尚此の度は大島 真寿美氏の直木賞受賞お目出度う御座ります。
大島 真寿美氏はわたくしの母校萩山中学校の後輩でしかも弟と同学年だったとのことです。
また昭和高等学校を出て居られますが此処はわたくしが受験していやうとして居た高校で家から自転車で十分で行けます。
ところが担任の先生が他の県立へ行けと言ひ張るのでつひそちらへ行って仕舞ひました。
もしも昭和高等学校へ行って居たら通学が楽な分余計に文學修行が出来今頃は芥川賞でも取って居たのではないかと思われます。
いいえH氏賞を。
などと相変わらずバカなことを言って居りますが事実昭和高等学校からは他にも作家が出て居り其れは誰かと云ふにかの山田 正紀氏です。
いや、山田 正紀氏の作品のことを良くは存じ上げませんのですが。
ただし昔SFマガジンに作品が掲載されて居り屡其れを読ませては頂ひた。
昭和高等学校万歳!
このやうに昭和高等学校は昔よりも随分偏差値が上がったやうです。
尤も昔はさう大したことはなかったのですがね。
大島 真寿美氏は例の七五書店さりげないのにスゴイ! 本好きが育つ町の本屋さん、名古屋・七五書店とも関係があるやうで事実此処は多くの作家のサインがべたべたと壁に貼り付けてありますのでおそらくは大島 真寿美氏のサインも其処に貼ってあることかと思われる。
尚此の書店は自転車でもって五分で行けます。
かように地元中心で生きておるとむしろ色んな凄ひことが起きるものです。
つまり、価値の中心を一極集中するなんてのは實は誤りです。
価値はあくまで実存的かつ限定的な展開の中にこそあります。
あくまで皆様にとっての実存としての地元、金が無ひなら無ひなりの地元で、或は金の有る大都市圏でもって、兎に角其処で生まれ育った価値こそが實は一級の価値である。
逆に言へばマスメディアが展開するところでの一極集中での価値は所詮下らないものである可能性が高ひ。
無論のこと知識にせよ文化的な要素にせよ普遍的な価値と云ふものもまたありませうがむしろ其の特殊化されし実存的な唯一の価値を常に大切にしておくべきだ。
尚インテリは、其のインテリのみがかような観念の戦闘に参加出来るのであり、即ち世俗の者共は其れに参加したくても決して其の闘ひに加わることなどは出来ぬ。
即ち其処までの學、つまりは知識と理解力には欠けて居やう。
然しインテリはしかと其の宿命をば引き受けるのだ。
まずは盆に旅行へ行くことを止め、さらに盆の集ひを全て取り止める。
さらに不純なる異性交遊をも止めた。
其のやうな清き心、清き志にてインテリ僧の方々の御説法をばしかと拝聴しておかねばなるまひ。
其れではたった今より其の純粋なるさうして孤独なる観念的地獄いや、観念的學びの歓びの世界へと足を踏み入れてみやうではなひか。
まずは其の前に二元論に就ひて學ぶ。
「神秘主義(神秘論)においては、世界を大きく二つの範疇(分類)に分けて認識・理解するという人間の性質を意味している。例えば、人が木を認識する際に、周りの木でないものと分かつものとして木を認識する、また世界と自己を分かつものとして、自己を理解するということである。
事象が二元的に対立した形で認識されると云ふことは神秘主義に限らずともむしろ事実である。
事実とは真実でも無ひし真理でも無ひ。
要するに其の二元化なり対立なりはむしろ本質としての有る無しに関わらず有る。
其処で何故有るかと云ふことが問題となる。
ところが、此の命題への回答は少し考へてみれば分かる。
つまり其の自然にとっては其のやうな対立関係がそも生じて居なひことだらう。
其処ではむしろ対立関係はそも生じやうが無ひ。
何でかと云ふと自然界に於ける意識の流れー心のあり方ーにはさうしたハッキリとした分離または分裂が認められなひからなのだ。
ただし霊長類ともなれば一般に利口なので分離または分裂が全く無ひ訳ではなくおそらくはままあることはあるのであらう。
けだしほぼ完全に分離または分裂して居るのは矢張りと云うべきか人間のみ。
だから人間はむしろ其の意味でこそ罪深ひのだ。
其のやうな様のことを仏法上「分別智」と言ひ表し、且つ又「相対分別」と言ひ表す場合もがある。
つまるところ此の「分別智」の流れ、又或は「相対分別」での流れでこそかの二元的分離は成し遂げられやう。
では其の二元的分離の何が悪ひのか?
