目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

梅原 猛先生の文明に対する悲しみ ー思うままに 人類が存続する道はーより

 

最終的にわたくしが此処にてやりたかったのは文明に対する全的で且つ根本的な批判である。

何故文明を批判するのかと言へば、結局大元での社会システムの方が悪ければ其の体制の枠内の中で何を言ってもまた何をやっても徒労に終はって仕舞ふからなのだ。

 

まあさう云ふのは随分と青年っぽひ考へ方つまりは青臭ひ考へだなとさう思はれるのやもしれぬが其れはさうでは無ひ。

わたくしは其の青臭さもとうの昔に卒業しかっては物欲まみれ、👩まみれになって居たことさへもがありしが還暦を過ぎて逆にまた昔へと戻った。

 

結局悪ひのは其の誤魔化し、現世利益と云ふ甘露に群がるまさに蝿の如き「大人の群れ」である。

さうしてとどのつまりは生活すると云ふ其の根本での部分が其の誤魔化しの世界に直結されて居るものだから其れにはまさか文句は言へやしなひ。

 

あへて其処で文句を言へば会社は首になるは、おまけに共同体より村八分にされるはで其れではまるで生きた心地がしなひことだらう。

 

 

嗚呼其の同調圧力の物凄ひことよ。

 

なので其れはむしろ引退してから言ふべきことなのである。

 

さう思想的に過激な壱老人としてかうして吠へて居れば良ひことなのだ。

 

さう云ふのを文學的に表現すれば老年修羅と云ふことにならうかと思ふ。

 

かの宮澤 賢治は自らの立場を「修羅」だと捉へて居た訳だが其の修羅とは今の幸せに満足する者のことでは無くほんたうの幸ひを追ひ求めて行く者のことを言ふ。

 

 

だが修羅とは所詮馬鹿のことだ。

晩年賢治は自らの生涯を振り返りまるで後悔したかのやうな言葉を並べて居る。

 

馬鹿はさうして社會と闘ひ其れでもって傷付き深手を負ひ倒れる他は無ひのだ。

賢治もまたほんたうの幸ひの為に闘ひ元々弱ひ體を酷使したが故に不治の病を得て若死にをした。

 

尤も賢治は熱心な法華経の信徒であったが故に其の宗教の立場が社會と闘ふものでは無ひこと位は分かっても居た訳だ。

宗教は主に内面と闘ひ其のあり方を正して行く手段のこと故實は社會を批判したり其れと闘ふものでは無ひのである。-本質的には-

 

されどキリスト教や大乗佛教のやうな他力救済を旨とする宗教ー禅宗を除くーに於ひては其れは必ずしもしもさうでは無ひことであらう。

 

大乗佛教は結構現代社会のあり方を批判したりもするのだしキリスト教の場合には余計に科学的なものや進歩主義への批判をなして居ることだらう。

 

だが佛教での根本での目的とは所謂自らの無明による相対分離世界への執着の抹消にこそあらう訳で故に世直しをするだの何だのとはまるで関係無く自らの心のあり方を正すことにこそある。

 

だからまさに其れを目指すのが聖者なのだ。

逆に修羅は聖者などでは無ひ。

 

 

修羅⇔菩薩

 

しかしながら、修羅の他面にはまた菩薩も含まれて居ることかとさう存ずる。

尚批判が少しでも入ると必ずや修羅化するのだとわたくしはさう考へて居る。

 

 

で、修羅でも無く菩薩でも無ひ現代の一般大衆とはタダの獣のことだらう。

其の獣は修羅ーキリスト教で云ふ👿ーよりもよりタチが悪ひと来てる。

 

 

さてわたくしは此のところ我が家の合理化に着手し始めた。

まさに此れは大仕事でおそらくは弐、参ヵ月の期間を要することであらう。

 

其れでまず手始めに自分の部屋を掃除して居たところ重要な壱枚のコピーが出て来た。

 

自分の部屋を掃除すると言っても完全にやらうとするとまさに大仕事である。

たとへば重ひ本がぎっしりと詰まった書棚ー本棚にして居るが實は只の家具ーの本をどけると其処には大量の埃とゴミが溜まっておる。

 

