さて釈迦の説く仏教の教へがむしろ究極的に合理的なものであることにつき先にわたくしは述べた。
釈迦は高度に理知的な人でありむしろ究極としての合理化過程としての此の世からの人間の消滅として=成仏の価値を説ひた。
しかしながら其れは文明の価値、子宮が欲するところでの価値、また藝術が目指すところでの美の成立、などとはまさに対極に位置する価値だ。
つまりは其れは無価値だ。
あくまで価値ヒエラルキーからすれば無価値だ。
逆に其の価値ヒエラルキーからの脱出こそが釈迦の目的としての涅槃であらう。
涅槃とは真の幸福=浄楽へ至る道だなどと屡僧は語る。
だが其れは我我凡夫には理解し難ひ。
勿論凡夫にも色々とあり、むしろ其の凡俗の中でも外れた人ー両極に外れた人ーにこそさうした逆の価値は了解され易ひのやもしれぬ。
ただし、わたくしはある意味で成仏を信じて居なひ。
尤も釈迦の成仏ばかりは信じるが他の人間で成仏など出来る筈が無ひと捉へるのであり其れはどんな根拠からさう思ふのかと云ふにわたくし自身が至極疑り深ひからなのだ。
まずわたくしは理性がちなのでまずは非常に合理的な人間だ。
なんだけれども、實は信心深い面さへもがある。
つまり逆の要素も多分に持ち合わせて居るのだ。
わたくしは冷たひ、と同時に實はあったかひ人間でもある。
また超理窟っぽくて理解し難ひと同時に至極単純な感性人間なのでもある。
だがキチ外じゃない。
とてもじゃないがキチ外まではいかぬのだ。
だから何故か両極が見へる。
其れも完全にではないが、どうも其れを見詰め易ひパーソナリティなのだ。
即ちある意味では眺望がきく。
其れも広く深く世界を見渡せるのだ。
其処でもって釈迦の教説を吟味してみるに、コレはもう高度な合理的論理なのだと申す他無し。
人間に対する合理化を究極まで突き詰めた場合に、「人間は此の世から速やかに消え去るべき」と云ふ結論に達することであらう。
しかも其れは普遍的合理性が齎す結果でもある。
もしも其処に一片の感情なり愛なりが混じって居れば無論のことこんな結論が導き出されやう筈も無ひ。
即ち愛なり感情なりは此の結論には決して従わぬことであらう。
愛なり感情なりは決して消滅することを喜ばず、むしろ人間が永続して生きることをこそ望むのだから。
だから其の愛を教義の根幹に据へしキリスト教はむしろ霊的に神と共に永遠に生きることを教義の目的として結論付けていく。
ただし霊的にと云ふ部分こそがまさにミソだ。
逆に言へば生身でもって生きて居る間は本質的には救われはせぬ。
対して仏教は現象其れ自体が「苦」であると捉へる。
然しさうした捉へ方はむしろ屡経験され得ることだ。
などと云う気持ちにならぬとも限らぬ。
ただし問題は、釈迦はさうした狭い精神の領域でさう結論したのではなく其れこそ両極を広く見渡した上で其れ以外に無ひと云ふ形で世界は「苦」だと結論付けたのである。
つまり、釈迦は両極が見渡せる人であった。
たとへば四門出游と云ふ説話があるが其れが後代に作られた話であれ其処で釈迦の性格ー性質ーを上手く言ひ表して居るものと思われる。
即ち釈迦は思慮深く其の思考力は誰よりも長けて居た。
かように人間には生まれ付ひて持った性格、性質があり、たとへば暗ひ⇔明るひ、利口⇔馬鹿、性欲弱⇔性欲強、食欲弱⇔食欲強、繊細⇔杜撰と云ったやうに其の性質はむしろ初めから決まって居るのだ。
また藝術や學問に対する向き不向き、其の感度などもむしろ生まれつきのものである可能性が高ひ。
と云ふのも、かってわたくしが塾の先生として教へた経験からも、其処でほんたうに頭の良ひ奴は兎に角最初から最後まで頭が良かったのである。
ただし勉強が出来ぬ子を出来るやうにすることこそが教師の力量なので出来ぬ子=頭が悪ひと目される子を何とか理解へと導くのがじぶんの仕事であった故其処は誓って手抜きなどはして居らぬのだが。
だから其の「苦」こそがまさに本質に関わる世としての苦の性質なのだ。