即ち其れが矛盾を引き起こすからなのだ。
「相対分別」は必ずや矛盾を引き起こす。
矛盾は大きくなればなる程に破壊へと連なっていく。
即ち時の流れと共に矛盾はむしろ大きくなりよりハッキリとした形で破壊へと連なっていく。
とさうインテリは考へ易ひと云ふか事実としてさうなので結局のところ観念は破壊を止める方向へ持っていくことが出来ぬ。
だから観念でもってして其の破壊は止められぬ。
其処がまた矛盾に陥って居らう。
つまりはどうも二重に矛盾となってる。
が、あくまで其の矛盾を組み上げて居るのは人間の観念のみだ。
だから人間以外のどーぶつまたはショクブツにでもなれば其の矛盾其れも厄介な二律背反みたひなヤバい状況から逃れることは可能だ。
しかしながら我等所詮は人間ですもの。
其処でもって人間で無ひものになれる筈も無くなれるとすればまさに気が狂ひ🏥へ入る位のもので普通は人間を辞めることなど出来ずまた熊にもなれず鮫にもなれずさらにどんなお花などにもなれぬ。
と云ふことはむしろ逆のヒエラルキーが組み上がって居り、即ち動植物は或は石は又は太陽のやうな恒星、また月や小惑星のやうな無機物の集まりはむしろ生まれながらにして悟って居り悟って居らなんだのはむしろ人間のみ。
其れもゲージツには縁の薄ひ大衆、矢張りと云ふべきか實はコレが一番危なひ。
よってこんな夏に限り大衆がクマに食われたり或はサメに食われたりするのは其れはむしろ当たり前のことなのだ。
しかしながら問題はクマやサメは往往にしてゲージツ家であれ學者であれまた御坊様であれ単なるエサとして彼等をバリバリと喰らふことだ。
其のやうにまずは二元論としての分離、其れが其れこそが人間としての観念に仕込まれし究極のワナでありクマやワニやサメに好んで食われやう原因となるもののことぞ。
観念論は一元化の過程であるかのやうに見へて實は二元論とも相性が良ひ。
事実バークリーの観念論は知覚する精神と神のみを実体とする二元論的展開をみせる。
カントの場合は物自体と現象とに二元化される。
ショーペンハウアーの場合には意志と表象との二元構造が再構築されていく。
「観念的なものが自存し、実在性をもつ」と云ふことは實は二元的に規定されざるを得なひことだ。
何故なら其の観念自体が二元分離の産物であるからなのだ。
しかしながら観念自体は分けやうが無ひ。
何故なら観念自体は二元化することを拒むからだ。
観念自体は二元化したくはないのにそも根本として一元化して居ることが許されぬ。
だから其処にこそ人間にとっての悲劇がある。
現象ー二元化、相対化ーして仕舞って居るのに意識の方は一元化ー等質性、同一性、絶対化ーの方を目指す他は無し。
そもそも其処に意識としての根本の矛盾がある。
なのだけれども、其の観念自体の持つ実存的矛盾を解体乃至は脱構築していく価値を持つのは矢張り観念のみなのだ。
平たく言えば人間の観念矛盾を根本的に解消するのはまさに人間の観念のみなのである。
かうして何故人間には罪がありまたは苦に充ちて居り即ち矛盾が突き付けられて居り其のままでは幸福にはなれぬのかと言へば其れは観念自体が矛盾したものであり其の観念でもって相対論を崩し去ることが出来ぬ故に苦しむ=不幸になる、と云ふ観念地獄の様が常に拡がって居やうからなのだ。
では其の観念地獄をどう脱していくか?
と考へれば考へる程に余計に地獄へと堕ちて行かう。
然し、かの蝶蝶のやうに考へなければ良ひかと言へば實はさうでは無ひ。
何故なら人間とは考へるどーぶつなのだから。
考へない動物は其れは単なるどーぶつであり、要するにクマやサメであり、さういふものは人間をバリバリと喰らふことなどもまたあるものだ。
では其の観念地獄を観念でもってどう脱していくか?
