目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

五木 寛之 「人間の覚悟」よりー弐ー


わたくしはこれまでに様々な本を読んで参りました。
本を読み人生のことにつき考へることである意味余計な時間、余計な思考を抱へ込んで来たのかもしれない。

けれども其処でもってまた同時に思ふのです。
其の余分な時間、其の余分な思考こそがわたくしが此の世界で体験しなければならなかったことの多くでもあったのだと。


何の役にも立たない、まさに一文の得にもならぬ、また女にもモテないであらう其の時と考へこそがむしろわたくしをしてわたくしたらしめて居る最も大事な何かである。
即ち其れこそが合理的に創られたものではない実存としてのひとつの価値そのものだ。
わたくしだけにしか分からぬ、さうして拓くことの出来ぬひとつの価値そのものだ。

こんな回りくどいこと、さうしてどうでも良ひこと、即ち個と家の存続にとりマイナスとなることばかりがむしろわたくしの価値観を決定付けて居たのです。

其の価値観からすると現代文明に於ける其れとは大きく隔たって居ります。
其の文明の価値観は或いは道を踏み外して居ると言えるのやもしれぬ。

わたくしが此処で社会に対する批判を始めたのは其の余計な時間、余計な思考の大切さ、其の何の役にも立たない、まさに一文の得にもならぬ、また女にもモテないであらう価値観を少しだけでも良いから世に示しておきたかったからです。

なので謂わば其れは世間とは逆方向での価値観とならざるを得ない。
元よりさうした方向性は合理主義の社会の中に求めることなど出来ぬ。


尤も合理化される以前の社会ではむしろ其れは普通に存在して居たことでした。

五木先生が「人間の覚悟」の中で述べられて居ることも或いはさうしたことなのやもしれぬ。

尚五木先生は屡鬱になられるのだと言う。

五木先生は若い頃まるで俳優さんみたいに美男で恰好良かったのでしたが、またそればかりか売れっ子作家でお金にも恵まれて居たものかと思われますが其れでも鬱になる時には鬱になるんです。

作家の中でもむしろ物凄く恵まれた人かと思われますが其れでも鬱になるんです。

特に頭が良ひ人は鬱と云うか精神的に苦しひと云う事はあるかと思ひますね。


かういうのは多分同じ気質の人でないと分からないのでせう。

人間には色んな性格、気質があり此の世の矛盾が苦にならないと云うかそんなことにはまるで興味がなくタダ自己利益ばかりを前向きに追求し其れで一生を終へて仕舞ふこともあり得る。

ですが悩む人はまさに悩みます。

わたくしは逆に其の悩みこそが神への道であり仏への道だと感じて居るのです。

問題は悩むことにあるのではなく悩まなくなった時代や人の心の方にこそ大きく潜んで居やう。


まさに其れが異常なのでありまさに人の心を失ひし合理化なのであり其こそが地獄への歩みそのもののことです。

確かに悩み過ぎてカルトやセクトの方などへ走るのもどうかとは思ひますがわたくしの知る限りではたとへカルトやセクトの人でも現代の諸価値に対して疑問を抱かぬ人よりはずっとマシと云うものです。

確かに宗教での局地戦も今まさにやって居るところですが、其れよりも何よりもむしろ危険でかつ対策が迫られて居るのは老人による殺人運転であり青少年による不純なる異性交遊です。

