目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

相生山の徳林寺のことー壱ー

其の総論としての現代文明批判には元より限界があり、何故ならすでにわたくし共の生活は欲望を中心とした現實主義=現世利益主義に陥って居るからです。

其れは實はキリストと釈迦が共に否定して居た精神的傾向のことでもまたあった。

 

だがわたくし共は結局のところ眞理方面へは決して歩めません。

我我は結局其の倒錯の生を生きやがては無に帰する者共のことです。

 

如何にも下らなひとは思ひますが精神の階梯ーステージーが如何にも低ひのでさうならざるを得ぬ。

 

其れで各論として地元のことも書き始めては居りますがまだまだ其れも不徹底です。

尤も地元を持ち上げやうとして居るのではむしろ無く其れを確認して行きたひ訳だ。

 

現代は進歩の中心点を設定し其処にばかり価値を集中して行かうとする。

まさに其れが中心的進歩の要点であり癖です。

 

即ち大都市中心主義、乃至は勝った者は勝ち主義にて其処ばかりが肥へ太るやうにしかならなひ。

資本主義をやってる限りはさうしたことにしかならなひ。

 

但しコロナ禍ー具象的限定ーにて其の中心点が分散して行く可能性はまたあらう。

尤も其れ以前に社会の底辺層がより困窮の度を深めて行くことだらう。

 

今から四十年程前に在野の佛法研究者であり日本社会党の熱烈な支持者であった母方の祖父が当時大學生だったわたくしに対しかう述べたことがあった。

「此の世では金持ちはより金持ちになり貧乏人はより貧乏人になっていくものと相場は決まって居る。」

 

さうして其の金持ちには普通貧乏人の気持ちが分からなひ。

だからあんな財務大臣のやうな顔付きと考へ方とが組み上がるのだらう。

 

 

結局資本主義は諸悪の根源である可能性もまた高ひ。

されどみんなは兎に角資本主義が好きだ。

 

まるで妻や子やじぶんの家が大事なことと同じくして其の資本主義が好きだ。

 

だがおまへもまた資本主義の申し子だらう?

第一これまでのおまへのコレクター人生は其の資本主義が形作って来たものだ。

 

其れはさうだ。

だがやり切って来た分、其のコレクター人生の無意味さと空虚さもまた知ってる積もりだ。

 

 

どだひ妻や子やじぶんの家に執着する=現世への価値執着が低級だと言ふのであればおまへのコレクター人生なんぞはもっと低級なものだらう。

 

オヒラはコレクターであると同時に精神の探究者だったからまさにおまへの批判などお門違ひだぞ。

おまへ如きに分かってたまるか此の美への思ひが切實なる藝術への追慕の念が。

 

おまへ如き俗物に螽斯詩人を批判する資格などそも無ひ。

もうおまへらは不細工な妻と出来の悪ひ子と抱き合ってそこらの神社の境内ででも寝て居ろ!

 

神社の境内?

いや、神社の境内は意外と寝易ひものなのだ。

 

特にベンチが置ひてある神社の境内はそんな風に寝て居易ひものだ。

 

ベンチに横たはり空を見上げると樟の大樹が空一杯に枝を拡げ風にサワサワと葉が鳴り快適なこと此の上無ひ。

 

其れに楠の實が其処らに沢山落ちて居やう。

其の實を二つに割り鼻の穴へと突っ込む。

 

すると得も言はれぬ芳香が広がりまるで極楽浄土の世界を彷徨って居るかの如くだ。

 

 

成程、まさに其れが螽斯詩人の性癖なのだね。

さういふのをして居ることこそがまさに楽しひ、極楽浄土であると。

 

社会を捨て価値観を内面化しまさにルンペン並に自由な世界との対話を重ねる。

さうした時間だけを愉しんで来て居るのだと。

 

まあ確かにほとんど仙人の世界だな。

でも普通世の中の人は人間関係にて動かされて居るからな。

 

また資本主義だしな。

だから何をやって居ても余計な欲望が生じ其れに悩まされることともなる。

 

其の欲望が充たされるにせよ次から次へと欲望が増殖しまさに際限が無ひ。

 

では共産主義化してさうしてあちこちの神社でもって寝て居ろと?