要するにそんな本の裏側までは廿年位は掃除して居なひものだから兎に角酷ひ状態にある。

其れを取り除くだけで何やらせひせひするものでまさにこんな風に欲望の方も掃き清めて置きたひものだと其の時にさう思った。

 

 

其のコピーとは地元の中日新聞のコピーであり2016年11月28日付けでの梅原 猛先生が書かれた記事である。

 

「思うままに ニヒリズムの時代」ー人類が存続する道はー 梅原 猛

 

かってわたくしは梅原 猛先生との縁が深くー其れもあくまで思想的にー一時期さうして「思うままに」の連載記事をほとんどコピーして居たのだった。

さうは言へ手が回らずコピー出来なかった部分もあり、其処は区の図書館へ出向き其処を閲覧して来て居る。

 

梅原 猛先生の思想は梅原日本學などとも言はれて居り一見右の思想にも見へまた實際に日本の文化文物をも含めた東洋文明を高く評価して居られるが故に亜細亜主義的なものでもあるのだらう。

だが西欧近代思想を手厳しく批判されて居る点から鑑みた場合には必ずしも右だとは決め付けられぬ。

 

 

どだひ梅原 猛先生の思想は所謂京都學派の流れを汲むものなのだらう。#京都学派(京大人文研)

梅原 猛先生も京都大學で学ばれかの大哲學者西田幾多郎の影響を多かれ少なかれ受けて居られたのだ。

 

で、梅原 猛先生の思想、其れも哲學の方に関しては相当にブッ飛んで居り西欧の近代哲學に対して可成に批判的で且つ挑戦的だ。

梅原先生はアノ三島 由紀夫先生とは同ひ年だったのださうだが三島 由紀夫先生が過激な思想の持ち主であったのと同じくして梅原 猛先生の哲學も結構過激なのだった。

 

勿論わたくしは其処からも影響を受けて居るのだけれど、わたくしが西欧近代と云ふ時代又は文明を批判するやうになったのはむしろかって塾でもって社会科を教へて居たと云ふ経緯の方がより大きく影響して居りむしろ其れは哲學以前での近代社会のあり方其のものに素朴に疑問を抱ひたからなのであった。

 

見方にもよるが梅原 猛先生の哲學は西欧近代をほとんど全否定して居り其処は物凄く東洋びいきであり日本びいきでもまたある訳だ。

だから右の思想の立場の方々には喜ばれ易ひ哲學者なのだ。

 

たとへばかってわたくしは元警察官の其れも幹部だった方と梅原 猛先生の哲學に就ひて論議したことがあった。

此の方は一流高校卒で兎に角見識の高ひまさに尊敬出来る理性をお持ちの方だった。

 

 

其のN氏が梅原 猛先生の思想は好きで「思うままに」を毎回欠かさず読んで居るとさう仰るのでわたくしは梅原 猛先生の思想の核心部は西欧起源の哲學其のものへの批判にあるとさう長々と講釈を始めるのであった。

尚、わたくしに此の種の講釈をやらせたら弐時間だらうが参時間だらうが實際何処までもやっていくことであらう。

 

先生の思想は宗教との相性では佛教との相性が良くまた実践倫理宏正会などとも相性は悪くは無ひことだらう。

 

個人的に梅原 猛先生の思想から學んだこととはまさに其の西欧起源の哲學其のものへの批判の部分である。

だが西欧起源の哲學を全否定されて居るのでは無くあくまで西欧近代と云ふ文明のシステム其れ自体をほとんど全否定して居られたのではなかったか。

 

 

哲学たいけん村「無我苑」

碧南市哲学たいけん村無我苑

 

此処に名誉村長:梅原猛とあるやうに梅原先生は此処の村長を長年に亘り務められ毎年のやうに哲學としての講演会を開かれて居たものだった。

わたくしは其の講演会に弐度程訪れて居る。

 

またわたくしは無我苑の会員である。-年会費を払ひさうして会員になって居る-

 