此の世の本質的性質としての苦を釈尊は其処に直観せられて居たことだらう。
掘り起こされた虫はすぐに鳥が啄みに来る。
さうして其れは何度でも繰り返されていく。
然し其の様から生自体が苦であると云ふ認識にはなかなか至らぬことであらう。
第一子供なんて逆に下ネタとかが大好きで、しかも其れは小学生であれ中学生であれ全く同じことで、そんな釈迦のやうなまるで鬱のやうな捉へ方には普通至らぬものだしもし至ったとすれば其れは異常である。
あくまで俗世間での認識とすればむしろそんなに敏感と云ふか詩人と云ふか根暗と云ふかまるで聖人のやうな感性では生きて行くことが極めて難しくましてや女にもモテぬし其処では下ネタひとつさへ言へぬことだらう。
だが、あくまで釈迦は直観しておる。
其処は流石に聖なる人間である。
逆に下品なる世俗の者は、特に男坊主は全くひでえ遊びをして即ちアノカナブンを石でぐちゃぐちゃに潰して遊んでみたり蝶の羽を両方捥ひでみたりでまあ今思へば何でそんな酷ひことを愉しんで居たのだかまるで分からぬのだが。
其ればかりか我の従弟などは大蜘蛛を焼き其れを我の眼の前に持って来て至極喜んで居たりしたものだ。
ー其の後わたくしは半狂乱となり其の事が生涯の心の傷となった。さうしてわたくしは元々蜘蛛が極端に嫌ひなのだった。ー
だから聖人と俗人の違ひはむしろ生まれつきのものなのだ。
ちなみにわたくしはむしろ子供の頃はガサツで落ち着きの無ひところさへあった。
が、同時に物語好きでしかも潔癖症でかつ心配性的なところもすでにあった。
五年生の頃までわたくしは道化者として人気があり皆を笑わせてばかり居て女の子にも好かれると云ふか人気があった。
ただし理性が発達したので六年生の頃はすでに優等生となり皆から一目置かれる存在となっておった。
が、むしろ其のアホの時の方が結局女にはモテたのである。
つまり女は理性を解することが出来ぬ。
ただ、生が「苦」だとはとても思へなかった。
然し生の舞台はイヤなところだと云ふ認識はすでにあった。
生の舞台はイヤなところだとする認識はマイナス方面での認識で其れは理性がちな人に起こり易ひものなのだ。
他方で其の真逆に至極楽天的な此の世が「楽」だとする認識さへもがある。
かように苦楽は一対なのでほんたうは分けられぬ。
なのに何故生が「苦」として捉へられるのだらう?
其れはつまり理性ー観念ーの側から捉へる事実としての世界が「苦」として捉へられざるを得ぬ様相を呈して居るのである。
平たく言へば理性的に認識されたところでの世の本質は常に苦其のものだ。
だから観念として捉へられる事実は矛盾其のものでしかなく且つ又不完全なものでしか無ひ。
だが其れは理性的に認識されたところでのものでなければ其のやうに結論付けることなど出来ぬ。
其のやうに釈迦は苦としての生の本質を炙り出す為の優れた心理的素地を元々持って居られた。
所謂持ってたのである、其の感度の良さを。
女にモテるだの、仕事に励むだの、勉強が出来るだの、確かにさうした面で持ってる奴も居るがたとへば絵が描けるだとか、又は詩が書けるだとか、又は苦を悟るだとかで持ってる奴もまた中には居るのである。
其の感度の良さは理性的なものであった可能性が高ひ。
つまりはただの感覚的なものではなく、其処に可成に論理性が内包されしものだ。
だから釈迦の奉ずる修行としての目的はほぼ完全に論理的であり尚且つ合目的的だ。
即ち此の世から速やかに消え去ること、此の命題だけが人間に与えられし究極の課題でありまさに合理的な「苦」の解決法であった。
まずは釈迦による悟りへの道程とは其のやうに極めて純粋な形で合理的に追及されたものであったことを史実より学んでおかねばならぬ。
さうして其のことは釈迦の内面の性質と知性ー理性的な様ーをもってしてようやく其処に成らしめられしものであった。
鳥が飛んで来て掘り起こされた土の中のミミズを食ふ。
其れを見て生が苦だとさう考へるガキが一体何処に居らうや?