或は年金をなるべく早ふ貰ひあちこちの神社でもって寝て居たひ訳だ。

 

まあいつも寝て居たひ訳では無く其の各論としての文明論を地元のことを中心に書くと云ふ仕事がある訳なのだ。

 

 

螽斯詩人はこんな連休をバカにして居るやうだが一体何をして居るのだ?

またアマゾンのヴィデオやオンデマンドばかりを視て御座るのか?

 

いへ昨日は従妹二人が母の世話と家の掃除に来たので早速逃げて相生山へ行って来ました。

 

尚連休程バカバカしひ制度はありません。

 

日本人は何故かうして同じ日に休み同じ日に働くことしか出来ぬのでせうか?

 

連休の時は普通わたくしは外へは出ません。

 

何故なら山も店も決まって人だらけになるからなのです。

 

第一鬱陶しくなひか、そんなの。

わたくしは兎に角日本人の感覚其れ自体が理解出来ぬ。

 

 

相生山でまた石を拾って来たな?

 

拾ひました。

其れも何故か大収穫でした。

 

またそんなに石を盗んで来たのか?

盗んで来たのでは無くお借りして来ただけのことだ。

 

何故なら螽斯詩人は死期を悟ると石は全部山へお返しするからなのだ。

 

どうもウソ臭ひな、ほんたうは全部ヤフオクで売らうとさう思って居る筈だ。

でもどだひ相生山のピンク石英なんぞ売れやしねへよ。

 

其れに売ったとしても百円で売れるかどうかの世界だよ。

だからそんな売買に労力をかけることの方が実際何千円分もかかる力だらうよ。

 

 

ピンク石英は一体何処から湧き出して来るのだ?

 

地中からです。

 

其れもおそらくは幾らでも出て来るのでせうが、タダ眼が良くなひと其れが見へぬのだ。

 

鑑別眼が要ると云ふことに尽きて来る。

 

 

すると我我常識人には其れが見へぬと云ふことか?

 

いや色んなしがらみにて雁字搦めでもっておまけに心の内部まで濁って居るみんなには其れが見へぬと云ふことなのさ。

 

其れはまるで眞理への道と同じことなのだらう。

 

實際眞理は何処にでもある。

 

神は遍在し、尚且つ佛も遍くして世に充ちて御座る。

 

ところが罪人はまた煩悩に心を汚されし者は其の様に気付くことが出来ぬ。

 

 

つまりは其の「常識」こそがむしろ心を不純となし且つ眞理への道を閉ざしておる。

 

 

まるで偉ひ御坊様のやうなことを言ったな。

おまへに其れが言へた義理か。

此の石ドロボウめが。

 

 

つひ偉さうに説法して仕舞ひどうもすみませんでした。

はひ、確かにわたくしは其の石ドロボウです。

 

嗚呼、ピンクと言へば最近ピンクの軸の創作ボールペンを一本買ひました。

 

おまへはそんなにピンクが好きか?

いへ、ピンクものは實は余り好きでは無かった。

 

されどそんな気持ちとは裏腹に何故か次第に縁が出て来た色こそが其のピンクなのだ。

 

結論から申せばピンクは可成に美しひ色だ。

言ふまでもなく此れは赤の眷属だが赤程強くは無く優しさのある色だ。

 

日本人が大好きなアノ桜の花の色なのでもある。

 

ところでピンサロへ行く予定はあるや否や?

 

ある訳無ひでせう。

説法詩人に対し急に変なことを言ふな。

 

 

其の説法は得意ですか?

正直得意です。

 

其れも眞面目に説法したひのですが最近こんな具合にほとんど遊びながら書ひてるのでなかなか以前の眞面目さを取り戻すことなど出来ませぬ。

 

また何で不眞面目化したのですかね?

 

おそらくは世の中を眞面目に捉へること其れ自体がバカバカしくなりつつあるのだと思ふ。

其れ位に文明はまた社会はどうにもならぬものだと云ふことである可能性が高ひ。

 

 

たとへば此処で書くことが全部説法でもイケるのでせうか?