相対論の隠滅を図ること自体が観念的拘りー等質性、同一性、絶対化へのーなのでむしろ其れを捨て去る。
即ち相対論を受け容れる。
すると二元がよりくっきりと見へて来やう。
其処でもって二元相剋即二元相即の、または相対的に入り組んでごっちゃになった其の下品なる様。
まさに肥溜めのやうな様、ウソコキの様、理解し難ひ道理につきあへて其処に飛び込んでいく。
其は理性ではとても理解など出来ぬ。
と云ふ反対の要素をあへて受け容れ知らん顔をして其処に居座る。
其の根性の悪ひ様、其の悪なる善者の立場をこそ叡智は求めて居らう。
たとへクマやサメに齧られたにせよ決して其の二元を離れてはならぬ。
観念自体の持つ実存的矛盾はかように深きところに根差して居り、其れは社会的には決して解決出来ぬ根源的負債であらう。
ならばもう考へるな。
とさう仰る方も居られるのだが考へぬどーぶつはタダのどーぶつで其れは人間では無ひ。
だが考へると即矛盾化して罪又は苦=不幸を生じやう。
だから考へてもいけないのだし考へなくてもいけなひ。
どちらもいけなひので、もう全的にいけなひ。
困ったので禅宗へ走りました。
其れは其れで望ましひことだ。
何処へ走っても実存的矛盾が解消されるならば其れでヨシ。
ただし邪教へは走るな。
邪教は往往にして教祖様を祀り上げやう。
左様に邪教にハマると決まって身の破滅である。
故に邪教以外のところで勝負しやう。
邪教にハマる位なら映画やアニメにハマって置いた方がなんぼか宜しひ。
さて其れでは愈々ほんたうに御勉強出来る仏教サイトをご紹介させて頂きます。
無論のこと生半可なところでは無ひ。
其れがまさにココです。
まさに此処で素晴らしく良く分る説法をして頂き有り難ひのではありますが、其れでもどうしても途中から分からなくなって参ります。
善を指向すれば逆に悪へと傾かねばならず、正論を吐けば逆に誤りや邪に縁する他なく矛盾に苦しむ。
また無常へと傾けば悲観的になり易くそうかと言って明るひー前向きーのを増やせばほんたうの明るさを見失ひませう。
まさに其れが世の実相。
其処で絶対へ至ると云ふことはまさに離れ業のことで元々出来ないことをやれと云ふことと同じですから普通の人間には其れは出来なひと云うこととならう。
ではあっても、理性的な我我にとって全体的に此処は至極理解し易ひ筈。
と云うことは此処は可成に合理的な仏法解釈、まさに理性的な仏法の解釈を為されて居るのでこんなに分かり易ひのです。
逆に分からぬ人は理性には欠けるのだと申す他は無ひ。
一言で評せばかうした相対矛盾をどう乗り越へていくのかと云ふことを観念的にまずは追求してみなければ仏法のスタート地点にさへつけません。
疑問を持って居なければ其れはどーぶつと同じだと云ふことです。
ただし疑問を持てる人=インテリは其の疑問なり矛盾苦なりに押し潰される可能性が常に高くある。
なので仏法と云ふのはむしろ考へることの出来るインテリの為のものであるべき。
だって考へなひ大衆は最初から悩むことなど無ひでせう。
いやさうでもなからうが少なくとも観念的な苦はとりあへず観念的に解決を図るより他に方法が無ひ。
たとへ其れが最終的な解決に導かれるものではなくとも考へる人間の常として其れはやらねばならぬひとつの闘ひなのだ。
まさに一年程前にネット上でみつけたのが此の方のお書きになったものだった。
以降少しづつ具に読ませて頂ひたのだったが分かり易くこれまでで最も勉強になった仏法解釈だった故此処に紹介させて頂ひた次第である。
かように関大出のインテリ僧の方で我我還暦世代よりは少しお若ひ僧侶の方だ。
衆生済度への実践へ向け全般的に仏法を扱ひまさに総合的、包括的にやっていかれるとの仰せである。
なんだけれども基本的には臨済禅の方でのお寺の方なのだ。臨済宗 伝統 悟り 公案体系
矢張りと云ふべきか禅宗は決して観念を疎かにして居る訳では無くむしろ其れを突き詰め問うて居るのである。
なのだが最終的に脱観念での境地を目指すと云ふところこそが禅に共通する真理としての捉へ方なのであらう。