此のやうな殺人運転や不純なる異性交遊により今後多くの人々が死にませう。

確かに今回スリランカで三百人も死んだのは酷い話でしたが、今後其れよりも死者が出るだらうのが殺人運転による事故事案です。

其れから不倫する女が増へ夫婦間でトラブルが生じる可能性も増して来やう。

かように男性の怒りを甘くみて居てはいけません。

男性が本気で怒るともうとんもなく破壊的になり何でもかんでも粉微塵に砕ひて仕舞ふ。

其のやうに老人や女子供はもはや保護すべきものではなく逆に縛りつけて其の価値観を是非改めなければならぬものです。


まあ五木先生のやうに常にお悩みであれば時に鬱になる位は仕方のないことで其れを病気だとかで一概に決めつけることなど出来ぬ。

其の悩む姿勢、悩む精神の方向性其れ自体は至極健全でむしろまとも、其の逆に悩まないで生きて居られることの方が稀なのかもしれない。


たとへば五木先生は本格的な鬱病ではない鬱状態は病気ではないなどとも仰って居る。
確かにさうなのかもしれない。

だから暗ひもの、悩むもの、其の生の重苦しく陰惨な側面を何故隠蔽する必要があるのですか。

むしろさうありのままに世は暗ひのじゃないか。

其の暗ひのこそが我我の欲望のことでせう。


ほんたうにくらひものはむしろあかるひ。

ほんたうに明るひものはむしろ暗ひ。

現代文明が明るひものばかりを好むのは其れぞまさしく病気ぞ。


鬱鬱たる君よ、君はむしろ正常だ。

こんな狂った世の中でにこやかにさうして和やかに百億儲けたり不倫したりして其れでまっとうだと思って居るのか、まるで間違ひだぞそんな価値観は。


本によると露国にはトスカなるものが人の心に棲むのだと云ふ。

其れをかの二葉亭 四迷が「ふさぎの虫」と訳して居たらしい。

また露日辞典によれば其れは「憂愁」とされて居る。

また先生によれば詩人は「ふさぎの虫」に心を噛まれ易ひのだそうだ。

さうかでは多分わたくしも大ひに噛まれて居るんだらうな。

鬱病と云うか憂愁病と云うかそんなものの連続なので逆に明るひものが物凄く眩しくも感ぜられる。


でもさうした愁ひや憂ひは元より病気であらう筈がない。

そんなものは当たり前にあることで其れを無くそうと躍起になって居ること自体がおかしひ。

だから現代社会はおかしひ、其の価値観は是非見直すべきだ、まるでストレート過ぎる結論なのではあるが。



また韓国には「恨」と云ふ言葉がある。

其はまさに呪ひみたひな感情なのだらうか、呪ひや恨みつらみと云った一種マイナスの感情ですが其れもむしろ当たり前の感情なのでせう、此の理不尽でもって耐へ難き世の中を生きるに当たりむしろ当たり前に持たざるを得ぬ感情なのだらう。