勿論イケます。

 

其れも「般若心経講義」や「地獄と極楽」以上にレヴェルを上げて説法することさへもが可能だ。

 

ですが基本的には螽斯であるオヒラはすでに疲労気味です。

デリカシヒの具合がみんなとは違ふのですでに心がボロボロです。

 

まー頼りにならん奴だなあ。

そも頼りになんぞするな。

 

まーおまへらはじぶんでやれ。

じぶんでもって眞理への道を探し出すのだ。

 

まーおまへらを相手になんぞしとれん。

詩人はおまへらなんぞハナから嫌ひだ。

 

 

尚相生山には相生山 徳林寺がある。

 

曹洞宗の禅寺だが一風変わった寺であることでも有名だ。

 

ー 人 類 的 祈 り の 禅 的 体 得    本禅院は釈尊の教えの根本にあるいかなる人もいかなる生命も『自由であり平等であり平安であれ』という祈りを深く体得するために、禅という伝統にしたがって修行する道場です。《この祈りは人類の過去から未来へいづれの時においても、今日のあらゆる土地のあらゆる人にとっても共通であり普遍的であると信ずる》修行を行う道場です。   

人 類 的 知 慧 の 研 究    釈尊の知恵と慈悲に基づく《自由と平等と平安》という祈りが、今日の人類の共通の願いである自由、平等、平和に一致するのか研究し、ふたつの祈りと願いを対話させその一致を求めます。そしてその実現のために《禅的生活》は世界に貢献できるか研究し、実現の道を求め実践する道場です。   

人 類 的 連 帯 の 禅 的 実 践    あらゆる宗教は究極的に一致するという人類の願いがあります。また宗教的な一致にこそ人類の平和があります。それを信じ、その願いが実現するように《釈尊の和合の教え》を研鑽して、あらゆる地域の人々との連帯の道を研究し実践する道場です。ーア イ オ イ 国 際 禅 院より

 

 

わたくしもこれまでに色々と禅宗とは関はって来て居ます。

但し観念的な意味に於ひてのみ。

 

なので無論のこと禅を始めとする佛法を理解して居るとは到底申せません。

わたくしのはあくまで声聞、縁覚か或は独覚的な佛法解釈なのです。

 

人にはそれぞれに生まれもった性質があり其れはまず変へられぬものです。

其れも社会化するなどして表面上は変へられませうが本質的には其れは変へられぬものだとわたくしは見て居る。

 

なのでわたくしはわたくし流の佛法解釈を此処にて述べて来たまでのことです。

 

個の心理的性質を変へられぬのがダメな訳では無く實は大丈夫なことなんです。

但し社会の心理的性質はむしろどうしても変へて行かねばなりません。

 

 

何度も何度もこれまでに述べて来たやうに、元々個としての欲望などたかが知れて居るのです。

ところが人間が社会関係の中で生きるやうになると其の欲望のあり方に大きく格差が生じて仕舞ひます。

 

わたくしは其の社会化にこそ問題が大きく存するとさう考へて居る。

まさに其れは老荘思想的な世界観でもまたある訳ですが、實は佛法でも釈迦の佛法は其のやうに元来限定的なものです。

 

逆に社会化されし後の大乗佛法にこそ其の釈迦の佛法からの乖離、逸脱と云った大問題が生じて居ります。

だから其の大乗佛法に対する批判的な眼差しをわたくしもまた貫ひて来たつもりだ。

 

勿論研究者や學者の中にもさうした批判は屡見られるものです。

 

 

禅宗は確かに大乗佛法の中では佛法に対し純粋な部分もまた持ち合はせて居ることでせう。

ですが其れもあくまで大乗佛法としての流れのものであることを忘れてはならなひ。

 

『自由であり平等であり平安であれ』

佛法として本質的には其の《自由と平等と平安》が何に対しての自由と平等と平安なのかと云ふことこそが大事なのだと思ふ。

 

より正確には釈迦の佛法は其の《自由と平等と平安》が悟り=涅槃の境地に対する自由と平等と平安であるべきなのです。

つまるところ其れはみんなが今を自由と平等と平安に生きることとは違ふのです。

 

だったら其れは資本主義と近代主義の組み合はせつまりは社会制度としての組み合はせだけでもイケるのでは?

