れて居る。
観念ではない其の物質ー現象ーとしての筋力は事実として美しひ。
されど其は常に限定されて居る。
陽川は事実二軍の帝王とのことだ。
あんなに存在感のある肉体の持ち主でも一軍ではなかなか活躍出来ぬものらしひ。
尚わたくしは別に阪神など好きでも何でもない。
だからさういふ勝ち負けになんぞ意味はないって。
勝ち負けではなく、わたくしの場合は美を鑑賞する為に野球の試合を観に行くのだ。
其れも肉体の美を鑑賞しにいく。
勿論美はゴルフの方にもある。
特に男子プロの放つ300Yスーパードライヴショットの迫力はなかなか言葉では表現し難ひ領域のものだ。
其れはさうとタイガーウッズの復活優勝どうもお目出度う御座ひます。
タイガーウッズはついこなひだまで女の毒素にしてやられもうヘロヘロでしたが良くぞ立ち直ったものです。
タイガーウッズは女の毒が全身に回りもうヘロヘロでしたが実際またゴルフが出来るやうになっただけでも目出度き事。
結論として、価値ヒエラルキーと結託した観念的なスポーツの領域=社会的なスポーツの領域は不純的かつ危険なので観ない方が良ひ。
特にオリムピックのやうなバカなものはもう金輪際止めてお仕舞ひなされ。
然し肉体は結構美しひものだ。
いやさうではなく肉体の行ふ仕事こそが美しひ。
では其れと同じ論理でもって女の肉体も美しひのではないか。
勿論其ればかりはさうではない、女の肉体はむしろ醜ひ。
事実第一女のスポーツ選手なんてブサイクばかりだ。
たまーに綺麗な女も居やうがほとんどは醜女でもって根性も腐っておる。
然しソフトボールだけは期待しておる。
ソフトボールなんぞ日本のエースの投げる球はたとへプロの四番バッターでも打てぬものだ。
かってソフトボールで米国に勝ったのはこれまでであんなにキモチ良いことはなかった。
WBCでも韓国にさうして米国に勝ってナンバーワンになったのはこれまでであんなにキモチ良いことはなかった。
ところで何故日本人は野球やソフトボールがこんなにも上手いのだらう?
ガンバレ、ガンバレ、ヨーカワー。
左様にタイガースはくどいがドラゴンズとは色々と交流があり事実ミスタードラゴンズの立浪は大阪人だ。
タイガースを優勝へ導いたのは星野監督で今の監督の矢野はドラゴンズのヘッポコキャッチャーだった。-当時は矢野が出て来るともう勝てないと思ったものだったー
其れに昔のエースの今中も大阪人だし大阪桐蔭出身の平田や根尾も今後の重要な戦力だ。
いやー、然し、かの廣岡は凄ひ。
廣岡は多分利口だ。
バカが多ひことかと目される野球界に於いてまさに理性的かつ沈着冷静なのが廣岡 達朗氏だ。
然し先にも述べたが如くにスポーツは順位などではない。
順位ではなく応援だ。
応援即ち行動だ。
行動即ち肉体だ。
我我も其の肉体を使ひ球場へ応援に行くのだ。
カットバセ、ヨーカワー。
うーむ、応援する対象としての選手が何やら違ふやうな気も致しますが是非また陽川の本塁打が見たひものだ。
即ち肉体の本質とは行動ー運動ーにこそあらう。
さてイチローが引退したらしい。
確かにイチローはまさに頑固なバット職人でせうから監督業には向かないことでせう。
イチローは自分をドラフトに指名しなかったドラゴンズに恨みがあり無論のことほんたうは大ファンであったドラゴンズでプレーすることこそが夢だったのです。
イチローは其の恨みから地元の方へ戻ると云う事はおそらく無く米国か神戸で其の余生を過ごしていくことでせう。
かってイチローは韓国に対して何ぞ言ひ顰蹙を買ひましたがあれなどもまさに痛快な出来事でした。