昨日、五月の採集以来の採集を隣の区の相生山にて行って来た。
相生山はあくまで都市部の山なので大した山では無ひが雑木林やらツツジの群落やら大きな竹林などがあり我我市民にはまさに憩ひの場となって居る場所だ。
わたくしは此処に小学生の頃から屡通ひ都市生活でもって疲弊した心を癒すことにして居る。
尤も都市生活でもって疲弊しなひ心の持ち主もまた存外に多ひ訳でさうした人々は山になど行かずとも何処か都会の片隅などで或は寺や教会などで心が癒されたりもして居ることであらう。
が、わたくしの場合は兎に角心が繊細に組み上がって居る故そんな訳には無論のこといかぬ。
所謂ストレスが溜まり易ひ人間なので山にでも行かぬともはや生きてはいけぬ。
そんな人は田舎暮らしの方が元より向ひて居らうが田舎暮らしをするにはまずは家を建てなければならぬ。
要するにログハウスのやうなものを建てれば良ひのであるが、其れも大変な労力と資金とがかかる故さうカンタンに実現するべくもなひ。
何しろ行動力が無ひのでコトが進んでいかぬのである。
但し土地のみはある。
だが飛騨に程近ひ所なので兎に角寒さうで寒ひのが苦手な我には余り向ひて居さうもなひ。
其れで昨日は其の相生山にて二時間程採集を行ひ結果大収穫がひとつあった。
まず、相生山は緑地指定されて居り都市計画に策定されし場所なので謂わば公の場所である。相生山
また相生山はヒメホタルの生息地としても知られて居る。
勿論動植物の採取などは禁じられて居る。
厳密には岩石もいけなひのだらうが石何個かを自然遊歩道の範囲で拾って来るだけのことだ。
第一小さな石が運動靴のゴム底部に幾つか挟まることなども屡ある訳だが其の場合にもドロボウになるのかと言へば勿論其れは成らぬ。
第一岩石は生きて居らぬ。
生きては居らぬ岩石を道端で拾ったにせよ其れが罪刑法定されて居るとでも云ふのか。
いや確かに罪刑法定されて居る場合もある。
だからいつも何故かコッソリと其れ等を持ち帰るのだ。
尚市の緑地計画が進めば相生山に住んで居る住人は即家から立ち退き移住していかねばならぬ。
ところが実際には高級住宅街が半分程はあり所謂豪邸なども屡見られるところだ。
要するに金持ち程環境の良ひところを選び住むものなのだ。
が、實は其れほど自然の質が良ひ訳では無く自然の質が良ひのはむしろ東山の方である。
ちなみに東山の方にも同じやうに高級住宅街が拡がって居る。
かように空気が良ひことだらう静かな環境をこそ金持ちは決まって求めるものだ。
さて此の相生山から北東部の東山にかけては石英が産出するのだ。
要するに縞の無ひメノウのやうなものだ。
ちなみに水晶は石英が大きく結晶化したものである。
従って石英も良ひものは透明度が高くなり可成に美しひ。
かと言って値段の付くやうな石=宝石なのではなくタダの綺麗な石と言って良ひやうなものだ。
ちなみに此の石英をかって家の庭からも採集したことがあった。
左様に地元の石だと言へ要するに我と云う実存にとって深く縁のある石なのだ。
わたくしは五十歳位の頃からさうした生まれ育った場所での価値と云ふものを最も大事にすべきだと考へ始めた。
即ち世界は益々グローバル化が進み其れこそ国境や共同体意識が崩壊しつつあった。
だがわたくしはさうした限定の解除には思想的に誤りが含まれて居るとさう結論した。
其れでもって其の逆に限定思考を為してみたのだった。
何故ならグローバルに価値観を統一し経済成長を推進することは単一の抽象的価値に文明を染め上げることに他ならぬ。
其のやうな全体主義的な文明力の推進こそがやがて抜き差しならぬ利害の対立を生み地球環境の破壊をも促進していくことであらう。
だから、むしろ其れではダメだ。
其れではむしろとんでもなひこととならう。
さうではなく諸価値を限定する方向へと人類は歩むべきだ。
但し其れは現代社会其のものが其のやうに諸価値を限定すべきなのであり個がどうのこうのと云った話なのでは無ひ。
要するにすでに個は現代社会の言ひなりなのだ。
現代社会がスマフォ、と言へば中学生も七十歳も皆其れに飛び付く。
さうして🚙を運転しながらスマフォを視て何処かに激しくぶつかる。
スマフォを視つつ地下鉄のホームから落ち地下鉄に轢かれて亡くなる。
全くのところバカな話だ。
其の時以来わたくしは現代社会が齎す価値観には背を向けていくことにした。
其の後トランプ政権が発足した時にむしろわたくしだけが其れを支持した。
何故ならトランプ政権は反グローバリズムをさうして保護主義的な政策を其処に表明して居たからだ。
感情的に云々では無くして理性的にはむしろ其の限定こそが正しひ。
そんな訳で思考力とは何かと云ふ事を少しは大衆の皆様も考へてみて頂きたひ。
其れでもって石は僅かばかりを持ち帰った。
其の中に一つだけ良ひものがある。
見たところは半透明ながらライトで照らすと光がほぼ全透過する。
しかも桃色に輝く。
わたくしにとりコレこそがまさに価値あるものなのだ。
さう其れは単なる物質としての石なのでは無く謂わば半分位はわたくしの思想其れ自体が結晶化したやうなものなのだ。
かように男性は常に観念的な浪漫を具体化したがるものなのであり、ところが其処に限り女共には其の思想がまるで理解されぬものなのだ。
そんな思想としての究極は矢張り宗教の次元に於ひてこそ発揮されるべきものであらう。
無論のこと山歩きの方も小一時間程してみた。
山を歩くと何故か呼吸がとても楽になる。
其れは空気が良ひからである。
山を歩くと何故か呼吸が苦しくなる人も居るかとは思われるがさうした人には自然になど向ひて居なひ。
自然には向き不向きがあり其れは都会に対する向き不向きがあることと同じやうなことなのだ。
かの美しき自然もいざ見方が変わればまるで意味無きもの、価値無きものに見へて仕舞ふのやもしれぬ。
只わたくしの場合はもしもさうなったらもはやお仕舞ひだ。
其処まで認識が曇り文明の諸価値に毒されて居てはもはや生きて居る意味など其処には無ひ。
其処からしても自然が齎す美に感謝しつつ身近な範囲を生きる事、そんなに素晴らしひ生の喜びは他に無くまさに其れが現代社会が齎すところでの無意味な価値に勝る唯一の実存としての価値である。
従って相生山で拾って来しタダの石英はどんな宝石鉱物にも勝る価値を必然として有する。
さてお分かりだらうか?
まさに其れこそがわたくしにとっての限定の思想、分限を理性にて自ら弁へしところでの思考法其のものなのだ。
但しより見た目が美しひほんたうの宝石の方にも矢張りと言うべきかまた強く惹かれる。
だがかように人にはどうでも良ひやうなものがむしろお宝になる場合が必ずやあるものだ。
其れは所謂世間的な価値ヒエラルキーには従わぬ価値観が此の世には往往にしてあると云ふことなのでもある。
また其の価値が生ずる為には其れこそ理性による限定力こそが其処に求められて来やう。
限定力とはまた観念の力であり其れは抽象化し同一化する力=全体主義的に染め上げる力の対極に位置するものでありあへて価値を身近な範囲で具象化し多様化する価値観其のもののことなのだ。