普通のガキはむしろ楽しく其れを眺めるのであり、また普通のガキは夏休みに虫を採って来てむしろ其れを殺したりして愉しんで居るのだ。-昔のガキはまずさうだった-
で、川の中に入りアメリカザリガニなどを好んで獲り其れのハサミを捥ひだり胴から半分に割ったりする。
いや、食ったこともまたあった。
其れにアノカブト虫を手で潰したことさへあったぞ!
左様に猥雑かつ下品な下々の者共はむしろ最初からさう生まれておるので釈迦のやうな高貴なる認識、其の気高き心の性質とはまるで別のものだと云ふお話をさせて頂きました。
観念と云ふか直観の領域であった。
逆に我我は其の直観には欠けておる。
だが其の代わりに欲にはシッカリ目覚めても居らう。欲に結び付けられて居る=屁ばかりこひておる。
「四つの道理に背く見解。すなわち、凡夫が無常・苦・無我・不浄のこの世を常・楽・我・浄と思い誤ること。これを有為(うい) の四顛倒という。また、声聞・縁覚がさとりの世界が常・楽・我・浄であることを知らないので無常・苦・無我・不浄であると思い誤ること。これを無為(むい) の四顛倒という。」
兎に角凡夫は屁をこくのが何より得意だ。
屁をこく=女に触り金を儲ける、女とカネを食ふ舐める消化する。
凡夫は食欲にはまず強く反応し兎に角何かを食って居たひ。
さらに愛に充たされて居たひ。
利口にもなりたひ。
兎に角金が欲しひ。
嗚呼、何て眩しい其の欲の巣であることよ。
尤もわたくしなどは元々生まれが蝶蝶ですのでさうした下品な欲の全てが羨ましく思へて仕舞ふのです。
生まれつきお上品でもって小欲でもってしかもお利口。
そんなわたくしがイキナリ濁世の中に放り込まれて何で生きていけませうや?
とは言へわたくしにも人並みに欲は御座ります。
特に食欲、コレは確かに御座ります。
ただしほんたうは其れも大したものでは御座らぬ。
實は文學的に誇張して表現して居るだけのことだ。
さうでもせぬと直ぐに壊れて仕舞ふ詩人肌ゆえさうして居るので御座ります。
左様に凡夫はバカだから直観が効きませぬ。
其れは事実です。
ただし其の癖現実感覚には長けて居り色んなものに目敏く気付き此の世でもって保身をはかることが得意です。
要するに其の気付きの距離が最短です。
凡夫であれ藝術家ともなればむしろ遠ひものを見詰め其処から気付いていくので気付きの距離其のものが長ひのです。
凡夫は左様に大衆と藝術家、または大衆と宗教家とに分かたれて居ます。
ただ其処に経済的な尺度や地位の有る無しは関わって居りません。
要するに百億持って居やうが国家元首だらうが単なる大衆である可能性の方が高ひ。
但し學者もまた大衆とは分けられる性質の持ち主であるのかもしれません。
兎に角大衆はどーぶつ的です。
だから其のどーぶつであることこそが幸せ♡だと述べて居るのです。
どーぶつで無ひものはインテリとなります。
インテリ即ち理性勝ちな人間のことです。
理性勝ちな人間は女にはモテません。
何故なら女には理性が無ひからなのです。
あくまで本質的には無ひと云ふことですがね。
尤も其のどーぶつをバカにすることが不可能な立場にわたくしは今追ひ込まれて居る訳です。
どーぶつはまず世界を常・楽・我・浄と認識して居ります。
インテリはまず世界を無常・苦・無我・不浄であると認識して居ります。
勿論釈尊はさうした両極分離の様をこそ統合されていかうとなされている。
なので、どーぶつに対しては常・楽・我・浄との認識を否定され無常・苦・無我・不浄であるとの認識を説かれる。
だがここからが大事なのです。
其の無常・苦・無我・不浄であるとの認識は一見真理であるかのやうに見えるでせう?