元よりわたくしが出来ることとは生活することでは無く思考することなのだ。

其の思考することが得意であるばかりにむしろ此れ迄随分と悩んで来ても居る訳だ。

 

何故なら一般社會はむしろ其の思考を嫌ふことの方が多ひやうに見受けられてならなひからだ。

一般社會ではあへて思考せず酒でも飲んでどんちゃん騒ぎをやり👩の尻を追ひかけることこそが正常なのでソコがまさにわたくしの性分にはまるで合はぬ訳だ。

 

 

拾年程前のことだったがわたくしは其の梅原 猛先生の講演会へと意気揚々として出向ひてみた。

講演の内容は主に西洋近代哲學への手厳しひ批判であった。

 

だが細かくは其の内容を覚へて居なひ。

良く覚へて居るのはわたくしの前の席に何処ぞの御坊様が居られ其の坊主頭が常にわたくしの目の前にあり其れが妙に印象的なことだった。

 

最後に行った講演の折に覚へて居るのは講演が終はり移動されやうとした梅原先生の足がもつれて危うく転ばれるところだったが脇に居た人が咄嗟に體を受け止め事無きを得たこと位である。

まさに其処がたとへ哲學者であっても年齢には勝てなひと云った部分なのだらう。

 

ちなみにわたくしのものを考へる為の感度は近年また研ぎ澄まされて来て居る。

即ち観念の感度に限り實は老化することが無ひのだ。

 

観念は年を取っても衰へるどころか益々活性化して来る。

つまるところどうも不老不死であるのは観念の力だけなのではなからうか。

 

だから人間は観念の力をこそ是非磨き込んで行くべきなのだ。

 

さすればたとへ肉体は滅びても其の観念の力だけは何処かに残らなひでもなひことだらう。

 

わたくしはかうして此れ迄に随分と観念力を鍛へて来た。

 

だから哲學だの宗教だのと云った分野に対し元々強ひ訳なのだ。

 

 

で、此処からがようやく其の「思うままに ニヒリズムの時代」梅原 猛の内容に対する感想である。

 

まず梅原先生はポピュリズムニヒリズムに繋がるとしてトランプ政権の発足当時のことを捉へ述べて居られる。

 

但しわたくしはむしろトランプ政権を支持して居たのだし同時にトランプ政権はポピュリズムによるものでは無かったとさう捉へて居る。

トランプ政権は反グローバリズムとしての保守としての自衛の流れが成立させたもので要するに其れは至極当たり前のことだったのだ。

 

どだひ日本人であれ、経済や労働がもしも完全に自由化され其の結果として外国人労働者ばかりが街に溢れ日本人の多くの父ちゃんが職を失ったりじぶんの娘が訳の分からぬ外人とケッコンしたりしたら果たしてアンタは我慢が出来ますか?

 

其れは何処の國の人でも我慢がならぬことなのです。

なのでトランプ政権が必然的に組み上がり自由主義と国際協調への限定をまさに行ったのです。

 

其れでもってどちらかと言へば保護主義鎖国的な政策を断行したのだった。

 

 

尚其の「自由」だの「平等」だのと云ふ概念はあくまで理想論でありズバリ申しまして限定された地球と云ふ資源環境の中では元々實現が無理なことなのです。

でもあへて其れを押し通せばまるで此の戦後世界のやうにあちこちに矛盾が生じ其の中でも一番の矛盾点とはまさに自然の大破壊でせう。

 

つまりは右の政党であるかまた左の政党であるかに関はらず「限定」して置く政策の流れこそが「ぜんたひの幸ひ」を見詰めた政治のあり方なのであり其れぞおおまさに正しく選択された文明のあり方なのだ。

 

であるからこそグローバルに一億総活躍するなどと云ふ考へは時代錯誤もエエところで、其の遥か以前に西欧近代思想による経済成長と進歩を旨とする其の思想其れ自体にこそ大矛盾ー破壊の根ーが存して居るのです。

其れが何故貴方方には分からぬのだらうか?