 

でも其れは大矛盾化して居ります。

それならば火星を植民☆にでもし其処に科学者が言ふてるやうに移り住めば解決することではなひでせうか。

 

だが其れが實現出来たにせよそんなものは實は幸せでも何でも無ひのです。

 

 

佛法の根本には、むしろ捨て去る思想が横たはって居ます。

 

即ち欲望は捨て去ることでこそ鎮火する。

またキリスト教に於ひても現世利益ばかりを追ひ求めるなとさう戒められて居る筈です。

 

キリスト教は逆に完全なる来世主義ですので其処はまるで神と繋がる価値以外全ては👿の価値観のやうなものであり其処での現世利益の放棄は流石に徹底されて居りませう。

 

なので其処をカン違ひなどして居てはならぬ。

 

其の本質的に成就されるであらう《自由と平等と平安》は佛のやうに全てを消去して行くことでこそ得られる境地なのでもまたあらう。

 

 

ー宗教的な一致にこそ人類の平和があります。それを信じ、その願いが実現するように《釈尊の和合の教え》を研鑽して、あらゆる地域の人々との連帯の道を研究し実践する道場です。ーア イ オ イ 国 際 禅 院より

 

其の《釈尊の和合の教え》もまた深読みして行く必要なども御座りませうがとりあへずはみんなが仲良く当たり前に暮らせる社会を築くことが肝要であり、其処を反故にして権力を濫用し自分の思想信条としてやりたひ放題をやってなど居てはならぬ訳で、しかも不倫し放題、一部の人間が金を儲け放題などと云ふ不埒な行ひがあってはならず、あったとしたら其れは正しく彼等を断頭台へと送らねばならぬことだらう。

 

ですから其の根本のところでの潔癖さ、自らの行為に対する反省と自戒、御免なさい、もう二度としません、どうかどうか見逃して下され今度ばかりは見逃して呉れ。

 

イーヤ、絶対にダメだ。

 

たった今おまへはギロチン刑にこそ服すのだ。

 

との厳しひ裁定が、其の神佛による裁き、絶対の裁きこそがどんな総理大臣でも、またどんな國會議員でもたとへCEOでも國連の偉ひ人でも嗚呼是非にでも必要なことかと存ずる。

さうしてむしろ偉ひ奴等程正しく裁かれねばならぬことだらう。

 

 

対する庶民は貧乏で、しかもエロが好きでつまりは馬鹿だ。

だが其の馬鹿の罪に対する罰もまた免れ得ぬものだぞよ。

 

ところでおまへは馬鹿か?

 

さうして石ばかり拾って来るおまへは何処までも馬鹿だな。

 

其の馬鹿だけは認めます。

 

ですがわたくしの認識の其の全てを否定すると逆におまへにも罰が当たるぞよ。

 

 

うはあ、罰が当たり会社を首になった。

うはあ、罰が当たり元々出来の悪ひ子供がテストで零点を取って来た。

 

うはあ、罰が当たり元々不細工な妻が大病を患った。

 

其れみたことか、宗教詩人をドロボウ呼ばはりしたのでおまへはすでに現實上の負のループに捉へられた。

 

 

こんな苦境はどうすれば助かるのでせうか?

 

タダひたすらに宗教詩人を讃へ一記事につき一万円のお布施を是非どうぞ。

 

さすれば全ての悪因縁は消へ去り善智識を得ることが出来やうぞ。

 

 

その森にぞくぞく集まる。相生山徳林寺。キャンピングカーで森の旅371日目@名古屋市

 

相生山には散策道ばかりではなく住宅地もあり其の三分の壱位はまさに閑静な高級住宅地でもある。

庶民的な住宅地にせよ当然のことながら環境は頗る良ひ。

ところ今後都市計画公園化が進めば住宅地の家も立ち退くことを余儀無くされる。

 

 

名古屋市が、この相生山を都市計画公園にするべく工事を始めるそうです。

名古屋市WEBサイトより)

(前略)なかでも、都市計画公園・緑地として計画された区域内に占める民有樹林地の割合は大きく、緑の保全・活用のためにはできるだけ早く買収し、誰もが利用できるようにしたいと考えています。しかし、これら樹林地の面積は膨大であり、事業を実施するには多くの資金と時間が必要です。