確かに其れはインテリが心理的に血反吐を吐きつつ到達した理性的な結論なのです。
だから其れぞ真理なのでせう?
残念ながら違ふのです。
其処で釈迦はインテリに対して法を説かれます。
即ち無常・苦・無我・不浄であるとの認識を否定され常・楽・我・浄であるとの認識を説かれる。
要するに逆を説かれるのであります。
ではインテリが悪ひのかと云ふ点ですが別に悪くは御座りませぬ。
但しインテリは疑ひ深ひので理性を信奉する余りに悶絶死する虞さへもが御座ひます。
インテリとはほんたうは人間になどなるべきものではなかった生命体なのであり、むしろ猫、プラナリア、八ツ目ウナギ、花、雲、空、仏像、などになっておくべきモノで御座りました。
ですのでインテリは大衆とは別種の生き物でややもすれば其処で釈迦の教説に逆らひまるでかのわたくしのやうにイキナリ変なことを言ひ出さぬとも限らぬ訳ですので逆に其の理性をばきつーく縛っておかねばなりません。
其処でまず、インテリは決して成仏出来ぬとの大乗思想が形成され即ち声聞、縁覚は菩薩にさへなれぬぞよ。
おまへ等のやうな利口は居るだけで仏法の敵だ。
とまで言われるに至りましたが、ただし釈迦の時代より其の理性化が成道への道を阻むものであったこともまた確かなことだったのでせう。
でも釈迦の時代にはたとへば智慧第一だとか言われ學問的な教説の解釈を可能とする理性的能力が軽んぜられて居る訳ではなかった。
むしろ學または理性の方も大事だったのです。
なんですが、學または理性のある奴は兎に角色々と考へて仕舞ふ。
挙句の果てには往々にして新説を発表するに至る。
つまりは新しひ教義さへをもつくっちゃう。
だから危険だ!
其は極めて危険な思想犯だ!
其れでもって大乗仏教はインテリ狩りに乗り出したのでした。
なんですが、無常・苦・無我・不浄であるとの認識が苦を生み出すのはむしろほんたうのことなのです。
インテリの苦は大衆の苦とは性質が異なり其れは謂わば二重苦です。
肉体苦と共に観念苦が其処に加わるので二重苦です。
左様にインテリであることはむしろ苦しひことです。
でもほんたうはどーぶつの方が苦しひ筈なのですがー道理上はー彼等には理性の働きが弱ひがゆえのへこたれぬ力、打たれ強き草魂がありませう。
決してへこたれず常にさうしてしぶとく屁を放って居る訳です。
へー、さうだったのか。
重要なところは其れはまさに対概念であると云ふことなのだ。
認識とは必然的にさうした二元論に陥らざるを得ぬ非本質的な作業―分離作業ーのこと。
本来ならば認識などしてはならない訳なのだが幸か不幸かかうして認識しておる。
其れを幸と見れば其れは凡夫の考へであり、不幸と見れば其れはインテリの考へだ。
釈尊は其のどちらの偏った認識も否定されまさに両極から隔たることにより中と云ふ立場を逆構築されたのだ。
けだし其の逆構築と云ふ作業は、まさしく観念的な作業なのだ。
すると結果的に構築し得ぬ筈なのにひとつの立場が構築されて仕舞ふ。
即ち其れが中の立場だ。
よって仏教は観念的では無ひのではなく、むしろ大いに観念的でもって合理的でさへあったのだ。
さうして其のことは釈尊の生来の性質=もの静かでもって哲學的考察を好む性格、と切っても切れぬ縁を結んで居た。
もしもお釈迦様が君等の如くにガサツでしかも藝術を解さぬ粗忽者であったならばどうする?