此の感情を、五木先生はむしろ辛ひ人生を生きて行く上での深い知恵ではないかと述べられて居ます。

さうして今の時代はさうしたあって当たり前の憂ひまでをも放逐しやうとして居ること自体が間違って居ると述べられて居る。

此の点に関してはわたくしも全く同感です。

人生の本質は憂ひであり其れは近代以降の価値観が高らかに謳ふやうに希望に満ちたものではない。



仏蘭西語にはルサンチマンと云う言葉さへある。

哲学上の概念。 弱者がもつ、強者に対する嫉妬・羨望による憤り、恨み、憎悪、非難の感情。


かのニーチェルサンチマンを良ひ意味では用ひて居ませんがわたくしの場合はむしろ肯定的に捉へて居ります。

逆にルサンチマンを超越した超人を夢見たが故にニーチェは発狂せざるを得なかった。

人間は神仏ではなく超人でもないそんな限定されし中途半端なイノチですので元々そんなに高望みなどしてはならぬ。

間違っても自分に何でも出来るなどと過信して居てはならぬ。


人間はバカでつまりは心のあり方としての段階が低ひ。

なので其のバカを自覚すべきである。

あへて其のバカを持ち上げて居る倒錯の思想こそが近代以降の価値観のことだ。


言葉に出来ない哀しさや生きて居ること自体が切ないと云う情動は紛ふことなき生の一側面です。

いやほんたうは其れが全てなのやもしれぬ。

五木先生は生老病死が苦である以上生きて行くこと自体が憂鬱なのはどうしようもないことだと述べられて居る。

だから其れを隠蔽したり誤魔化したりするべきでない。


此の通りに生は不完全なのだし未来は予測などつかず不安定そのものだ。

其の辺の道をタダ歩ひて居るにせよ誰かの殺人運転でもって死ぬる可能性は今後むしろ高ひ。

サア十連休だ、などとホイホイと海外へなど浮かれ出ていくと爆弾に吹き飛ばされタダの肉片と化して仕舞ふ可能性は今後むしろ高ひ。

だから其のやうな折にはむしろ座禅を組みまたは教会で祈りを捧げ一心不乱に人間の罪障の消滅を図る。


兎に角マイナスのこと、または負の情動こそがむしろ大事だ。

其の負の情動こそは藝術の母胎である。

藝術と宗教は違ふのだけれども一面では似ても居やう。

藝術は人間の弱さより発しかつ人間の弱さを真正面から見詰めると云う意味で宗教もまた人間の負債をしかと見詰めて居ると云う意味で。


もしも人間の負債を認めないのであればそんな社会こそまさしく異常な社会だ。

前向き思考とシンポにより神人間になるのが目標なのだとすると人間はそも歩むべき道を違へて居るのではないか。

第一人間は神などではない。

ましてやさう簡単には佛にもなれぬ。


そんな低級な何かであるのだからむしろ暗ひところばかりを是非見詰めておかう。

ここんとこが好き、などと言ひつつ図書館の隅とかでじっと純文學でも読んで居れば其のイノチを無駄に散らすことも無い。



ところで作家や詩人は何故かうして生の負の側面を見詰め続けていくのか。

何故かうして五木先生は飽きもせずに日本の下山のことや仏教のことばかりを述べられて居られるのか。


でもまずはさうしてマイナスから入っていくものこそが本物だ。

ところが組織乃至社会と云ふものはプラスから入っていく価値観だからこそ欺瞞そのものなのだ。

そんな欺瞞そのものである組織に人間は身を委ねられやしなひ。


委ねて安心と思ったら決まってウソをつかれおまけにこき使われたとへ死んでも知らん顔をされる。

左様此の世はもうまるで無情の世じゃ。
無常の世でもってしかも無情。

哀しみの二重奏でもってしてしかも表向きだけは明るひ世の中だ。

明るひ?


一体何処が明るひ?

曰くシンポが明るひ。

さらに社会は明るひ。

オリムピックも直来やう。

皇室などももう交代の時期だ。

英国皇室にはすでに孫も出来たことだし。

未来は明るひ。

もう全てが薔薇色の未来だ。


だが一体何処が明るひ?

第一人間の未来などお先は真っ暗だ。

でも近頃のわたくしにとり五木先生の本だけは妙に心地良かった。

さうして暗ひ本程何故か心が慰められやう。


元気を出せ!ではなく悩んで居て良いのだよ、と言って呉れた方がわたくしの場合決まって楽になるのです。

必ずしも未来は明るくて薔薇色な訳では無く未来はもう無ひかもしれないよ、と言って下さった方がむしろ安心することが出来る。

元気が出なひのに元気を出せと言われてもそんなものは出せないしもし出せたにせよ其れは嘘の元気です。


嘘は何より疲れませう。

文明とは何だか其のウソの集積場のやうなものです。

そんなウソだらけで表面上の体裁だけを取り繕って居るのが此の文明の真の姿なのだらう。


五木先生は然し長生きだな。

まさに其は目出度きことだ。

五木先生は見ての通りにダンディだが何故か頭を洗ふのがお嫌ひで多分もう何年も洗って居られぬのやもしれぬ。

野坂 昭如氏などは歯を磨かなかったそうで其処は流石は作家の面々だ、皆変人でもって其の変わり方が徹底して御座る。


そんな風に心から慰められるものがあることこそが大事だ。

無論のこと数的還元の世界にはそんな潤ひさへ無ひ。

人文の知恵はまさに悩みの知恵、生の暗き側面を見詰める文化としての知恵だ。

何の役にも立たない、まさに一文の得にもならぬ、また女にもモテないであらう其の情動の軌跡こそが人間が人間であることのまさに証明なのだ。