 (中略)そこで、地主の方々から土地をお借りして、これらの樹林地を活かしながら市民の憩いの場として整備し、また市民と行政が一緒になって樹林地を育てていく試みがこの「オアシスの森」で相生山緑地が第一号です。

http://www.city.nagoya.jp/ryokuseidoboku/page/0000009519.html)

民有林は、特に都市部に置いては地主さんの意向一つで宅地として売られてしまったりする。
長い期間、森として残しておくのは本当に難しい。

だから、名古屋市が買い取ってくださるというのは、本当に素晴らしい。ーその森にぞくぞく集まる。相生山徳林寺。キャンピングカーで森の旅371日目@名古屋市より

 

 

相生山へは子供の頃より通ひ慣れたわたくしなのですが實は徳林寺の辺りは余り行かず所謂「オアシスの森」にて山歩きと石採りばかりをして来た訳だ。

「オアシスの森」が緑地化されて居る分其れは多くの恩恵を我我自然愛好家に与へ続けて来て呉れたと云ふことだ。

要するに「オアシスの森」の部分に限りわたくしが子供の頃から知って居る相生山の自然、風景をほとんど其の侭に残して来て居るのだと言へる。

 

但し徳林寺の辺りはちょっと違った感じがして其処は或は共産主義者ー過激な左の一派ーか何かが住んで居るのか変な施設ー擁護施設?ーなどがあり昔からわたくしは其処がイヤだったのだ。

 

 

珍寺大道場 徳林寺

 

此処などを視るとまさに面白ひ。

徳林寺は都市部の小山の中にある変はった禅刹で曹洞宗の寺だと云ふのにわたくしはいまだかって訪れたことが無ひ。

 

其れも家から15分位で自転車にて行けると云ふのに何故行けなかったのだらうか?

 

是非わたくしが訴へて置きたひこととはまさにかうしたことなのだ。

つまるところ現代人には此の種の盲点のやうなものが付き物で、しかも其の盲点の部分にこそ實はしかと見て置かねばならぬことがタンマリとあるのではなからうか。

 

資本主義だ、経済だ、会社だ、給料だ、また👪だとそんなことばかりを生活の一義に据へて御座るのでまるで地に足が着ひて居らぬ生活を強ひられて居る可能性が高ひ。

 

 

第一此のわたくしにしてからもがかうして盲点を持って居るのだ。

大阪だの東京だのの大都市部では或はもっともっと盲点を抱へて居る可能性が高くあらう。

 

其の本堂もまた東南アジア風の八角弐層の塔も観たことは無ひ。

だから近く是非観に行きたひ。

 

 

尚今回此の徳林寺のことを取り上げたのは、暫く前に地元のTV局が東南アジアからの留学生達が生活に困窮し此の徳林寺に身を寄せて居る番組を制作し放送して居たからなのだ。

勿論其の原因はコロナ禍によるもののことだ。

 

コロナ禍にて失職したり就職の内定を取り消されたりすることは今や日常茶飯事のこと。

勿論其れは仕方が無ひことなのでもまたあらう。

但し少し考へてみれば分かることながら、此の問題は即現代社会が抱へる「限定の解除」としての問題であり且つまた合理主義が抱へる問題其のものなのでもある。

 

母國ではなかなか高賃金の仕事に就けぬ➡相対的に高賃金となる日本でもって稼ぎ家族へ仕送りなどする

 

まさに此れが資本主義社会に於ける合理性が生み出した論理であらう。

要するに兎に角金が欲しひので我慢して日本や独逸また英吉利などの先進国にて働けばある程度は儲けられやう。

 

だがわたくしは其の考へを許す価値観を一種の合理主義だとして否定的に捉へて来て居る。

 

 

そんな馬鹿な。

第一彼等は偉ひじゃなひか。

 

其れも母國を離れかうして孤独となる日本にて必死にやって居るのだ。

其の母國の社会制度其のものがおそらくは悪ひのだ。

 

近代化としての文明の普遍化はむしろさうした悲劇ばかりを増幅させて行くことだらう。

其れはまさに世界の趨勢と比べやうとするからさうなるのだ。

 

人間は物を沢山持って居ること、或は高級なものを多く持つことが幸せに繋がるとさう考へ込み易ひ。

だがそんなものは實はまるで幸せなことでもなんでも無ひ。

 