人類はまるで救われぬではなひか。
またもし詩人がこんなことをお盆に述べていなかったらどうする?
人類はまるで救われぬではなひか。
だから其処にもまた価値があるんだ。
インテリ性即ち哲學フェチ気質、ヲタク気質、女にはまるで興味無ひ気質にだってちゃーんと立派な価値はあるんだよ。
さうしてのべつまくなしに屁をこき垂らす大衆、されど其の大衆の価値認識にはむしろ立派な生命力が宿って居やう。
だからわたくしは其の両極を見詰めよ、とさう述べて来た。
即ち下品即上品、屁即法、バカ即利口、男即女、女即男、バカマスコミ即學者、詩人即俗人、悪即聖、聖即悪魔。
で、しかも其処からは離れなひ。
其処にこびりつひてあへて離れると云ふ真理は歩まず。
いや、歩めぬのであへてさうして居る他は無し。
但し両方に等しくこびりつく。
両方へじぶんがシフト出来るやうにして置かう。
かように二元的関係は「繋がって」居る。
難しく言へば相剋し且つ又相即しておる。
さらにどちらか一方で其の関係が成り立つ筈も無ひ。
なのでわたくしはむしろ他を尊敬することとしてみた。
でも其れは真理には非ず。
むしろキリスト教の教へに近いものだらう。
でも尊敬なんぞ出来なひぞ、アノ野郎には何せ腹が立つから。
まあさうだ、でもむしろ観念的には理解してあげやう。
観念的には「アノ野郎、早う地獄へ堕ちよ。」などとは決して思わぬやうに。
其の場合にはむしろ肉体でもって、むしろ生理的に受け付けぬこと、アー、イヤだ、もう二度とアイツとは口ききたくなひ、顔合わせたくなひ。
さうむしろ其れで良ひのだ。ただし理性なくして明知へ至る道はまた無ひことと心得ておかう。
「梵語アサンスクリタ(asaṃskṛta)の漢訳。 有為(うい) に対する語。種種の原因や条件(因縁)によって生成されたものではない存在。すなわち生滅変化を超えた常住不変の真実のこと。涅槃(ねはん) の異名。→有為(うい) 。」
かように無為⇔有為とのことなので、其の無為と云ふ概念と有為と云ふ概念もまた相剋し且つ相即する関係にこそある。
此のやうに概念的規定は須らく二元化ししかも矛盾化する。
但し其の矛盾をどう捉へるかにより心理的な立場が決まるとも言へることだらう。
だからインテリー藝術家、宗教家、學者ーは其処で無為を目指し易く尚且つ大衆-煩悩に生きる人々ーはむしろ有為からは一歩も出られぬ。
そもさうした性質なんである。
幸か不幸か、こんな面倒臭ひ哲學ブログを読んで居る君はインテリに生まれつひて仕舞った。
教師やら、學者やら、或はそんな我より利口な人なのやもしれぬ。
だがインテリはバカを嗤って居てはイカン。
インテリはまずじぶんの利口を反省し利口過ぎて成仏出来ぬ分、其の分をまずは社会を改革してあんな小泉のバカ息子ごときに将来総理大臣など任せるやうでは此の國も破滅ぞ!
だからインテリは兎に角闘へ。
実際何処までも何処までも理性でもって闘っていかずしてどうする?
尚、インテリは是非甘ひものを食べなされ。
甘ーいかき氷とか是非食べてみなされ。
今は暑苦しひチョコレートなども頭の回転には良く効きますよ。
わたくしなどは甘ひものでもう歯がボロボロだが其れでも尚闘っていかねばならぬ。
真理とさうして物価との戦闘の数々を。