 

 

其の立場から致しますればグローバルな近代的価値の展開はまさに思想的に✖なのであり、また世間で喧伝されて居る如くに兎に角女性が頑張って管理職をやるなんて云ふのもまるで✖でせう。

 

なので🚺は良妻賢母をやっていることこそがおそらくは一番幸せな筈です。

 

ですが、近代社会は此れ迄男性をこき使って来たので次第次第に🚹が弱体化して来て居ります。

 

さうか、では此の際余計にへこたれてみませう。

かの太宰の如くに全部ヘコタレ仕事を🚺に丸投げし全ての🚹は寝て食って哲學でもして行くのが宜しからう。

 

 

ポピュリズムはたとへばタレント議員か若しくはタレント的な議員の活躍などでむしろ日本で起きつつある現象なのだらう。

 

また梅原先生は今ニヒリズムの時代が到来して居ると其のポピュリズムを通じて論じて居られる。

ニーチェは現代に於ける理想の崩壊を的確に予言しつまるところ其れは現代社會に於ける理念的低次元化、考へる力の喪失による大衆の意思決定の幼稚化、原始的退行化の有様、要するに非観念化、非精神化の流れ其のものだったことでせう。

 

ニーチェはそんな精神的退廃の様がデカダンスー道徳的価値の喪失ーとして表れて来るともまた述べて居る。

道徳的価値が喪失することはキリスト教的道徳の死、つまりは神の死でもまたある訳です。

 

梅原先生はそんなニヒリズムの時代の到来を縄文文化の滅亡に結び付けて論じて居られます。

されどわたくしは必ずしもさうは思はずニヒリズムは科学技術が必然として齎すものだとさう結論付けても居る。

 

 

其のニーチェの予見の次にカントの批判哲學に就ひても先生はまた論じて居られる。

 

まずはカントの論じた実践理性ー定言命法ーがあくまで理想論としてしか機能しなかったことに就き述べられて居る。

「全ての人格の中にある人間性を常に同時に目的として扱い、決して単に手段として扱わないように行為せよ。」

 

即ち人間性を手段化して仕舞ったが故に戦争は引き起こされ其処で大量殺害が連続して行はれても来たのだった。

 

さらにカントは人類にとっての永遠の平和を他の誰よりも望み続けて居た。

 

だが現實は厳しく、其の好戦的な人類に対し聊か失望した彼は「永遠平和は人類の巨大な墓地の上にのみ築かれることとなろう」と結局はさう述べたのだった。

 

さらに皮肉な言い方をすれば、

人類の墓地、其の文明の墓標の上に築かれるであらう永遠の静寂にこそ幸あれ、だ。

 

 

梅原先生は然しまさに此のやうな時代の流れを深く悲しんで居るとさう書かれても居る。

デカダンスを克服し何とか人類を生き永らへさせることが出来るやうな哲學を創造し生を終へたひとさう締め括られて居る。

 

其の哲學の創造はどうやら間に合はなかったやうだ。

 

つまるところ此の記事こそがまさに人類が存続する道を問うて行くものだった訳だ。

 

文明にとっての持続可能な道、まさに其の道を見出すこと程人類にとり難しひ事業は無ひ。

 

さうなのだ、事業とはまた会社とは只単に儲ける為にあるべきものでは無ひ。

 

でもそんなことは哲學する人にはおそらく誰でも分かって居る筈だ。

 

だが自分の頭で考へぬ輩には永遠に其れが分からなひことだらう。

 

 

個人的には迫り来る破滅の危機に対し文明をソフトランディングさせることは可能だとは思ふのであるが其れも此の侭の意識では変はりやうが無ひ筈だとまたさうも思ふ。

さう重要なことは意識の変革である。

 

其れも社會的な意識の変革がまずは必要なのだが結局社會は個が変はらねば変はりやうが無ひ。

個が変はることとは今持って居る意識をより高めると云ふことなのだと思ふ。

 

意識を高めると云ふことは、より成功を望みより多くを欲することでは無ひ。

 

さうして見識が高みに登れば登る程にむしろ万事に抑へが効ひて来るのである。

其の抑へこそがカントがかって論じた実践理性のことであらう。

 

またわたくしが常に述べて居るところでの理性による「限定」と云ふことなのだ。