其れはむしろ地球を壊し其ればかりか魂の純粋さを知らず知らずのうちに失って行くことだ。

 

かくして最近わたくしの頭の中では資本主義に対する嫌悪感がわたくしが青年期だった頃以上に高まり結局其れでもって初めて「赤旗」を読み始めたのだった。

 

わたくしはむしろ自分の持ってる高級万年筆を全部売ったらうかと思って居るところでつまりは其れが物的な意味での断捨離なのだ。

 

だから世界の趨勢と比べやうとはせず謂はば個人主義で行けば良ひのではなからうか、其の東南アジアの國々もまた。

 

さすれば低成長であれ何であれ最低限食って行ければ良ひとの潔癖な思想にむしろ到達することが出来やう筈。

 

なのでわたくしは移民や転勤族を元々厚遇はせぬ考へ方の人間で要するに其処が左派的に人権思想を拡張する考へでは無ひのである。

 

 

宗教は今また新たに問われています。勿論どんな時代にあっても宗教は問われつづけて来ましたが、今日あらゆる問題がグローバル化,情報化される時代にあって、 宗教はいかにあるべきかと新たな問いが投げかけられています。この禅院は禅宗の当寺院がその伝統を背負いながらその問いに答えていこうと設立するものです。   しかし当禅院は組織的、形態的に整えられたものではありません。むしら下記のようなコンセプトを場として皆様の参加を頂ながら発展させていく所存です。特に宗教を背負い、宗教の現実に対して反省を持ち、また未来への宗教のあり方と役割を考えている、やや専門的な皆様の参加をとくに待っています。   また開かれた場としてあらゆる方々との交流、相互啓発を旨としています。特に禅宗に道を求める方ばかりか、禅宗以外の仏教、仏教以外の宗教において活動されている方々との交流と協力こそをこの禅院の目的としています。従ってこの禅院は契機であって、これから築き上げていく目標は、皆様との交流,相互啓発、そして 宗教的一致という方向にあります。 人類は必ず平和を確立しなければなりません。そのためには宗教がその基盤になると信じます。またあらゆる正しく道を求める宗教はその根本において一つであると信ずる時、ともに自身を開き、他に学ぼうとかんがえるものです。

ア イ オ イ 国 際 禅 院より

 

 

思ふに名古屋の禅宗寺院は変はったところが結構あるやうです。

かの桃巌寺にせよ此の相生山 徳林寺にせよ。

 

さて宗教は確かに人権を重視し尚且つ元々グローバルな展開のものでさへもがある。

 

佛教は遠ひ印度で生まれ其れが中國に伝はりやがて日本に移入されて来た経緯を持つ。

 

《自由と平等と平安》をまた《釈尊の和合の教え》を大事にして行かねばならぬこともまさに御尤もながら、其の抽象的概念の解釈には慎重になるべきなのではなからうか。

先にも述べたやうに《自由と平等と平安》を75億人ものホモ・サピエンスに行き渡らせることは現行の体制上はまず無理であることでせう。

 

ズバリ言へば所詮資本主義では其れは無理だと云ふことなのだ。

 

其れに釈尊は只みんなが一緒に幸せに暮らして行きませうとさう言はれた訳では決して御座らぬ。

 

むしろ凡夫としての認識を改め最終的には此の世から消へ去ることこそを佛とされたのですからまさに其れは構築の作業では無く消去の作業です。

 

価値観の上で言へばあれもこれも欲しがるのでは無くあれもこれも捨て去ると云ふことだ。

 

 

グローバル化もまた情報化も本質的には人間の役に立つことではむしろ無ひ。

其処では物的及び精神的に断捨離をすることがより困難になるとさうわたくしは捉へて来て居る。

 

但しさうした世の風潮を全否定することは避け逆に利用すべきところは利用してやらうとさうも考へて来て居ります。

わたくしが此処にて何かを述べることも其のネット情報の広域性を利用して是非社会を遮断する立場を伝へんが為にです。

 

其れは社会をあへて遮断し其れこそ限定して行かねば何も変はらぬ、むしろより厄介な未来が訪れて来ると云ふことなのだ。